百合園セイアの一人(?)旅   作:桂木ヤコ

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続・セイアの一人旅
水杜町河川公園 #遠回り #安全運転 #ドライブ日和


 紅茶を飲みに行く、と言っただけなのに。

 

 どうして、こうも注意事項が増えるのだろう。

 

 百合園セイアは、テーブルの上に置いた一枚の案内を眺めながら、そんなことを考えていた。

 

 写真に写っているのは、山の斜面に建つ喫茶店だった。

 

 大きな窓。

 木のテラス。

 その向こうに重なる、青く霞んだ山並み。

 

 午後になると西側の窓から日が差して、テーブルの上まで明るくなるらしい。

 

 そこで、本を読みたいと思った。

 

 理由としては、それだけで十分だった。

 

「日帰り、なのですね」

 

 ナギサが確かめる。

 

「ああ。夕食までには戻るつもりだよ」

 

「お店の予約は?」

 

「していない。席がなければ、別のところへ行く」

 

「経路は確認されましたか?」

 

「大まかには」

 

「大まかに……」

 

 その言葉を、ナギサは何かの検査結果のように繰り返した。

 

 隣でミカが、案内の写真を覗き込む。

 

「ここ、駅から遠くない?」

 

「今回は車で行くからね」

 

「あ、そっか」

 

 ミカは頷いた。

 

 ナギサは、頷かなかった。

 

「セイアさん」

 

「何だい」

 

「安全運転で、お願いします」

 

「もちろん、そのつもりだよ」

 

「そのお返事は、以前にも伺いました」

 

「……信用というのは、一朝一夕では築けないものらしい」

 

「積み重ねの結果ではありませんか?」

 

 ミカが笑った。

 

 セイアは紅茶を飲んだ。

 

 話題を変えるには、少々露骨だったかもしれない。

 

「でも、いいね。こういうところまで一人でドライブって」

 

 ミカはもう一度、写真を見た。

 

「お土産は、帰りに持ちきれるくらいでいいから」

 

「それは制限になっているのかな」

 

「あと、写真!」

 

「分かっているよ」

 

「食べ物だけじゃないやつね」

 

 セイアは、手元のカップへ目を落とした。

 

 側面には、自分で描いた青い線がある。

 

 先日の三人旅で絵付けしたものだ。湖を描こうとして、途中で筆がかすれた。その白い部分を、雲ということにした。

 

 出来上がってみれば、それはそれで悪くなかった。

 

 カップの向こうには、ミカの小さな木の船。

 

 少し離れた棚には、ナギサが旅先から送った絵葉書。

 

 ひとりで出かける相談をしているのに、目に入るものは、三人で持ち帰ったものばかりだった。

 

「……何か、見つけてくるよ」

 

 セイアが言うと、ミカは満足そうに頷いた。

 

     ◇

 

 翌朝、車庫の扉を開けると、白い車の鼻先に光が触れた。

 

 長いボンネットの中央を、細い朝日が滑っている。

 

 その両側では、丸く張り出したフェンダーが、車庫の影をまだ抱えていた。

 

 屋根を畳んだ小さな客室と、そこから不釣り合いなほど長く伸びる前半分。

 

 セイアは一度、少し離れたところから全体を眺めた。

 

 眺めたからといって、何かが変わるわけではない。

 

 ただ、乗り込む前にそうするのが好きだった。

 

 荷物は大きくない。

 

 本が一冊。

 薄い上着。

 財布と携帯端末。

 折り畳んだ地図。

 

 それから、ナギサが持たせてくれたお茶の入った水筒。

 

 助手席へ置いた鞄を固定し、小さな菓子の包みはその中へ収めた。ミカが昨夜、「朝ご飯とは別だからね」と言いながら渡してきたものだった。

 

 朝食は、もう済ませている。

 

 そこまで確認されるようになったのは、以前の一人旅のせいだろう。

 

「……今回は、忘れていないよ」

 

 ここにいない二人へ言い訳をしてから、運転席に腰を下ろす。

 

 いつもの椅子より低い位置に身体が収まった。

 

 目の前には丸い計器が並び、手の届くところに細いシフトレバーがある。

 

 運転のために選んだ靴の底で、ペダルの位置を確かめた。

 

 背中を落ち着かせ、ベルトを締める。

 

 鏡の角度を見る。

 

 レバーがニュートラルにあることを確かめ、クラッチを踏んでキーを回した。

 

 短い始動音。

 

 そのあと、長いボンネットの下に低い響きが生まれた。

 

 最初だけわずかに揺れていた音が、やがて一定になる。針が動き、ハンドルにも、座席にも、小さな振動が伝わってきた。

 

 眠っていた機械が、順番にこちらへ返事をしているようだった。

 

 セイアは計器をひと通り見た。

 

 髪をまとめたリボンを確かめ、左手をレバーへ伸ばす。

 

 一速へ。

 

 駐車ブレーキを解き、右足で少しだけ回転を支えながら、左足を戻していく。

 

 駆動がつながる感触を、靴底が拾った。

 

 車は、白い鼻先から朝の中へ出ていった。

 

     ◇

 

 トリニティの朝は、まだ静かだった。

 

 庭木の影が道路を横切り、掃除をしているロボットが、車の音に気づいて端へ寄った。

 

 セイアは速度を落とし、軽く会釈して通り過ぎる。

 

 門を抜けた先の交差点で、信号が赤になった。

 

 滑らかに減速する。

 

 停まってからレバーをニュートラルへ戻し、左足を休めた。

 

 歩道を、生徒が二人歩いていく。

 

 一人は大きな紙袋を抱えていて、もう一人は、その口から覗くパンを気にしていた。

 

 何か言われたらしい。紙袋を抱えた方が、さっと反対側へ持ち替える。

 

 セイアは、少しだけ笑った。

 

 信号が変わる。

 

 クラッチを踏み、一速を選ぶ。

 

 発進して二速へ。

 

 車の動きとエンジンの回転が落ち着くところを選び、もう一段上げると、音の高さがすっと下がった。

 

 左手をハンドルへ戻す。

 

 街の中では、それを何度か繰り返した。

 

 進み、停まり、また進む。

 

 遠くへ出かける日の最初の時間は、普段の道を走ることから始まる。

 

 見慣れた花屋。

 大きな時計のある交差点。

 朝から湯気を上げている小さな食堂。

 

 いつもなら曲がる道を、そのまま通り過ぎた。

 

 それだけで、車窓の続きを少し先まで見に来たような気分になった。

 

     ◇

 

 建物が低くなり、空の占める場所が広くなった。

 

 最後の大きな交差点を抜けると、道は緩やかな上り坂になった。

 

 セイアは先を確かめ、左足を動かした。

 

 クラッチを切り、一段低いギアへ。

 

 右足で回転を合わせ、左足を戻す。

 

 エンジンの音が少し近くなった。

 

 アクセルを踏み足すと、車は坂に押し戻されることなく、滑らかに前へ伸びた。

 

 それは、何かを振り切るための加速ではなかった。

 

 長い車体が、ためらわずに道を上っていく。

 

 セイアの口元が、わずかに緩む。

 

「……そう。これでいい」

 

 速度計を確かめ、右足を落ち着かせた。

 

 坂を上り切ったところで、再びギアを上げる。

 

 さっきまで少し高くなっていた音が、低い響きへ戻った。

 

 車には、まだ余力があった。

 

 それを全部使う必要がないことが、今日は気持ちよかった。

 

 風が、フロントガラスの上を越えていく。

 

 耳元では空気が鳴り、路面の継ぎ目を通れば、座席へ小さな揺れも届く。何もかもが遠ざかって、静かになるわけではない。

 

 その代わり、外の様子がよく分かった。

 

 木陰へ入ると、頬に当たる風が冷える。

 

 開けた場所へ出ると、陽射しが袖を温める。

 

 刈られたばかりの草の匂いがしたかと思えば、次の曲がり角では、木と湿った土の匂いに変わった。

 

 窓越しに眺めるだけだった景色が、車の中へ少しずつ入ってくる。

 

 セイアは、前方へ続く道を見た。

 

 長いボンネットの表面を、雲の白さがゆっくり滑っていた。

 

     ◇

 

 最初の寄り道は、展望広場だった。

 

 大きな観光施設ではない。

 

 道から少し外れたところに駐車場があり、木の柵と、ベンチが置かれている。それだけの場所だった。

 

 セイアは車を停めた。

 

 エンジンを切る。

 

 途端に、遠くの鳥の声が聞こえた。

 

 風で葉が擦れる音も、さっきまではなかったかのように戻ってくる。

 

 すぐには降りず、少しだけそのまま座っていた。

 

 指先には、まだハンドルの感触がある。

 

 左足には、何度か踏んだクラッチの重さが残っている。

 

 ただ座って運ばれてきたのではなく、自分でここまで走らせてきた。

 

 その実感が、静かになった車内でははっきりしていた。

 

 ドアを開ける。

 

 足を地面へ下ろすと、思っていたよりも涼しかった。

 

 柵の向こうには、広い谷が見えた。

 

 川が一本、町の間を曲がりながら流れている。

 

 新しい橋と、少し離れたところにある小さな古い橋。

 

 低い屋根が集まった一角に、細い塔のような建物が立っていた。

 

「……あそこは、通る予定だったかな」

 

 セイアは地図を開いた。

 

 予定していた道は、町の外側を大きく回っている。

 

 川沿いへ下りる道もあったが、そちらは少し遠回りになる。

 

 地図を見てから、もう一度、谷を見る。

 

 上から眺めているだけでは、あの屋根の下に何があるのか分からなかった。

 

 分からないということが、少し気になった。

 

     ◇

 

 ベンチに座り、水筒からお茶を注いだ。

 

 薄い湯気が立ち、すぐに風へほどける。

 

 ナギサが淹れた紅茶だった。

 

 いつもの談話室で飲むものより、少しだけ柔らかい香りがした。水筒に入れることを考えて、淹れ方を変えてくれたのかもしれない。

 

 セイアは一口飲み、鞄から菓子の包みを出した。

 

 入っていたのは、厚めのビスケットが二枚。

 

 小さな紙が添えられている。

 

『ちゃんと休憩すること!』

 

「……菓子のふりをした注意事項だったのか」

 

 ひとりで呟き、笑った。

 

 ビスケットを割ると、控えめなバターの香りがした。

 

 端はさくりとしていて、中央には少し厚みがある。ゆっくり噛んでから紅茶を飲むと、口に残った甘さがほどけていった。

 

 前方には谷の景色。

 

 振り返れば、白い車が停まっている。

 

 誰かに勧められた席でも、予約したテーブルでもない。

 

 通りかかって、自分で停まった場所だった。

 

 セイアは端末を取り出し、写真を一枚撮った。

 

 川と、町と、柵の端。

 

 手に持っていたビスケットも、下の方へ少し入った。

 

「これは……景色の写真として認めてもらえるだろうか」

 

 ミカに提出する課題でもあるまいに。

 

 そう思ったが、撮り直しはしなかった。

 

     ◇

 

 谷へ下りる道は、地図で見た時よりも曲がっていた。

 

 セイアはカーブの手前で早めに速度を落とした。

 

 必要なところではギアを下げ、道の曲がりに合わせてハンドルを切る。

 

 車体が向きを揃えてから、ゆっくりアクセルを戻していく。

 

 長い鼻先が、次の道を探すように曲がった。

 

 葉の影。

 短い石垣。

 道路脇に咲いた小さな花。

 

 そのどれもを、走りながらじっくり見ることはできない。

 

 気になるものが現れても、その場で好きに立ち止まれるわけではなかった。

 

 列車より自由になった分、こちらで引き受けることも増えている。

 

 セイアは前を見たまま、さっき見えた橋の形を覚えておいた。

 

 あとで、歩こう。

 

 そう決めれば、通り過ぎることも惜しくなかった。

 

 坂を下り切ると、道沿いの建物が近づいてきた。

 

 軒先に鉢植えを並べた家。

 

 荷台いっぱいに箱を積んだ配達車。

 

 水の流れる細い溝を跨ぐ、小さな板の橋。

 

 川沿いの共同駐車場へ車を入れる。

 

 駐車券を取ろうとして、セイアは一度、手を止めた。

 

 発券機が、思ったより遠かった。

 

「……もう少し、寄せるべきだったね」

 

 長い鼻先には気を遣った。

 

 その結果、横の距離まで少々慎重に取りすぎたらしい。

 

 無理に身体を伸ばすのはやめて、車を落ち着かせてから券を取る。

 

 ようやく駐車枠に収めたところで、セイアは小さく息をついた。

 

 山道より、こちらの方がよほど不格好だった。

 

 幸い、それを見ていた知人はいない。

 

「ミカには、話さなくてもいいかな」

 

 そう決めたことほど、後で話してしまう気もした。

 

     ◇

 

 町は、歩いてみると意外に奥行きがあった。

 

 大通りから見えていた店の裏に、細い路地がある。

 

 路地の先には小さな広場があり、広場の向こうには、川へ下りる階段があった。

 

 昔の建物を使った店が多い。

 

 窓枠や扉は古いのに、中の照明は新しく、棚には今の品物が並んでいる。

 

 ただ古い姿のまま残っているのではなく、毎日使われながら残っているのだと分かった。

 

 セイアは、小さな本屋へ入った。

 

 店頭に並ぶのは新刊だったが、奥の棚には、この町についての薄い冊子があった。

 

 川の名前。

 橋の来歴。

 使われなくなった水路。

 季節ごとの散歩道。

 

 一冊開くと、展望広場から見た古い橋が載っていた。

 

 今は歩行者用になっているらしい。

 

 説明の下に、小さな線画が添えられている。

 

 セイアは、その冊子を買った。

 

 今日読むつもりの本は、すでに鞄にある。

 

 それでも、紙の厚さを確かめてしまうと、棚へ戻す気にはならなかった。

 

 店を出たところで、近くからバターの匂いがした。

 

 少し遅れて、肉の焼ける匂いも届く。

 

 時計を見る。

 

 昼食には、ちょうどよい時間だった。

 

     ◇

 

 食堂の窓際からは、共同駐車場の端が見えた。

 

 木の影の下に、自分の車が停まっている。

 

 走っている時には見えない横顔だった。

 

 長いボンネットから小さな客室へ続く線が、低い塀とよく馴染んでいる。朝の車庫では白く見えた車体が、ここでは少しだけ、木漏れ日の色を帯びていた。

 

 店員の猫が水を置く。

 

「外のお車、お客さんの?」

 

「ああ」

 

「きれいだね。食事の間も眺められる席でよかった」

 

「……そういう理由で座ったつもりはなかったんだが」

 

 言ってから、セイアはもう一度窓の外を見た。

 

 店員は笑い、品書きを差し出した。

 

 本日の料理は、豚肉のソテーと白いんげん豆の煮込み。

 

 スープとパンがついてくる。

 

 それを頼むと、厨房からほどなく、小気味よい音が聞こえ始めた。

 

 最初に運ばれてきたのは、野菜のスープだった。

 

 澄んだ色をしている。

 

 表面には細かく刻んだ葉が浮き、匙を入れると、柔らかくなった玉葱が見えた。

 

 一口。

 

 塩味より先に、野菜の甘みが来る。

 

 風に当たっていたせいか、温かいものを飲み込むと、思っていた以上に身体がほっとした。

 

 次に、大きな皿が来た。

 

 肉の表面にはきれいな焼き色がつき、薄いソースの中に、粒の形を残したマスタードが見える。

 

 ナイフを入れると、抵抗のあとに、すっと刃が通った。

 

 口に運ぶ。

 

 香ばしい表面と、内側の柔らかさ。

 

 噛んだあとに、マスタードのわずかな酸味が残る。

 

 添えられた豆はよく煮えていて、舌で押すとほろりと崩れた。肉と一緒に食べると味が丸くなり、別々に食べると、それぞれの違いが分かった。

 

 セイアはパンをちぎった。

 

 切り口にはまだ温かさが残っている。

 

 少しだけソースをつけて食べる。

 

「……これは、皿が大きい理由も分かるね」

 

 量が多いだけではない。

 

 混ぜて食べる場所が、必要なのだ。

 

 窓の外を、小さな配達ロボットが通った。

 

 荷台の上で、鉢植えの葉が揺れている。

 

 セイアはもう一口食べた。

 

 朝の予定には、この店の名前はなかった。

 

 それが少し嬉しかったけれど、そのことをわざわざ言葉にする前に、次の一口が欲しくなった。

 

     ◇

 

 食後、車へ戻ったところで声をかけられた。

 

「あの。その車の持ち主の方ですか?」

 

 振り返ると、生徒が一人立っていた。

 

 首から小さなカメラを下げ、肩には使い込まれた鞄を掛けている。

 

 セイアよりも、車の方をよく見ていた。

 

「ああ。何か問題でも?」

 

「いえ。その……写真に入れてもいいかなと思って」

 

「写真に?」

 

「町の写真を撮ってるんです。あの店の窓と、木の影と、ちょうどいいところに停まっていたので」

 

 セイアは振り返った。

 

 自分の車は、白い車体の半分ほどを木陰に入れていた。

 

 その向こうに、さっき食事をした店の窓が見える。

 

「車を撮りたい、というわけではないんだね」

 

「あ……駄目でした?」

 

「いや。構わないよ」

 

 生徒はほっとして、カメラを持ち上げた。

 

 少し右へ動く。

 

 しゃがむ。

 

 立つ。

 

 また一歩戻る。

 

 セイアはその様子を見ながら、邪魔にならないところへ立った。

 

 なかなかシャッターは切られない。

 

「……私が動かした方がよいかな」

 

「いえ、今のままで。あと少し、雲が……」

 

 空を見上げかけて、セイアはやめた。

 

 生徒が見ているのは空ではなく、車体へ落ちる光だった。

 

 しばらくすると、木の影が少し濃くなった。

 

 白いボンネットの縁が明るくなる。

 

 シャッターが鳴った。

 

「ありがとうございます」

 

「撮れたかい?」

 

「はい。見ます?」

 

 差し出された画面を覗き込む。

 

 店の窓。

 その前に落ちる枝の影。

 画面の端から入ってくる、白い車の鼻先。

 

 車の後ろ半分は、写っていなかった。

 

 セイアは少し黙った。

 

 生徒が心配そうにする。

 

「やっぱり、車は全部入っていた方がよかったですか?」

 

「……少々、意外だっただけだよ」

 

 思っていたよりも、この町の写真だった。

 

 自分の車は、その中へ来たものとして写っていた。

 

 最初からそこにあったわけではない。

 

 けれど、そこにいてもおかしくない。

 

 セイアはもう一度、実物を見る。

 

 不思議なことに、先ほどより、車が町の景色に馴染んで見えた。

 

「いい写真だね」

 

「本当ですか?」

 

「ああ。ただ、持ち主としては、もう少し後ろにもよいところがあると言っておこう」

 

 生徒が笑った。

 

「覚えておきます」

 

     ◇

 

 生徒は、この町の写真サークルに所属しているという。

 

 観光名所だけではなく、普段の町を撮って、小さな展示に使うらしい。

 

「今日は、どちらまで?」

 

 尋ねられ、セイアは山向こうの喫茶店の名前を答えた。

 

「ああ、そこ。テラスの写真、よく見ます」

 

「君も行ったことがあるのかな」

 

「ないです。こっちに住んでると、逆に行かなくて」

 

「なるほど。近いからこそ、後回しになる場所か」

 

「そんな感じです」

 

 生徒は、セイアの手元へ目を落とした。

 

「あ、その冊子」

 

「さっき買ったんだ。橋まで歩いてみようと思ってね」

 

「私、これからそっちへ行きますよ」

 

 セイアは、車のドアへ伸ばしかけていた手を止めた。

 

 喫茶店へ向かうには、まだ余裕がある。

 

 橋も見たい。

 

 その二つを順番に確かめてから、車の鍵を鞄へ戻した。

 

「途中まで、ご一緒してもいいかな」

 

「もちろん」

 

 生徒は歩き出した。

 

 何のためらいもなく、さっきセイアが通り過ぎた細い路地へ入る。

 

 その先に、川の光が見えた。

 

     ◇

 

 橋へ続く道は、車では入れないほど細かった。

 

 民家の裏を通り、小さな階段を下りる。

 

 ところどころに、洗われた鉢や、空の木箱が置かれている。

 

 道端の花が顔に近い。

 

 車に乗っていた時には風の中へ混じっていた匂いが、ここでは一つずつ分かった。

 

 湿った石。

 日なたの葉。

 川の水。

 

「車、ここまでは来られないね」

 

 セイアが言うと、生徒は頷いた。

 

「新しい橋ができてから、あっちは歩く人だけになったんです」

 

「それなら、停めた場所は正解だったようだ」

 

 古い橋は、思っていたより低かった。

 

 川面が近い。

 

 欄干に触れると、日を受けた石の部分だけ温かく、金属の部分には少し冷たさが残っていた。

 

 上流側には新しい道路橋が見える。

 

 車が一台、また一台と渡っていく。

 

 その音が届くまでには、少し間があった。

 

 生徒はカメラを構えたが、すぐに下ろした。

 

「どうしたんだい」

 

「さっきまで、ここに光が入ってたんですけど」

 

 水面に落ちる欄干の影を指す。

 

 今は雲が通り、全体が淡い色になっていた。

 

 セイアは、橋の端へ寄った。

 

「待つのかい?」

 

「少しだけ」

 

「では、私もそうしよう」

 

 鞄から冊子を出し、橋の説明をもう一度読む。

 

 以前は、川沿いの工房から荷を運ぶためにも使われていたらしい。

 

 当時の写真には、今よりも低い建物が並んでいた。

 

 向こう岸を見る。

 

 同じ形の屋根が、一つだけ残っている。

 

 その屋根の下から、自転車を押した生徒が出てきた。

 

 こちらへ近づき、橋の真ん中で一度、川を覗き込む。

 

 何かを見つけたらしい。

 

 その子が身を乗り出した時、雲が動いた。

 

 川へ光が落ちる。

 

 カメラの音がした。

 

 セイアは、隣の生徒を見た。

 

 今度は画面を確かめたあとで、すぐには次を撮らなかった。

 

「良いのが撮れた…というところかな」

 

「……多分」

 

 生徒は少し笑った。

 

「思ってた写真と、違うんですけど」

 

 セイアも笑った。

 

「それは、よくあることらしいね」

 

 橋を渡っていった自転車の音が、遠くなる。

 

 川の上には、まだしばらく光が残っていた。

 

     ◇

 

 そのあと、二人は小さな展示室へ寄った。

 

 昔の待合所を使った場所で、壁に写真が並んでいる。

 

 大きな作品ではない。

 

 花屋の店先。

 朝のバス停。

 雨の日の道路。

 閉店後のパン屋の窓。

 

 さっき食事をした店も、一枚の写真の中にあった。

 

 写っているのは料理ではなく、厨房から皿を出している、あの猫の店員だった。

 

「その写真は、去年のです」

 

「同じ店でも、少しずつ変わるんだね」

 

「はい。あ、でもここの植木鉢、まだありますよ」

 

 生徒が画面の隅を指す。

 

 セイアは近づいて見た。

 

 確かに、さっき窓の外から見たものだった。

 

 写真を一枚ずつ見ているうちに、町の中へ知っているものが増えていく。

 

 ただ通りかかっただけの場所なのに、もう、全く知らない町ではなくなっていた。

 

 帰り道、生徒が小さな焼き菓子屋を教えてくれた。

 

「お土産なら、あそこも美味しいです」

 

「案内までしてもらって、悪いね」

 

「私も買うので」

 

 そう言って、生徒は迷わず店へ入った。

 

 セイアは、思わず笑ってしまった。

 

 自分を案内するためだけに歩いているわけではない。

 

 相手にも、今日やりたいことがある。

 

 それが気楽だった。

 

 店の中には、焼いたレモンの香りが満ちていた。

 

 小さなケーキが整然と並び、隣には薄いクッキーや、木の実の入った焼き菓子がある。

 

 セイアは箱を一つ選び、それとは別に、レモンケーキを一個だけ包んでもらった。

 

「すぐ召し上がりますか?」

 

「いや。あとで、お茶にしようと思って」

 

 そう答えてから、セイアは少し考えた。

 

 お茶を飲みに行く途中で、別のお茶の支度をしている。

 

 随分と、先の長い一日になってきた。

 

     ◇

 

 車へ戻る頃には、午後の光の向きが変わっていた。

 

 木の影は朝と反対側へ伸び、白い車体の大部分が日に当たっている。

 

 生徒は、その前で足を止めた。

 

「もう一枚、いいですか?」

 

「今度は、後ろまで入るかな」

 

「はい。……できれば、乗り込むところを」

 

 セイアは鍵を持ったまま振り返った。

 

「私も?」

 

「嫌でなければ」

 

 少し、迷った。

 

 ミカに撮られる時とは違う。

 

 知らない町で会ったばかりの相手に、自分の姿を残してもらうことになる。

 

 けれど、さっきの写真はよかった。

 

 この生徒が見ている町の中に、自分がいてもよいのかもしれない。

 

「……では、お願いしようかな」

 

 セイアは助手席側のドアを開け、増えた荷物をしまった。

 

 冊子を鞄へ収める。

 

 焼き菓子の箱が動かないように置き直す。

 

 それから運転席へ回ると、生徒がカメラを構えた。

 

「もう少し、普段通りで大丈夫です」

 

「普段通りと言われるのが、いちばん難しいんだが」

 

「あ、今のでいいです」

 

 シャッターが鳴った。

 

 セイアは、何か反論する前に撮られてしまったらしい。

 

「……注文の多い写真家だね」

 

「ありがとうございます」

 

「褒め言葉として受け取ったのかな」

 

「はい」

 

 生徒が笑い、セイアもつられた。

 

 写真はその場で送ってもらうことになった。

 

 端末を鞄へしまい、セイアは運転席に座る。

 

 日に当たったハンドルは、朝より少し温かかった。

 

 ミラーを確かめる。

 

 エンジンをかけると、低い音が駐車場へ広がった。

 

 生徒は車から離れ、通路の外側へ立った。

 

「よいドライブを」

 

「ああ。君も、よい写真が撮れるといいね」

 

 クラッチを踏み、一速へ入れる。

 

 セイアはゆっくりと車を動かした。

 

 鏡の中で、小さく手が振られた。

 

 町の道へ出ると、それも見えなくなった。

 

     ◇

 

 車内に、一人分の静けさが戻った。

 

 誰かを乗せていたわけではない。

 

 それでも、少し前まで隣で聞こえていた声がないことを、身体が覚えていた。

 

 助手席には、鞄と紙袋がある。

 

 朝より、少しだけ賑やかだった。

 

 セイアは町の外れの給油所へ寄った。

 

 停車してエンジンを切り、車を降りる。

 

 給油が終わるまでの間、店の横に置かれた地図を見た。

 

 山向こうの喫茶店へ向かう道。

 

 川に沿って、下流へ続く道。

 

 さらに遠くの町へ出る道。

 

 どれも、ちゃんと続いている。

 

 けれど、一日のうちに全部は走れない。

 

 それは、列車でも車でも同じだった。

 

 時計を見る。

 

 思っていたより、時間が進んでいた。

 

 昼食を食べ、橋を歩き、写真を見て、菓子を買った。

 

 何に時間を使ったのかは、全部分かっている。

 

 分かっているから、時計に文句を言う気にはならなかった。

 

 セイアは端末で経路を確かめた。

 

 このまま向かえば、店にはまだ間に合う。

 

 ただし、ゆっくりする時間は少なくなっていた。

 

「……そうだね」

 

 画面を閉じる。

 

 結論は、まだ出さなかった。

 

 まずは、山へ向かってみよう。

 

     ◇

 

 午後の山道は、朝よりも光が柔らかかった。

 

 木々の間に見える空が高い。

 

 曲がり角を一つ越えるたび、さっき歩いた町が遠ざかっていく。

 

 セイアは、上り坂でギアを一段落とした。

 

 レバーの動きが、手の中で決まる。

 

 クラッチをつなぐと、エンジンの響きが道の傾きに負けず、車体を押し上げた。

 

 朝よりも、手足の動きが馴染んでいるように感じた。

 

 次の曲がり角の手前で減速する。

 

 ハンドルを切る。

 

 視界が開けてから、少しだけアクセルを足す。

 

 鼻先が向きを揃え、道の先へ伸びる。

 

 セイアは、この一連の動きが好きだった。

 

 何も考えずに済むわけではない。

 

 むしろ、目の前のことをよく見る。

 

 道幅。

 曲がり方。

 先を走る車。

 路面の変化。

 

 その間だけは、まだ起きていないことを遠くまで考えなくてよかった。

 

 必要なのは、次の曲がり角をきちんと曲がること。

 

 そのために今、どれだけ速度を落とすかを決めること。

 

 考えたことに対して、手と足を動かせば、すぐに返事が来る。

 

 セイアは、両手でハンドルを持ち直した。

 

 車は、滑らかに次の坂へ入った。

 

     ◇

 

 道の左側に、小さな駐車帯があった。

 

 木々が途切れ、谷が見える。

 

 セイアはそこへ車を入れた。

 

 休憩もしたかったが、それだけではない。

 

 さっき渡った橋が、見えた気がしたのだ。

 

 車を降り、柵へ近づく。

 

 町は、朝とは違う角度で広がっていた。

 

 川が一度、建物の陰へ隠れる。

 

 その先で、また光を返す。

 

 古い橋は、小さかった。

 

 あそこを、歩いてきた。

 

 石の欄干に手を置き、水を見て、生徒と写真を待った。

 

 朝、展望広場から見た時には、ただの細い線だった場所だ。

 

 今は、その線の上に、自分の過ごした時間がある。

 

 セイアはしばらく眺めてから、車へ戻った。

 

 助手席の鞄から、喫茶店の案内を取り出す。

 

 テラスの写真は、朝と変わらない。

 

 遠くの山。

 明るいテーブル。

 その上のティーカップ。

 

 そこへ行きたかったことも、変わっていない。

 

 時計を見る。

 

 これから向かえば、到着は夕方になる。

 

 本を開いて、落ち着いてお茶を飲むには、もう短かった。

 

 少し、残念だった。

 

 楽しみにしていた場所がある。

 

 別のことが楽しかったからといって、その気持ちまで消えるわけではない。

 

 セイアは案内の端を指でなぞった。

 

 それから、折り目に沿って畳んだ。

 

「今日は、ここまでにしよう」

 

 誰かへ許可を求めるような声ではなかった。

 

 鞄に案内を戻し、端末の地図を開く。

 

 喫茶店までの案内を終了する。

 

 代わりに、帰る道を確かめた。

 

 急げば取り戻せる時間を探すより、残っている午後をどう使うか考えたかった。

 

 地図の下の方で、川が長く曲がっていた。

 

 その岸に、小さな公園の印がある。

 

 セイアはそこを拡大した。

 

 駐車場がある。

 

 ベンチも、ありそうだった。

 

 助手席の紙袋を見る。

 

 お茶の支度なら、もう済んでいる。

 

     ◇

 

 山を下りるにつれて、風が温かくなった。

 

 木陰から出ると、目の前に広い道が続いていた。

 

 道の両側には畑があり、その向こうに低い建物が点々と立っている。

 

 セイアはギアを上げた。

 

 エンジンの音が低くなり、車の動きがゆったりしたものへ変わる。

 

 長い直線だった。

 

 夕方の陽射しが斜めから入り、ボンネットの白を淡い金色に染めている。

 

 通り過ぎる木の影が、そこへ一本ずつ線を引いた。

 

 開けた場所では、風が少し強くなる。

 

 髪の端が頬へ触れた。

 

 走り続ければ、その先には別の町がある。

 

 けれど、今はそこまで行くことを考えなかった。

 

 道はまだ続いている。

 

 車にも、走る力は十分にある。

 

 それでも、今日は帰る。

 

 その判断をしたあとで眺める景色は、どこか落ち着いていた。

 

 もう、喫茶店の閉店時刻と比べなくていい。

 

 夕日が沈むまでに、何かを済ませなくてもいい。

 

 前を走る小さな配送車が、分岐で曲がった。

 

 その先に、川が見えた。

 

 セイアは早めに合図を出し、公園へ続く道へ入った。

 

     ◇

 

 川沿いの駐車場には、数台の車が停まっていた。

 

 端の方には自転車もある。

 

 散歩をしている生徒が二人、川の方へ歩いていった。

 

 セイアは車を停めた。

 

 エンジンを切っても、すぐには静かにならなかった。

 

 水の音があった。

 

 葦の葉が擦れる音。

 

 少し離れた場所で、誰かが笑う声。

 

 朝の展望広場とは違う、夕方の音だった。

 

 鞄と紙袋を持ち、ベンチへ向かう。

 

 川がよく見える場所が、一つ空いていた。

 

 そこに座り、水筒を開けた。

 

 朝ほどの湯気は立たない。

 

 けれど、注いだ紅茶にはまだ温かさが残っていた。

 

 小さなレモンケーキの包みを開く。

 

 上にかかった薄い砂糖が、夕日の中で淡く光る。

 

 ひと口かじると、表面がさくりと割れた。

 

 中はしっとりしている。

 

 甘みのあとからレモンの香りが広がり、もう一口食べる前に、お茶が欲しくなった。

 

 紅茶を飲む。

 

 いつもの味だった。

 

 けれど、朝に展望広場で飲んだ時とも、談話室で飲む時とも違って感じられた。

 

 川を渡ってきた風が、膝の上の包みを小さく動かす。

 

 セイアは片手で押さえた。

 

「……悪くない席だね」

 

 向かいに誰もいないので、その言葉は川の方へ抜けていった。

 

 鞄から、本を出す。

 

 朝、喫茶店で読もうと思って持ってきた一冊だった。

 

 栞を抜く。

 

 頁の端が、少しだけ夕日の色をしている。

 

 セイアは読み始めた。

 

     ◇

 

 五ページほど進んだところで、一度、顔を上げた。

 

 川面の光が、さっきより長くなっていた。

 

 本の続きも気になる。

 

 けれど、この景色が変わるところも見ていたい。

 

 少し考えて、栞を挟む。

 

 今日はもう、読む量を決めなくてもよい気がした。

 

 端末を開くと、昼間の生徒から写真が届いていた。

 

 最初の一枚は、店の窓と、車の鼻先。

 

 次の一枚には、白い車の全体が写っている。

 

 開いたドア。

 

 運転席へ乗り込もうとして、少し振り返っている自分。

 

 何か言いかけた口元と、そのあとに笑いそうな目。

 

 助手席には、町で買った紙袋が見えた。

 

 車だけを眺めた時のような、整った写真ではない。

 

 自分も、きれいに姿勢を作ってはいなかった。

 

 それでも、よかった。

 

 さっきまで歩いていた町から、また走り出そうとしている。

 

 その間の、ほんの短い時間が写っていた。

 

 添えられた文章を読む。

 

『二枚目は、ちゃんと後ろまで入れました。』

 

 セイアは拡大して、車の後ろ側を確かめた。

 

 確かに、入っている。

 

 代わりに、自分の靴先が少しだけ切れていた。

 

「……全てを入れるのは、難しいらしいね」

 

 小さく笑った。

 

 お礼を送り、写真を保存する。

 

 そのあと、ミカからの連絡を開いた。

 

『着いた? どんなところ?』

 

 ナギサからも一件。

 

『夕食は七時半の予定です。お戻りの時間が変わるようでしたら、ご連絡ください。』

 

 セイアは地図で帰路を確かめた。

 

 休憩を入れても、十分間に合う。

 

 まずナギサへ返信する。

 

『予定通り戻るよ。今はお茶にしているところだ』

 

 次に、ミカへ。

 

 少し考えてから、川と、膝の上の本を撮った。

 

 今度はケーキを画面の外へ置く。

 

 送信した直後、返事が来た。

 

『あれ? 喫茶店じゃなくない?』

 

 鋭い。

 

『今日は、そちらへは行かなかった』

 

『えっ』

 

 そのあと、もう一件。

 

『でも、いいところだね』

 

 セイアは画面を見た。

 

 それから、顔を上げた。

 

 川の向こうで、夕日が木々の間へ下り始めている。

 

 白い車は、ベンチから少し離れた場所で、その光を受けていた。

 

 写真に写っているより、ずっと静かだった。

 

『ああ』

 

 そう打ってから、言葉を足す。

 

『少し、長居をしている』

 

     ◇

 

 お茶を飲み終えた頃には、風が冷たくなっていた。

 

 セイアは本をしまい、包みを片づけた。

 

 ベンチの周りを確かめ、車へ戻る。

 

 昼間はそのままで心地よかった空の広さが、今は少しだけ肌寒い。

 

「……そろそろ、屋根が欲しくなる時間だね」

 

 停めた車のそばで幌を掛け、前側の留め具を確かめた。

 

 布の屋根ができるだけで、車の姿は少し変わる。

 

 さっきまで風景の中へ開いていた客室が、小さな部屋になる。

 

 上着を着て、運転席に座った。

 

 ベルトを締める。

 

 ドアを閉めると、川の音が遠くなった。

 

 完全に聞こえなくなったわけではない。

 

 ただ、外と内の境目が、少しはっきりした。

 

 キーを回す。

 

 低いエンジン音が、今度は屋根の下へ収まった。

 

 朝とは、同じ音なのに違う聞こえ方をする。

 

 セイアは灯りを点け、計器を確かめた。

 

 駐車場の出口へゆっくり進む。

 

 歩道を渡る生徒を待ち、それから道へ出た。

 

     ◇

 

 帰り道には、町の灯りが増えていった。

 

 小さな店の窓。

 交差点の信号。

 遠くからでも分かる、大きな施設の看板。

 

 暗くなったガラスには、外の景色に重なって、車内のものが薄く映る。

 

 丸い計器。

 

 ハンドルを持つ自分の手。

 

 助手席の鞄。

 

 ラジオを小さくつけると、知らない曲の途中だった。

 

 軽い打楽器の音のあとから、柔らかな旋律が流れてくる。

 

 セイアは、そのままにした。

 

 道の流れが緩やかになり、前方の信号が赤へ変わる。

 

 アクセルを戻す。

 

 十分に速度を落としてからクラッチを踏み、静かに停まった。

 

 ニュートラルへ戻したレバーから手を離す。

 

 左足を休めると、今日一日、何度も同じ動きをしたことが分かった。

 

 少し疲れていた。

 

 歩いた足も、風に当たった頬も、ずっと前を見ていた目も。

 

 それは、嫌な疲れ方ではなかった。

 

 身体のどこを使って、どこまで行ってきたのかが、ちゃんと残っている。

 

 セイアは前方を見た。

 

 信号の向こうに、見覚えのある道があった。

 

 今朝は反対側から走ってきた交差点だ。

 

 朝にはまだ開いていなかった店の窓に、灯りがともっている。

 

 あの時、これから何が増えるのかは知らなかった。

 

 鞄の中には、予定していなかった冊子がある。

 

 紙袋には、知らなかった店の菓子がある。

 

 端末には、自分では撮れない写真が残っている。

 

 セイアは、青になった信号を見た。

 

 クラッチを踏む。

 

 一速へ入れる。

 

 車は、ゆっくりと動き出した。

 

     ◇

 

 トリニティへ着いた時、夕食まではまだ少し時間があった。

 

 見慣れた門を抜け、庭木の間を進む。

 

 車庫へ車を収める時には、朝よりも慎重に周囲を見た。

 

 長い一日の終わりに、最後だけ雑にするのは惜しい。

 

 車を停める。

 

 駐車ブレーキを掛け、エンジンを止めた。

 

 低い響きが消えたあと、車庫には静かな熱だけが残った。

 

 セイアは少しの間、そのまま座っていた。

 

 ボンネットの向こうには、もう次の道はない。

 

 いつもの壁と、棚と、車庫の扉。

 

 それを見て、ようやく帰ってきたのだと実感した。

 

 ドアを開けると、足音が聞こえた。

 

「セイアちゃん!」

 

 ミカだった。

 

 少し後ろから、ナギサも歩いてくる。

 

「お帰りなさい」

 

「ただいま」

 

「ちょうど連絡しようかと思っていました。お疲れではありませんか?」

 

「少しね。よく走って、よく歩いた」

 

「歩いたの?」

 

 ミカが聞き返す。

 

「ドライブだったよね?」

 

「途中で降りても、違反ではないだろう」

 

「そうだけど」

 

 セイアは助手席から荷物を取り出した。

 

 ミカが紙袋を覗き込み、すぐに顔を明るくする。

 

「お土産?」

 

「ああ。これは三人で」

 

「やった」

 

 箱を渡すと、ミカは大事そうに受け取った。

 

 ナギサへは、水筒を見せる。

 

「お茶も、ありがとう。助かったよ」

 

「足りましたか?」

 

「ちょうど、飲み終えたところだ」

 

 ナギサは頷き、それから少し首を傾げた。

 

「……喫茶店へ行かれたのでは?」

 

「今日は、行かなかった」

 

「そうなのですか」

 

「私もそれ、聞こうと思ってた!」

 

 ミカが言った。

 

「じゃあ、お茶はずっとナギちゃんの?」

 

「ああ」

 

「お茶を飲みに遠くまで行って、飲んだのはナギちゃんのお茶なんだ」

 

 セイアは少し考えた。

 

 言葉にされると、確かにそうなる。

 

「……随分、贅沢なことをしたらしい」

 

「それなら、こちらでもお淹れしましたのに」

 

 ナギサの声には、呆れた響きと、少しだけ嬉しそうなものが混じっていた。

 

 セイアは首を振る。

 

「向こうで飲めて、よかったんだよ」

 

 説明しようと思えば、いくらでも言葉を重ねられた。

 

 川の光のこと。

 

 風で動くケーキの包み。

 

 本の頁に差した夕日のこと。

 

 けれど今は、その一言で足りるような気がした。

 

 ナギサも、それ以上は聞かなかった。

 

     ◇

 

「写真は?」

 

 ミカが尋ねた。

 

 セイアは端末を取り出した。

 

「いくつかあるよ。自分で撮っていないものもね」

 

「誰かに会ったの?」

 

「ああ。町で写真を撮っている生徒に」

 

 画面を見せる。

 

 白い車と、開いたドア。

 

 乗り込むところで、こちらを振り返っているセイア。

 

 ミカはしばらく黙ってから、顔を上げた。

 

「これ、いいね」

 

「車が、きちんと全部入っているからかな」

 

「そこもだけど」

 

 ミカは写真を拡大した。

 

 セイアの顔が大きくなる。

 

「楽しそう」

 

 セイアは、自分の写真を見た。

 

 普段の談話室で撮られるものとも、三人で並んで撮ったものとも違う。

 

 少し風で髪が乱れていて、姿勢も整っていない。

 

 何かを言おうとしている顔だった。

 

 たしか、この時は「普段通りと言われるのが、いちばん難しい」と言っていた。

 

 それを思い出すと、また少し笑いそうになった。

 

「……楽しかったからね」

 

 セイアは答えた。

 

「そう写ったのなら、よい写真なのだろう」

 

 ナギサが静かに頷く。

 

 ミカはもう一度写真を見て、それから端末を返した。

 

「あとで送ってね」

 

「ああ」

 

「ご飯の時、町の話も聞きたい」

 

「分かったよ」

 

 ナギサが、建物の方を振り返った。

 

「では、そろそろ。夕食が冷めてしまいますので」

 

 ミカが先に歩き出す。

 

 菓子の箱を開けたそうにして、ナギサに止められた。

 

「お食事のあとにしてください」

 

「まだ開けてないよ?」

 

「今、開けようとなさいましたよね」

 

「確認しただけ」

 

「どなたの真似ですか、それは」

 

 セイアは、そのやり取りを聞きながら、車のドアを閉めた。

 

 金属の感触が、手のひらに残る。

 

 朝にはひんやりしていたものが、今は一日の温かさを少しだけ抱えていた。

 

 鍵を掛け、白い車を見た。

 

 走っていた時には、次々と景色を映していたボンネットが、今は車庫の灯りを静かに受けている。

 

「……お疲れさま」

 

 小さく言って、鍵を鞄へしまった。

 

 遠くの喫茶店へは、行かなかった。

 

 けれど、今日一日が途中で終わったようには感じなかった。

 

「セイアちゃーん」

 

 扉の向こうから、もう一度名前を呼ばれる。

 

 セイアは顔を上げた。

 

「ああ。今、行くよ」

 

 夕食の匂いがする方へ、セイアは歩き出した。

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