道を間違えた、と認めるまでに。
百合園セイアは、地図を二度拡大した。
画面の中では、細い青い線が自分の現在地から先へ伸びている。その先には、朝に選んだ目的地があった。
郊外の台地を抜ける、見晴らしのよい道路。
途中には休憩所もあるらしい。
今日は景色を眺めながら少し遠くまで走り、どこかで昼食を取って帰る。それだけの予定だった。
ところが、道路工事による迂回が一つ。
その迂回路から元の道へ戻る分岐で、おそらく一つ、選ぶ道を間違えた。
気づいた時には建物が減り、道沿いの景色に、砂の色が増えていた。
道幅は広い。
けれど、その広さが全て使われているわけではない。縁石の近くには薄く砂が積もり、使われていない脇道の入口では、白線が途中から見えなくなっていた。
セイアは路外の舗装された待避スペースへ車を入れた。
停車してから、あらためて地図を見る。
それから、少し前に通り過ぎた標識を思い出す。
『アビドス自治区』
「……見晴らしがよい、という条件は満たしているね」
誰もいない助手席へ言った。
正しいことを言っても、道を間違えた事実は変わらなかった。
窓の向こうを、淡い砂煙が低く流れていく。
幌は、乾いた風が強くなってきたところで掛けていた。
それでも光は十分に入ってくる。長い白いボンネットの上には、雲のほとんどない空が映っていた。
アビドス。
名前も、そこで起きてきたことも、セイアは知らないわけではない。
けれど、今いる道路が何という道で、どこへ曲がれば店があるのかは、全く知らなかった。
知っている名前と、自分の目の前にある場所が、まだうまく重ならない。
セイアは地図を少し縮小した。
大きな道路を辿れば、店のある一角へ出られそうだった。帰る経路も、確かめることはできた。
すぐに引き返す理由はない。
そして時計は、そろそろ昼食のことを考えてもよい時刻を示している。
「……では、まずはご飯かな」
端末から、ナギサへ行き先の変更を伝えた。
夕方までには戻ることも書き添える。
ほどなく届いた返事には、帰宅時刻についての了承と、それより少し長い、どうしてそこへ着いたのかという質問があった。
セイアは一瞬考え、
『道を一本、間違えたらしい』
と返した。
『一本で済んでいるのでしょうか』
今度の返事は、短かった。
◇
市街地へ近づくと、砂だけではない色が増えてきた。
薄い青の庇。
赤い自動販売機。
日差しを受けて白く見える建物の壁。
シャッターの閉まった店は多かったが、その合間に、開いた扉や、店先へ出された品物がある。
小さな配達車が、一軒の店の前で荷を下ろしていた。
その向こうでは、ロボットが箒を使っている。
風が吹くと、集めた砂の端が少し崩れた。ロボットは箒を止め、風が弱まるのを待ってから、また同じ場所を掃いた。
セイアは速度を落とした。
先ほどまでゆったりと道を伸びていた車が、今は低いギアで、町の歩調に近づいていく。
長い鼻先を路地へ差し入れる前に、先をよく見る。
地図では通り抜けられるはずの道に、砂が吹き寄せられている場所もあった。
そちらへは曲がらず、大きな道をそのまま進む。
すると、建物の間に一枚の看板が見えた。
セイアは、その文字を読んだ。
少し考える。
それから、もう一度読む。
「……柴関ラーメン」
知っている名前だった。
先生が以前、昼食の話をした時に口にしていた。
その時は、アビドスへ行く予定もなければ、店の場所を尋ねる理由もなかった。
覚えていたのは、名前と、「"美味しいよ"」という、あまりにも簡潔な説明だけだ。
セイアは店の前をゆっくり通り過ぎ、車を置けそうな場所を探した。
入口の脇で、前掛けをつけた生徒が顔を上げる。
黒い髪。
こちらへ向いた、少し訝しそうな目。
セイアが窓を下ろすと、その生徒は近づいてきた。
「あの。車、そこじゃなくて、もう少し先。白い線があるところ」
「ここへ停めても構わないのかな」
「お店のお客さんなら。入口の前だと、配達の車が来るから」
「なるほど。ありがとう」
教えられた場所へ車を収める。
エンジンを切って降りると、生徒は、セイアと車を交互に見た。
「……トリニティの」
「百合園セイアだよ」
「やっぱり」
表情に、別の種類の警戒が混じった。
セイアには、何となく理由が分かった。
「昼食を取りたいのだけれど、席は空いているかな」
「え?」
「ラーメンを食べに来たんだ」
生徒は瞬きをした。
それから店内へ振り返り、またセイアを見る。
「……食べるだけ?」
「今のところは、そのつもりだね」
「何、その言い方」
少しだけ、声が普段の調子に戻ったようだった。
セイアは微笑んだ。
「君は、セリカだね」
「そうだけど」
「先生から、この店の話を聞いたことがあるよ」
「ああ……先生」
セリカは、小さく息を吐いた。
「だったら、最初からそう言ってよ。変に緊張したじゃない」
「制服を着替えてくればよかったかな」
「そういう話じゃなくて」
言いながら、セリカは入口を開けた。
「一人?」
「ああ」
「じゃあ、カウンター。空いてるところへどうぞ」
◇
扉をくぐると、空気が変わった。
熱気と、湯気。
醤油の香りに、油の香ばしさが混じっている。
外で聞こえていた乾いた風の音に代わって、食器の触れ合う音と、厨房で湯を扱う音が耳へ入った。
セイアはカウンターの端に座った。
水が置かれる。
コップの表面には、すぐに細かな水滴が浮いた。
「いらっしゃい」
厨房の向こうから、柴大将が声をかける。
セイアが会釈をすると、大将も軽く頷き、手元の仕事へ戻った。
特別な客を迎えたような空気にはならなかった。
それがありがたかった。
壁の品書きを見る。
麺と、ご飯もの。
いくつかの追加の品。
昼食を前にすると、選択肢は多すぎない方がよい時もある。
「初めてなら、普通のラーメンでいいと思うけど」
セリカが言った。
「おすすめ、ということかな」
「うん。うちの味が分かるし」
「では、それを頼むよ」
「はい、ラーメン一つ!」
セリカの声が厨房へ通る。
その響きを聞いて、セイアは水を一口飲んだ。
冷たい。
単純なことだが、外を走ってきた身体には、それが妙にはっきり分かった。
少し離れた席では、作業着姿の犬の客が、丼を傾けていた。
隣のロボットは、皿の上のチャーハンを小気味よく食べている。
扉が開くたび、昼の光が床へ差し込み、また細く閉じた。
セリカは水を足し、空いた器を下げ、会計を済ませる。
忙しそうだった。
けれど、一つ終えてから次を探すのではない。動きながら、次に必要なことを見ている。
セイアがそれを眺めていると、前へ丼が置かれた。
「お待たせ。熱いから気をつけて」
湯気の向こうに、褐色のスープが見えた。
細かく切られた葱。
チャーシュー。
その下に収まった麺の色が、汁の中で少し濃く見える。
セイアはレンゲを取った。
まず、スープを一口。
醤油の香りが近づく。
塩気と、その奥の旨み。
表面に浮いた油が、温かさを長く口に残した。
思っていたよりも、次の一口がすぐ欲しくなった。
もう一度レンゲを動かしかけてから、箸を取る。
麺を持ち上げると、湯気が新しく上がった。
少し冷まして、口へ運ぶ。
噛むと、柔らかさの奥に細い弾力がある。麺に絡んだスープは、レンゲで飲んだ時とはまた違う濃さで感じられた。
葱が混じると、香りが変わる。
チャーシューを少し食べると、またスープが欲しくなる。
セイアは自然に、丼へ近づいていた。
「……どう?」
セリカが、空いた器を下げるついでに尋ねた。
セイアは箸を止めた。
「先生の説明は、ずいぶん簡潔だったと思っていたんだが」
「先生、何て言ってたの?」
「美味しいよ、と」
「……それで?」
セイアは丼を見る。
「それで十分だったらしい」
セリカは一拍置いてから、笑った。
「何よ、それ」
けれど、機嫌は悪くなさそうだった。
セイアはもう一口、麺を食べた。
写真を撮っていないことに気づいたのは、チャーシューが一枚なくなってからだった。
◇
チャーハンを追加したのは、隣の客の皿が、あまりにもきれいに空になったせいだった。
セイアが品書きへ目を向けると、セリカが気づく。
「まだ食べる?」
「半分の量で頼めるかな」
「半チャーハンね。できるわよ」
「では、それも」
セリカは一度、セイアの丼を見た。
それから、小さく頷く。
「分かった」
今度の待ち時間は、厨房から聞こえる音が楽しかった。
鍋を振る音。
金属の器具が触れる音。
火の上で何かが弾ける、短い音。
運ばれてきた皿には、丸く盛られたご飯があった。
黄色い卵と、細かな具。
レンゲで崩すと、温かい香りが立つ。
ひと口食べた。
米粒はほぐれるのに、乾いてはいない。
噛むと卵の柔らかさと肉の塩気が混じり、そのあとに香ばしさが残った。
ラーメンのスープを少し飲む。
チャーハンへ戻る。
それだけで、食べる順番が決まっていく。
「半分というのは、よいものだね」
セイアが呟くと、セリカが顔を向けた。
「何が?」
「もう一品食べたい時に、ちょうどいい」
「最初からセットにしてもよかったのに」
「食べ始めてから、欲しくなったんだよ」
「ああ……それは、分かるけど」
セリカはそう言いながら、新しい客の方へ向かった。
セイアは最後の一口を食べた。
皿の上には、小さな葱が一つ残った。
それもすくい、箸とレンゲを置く。
満腹だった。
ただ、苦しくなるほどではない。
これから少し歩こうかと思える、ちょうどよい満ち方だった。
◇
「それで、何の用事で来たの?」
昼の客が少し途切れたところで、セリカが尋ねた。
「ドライブだよ」
「アビドスに?」
「本当は、別の道を走る予定だった」
「……迷ったの?」
「端的に言えば、そうなるね」
セリカは、しばらく黙ってセイアを見た。
「車で?」
「ああ」
「地図は?」
「あるよ」
「あるのに?」
「地図があっても、曲がるのは私だからね」
「納得できるような、できないような……」
セイアは鞄から端末を取り出し、机の上で地図を開いた。
セリカが覗き込む。
「あ、それ。こっちへ行こうとしてた?」
「そうだね」
「ああ、そこ、今は砂が入ってるから。広い道をぐるっと回った方がいいわよ」
「やはり、そうだったか」
「見たの?」
「入口まではね。先がよくなさそうだったので、曲がらなかった」
「それならよかった。あの車じゃ、引っかかりそうだし」
外へ目をやる。
白い車は、教えられた枠の中へ静かに収まっている。
「長い車だね」
「時々、私もそう思うよ」
「乗ってる本人なのに?」
「駐車する時には、特に」
セリカが、少し笑った。
それからメモ用紙を一枚取り出し、店を起点に簡単な道順を書いた。
大きな通り。
二つ先の角。
青い庇の店。
その先の、高架の下へ抜ける道。
「帰りはこれ。細い道へ入らなければ、大丈夫だから」
「ありがとう。……ただ、すぐに帰るつもりではないんだ」
「まだ何かあるの?」
「せっかく来たので、少し歩いてみようと思って」
セリカはペンを止めた。
「観光みたいなところ、あんまりないけど」
「店が開いている道を歩くだけでも、十分だよ」
「それなら、この辺は大丈夫。水は持ってる?」
「ああ」
「なくなりそうなら、あっちの日用品屋で買えるから。自販機があるところも、全部ちゃんと動いてるとは限らないし」
メモに、小さな四角が一つ増えた。
セイアはそれを受け取った。
画面の地図より、ずっと線は少ない。
その代わり、今の自分に必要なことが書かれていた。
◇
店の入口が開いた。
「ん。セリカ」
入ってきたのは、シロコだった。
薄いサイクルウェアを着て、手には外したヘルメットを持っている。
外を見ると、ロードバイクが停められていた。
「あ、シロコ先輩。走ってたの?」
「ん。お腹が空いた」
「いつもの?」
「うん」
それで注文が済んだ。
シロコはカウンターへ向かい、そこでセイアに気づいた。
ほんの少し、動きが止まる。
「……セイア?」
「こんにちは、シロコ」
「どうしてここに?」
「迷ったんだって」
セリカが答えた。
セイアが口を開くより、早かった。
シロコは頷いた。
「そう」
「……受け入れるのが早いね」
「私も、知らない道に出ることはある」
隣を一席空けて座り、水を飲む。
「車?」
「ああ。外の白いものだよ」
「長い」
「今日は、それをよく言われる日らしい」
シロコはもう一度、外を見た。
車そのものを眺めるというより、その車が道を走るところを考えているような目だった。
「このあと、どこまで?」
「まだ決めていない。まず、この辺りを歩いてみようかと」
「そのあと、走る?」
「道が分かればね」
シロコは少し考えた。
「舗装が残っていて、見晴らしのいい道がある」
セリカがすぐに口を挟む。
「シロコ先輩。その車で行けるところにしてよ」
「ん。だから、そっち」
「あと、先輩の『近い』は、あんまり信用できないから」
シロコはセイアを見た。
「車なら、近い」
「歩いた場合は?」
「……少し遠い」
セイアは笑った。
「一つ条件が増えただけで、急に正確になったね」
◇
シロコが食事をしている間、セイアは商店街を歩くことにした。
食べ終えてから行き先を教えてもらう。それまでは、それぞれの時間である。
柴関を出ると、陽射しの強さが戻ってきた。
店の中で見ていた時より、道は白く感じられた。
庇の影を選んで歩く。
開いている店の前だけ、足元の砂が薄い。
箒で掃いた跡が、扉から道路へ向かって扇のように伸びていた。
日用品屋は、思っていたより品数が多かった。
飲み物の冷蔵庫。
電池と電球。
作業用の手袋。
洗剤、布巾、保存の利く食品。
奥には、店主が修理しているらしい、小さな扇風機があった。
セイアは水を二本と、薄い綿のハンカチを買った。
白ではなく、淡い青を選ぶ。
砂の色の多い店先で、その色が少し涼しそうに見えたからだ。
店を出たあと、向かいの掲示板へ寄った。
古い催しのポスターが残っている。
端がめくれていて、その上へ、手書きの小さな案内が新しく貼られていた。
営業時間の変更。
店先の修理のお知らせ。
配達日についての連絡。
読むべき相手には、きっと大切なことなのだろう。
セイアは、一枚ずつ目を通した。
隣の建物は、扉が閉まっていた。
窓には何も置かれていない。
その向こうの店からは、ラジオの音が聞こえる。
一軒ごとに、様子が違った。
遠くから眺めた時には、同じ色に見えた通りだった。
◇
柴関へ戻ると、シロコは外で待っていた。
ヘルメットをかぶり、片手で自転車を支えている。
「待たせたかな」
「ん。ちょうど今」
セイアが手にした袋を見て、頷く。
「水、買ったんだ」
「ああ。勧められたのでね」
「よかった」
シロコは、端末の地図に二つの場所を示した。
最初の大きな交差点。
その先にある、道路脇の広い場所。
「曲がるのは、ここだけ。その先は道なり」
「分かった」
「私は先に行く。分岐では待つから」
「君が案内役なら、心強いね」
「ん」
シロコはペダルへ足を掛けた。
セイアも車へ乗り込む。
屋根の下に置いていたはずなのに、客室には少し熱がこもっていた。窓を開け、空気が通るのを待ってからベルトを締める。
エンジンをかける。
低い音が、足元から戻ってきた。
クラッチを踏み、一速へ入れる。
十分に間隔ができたところで、ゆっくりと走り出した。
前方を、青い背中が進んでいる。
こちらが動き始めるより先に、自転車は道路の流れへすっと馴染んでいた。
車と自転車。
同じ場所を目指していても、同じ速さで並んで走る必要はなかった。
セイアは間隔を保ち、町の外れへ向かった。
◇
大きな道へ出ると、景色が広がった。
建物の間隔が開き、その向こうに、淡い砂の斜面が見える。
使われていない看板。
途中から影だけになった柵。
少し離れたところに立つ、窓の暗い建物。
道路は、その間をまっすぐ通っていた。
セイアはギアを上げた。
エンジンの響きが低く落ち着き、白い車が長い道へ馴染んでいく。
これまで走った山道とは違った。
木々が近づいては遠ざかるのではない。
見えているものの距離が、なかなか変わらなかった。
大きな建物は、ずっと同じ場所にあるように見える。
その手前の電柱だけが、一本ずつ後ろへ流れていく。
窓を上げると、風の音が少し遠くなった。
車内には、機械の低い響きが残った。
セイアは前を見る。
シロコは、約束した分岐で待っていた。
停まった自転車の横から、次の方向を指す。
こちらが分かったことを確かめてから、また走り出した。
セイアは合図を出し、示された道へ曲がる。
道は緩く上っていた。
低いギアを選び直すと、車は無理なく坂へ入った。
その先に、空の広い場所があった。
◇
車を停めたのは、道路脇の小さな広場だった。
舗装にはひびがあったが、駐車できる部分は砂に覆われていない。
端には低い柵があり、そこから少し上へ続く歩道があった。
シロコは自転車を停め、鍵をかける。
「ここから、少し歩く」
「その『少し』は、信じてもよいのかな」
「見えてるところまで」
指差された先に、屋根のついた小さな休憩場所が見えた。
今度は、本当に近かった。
セイアは水を持って車を降りる。
足元の路面には細かな砂が散り、歩くたび、靴の下でかすかな音がした。
シロコは、車道を走っていた時よりゆっくり歩いた。
何も言わず、セイアの隣にいる。
休憩場所へ着くと、風が少し強くなった。
眼下には、さっき通ってきた道路がある。
その先に、商店街の建物。
もっと遠くには、大きな建物の群れと、その間へ入り込んだ砂の色が広がっていた。
セイアは柵へ手を置いた。
「……遠くまで見えるね」
「ん」
シロコも隣に立つ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
景色の大きさに対して、車の屋根は小さかった。
白い点のように見える自分の車を、セイアは少し不思議な気持ちで眺めた。
あれに乗って、ここまで来た。
自分だけで来たつもりだったのに、途中からは、隣にいる生徒の知っている道を辿っていた。
「君は、よくここへ?」
「時々。風が強い日は、別の道を走る」
「いつも同じ道ではないんだね」
「砂が増えるところもあるから。それに、違うところを走りたい日もある」
「……それは、分かるよ」
シロコが、少しだけこちらを見た。
「セイアも?」
「ああ。今日は、その結果が少し予想外だったけれど」
「ん、ラーメンが食べられた」
「確かに。そこは、非常によい結果だったね」
◇
シロコは、遠くの建物を一つ指した。
「あの辺りを抜けると、別の大通りに出る」
次に、その手前の交差点。
「あそこは夕方、配達の車が増える」
さらに、少し低い屋根の並び。
「その向こうに、飲み物を買えるところがある」
説明は短かった。
大きな歴史の話でも、名所の案内でもない。
走る時に曲がる場所。
休む時に寄る場所。
その時間になると、誰かが通る道。
セイアは、指されたところを順に見た。
どれも、初めはただの建物だった。
「地図には載っていない話が多いね」
「道は載ってる」
「道の使い方までは、載っていないようだ」
シロコは少し考えた。
「……そうかも」
セイアは水を飲んだ。
買ったばかりの時より、少し温かくなっている。
それでも喉を通ると、身体が欲しがっていたことが分かった。
「ずいぶん遠くまで走ることもあるのかい」
「ん」
「帰りが大変では?」
「遠くへ行った日は、長くなる」
「それは、そうだろうね」
シロコは真面目な顔で続けた。
「でも、戻ってから柴関に寄れる」
セイアは、少し遅れて笑った。
「出かけた先だけではなく、帰ったあとの楽しみも決めてあるのか」
「今日は、もう食べたけど」
「君なら、もう一度でも食べられそうだね」
シロコは否定しなかった。
かわりに、セイアの持つ水を見て言った。
「帰り道、さっきセリカが説明してた方で大丈夫」
「ああ。メモももらった」
「じゃあ、迷わない」
その言い方には、不思議な確かさがあった。
セイアはポケットの中の紙を、指先で軽く確かめた。
◇
広場へ戻ると、シロコはもう少し別の道を回っていくと言った。
セイアは、商店街の方へ戻ることにした。
「付き合ってくれて、ありがとう」
「ん。私も走りたかったから」
「そう言ってもらえると、気が楽だよ」
シロコはヘルメットを直し、自転車を引き出した。
セイアが車のドアを開けたところで、もう一度こちらを見る。
「ここから下り。途中の継ぎ目が少し大きい」
「気をつけよう」
「その車、前が長いから」
「……長いことは、十分に理解したつもりなんだが」
シロコの口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
「また」
「ああ。また」
青い背中が、来た道とは別の方向へ遠ざかっていく。
セイアは運転席へ座った。
車内は、一人分の静けさだった。
窓の向こうには、まだ広い空がある。
クラッチを踏み、エンジンをかける。
走り出してすぐ、道路の継ぎ目が見えた。
早めに速度を落とす。
車体が小さく揺れた。
シロコの言葉を思い出し、セイアは一人で頷いた。
◇
商店街へ戻る頃には、影が少し長くなっていた。
朝の地図では、ここまで回ってくる予定などなかった。
けれど今は、来た道へ戻るより、こちらを通りたいと思っていた。
セリカのメモにあった青い庇が見える。
その下に、椅子が二つ出されていた。
一つには、誰かが座っている。
桃色の髪。
力の抜けた姿勢。
そして、こちらを見て、ゆっくり上がる手。
セイアは一度通り過ぎ、車を置ける場所へ入れてから歩いて戻った。
「いやぁ。珍しい車が来たと思ったら」
椅子の主が、のんびり言った。
「セイアちゃんだったんだねぇ」
「こんにちは、ホシノ」
「こんにちは。こんなところで会うとはねぇ」
小鳥遊ホシノは、隣の空いた椅子を軽く示した。
「休んでく?」
「少しだけ、そうしようかな」
座ると、庇の影が肩まで入った。
立っている時にはあまり感じなかったが、日差しが遮られるだけで、随分違う。
店の奥から、冷蔵庫の動く低い音が聞こえた。
「今日は、お仕事?」
ホシノが尋ねる。
「いや。ドライブだよ」
「ここまで?」
「最初は、道を間違えたんだ」
「おぉ。それで今は?」
セイアは少し考えた。
「歩いたり、食べたり、また走ったりしている」
「うへ~。すっかり満喫してるねぇ」
「君は?」
「おじさんは休憩中」
即答だった。
セイアがその顔を見ると、ホシノは少し笑った。
「ちゃんと、その前はパトロールしてたよ?」
「まだ何も言っていないが」
「顔が言ってた気がしてねぇ」
それはどこかで聞いたことのある言い分だった。
◇
店主のロボットが、入口へ顔を出した。
「ホシノちゃん、今日は棒のやつ、まだあるよ」
「お、いいねぇ」
ホシノが椅子から身を起こす。
「セイアちゃんも、何か食べる?」
「何があるのかな」
「アイス」
セイアは、店内を見た。
入口から少し奥に、低い冷凍ケースがある。
ここは昼間、水を買った日用品屋だった。
その時は飲み物の方へばかり目が向いていて、気づかなかった。
蓋を開けると、ひんやりした空気が上がってくる。
いくつかの箱の隣に、個包装のアイスが並んでいた。
ホシノは迷わず一本取った。
セイアは少し考え、同じものを選ぶ。
「そっちでいいの?」
「おすすめなのだろう?」
「おじさんが食べたいだけだよ」
「それなら、十分だ」
会計を済ませ、椅子へ戻る。
包みを開くと、白いミルクアイスが出てきた。
ひと口かじる。
冷たい。
その冷たさのあとに、素直な甘さが残る。
さっきまでの水とも、食後の満足感とも違う。
日陰で食べるための味のように思えた。
「……こういうものが欲しくなるんだね」
「でしょ」
ホシノは満足そうに頷いた。
「歩いてるとねぇ、ここの前で足が止まるんだよ」
「君の休憩にも、きちんと理由があるらしい」
「うんうん。大切な補給だからね」
言いながら、背もたれへ身体を預ける。
セイアも椅子へ座り直した。
二人の前を、小さな配達車がゆっくり通り過ぎた。
運転席から手が上がる。
ホシノも、アイスを持っていない方の手を上げた。
◇
「シロコと、会ったよ」
セイアが言った。
「柴関にはセリカもいた」
「おぉ。じゃあ、今日はずいぶん会ったねぇ」
「そうだね。三人とも、道を教えてくれた」
「おじさん、まだ何も教えてないけど?」
「よい日陰を教わったよ」
ホシノは一度、自分たちの座る場所を見た。
それから笑った。
「そっか。じゃあ、役に立ったかな」
「非常に」
セイアはアイスを少し食べた。
日なたの道路では、薄い砂が風に動いている。
影の中にいると、その明るさをゆっくり眺められた。
閉じたシャッター。
その隣で開いている、小さな店。
外へ出された椅子。
誰かが掃いた、入口までの道。
「ここ、よく来るのかい」
「時々ねぇ。座ってると、だいたい誰か通るし」
「通らない時は?」
「寝る」
セイアは笑った。
「合理的だね」
「でしょ」
ホシノは、少しだけ目を細めた。
その視線が、道路の向こうへ動く。
遠くから、小さな荷車を押したロボットが来ていた。
ホシノは何も言わず、足元に寄せてあった空箱を、通路の外へ移した。
荷車が通る。
「助かるよ」
「はいはーい」
それだけで、会話は終わった。
ホシノはまた椅子へ戻る。
アイスは、少し溶け始めていた。
「あ、危ない危ない」
慌てるほどではない動きで、端をかじる。
セイアは、その横顔を見た。
休んでいる間も、通りの様子は彼女の中へ入っているらしかった。
◇
風が一度、強く吹いた。
店先の紙札がばたばた鳴り、掲示板に貼られた案内の端が大きくめくれる。
「あー、そこ。また剥がれちゃったか」
店主が奥から出てきた。
ホシノが立ち上がる。
「テープある?」
「持ってくるよ」
セイアも椅子を離れた。
紙の端を押さえる。
そこには、配達日の変更が書かれていた。
「これでいいかな」
「うん。そっち持ってて」
ホシノがもう一方を押さえる。
店主が持ってきたテープで、四隅を留め直した。
風が吹いても、今度はめくれなかった。
「ありがとう。こっちの重りも、少し動かしてもらえる?」
「こっち?」
ホシノが小さな看板の足元を直す。
セイアは落ちた紙片を拾い、店主へ渡した。
ほんの数分のことだった。
何かが大きく変わったわけではない。
けれど椅子へ戻ると、さっきまで他人の店先だった場所に、少しだけ自分の手を使った感触が残っていた。
「助かったよ。暑いのにね」
店主が言う。
「いや。涼ませてもらっていたところだから」
セイアは答えた。
手を拭くために、買ったばかりのハンカチを取り出す。
淡い青の布に、薄く砂の色がついた。
「……もう、使うことになったね」
ホシノがそれを見て、笑った。
「ここだと、そういうのはすぐ出番が来るから」
◇
店先で休んでいるうちに、通りを通る顔が少しずつ変わっていった。
配達帰りの車。
買い物袋を持った犬の住人。
空の台車を引いて戻ってきた、さっきのロボット。
誰かはホシノに声をかけ、誰かは頷くだけで通り過ぎた。
セイアにも、一緒に会釈が向けられることがあった。
そのたびに、少し遅れて返す。
ホシノは、何も説明しなかった。
セイアが何者なのかも、なぜ隣へ座っているのかも。
ただ、一緒に休んでいる。
それだけで通っていく時間だった。
「アビドス、どうだった?」
不意にホシノが尋ねた。
セイアはすぐには答えなかった。
見たものを思い返す。
砂の入った道。
高いところから見た広い空。
閉じた建物。
柴関のカウンター。
シロコの自転車。
今、座っている椅子。
「……まだ、よく知らないよ」
セイアは答えた。
ホシノは、黙って続きを待った。
「けれど、昼食を取る場所と、水を買える店と、休む場所は覚えた」
「うん」
「それと、道を間違えた時に、尋ねられる相手もね」
ホシノが、少し笑った。
「じゃあ、次は楽だねぇ」
「ああ。今日よりは」
それ以上、大きな言葉にはしなかった。
知ったことより、まだ知らないことの方がずっと多い。
目の前の町についても。
ここで暮らしている人たちについても。
けれど、最初にここへ入ってきた時とは、同じではなかった。
ホシノは立ち上がり、大きく伸びをした。
「さて。おじさんも、もうひと歩きしようかな」
「休憩は終わりかい」
「名残惜しいけどねぇ」
セイアも立つ。
椅子を元の位置へ戻すと、店主が奥から手を振った。
「またどうぞ」
ホシノはいつもの調子で返事をした。
セイアも、その隣で会釈をした。
◇
別れる前に、ホシノは白い車を眺めた。
「きれいな車だねぇ」
「ありがとう」
「でも、少し砂がついちゃったね」
セイアも見る。
朝は白かった車体の下の方に、薄く乾いた色が残っていた。
大きく汚れたわけではない。
ただ、ここまで走ってきたことが分かる程度には、変わっていた。
「帰ったら、洗うよ」
「そっか」
ホシノは頷いた。
「帰り、暗くなる前に大きい道へ出た方が楽だと思う。細い方は、昼と夜で見え方が違うから」
「分かった。セリカにも道順をもらっている」
「それなら大丈夫だねぇ」
ホシノは、商店街の先を見た。
「あ、お腹は?」
「昼に、十分食べたよ」
「じゃあ、今日はもう安心かな」
「君たちは、随分と食事を気にしてくれるね」
ホシノが笑う。
「食べられる時に、美味しく食べておいた方がいいからねぇ」
セイアは頷いた。
反論する理由は、何もなかった。
「付き合ってくれて、ありがとう」
「こちらこそ。休憩が長くなる、いい理由ができたよ」
「……それは、私が原因ということかな」
「一緒に座ってたからねぇ」
少しずるい言い方だった。
けれど、嫌ではなかった。
ホシノは手を振り、商店街の先へ歩いていった。
セイアはその姿を見送ってから、車へ乗り込んだ。
◇
帰る前に、もう一度、柴関へ寄った。
セリカの書いた道順を辿ると、店の前を通ることになる。
そのことに気づいて、セイアは少し嬉しくなった。
昼とは光の向きが違う。
入口のガラスには、向かいの建物が長く映っていた。
車を停め、店の扉を開く。
「いらっしゃいま――あれ?」
セリカが顔を上げた。
「まだ帰ってなかったの?」
「これから帰るところだよ」
「道、分からなかった?」
「いや。君の地図のおかげで、戻ってこられた」
セリカは、少しだけ表情を緩めた。
「そう。ならよかった」
「それで、持ち帰りを頼むことはできるかな」
「持ち帰り?」
「餃子を、三人前ほど」
セリカはセイアを見た。
次に、外の車。
そしてもう一度、セイア。
「一人で?」
「私を、どういう客として覚えたんだい」
「昼、追加してたから」
「それは否定できないが……帰ってから、二人にも食べてもらおうと思ってね」
「ああ。そういうこと」
セリカは厨房へ声をかけた。
大将から返事が来る。
「少し待ってて。これから焼くから」
「もちろん」
セイアは昼と同じ席に座った。
水が置かれる。
今度は、その場所を少し知っていた。
◇
「どこ行ってたの?」
注文を通して戻ってきたセリカが尋ねた。
「シロコに教わった、見晴らしのよいところへ」
「ああ。ちゃんと帰ってこられる方だったんだ」
「その心配は、必要だったのかな」
「シロコ先輩の体力と、一緒にしない方がいいから」
セイアは小さく笑った。
「そのあと、日用品屋の前でホシノと会った」
「……ホシノ先輩、またあそこ?」
「よい休憩場所だったよ」
「そりゃそうでしょうけど」
セリカはため息をついた。
けれど、どこにいたのか分かったことには、少し安心したようにも見えた。
セイアは水を飲んだ。
昼に見た客とは、顔ぶれが違っている。
作業を終えたらしい客が二人、並んで席へ着いた。
厨房から、鍋を動かす音が聞こえる。
ほどなく、餃子を焼く音も加わった。
蓋をした時の、短く強い音。
そのあとに続く、細かな蒸気の音。
セイアの目が、自然と厨房の方へ向いた。
「……やっぱり、ここでも食べる?」
セリカが尋ねる。
「非常に魅力的な提案だが、今日は持ち帰ることにしよう」
「本当に?」
「ああ。ここで一人前減らしたら、説明を求められそうなのでね」
セリカが笑った。
「食べ物には厳しいんだ」
「どうやら、私の周りにはそういう人が多いらしい」
◇
出来上がった餃子は、持ち帰り用の容器へ丁寧に詰められた。
袋の中には、たれの小さな包みも入っている。
受け取ると、底から温かさが伝わってきた。
「帰ったら、なるべく早く食べてね」
「ああ。二人にも、連絡しておくよ」
会計を済ませる。
セイアは昼にもらったメモを取り出した。
何度か開いたので、折り目が少し柔らかくなっていた。
「これは、持って帰ってもよいかな」
「別にいいけど。帰り道に使うんでしょ?」
「それもある。……今日の記録にもなるのでね」
「そんな大したものじゃないわよ」
セリカは照れたように目を逸らした。
それから、メモの端へ視線を戻す。
「あ、ここ。次に来る時も、今はこっちから入った方が楽だから」
ペンを取り、帰り道とは逆向きに、小さな矢印を足した。
セイアは、その手元を見た。
昼には、出ていくための地図だった。
今は、戻ってくるための道も書かれている。
「……ありがとう」
「今度は迷わないで来なさいよ」
「次は、ここを目指して来ることにしよう」
セリカは一瞬、口を止めた。
そのあと、少しだけ顔を上げる。
「だったら、分かりやすいところまで来たら聞いて。変な道へ入る前に」
「ああ」
厨房から、大将の声がした。
「またどうぞ」
セイアは振り返り、会釈をした。
「ごちそうさま。とても美味しかったよ」
セリカが扉を開ける。
夕方の空気が、湯気のある店内へ入ってきた。
◇
餃子の袋を倒れないように収めてから、セイアは端末を開いた。
ナギサには、これから帰ること。
夕食に、少しだけ加えてほしいものがあること。
ミカには、写真を一枚送った。
柴関の看板と、その下の入口。
すぐに返事が来る。
『ラーメン?』
『ああ』
『今日、どこまで行ったの?』
セイアは少し笑ってから、返信した。
『アビドスだよ』
しばらく、何も届かなかった。
それから、
『え???』
という文字が現れた。
セイアは、助手席の袋を見た。
説明することは、随分ある。
道路工事のことから始めるべきだろうか。
それとも、まずシロコと会った話だろうか。
考えた末に、短く送る。
『お土産もある。帰ったら話すよ』
端末をしまう。
今度は、きちんと帰る道が分かっていた。
◇
大きな通りへ出ると、夕日が車体の横から差した。
白いボンネットに、淡い橙色が乗る。
道の端の砂は昼よりも影を持ち、吹き寄せられた形がよく見えた。
セイアは早めに速度を落とし、広い交差点を曲がった。
青い庇の店。
その先の高架。
教わった通りに進むと、道路の先が開けた。
クラッチを踏み、一段上のギアへ。
音が低くなる。
左手をハンドルへ戻すと、車はゆったりとした調子で、町の外側へ伸びる道を走り始めた。
窓は閉めたままだった。
外では、まだ乾いた風が吹いている。
車内には、エンジンの低い響きと、持ち帰りの餃子の香りがあった。
セイアは一度、深く息を吸った。
「……これは、帰るまでにまた腹が減りそうだね」
誰もいない助手席へ言った。
昼に通った時には、どこへ行けば何があるのか、ほとんど分からなかった。
今は、赤い自動販売機の先に水を買える店があると知っている。
青い庇の下には椅子がある。
あの道を戻れば、柴関がある。
広い空の下を、自転車で走る生徒もいる。
窓の暗い建物や、砂の入った道が消えたわけではなかった。
ただ、それらの間に、自分の知っている場所ができた。
前方の信号が変わる。
セイアはアクセルを戻し、滑らかに減速した。
停車して、レバーをニュートラルへ戻す。
丸い計器の向こうで、夕日の色が少しずつ薄くなっていった。
朝、通ってみようと思っていた展望道路のことを思い出す。
今日は、そこへ行かなかった。
その代わりに、戻ってこられる店を一つ覚えた。
◇
車庫へ着く頃には、空は暗くなっていた。
見慣れた場所へ車を収める。
エンジンを切ると、長く聞いていた低い響きが消えた。
セイアは少しだけ、そのまま座っていた。
足元には、歩いた時についた細かな砂がある。
鞄には、水の残ったボトル。
淡い青のハンカチ。
折り畳んだ、小さな道順のメモ。
遠出の記録としては、どれもささやかなものだった。
けれど、それぞれを手にした場所は、すぐに思い出せた。
ドアを開け、荷物を取り出す。
そこへ、建物の方からミカがやってきた。
「セイアちゃん!」
「ただいま」
「アビドスって、どういうこと?」
「説明すると、少々長くなるね」
「長くなるの!?」
少し後ろから、ナギサも歩いてくる。
まずセイアの顔を見て、それから車を見た。
「お帰りなさい。お怪我などは?」
「ないよ。少し砂がついたくらいだ」
「それなら、よかったです」
ナギサが息をつく。
ミカは、セイアの手元へ目を向けた。
「……あれ。いい匂い」
「柴関ラーメンのお土産だよ」
「ラーメン持って帰ってきたの?」
「餃子だ」
袋を持ち上げると、ミカの表情が明るくなった。
「やった。まだ温かい?」
「早く食べた方がよさそうだね」
ナギサが建物の方を振り返る。
「では、お皿を用意しましょう。お話は食事をしながら伺います」
セイアは頷いた。
ミカが箱の数を確かめるように、袋を覗き込む。
「三人分?」
「ああ」
「セイアちゃん、お昼にも食べたんでしょ?」
「昼は、ラーメンと半チャーハンだよ」
「ちゃんと食べてるねえ」
感心したような声だった。
セイアは笑い、車の鍵をしまった。
鍵と一緒に指へ触れたメモを、もう一度だけ取り出す。
帰り道の線。
店を示す四角。
最後に書き足された、逆向きの小さな矢印。
セイアはそれを丁寧に折り、今度は鞄の内側へ収めた。
「それ、何?」
ミカが尋ねた。
「道案内だよ」
「迷わないように?」
「ああ。次はね」
ナギサが何か言いかけたが、袋から立つ香りに気づいたように、先に扉を開けた。
暖かな灯りが、足元へ広がる。
セイアは二人と並んで、その中へ入った。
今日見てきた町の話は、餃子が冷める前には、とても話し終えられそうになかった。