百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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アビドス自治区・商店街 #迷い道 #大将の逸品 #干からびそう

 道を間違えた、と認めるまでに。

 

 百合園セイアは、地図を二度拡大した。

 

 画面の中では、細い青い線が自分の現在地から先へ伸びている。その先には、朝に選んだ目的地があった。

 

 郊外の台地を抜ける、見晴らしのよい道路。

 

 途中には休憩所もあるらしい。

 

 今日は景色を眺めながら少し遠くまで走り、どこかで昼食を取って帰る。それだけの予定だった。

 

 ところが、道路工事による迂回が一つ。

 

 その迂回路から元の道へ戻る分岐で、おそらく一つ、選ぶ道を間違えた。

 

 気づいた時には建物が減り、道沿いの景色に、砂の色が増えていた。

 

 道幅は広い。

 

 けれど、その広さが全て使われているわけではない。縁石の近くには薄く砂が積もり、使われていない脇道の入口では、白線が途中から見えなくなっていた。

 

 セイアは路外の舗装された待避スペースへ車を入れた。

 

 停車してから、あらためて地図を見る。

 

 それから、少し前に通り過ぎた標識を思い出す。

 

『アビドス自治区』

 

「……見晴らしがよい、という条件は満たしているね」

 

 誰もいない助手席へ言った。

 

 正しいことを言っても、道を間違えた事実は変わらなかった。

 

 窓の向こうを、淡い砂煙が低く流れていく。

 

 幌は、乾いた風が強くなってきたところで掛けていた。

 

 それでも光は十分に入ってくる。長い白いボンネットの上には、雲のほとんどない空が映っていた。

 

 アビドス。

 

 名前も、そこで起きてきたことも、セイアは知らないわけではない。

 

 けれど、今いる道路が何という道で、どこへ曲がれば店があるのかは、全く知らなかった。

 

 知っている名前と、自分の目の前にある場所が、まだうまく重ならない。

 

 セイアは地図を少し縮小した。

 

 大きな道路を辿れば、店のある一角へ出られそうだった。帰る経路も、確かめることはできた。

 

 すぐに引き返す理由はない。

 

 そして時計は、そろそろ昼食のことを考えてもよい時刻を示している。

 

「……では、まずはご飯かな」

 

 端末から、ナギサへ行き先の変更を伝えた。

 

 夕方までには戻ることも書き添える。

 

 ほどなく届いた返事には、帰宅時刻についての了承と、それより少し長い、どうしてそこへ着いたのかという質問があった。

 

 セイアは一瞬考え、

 

『道を一本、間違えたらしい』

 

 と返した。

 

『一本で済んでいるのでしょうか』

 

 今度の返事は、短かった。

 

     ◇

 

 市街地へ近づくと、砂だけではない色が増えてきた。

 

 薄い青の庇。

 

 赤い自動販売機。

 

 日差しを受けて白く見える建物の壁。

 

 シャッターの閉まった店は多かったが、その合間に、開いた扉や、店先へ出された品物がある。

 

 小さな配達車が、一軒の店の前で荷を下ろしていた。

 

 その向こうでは、ロボットが箒を使っている。

 

 風が吹くと、集めた砂の端が少し崩れた。ロボットは箒を止め、風が弱まるのを待ってから、また同じ場所を掃いた。

 

 セイアは速度を落とした。

 

 先ほどまでゆったりと道を伸びていた車が、今は低いギアで、町の歩調に近づいていく。

 

 長い鼻先を路地へ差し入れる前に、先をよく見る。

 

 地図では通り抜けられるはずの道に、砂が吹き寄せられている場所もあった。

 

 そちらへは曲がらず、大きな道をそのまま進む。

 

 すると、建物の間に一枚の看板が見えた。

 

 セイアは、その文字を読んだ。

 

 少し考える。

 

 それから、もう一度読む。

 

「……柴関ラーメン」

 

 知っている名前だった。

 

 先生が以前、昼食の話をした時に口にしていた。

 

 その時は、アビドスへ行く予定もなければ、店の場所を尋ねる理由もなかった。

 

 覚えていたのは、名前と、「"美味しいよ"」という、あまりにも簡潔な説明だけだ。

 

 セイアは店の前をゆっくり通り過ぎ、車を置けそうな場所を探した。

 

 入口の脇で、前掛けをつけた生徒が顔を上げる。

 

 黒い髪。

 

 こちらへ向いた、少し訝しそうな目。

 

 セイアが窓を下ろすと、その生徒は近づいてきた。

 

「あの。車、そこじゃなくて、もう少し先。白い線があるところ」

 

「ここへ停めても構わないのかな」

 

「お店のお客さんなら。入口の前だと、配達の車が来るから」

 

「なるほど。ありがとう」

 

 教えられた場所へ車を収める。

 

 エンジンを切って降りると、生徒は、セイアと車を交互に見た。

 

「……トリニティの」

 

「百合園セイアだよ」

 

「やっぱり」

 

 表情に、別の種類の警戒が混じった。

 

 セイアには、何となく理由が分かった。

 

「昼食を取りたいのだけれど、席は空いているかな」

 

「え?」

 

「ラーメンを食べに来たんだ」

 

 生徒は瞬きをした。

 

 それから店内へ振り返り、またセイアを見る。

 

「……食べるだけ?」

 

「今のところは、そのつもりだね」

 

「何、その言い方」

 

 少しだけ、声が普段の調子に戻ったようだった。

 

 セイアは微笑んだ。

 

「君は、セリカだね」

 

「そうだけど」

 

「先生から、この店の話を聞いたことがあるよ」

 

「ああ……先生」

 

 セリカは、小さく息を吐いた。

 

「だったら、最初からそう言ってよ。変に緊張したじゃない」

 

「制服を着替えてくればよかったかな」

 

「そういう話じゃなくて」

 

 言いながら、セリカは入口を開けた。

 

「一人?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、カウンター。空いてるところへどうぞ」

 

     ◇

 

 扉をくぐると、空気が変わった。

 

 熱気と、湯気。

 

 醤油の香りに、油の香ばしさが混じっている。

 

 外で聞こえていた乾いた風の音に代わって、食器の触れ合う音と、厨房で湯を扱う音が耳へ入った。

 

 セイアはカウンターの端に座った。

 

 水が置かれる。

 

 コップの表面には、すぐに細かな水滴が浮いた。

 

「いらっしゃい」

 

 厨房の向こうから、柴大将が声をかける。

 

 セイアが会釈をすると、大将も軽く頷き、手元の仕事へ戻った。

 

 特別な客を迎えたような空気にはならなかった。

 

 それがありがたかった。

 

 壁の品書きを見る。

 

 麺と、ご飯もの。

 

 いくつかの追加の品。

 

 昼食を前にすると、選択肢は多すぎない方がよい時もある。

 

「初めてなら、普通のラーメンでいいと思うけど」

 

 セリカが言った。

 

「おすすめ、ということかな」

 

「うん。うちの味が分かるし」

 

「では、それを頼むよ」

 

「はい、ラーメン一つ!」

 

 セリカの声が厨房へ通る。

 

 その響きを聞いて、セイアは水を一口飲んだ。

 

 冷たい。

 

 単純なことだが、外を走ってきた身体には、それが妙にはっきり分かった。

 

 少し離れた席では、作業着姿の犬の客が、丼を傾けていた。

 

 隣のロボットは、皿の上のチャーハンを小気味よく食べている。

 

 扉が開くたび、昼の光が床へ差し込み、また細く閉じた。

 

 セリカは水を足し、空いた器を下げ、会計を済ませる。

 

 忙しそうだった。

 

 けれど、一つ終えてから次を探すのではない。動きながら、次に必要なことを見ている。

 

 セイアがそれを眺めていると、前へ丼が置かれた。

 

「お待たせ。熱いから気をつけて」

 

 湯気の向こうに、褐色のスープが見えた。

 

 細かく切られた葱。

 

 チャーシュー。

 

 その下に収まった麺の色が、汁の中で少し濃く見える。

 

 セイアはレンゲを取った。

 

 まず、スープを一口。

 

 醤油の香りが近づく。

 

 塩気と、その奥の旨み。

 

 表面に浮いた油が、温かさを長く口に残した。

 

 思っていたよりも、次の一口がすぐ欲しくなった。

 

 もう一度レンゲを動かしかけてから、箸を取る。

 

 麺を持ち上げると、湯気が新しく上がった。

 

 少し冷まして、口へ運ぶ。

 

 噛むと、柔らかさの奥に細い弾力がある。麺に絡んだスープは、レンゲで飲んだ時とはまた違う濃さで感じられた。

 

 葱が混じると、香りが変わる。

 

 チャーシューを少し食べると、またスープが欲しくなる。

 

 セイアは自然に、丼へ近づいていた。

 

「……どう?」

 

 セリカが、空いた器を下げるついでに尋ねた。

 

 セイアは箸を止めた。

 

「先生の説明は、ずいぶん簡潔だったと思っていたんだが」

 

「先生、何て言ってたの?」

 

「美味しいよ、と」

 

「……それで?」

 

 セイアは丼を見る。

 

「それで十分だったらしい」

 

 セリカは一拍置いてから、笑った。

 

「何よ、それ」

 

 けれど、機嫌は悪くなさそうだった。

 

 セイアはもう一口、麺を食べた。

 

 写真を撮っていないことに気づいたのは、チャーシューが一枚なくなってからだった。

 

     ◇

 

 チャーハンを追加したのは、隣の客の皿が、あまりにもきれいに空になったせいだった。

 

 セイアが品書きへ目を向けると、セリカが気づく。

 

「まだ食べる?」

 

「半分の量で頼めるかな」

 

「半チャーハンね。できるわよ」

 

「では、それも」

 

 セリカは一度、セイアの丼を見た。

 

 それから、小さく頷く。

 

「分かった」

 

 今度の待ち時間は、厨房から聞こえる音が楽しかった。

 

 鍋を振る音。

 

 金属の器具が触れる音。

 

 火の上で何かが弾ける、短い音。

 

 運ばれてきた皿には、丸く盛られたご飯があった。

 

 黄色い卵と、細かな具。

 

 レンゲで崩すと、温かい香りが立つ。

 

 ひと口食べた。

 

 米粒はほぐれるのに、乾いてはいない。

 

 噛むと卵の柔らかさと肉の塩気が混じり、そのあとに香ばしさが残った。

 

 ラーメンのスープを少し飲む。

 

 チャーハンへ戻る。

 

 それだけで、食べる順番が決まっていく。

 

「半分というのは、よいものだね」

 

 セイアが呟くと、セリカが顔を向けた。

 

「何が?」

 

「もう一品食べたい時に、ちょうどいい」

 

「最初からセットにしてもよかったのに」

 

「食べ始めてから、欲しくなったんだよ」

 

「ああ……それは、分かるけど」

 

 セリカはそう言いながら、新しい客の方へ向かった。

 

 セイアは最後の一口を食べた。

 

 皿の上には、小さな葱が一つ残った。

 

 それもすくい、箸とレンゲを置く。

 

 満腹だった。

 

 ただ、苦しくなるほどではない。

 

 これから少し歩こうかと思える、ちょうどよい満ち方だった。

 

     ◇

 

「それで、何の用事で来たの?」

 

 昼の客が少し途切れたところで、セリカが尋ねた。

 

「ドライブだよ」

 

「アビドスに?」

 

「本当は、別の道を走る予定だった」

 

「……迷ったの?」

 

「端的に言えば、そうなるね」

 

 セリカは、しばらく黙ってセイアを見た。

 

「車で?」

 

「ああ」

 

「地図は?」

 

「あるよ」

 

「あるのに?」

 

「地図があっても、曲がるのは私だからね」

 

「納得できるような、できないような……」

 

 セイアは鞄から端末を取り出し、机の上で地図を開いた。

 

 セリカが覗き込む。

 

「あ、それ。こっちへ行こうとしてた?」

 

「そうだね」

 

「ああ、そこ、今は砂が入ってるから。広い道をぐるっと回った方がいいわよ」

 

「やはり、そうだったか」

 

「見たの?」

 

「入口まではね。先がよくなさそうだったので、曲がらなかった」

 

「それならよかった。あの車じゃ、引っかかりそうだし」

 

 外へ目をやる。

 

 白い車は、教えられた枠の中へ静かに収まっている。

 

「長い車だね」

 

「時々、私もそう思うよ」

 

「乗ってる本人なのに?」

 

「駐車する時には、特に」

 

 セリカが、少し笑った。

 

 それからメモ用紙を一枚取り出し、店を起点に簡単な道順を書いた。

 

 大きな通り。

 

 二つ先の角。

 

 青い庇の店。

 

 その先の、高架の下へ抜ける道。

 

「帰りはこれ。細い道へ入らなければ、大丈夫だから」

 

「ありがとう。……ただ、すぐに帰るつもりではないんだ」

 

「まだ何かあるの?」

 

「せっかく来たので、少し歩いてみようと思って」

 

 セリカはペンを止めた。

 

「観光みたいなところ、あんまりないけど」

 

「店が開いている道を歩くだけでも、十分だよ」

 

「それなら、この辺は大丈夫。水は持ってる?」

 

「ああ」

 

「なくなりそうなら、あっちの日用品屋で買えるから。自販機があるところも、全部ちゃんと動いてるとは限らないし」

 

 メモに、小さな四角が一つ増えた。

 

 セイアはそれを受け取った。

 

 画面の地図より、ずっと線は少ない。

 

 その代わり、今の自分に必要なことが書かれていた。

 

     ◇

 

 店の入口が開いた。

 

「ん。セリカ」

 

 入ってきたのは、シロコだった。

 

 薄いサイクルウェアを着て、手には外したヘルメットを持っている。

 

 外を見ると、ロードバイクが停められていた。

 

「あ、シロコ先輩。走ってたの?」

 

「ん。お腹が空いた」

 

「いつもの?」

 

「うん」

 

 それで注文が済んだ。

 

 シロコはカウンターへ向かい、そこでセイアに気づいた。

 

 ほんの少し、動きが止まる。

 

「……セイア?」

 

「こんにちは、シロコ」

 

「どうしてここに?」

 

「迷ったんだって」

 

 セリカが答えた。

 

 セイアが口を開くより、早かった。

 

 シロコは頷いた。

 

「そう」

 

「……受け入れるのが早いね」

 

「私も、知らない道に出ることはある」

 

 隣を一席空けて座り、水を飲む。

 

「車?」

 

「ああ。外の白いものだよ」

 

「長い」

 

「今日は、それをよく言われる日らしい」

 

 シロコはもう一度、外を見た。

 

 車そのものを眺めるというより、その車が道を走るところを考えているような目だった。

 

「このあと、どこまで?」

 

「まだ決めていない。まず、この辺りを歩いてみようかと」

 

「そのあと、走る?」

 

「道が分かればね」

 

 シロコは少し考えた。

 

「舗装が残っていて、見晴らしのいい道がある」

 

 セリカがすぐに口を挟む。

 

「シロコ先輩。その車で行けるところにしてよ」

 

「ん。だから、そっち」

 

「あと、先輩の『近い』は、あんまり信用できないから」

 

 シロコはセイアを見た。

 

「車なら、近い」

 

「歩いた場合は?」

 

「……少し遠い」

 

 セイアは笑った。

 

「一つ条件が増えただけで、急に正確になったね」

 

     ◇

 

 シロコが食事をしている間、セイアは商店街を歩くことにした。

 

 食べ終えてから行き先を教えてもらう。それまでは、それぞれの時間である。

 

 柴関を出ると、陽射しの強さが戻ってきた。

 

 店の中で見ていた時より、道は白く感じられた。

 

 庇の影を選んで歩く。

 

 開いている店の前だけ、足元の砂が薄い。

 

 箒で掃いた跡が、扉から道路へ向かって扇のように伸びていた。

 

 日用品屋は、思っていたより品数が多かった。

 

 飲み物の冷蔵庫。

 

 電池と電球。

 

 作業用の手袋。

 

 洗剤、布巾、保存の利く食品。

 

 奥には、店主が修理しているらしい、小さな扇風機があった。

 

 セイアは水を二本と、薄い綿のハンカチを買った。

 

 白ではなく、淡い青を選ぶ。

 

 砂の色の多い店先で、その色が少し涼しそうに見えたからだ。

 

 店を出たあと、向かいの掲示板へ寄った。

 

 古い催しのポスターが残っている。

 

 端がめくれていて、その上へ、手書きの小さな案内が新しく貼られていた。

 

 営業時間の変更。

 

 店先の修理のお知らせ。

 

 配達日についての連絡。

 

 読むべき相手には、きっと大切なことなのだろう。

 

 セイアは、一枚ずつ目を通した。

 

 隣の建物は、扉が閉まっていた。

 

 窓には何も置かれていない。

 

 その向こうの店からは、ラジオの音が聞こえる。

 

 一軒ごとに、様子が違った。

 

 遠くから眺めた時には、同じ色に見えた通りだった。

 

     ◇

 

 柴関へ戻ると、シロコは外で待っていた。

 

 ヘルメットをかぶり、片手で自転車を支えている。

 

「待たせたかな」

 

「ん。ちょうど今」

 

 セイアが手にした袋を見て、頷く。

 

「水、買ったんだ」

 

「ああ。勧められたのでね」

 

「よかった」

 

 シロコは、端末の地図に二つの場所を示した。

 

 最初の大きな交差点。

 

 その先にある、道路脇の広い場所。

 

「曲がるのは、ここだけ。その先は道なり」

 

「分かった」

 

「私は先に行く。分岐では待つから」

 

「君が案内役なら、心強いね」

 

「ん」

 

 シロコはペダルへ足を掛けた。

 

 セイアも車へ乗り込む。

 

 屋根の下に置いていたはずなのに、客室には少し熱がこもっていた。窓を開け、空気が通るのを待ってからベルトを締める。

 

 エンジンをかける。

 

 低い音が、足元から戻ってきた。

 

 クラッチを踏み、一速へ入れる。

 

 十分に間隔ができたところで、ゆっくりと走り出した。

 

 前方を、青い背中が進んでいる。

 

 こちらが動き始めるより先に、自転車は道路の流れへすっと馴染んでいた。

 

 車と自転車。

 

 同じ場所を目指していても、同じ速さで並んで走る必要はなかった。

 

 セイアは間隔を保ち、町の外れへ向かった。

 

     ◇

 

 大きな道へ出ると、景色が広がった。

 

 建物の間隔が開き、その向こうに、淡い砂の斜面が見える。

 

 使われていない看板。

 

 途中から影だけになった柵。

 

 少し離れたところに立つ、窓の暗い建物。

 

 道路は、その間をまっすぐ通っていた。

 

 セイアはギアを上げた。

 

 エンジンの響きが低く落ち着き、白い車が長い道へ馴染んでいく。

 

 これまで走った山道とは違った。

 

 木々が近づいては遠ざかるのではない。

 

 見えているものの距離が、なかなか変わらなかった。

 

 大きな建物は、ずっと同じ場所にあるように見える。

 

 その手前の電柱だけが、一本ずつ後ろへ流れていく。

 

 窓を上げると、風の音が少し遠くなった。

 

 車内には、機械の低い響きが残った。

 

 セイアは前を見る。

 

 シロコは、約束した分岐で待っていた。

 

 停まった自転車の横から、次の方向を指す。

 

 こちらが分かったことを確かめてから、また走り出した。

 

 セイアは合図を出し、示された道へ曲がる。

 

 道は緩く上っていた。

 

 低いギアを選び直すと、車は無理なく坂へ入った。

 

 その先に、空の広い場所があった。

 

     ◇

 

 車を停めたのは、道路脇の小さな広場だった。

 

 舗装にはひびがあったが、駐車できる部分は砂に覆われていない。

 

 端には低い柵があり、そこから少し上へ続く歩道があった。

 

 シロコは自転車を停め、鍵をかける。

 

「ここから、少し歩く」

 

「その『少し』は、信じてもよいのかな」

 

「見えてるところまで」

 

 指差された先に、屋根のついた小さな休憩場所が見えた。

 

 今度は、本当に近かった。

 

 セイアは水を持って車を降りる。

 

 足元の路面には細かな砂が散り、歩くたび、靴の下でかすかな音がした。

 

 シロコは、車道を走っていた時よりゆっくり歩いた。

 

 何も言わず、セイアの隣にいる。

 

 休憩場所へ着くと、風が少し強くなった。

 

 眼下には、さっき通ってきた道路がある。

 

 その先に、商店街の建物。

 

 もっと遠くには、大きな建物の群れと、その間へ入り込んだ砂の色が広がっていた。

 

 セイアは柵へ手を置いた。

 

「……遠くまで見えるね」

 

「ん」

 

 シロコも隣に立つ。

 

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

 景色の大きさに対して、車の屋根は小さかった。

 

 白い点のように見える自分の車を、セイアは少し不思議な気持ちで眺めた。

 

 あれに乗って、ここまで来た。

 

 自分だけで来たつもりだったのに、途中からは、隣にいる生徒の知っている道を辿っていた。

 

「君は、よくここへ?」

 

「時々。風が強い日は、別の道を走る」

 

「いつも同じ道ではないんだね」

 

「砂が増えるところもあるから。それに、違うところを走りたい日もある」

 

「……それは、分かるよ」

 

 シロコが、少しだけこちらを見た。

 

「セイアも?」

 

「ああ。今日は、その結果が少し予想外だったけれど」

 

「ん、ラーメンが食べられた」

 

「確かに。そこは、非常によい結果だったね」

 

     ◇

 

 シロコは、遠くの建物を一つ指した。

 

「あの辺りを抜けると、別の大通りに出る」

 

 次に、その手前の交差点。

 

「あそこは夕方、配達の車が増える」

 

 さらに、少し低い屋根の並び。

 

「その向こうに、飲み物を買えるところがある」

 

 説明は短かった。

 

 大きな歴史の話でも、名所の案内でもない。

 

 走る時に曲がる場所。

 

 休む時に寄る場所。

 

 その時間になると、誰かが通る道。

 

 セイアは、指されたところを順に見た。

 

 どれも、初めはただの建物だった。

 

「地図には載っていない話が多いね」

 

「道は載ってる」

 

「道の使い方までは、載っていないようだ」

 

 シロコは少し考えた。

 

「……そうかも」

 

 セイアは水を飲んだ。

 

 買ったばかりの時より、少し温かくなっている。

 

 それでも喉を通ると、身体が欲しがっていたことが分かった。

 

「ずいぶん遠くまで走ることもあるのかい」

 

「ん」

 

「帰りが大変では?」

 

「遠くへ行った日は、長くなる」

 

「それは、そうだろうね」

 

 シロコは真面目な顔で続けた。

 

「でも、戻ってから柴関に寄れる」

 

 セイアは、少し遅れて笑った。

 

「出かけた先だけではなく、帰ったあとの楽しみも決めてあるのか」

 

「今日は、もう食べたけど」

 

「君なら、もう一度でも食べられそうだね」

 

 シロコは否定しなかった。

 

 かわりに、セイアの持つ水を見て言った。

 

「帰り道、さっきセリカが説明してた方で大丈夫」

 

「ああ。メモももらった」

 

「じゃあ、迷わない」

 

 その言い方には、不思議な確かさがあった。

 

 セイアはポケットの中の紙を、指先で軽く確かめた。

 

     ◇

 

 広場へ戻ると、シロコはもう少し別の道を回っていくと言った。

 

 セイアは、商店街の方へ戻ることにした。

 

「付き合ってくれて、ありがとう」

 

「ん。私も走りたかったから」

 

「そう言ってもらえると、気が楽だよ」

 

 シロコはヘルメットを直し、自転車を引き出した。

 

 セイアが車のドアを開けたところで、もう一度こちらを見る。

 

「ここから下り。途中の継ぎ目が少し大きい」

 

「気をつけよう」

 

「その車、前が長いから」

 

「……長いことは、十分に理解したつもりなんだが」

 

 シロコの口元が、ほんの少し動いた。

 

 笑ったのかもしれない。

 

「また」

 

「ああ。また」

 

 青い背中が、来た道とは別の方向へ遠ざかっていく。

 

 セイアは運転席へ座った。

 

 車内は、一人分の静けさだった。

 

 窓の向こうには、まだ広い空がある。

 

 クラッチを踏み、エンジンをかける。

 

 走り出してすぐ、道路の継ぎ目が見えた。

 

 早めに速度を落とす。

 

 車体が小さく揺れた。

 

 シロコの言葉を思い出し、セイアは一人で頷いた。

 

     ◇

 

 商店街へ戻る頃には、影が少し長くなっていた。

 

 朝の地図では、ここまで回ってくる予定などなかった。

 

 けれど今は、来た道へ戻るより、こちらを通りたいと思っていた。

 

 セリカのメモにあった青い庇が見える。

 

 その下に、椅子が二つ出されていた。

 

 一つには、誰かが座っている。

 

 桃色の髪。

 

 力の抜けた姿勢。

 

 そして、こちらを見て、ゆっくり上がる手。

 

 セイアは一度通り過ぎ、車を置ける場所へ入れてから歩いて戻った。

 

「いやぁ。珍しい車が来たと思ったら」

 

 椅子の主が、のんびり言った。

 

「セイアちゃんだったんだねぇ」

 

「こんにちは、ホシノ」

 

「こんにちは。こんなところで会うとはねぇ」

 

 小鳥遊ホシノは、隣の空いた椅子を軽く示した。

 

「休んでく?」

 

「少しだけ、そうしようかな」

 

 座ると、庇の影が肩まで入った。

 

 立っている時にはあまり感じなかったが、日差しが遮られるだけで、随分違う。

 

 店の奥から、冷蔵庫の動く低い音が聞こえた。

 

「今日は、お仕事?」

 

 ホシノが尋ねる。

 

「いや。ドライブだよ」

 

「ここまで?」

 

「最初は、道を間違えたんだ」

 

「おぉ。それで今は?」

 

 セイアは少し考えた。

 

「歩いたり、食べたり、また走ったりしている」

 

「うへ~。すっかり満喫してるねぇ」

 

「君は?」

 

「おじさんは休憩中」

 

 即答だった。

 

 セイアがその顔を見ると、ホシノは少し笑った。

 

「ちゃんと、その前はパトロールしてたよ?」

 

「まだ何も言っていないが」

 

「顔が言ってた気がしてねぇ」

 

 それはどこかで聞いたことのある言い分だった。

 

     ◇

 

 店主のロボットが、入口へ顔を出した。

 

「ホシノちゃん、今日は棒のやつ、まだあるよ」

 

「お、いいねぇ」

 

 ホシノが椅子から身を起こす。

 

「セイアちゃんも、何か食べる?」

 

「何があるのかな」

 

「アイス」

 

 セイアは、店内を見た。

 

 入口から少し奥に、低い冷凍ケースがある。

 

 ここは昼間、水を買った日用品屋だった。

 

 その時は飲み物の方へばかり目が向いていて、気づかなかった。

 

 蓋を開けると、ひんやりした空気が上がってくる。

 

 いくつかの箱の隣に、個包装のアイスが並んでいた。

 

 ホシノは迷わず一本取った。

 

 セイアは少し考え、同じものを選ぶ。

 

「そっちでいいの?」

 

「おすすめなのだろう?」

 

「おじさんが食べたいだけだよ」

 

「それなら、十分だ」

 

 会計を済ませ、椅子へ戻る。

 

 包みを開くと、白いミルクアイスが出てきた。

 

 ひと口かじる。

 

 冷たい。

 

 その冷たさのあとに、素直な甘さが残る。

 

 さっきまでの水とも、食後の満足感とも違う。

 

 日陰で食べるための味のように思えた。

 

「……こういうものが欲しくなるんだね」

 

「でしょ」

 

 ホシノは満足そうに頷いた。

 

「歩いてるとねぇ、ここの前で足が止まるんだよ」

 

「君の休憩にも、きちんと理由があるらしい」

 

「うんうん。大切な補給だからね」

 

 言いながら、背もたれへ身体を預ける。

 

 セイアも椅子へ座り直した。

 

 二人の前を、小さな配達車がゆっくり通り過ぎた。

 

 運転席から手が上がる。

 

 ホシノも、アイスを持っていない方の手を上げた。

 

     ◇

 

「シロコと、会ったよ」

 

 セイアが言った。

 

「柴関にはセリカもいた」

 

「おぉ。じゃあ、今日はずいぶん会ったねぇ」

 

「そうだね。三人とも、道を教えてくれた」

 

「おじさん、まだ何も教えてないけど?」

 

「よい日陰を教わったよ」

 

 ホシノは一度、自分たちの座る場所を見た。

 

 それから笑った。

 

「そっか。じゃあ、役に立ったかな」

 

「非常に」

 

 セイアはアイスを少し食べた。

 

 日なたの道路では、薄い砂が風に動いている。

 

 影の中にいると、その明るさをゆっくり眺められた。

 

 閉じたシャッター。

 

 その隣で開いている、小さな店。

 

 外へ出された椅子。

 

 誰かが掃いた、入口までの道。

 

「ここ、よく来るのかい」

 

「時々ねぇ。座ってると、だいたい誰か通るし」

 

「通らない時は?」

 

「寝る」

 

 セイアは笑った。

 

「合理的だね」

 

「でしょ」

 

 ホシノは、少しだけ目を細めた。

 

 その視線が、道路の向こうへ動く。

 

 遠くから、小さな荷車を押したロボットが来ていた。

 

 ホシノは何も言わず、足元に寄せてあった空箱を、通路の外へ移した。

 

 荷車が通る。

 

「助かるよ」

 

「はいはーい」

 

 それだけで、会話は終わった。

 

 ホシノはまた椅子へ戻る。

 

 アイスは、少し溶け始めていた。

 

「あ、危ない危ない」

 

 慌てるほどではない動きで、端をかじる。

 

 セイアは、その横顔を見た。

 

 休んでいる間も、通りの様子は彼女の中へ入っているらしかった。

 

     ◇

 

 風が一度、強く吹いた。

 

 店先の紙札がばたばた鳴り、掲示板に貼られた案内の端が大きくめくれる。

 

「あー、そこ。また剥がれちゃったか」

 

 店主が奥から出てきた。

 

 ホシノが立ち上がる。

 

「テープある?」

 

「持ってくるよ」

 

 セイアも椅子を離れた。

 

 紙の端を押さえる。

 

 そこには、配達日の変更が書かれていた。

 

「これでいいかな」

 

「うん。そっち持ってて」

 

 ホシノがもう一方を押さえる。

 

 店主が持ってきたテープで、四隅を留め直した。

 

 風が吹いても、今度はめくれなかった。

 

「ありがとう。こっちの重りも、少し動かしてもらえる?」

 

「こっち?」

 

 ホシノが小さな看板の足元を直す。

 

 セイアは落ちた紙片を拾い、店主へ渡した。

 

 ほんの数分のことだった。

 

 何かが大きく変わったわけではない。

 

 けれど椅子へ戻ると、さっきまで他人の店先だった場所に、少しだけ自分の手を使った感触が残っていた。

 

「助かったよ。暑いのにね」

 

 店主が言う。

 

「いや。涼ませてもらっていたところだから」

 

 セイアは答えた。

 

 手を拭くために、買ったばかりのハンカチを取り出す。

 

 淡い青の布に、薄く砂の色がついた。

 

「……もう、使うことになったね」

 

 ホシノがそれを見て、笑った。

 

「ここだと、そういうのはすぐ出番が来るから」

 

     ◇

 

 店先で休んでいるうちに、通りを通る顔が少しずつ変わっていった。

 

 配達帰りの車。

 

 買い物袋を持った犬の住人。

 

 空の台車を引いて戻ってきた、さっきのロボット。

 

 誰かはホシノに声をかけ、誰かは頷くだけで通り過ぎた。

 

 セイアにも、一緒に会釈が向けられることがあった。

 

 そのたびに、少し遅れて返す。

 

 ホシノは、何も説明しなかった。

 

 セイアが何者なのかも、なぜ隣へ座っているのかも。

 

 ただ、一緒に休んでいる。

 

 それだけで通っていく時間だった。

 

「アビドス、どうだった?」

 

 不意にホシノが尋ねた。

 

 セイアはすぐには答えなかった。

 

 見たものを思い返す。

 

 砂の入った道。

 

 高いところから見た広い空。

 

 閉じた建物。

 

 柴関のカウンター。

 

 シロコの自転車。

 

 今、座っている椅子。

 

「……まだ、よく知らないよ」

 

 セイアは答えた。

 

 ホシノは、黙って続きを待った。

 

「けれど、昼食を取る場所と、水を買える店と、休む場所は覚えた」

 

「うん」

 

「それと、道を間違えた時に、尋ねられる相手もね」

 

 ホシノが、少し笑った。

 

「じゃあ、次は楽だねぇ」

 

「ああ。今日よりは」

 

 それ以上、大きな言葉にはしなかった。

 

 知ったことより、まだ知らないことの方がずっと多い。

 

 目の前の町についても。

 

 ここで暮らしている人たちについても。

 

 けれど、最初にここへ入ってきた時とは、同じではなかった。

 

 ホシノは立ち上がり、大きく伸びをした。

 

「さて。おじさんも、もうひと歩きしようかな」

 

「休憩は終わりかい」

 

「名残惜しいけどねぇ」

 

 セイアも立つ。

 

 椅子を元の位置へ戻すと、店主が奥から手を振った。

 

「またどうぞ」

 

 ホシノはいつもの調子で返事をした。

 

 セイアも、その隣で会釈をした。

 

     ◇

 

 別れる前に、ホシノは白い車を眺めた。

 

「きれいな車だねぇ」

 

「ありがとう」

 

「でも、少し砂がついちゃったね」

 

 セイアも見る。

 

 朝は白かった車体の下の方に、薄く乾いた色が残っていた。

 

 大きく汚れたわけではない。

 

 ただ、ここまで走ってきたことが分かる程度には、変わっていた。

 

「帰ったら、洗うよ」

 

「そっか」

 

 ホシノは頷いた。

 

「帰り、暗くなる前に大きい道へ出た方が楽だと思う。細い方は、昼と夜で見え方が違うから」

 

「分かった。セリカにも道順をもらっている」

 

「それなら大丈夫だねぇ」

 

 ホシノは、商店街の先を見た。

 

「あ、お腹は?」

 

「昼に、十分食べたよ」

 

「じゃあ、今日はもう安心かな」

 

「君たちは、随分と食事を気にしてくれるね」

 

 ホシノが笑う。

 

「食べられる時に、美味しく食べておいた方がいいからねぇ」

 

 セイアは頷いた。

 

 反論する理由は、何もなかった。

 

「付き合ってくれて、ありがとう」

 

「こちらこそ。休憩が長くなる、いい理由ができたよ」

 

「……それは、私が原因ということかな」

 

「一緒に座ってたからねぇ」

 

 少しずるい言い方だった。

 

 けれど、嫌ではなかった。

 

 ホシノは手を振り、商店街の先へ歩いていった。

 

 セイアはその姿を見送ってから、車へ乗り込んだ。

 

     ◇

 

 帰る前に、もう一度、柴関へ寄った。

 

 セリカの書いた道順を辿ると、店の前を通ることになる。

 

 そのことに気づいて、セイアは少し嬉しくなった。

 

 昼とは光の向きが違う。

 

 入口のガラスには、向かいの建物が長く映っていた。

 

 車を停め、店の扉を開く。

 

「いらっしゃいま――あれ?」

 

 セリカが顔を上げた。

 

「まだ帰ってなかったの?」

 

「これから帰るところだよ」

 

「道、分からなかった?」

 

「いや。君の地図のおかげで、戻ってこられた」

 

 セリカは、少しだけ表情を緩めた。

 

「そう。ならよかった」

 

「それで、持ち帰りを頼むことはできるかな」

 

「持ち帰り?」

 

「餃子を、三人前ほど」

 

 セリカはセイアを見た。

 

 次に、外の車。

 

 そしてもう一度、セイア。

 

「一人で?」

 

「私を、どういう客として覚えたんだい」

 

「昼、追加してたから」

 

「それは否定できないが……帰ってから、二人にも食べてもらおうと思ってね」

 

「ああ。そういうこと」

 

 セリカは厨房へ声をかけた。

 

 大将から返事が来る。

 

「少し待ってて。これから焼くから」

 

「もちろん」

 

 セイアは昼と同じ席に座った。

 

 水が置かれる。

 

 今度は、その場所を少し知っていた。

 

     ◇

 

「どこ行ってたの?」

 

 注文を通して戻ってきたセリカが尋ねた。

 

「シロコに教わった、見晴らしのよいところへ」

 

「ああ。ちゃんと帰ってこられる方だったんだ」

 

「その心配は、必要だったのかな」

 

「シロコ先輩の体力と、一緒にしない方がいいから」

 

 セイアは小さく笑った。

 

「そのあと、日用品屋の前でホシノと会った」

 

「……ホシノ先輩、またあそこ?」

 

「よい休憩場所だったよ」

 

「そりゃそうでしょうけど」

 

 セリカはため息をついた。

 

 けれど、どこにいたのか分かったことには、少し安心したようにも見えた。

 

 セイアは水を飲んだ。

 

 昼に見た客とは、顔ぶれが違っている。

 

 作業を終えたらしい客が二人、並んで席へ着いた。

 

 厨房から、鍋を動かす音が聞こえる。

 

 ほどなく、餃子を焼く音も加わった。

 

 蓋をした時の、短く強い音。

 

 そのあとに続く、細かな蒸気の音。

 

 セイアの目が、自然と厨房の方へ向いた。

 

「……やっぱり、ここでも食べる?」

 

 セリカが尋ねる。

 

「非常に魅力的な提案だが、今日は持ち帰ることにしよう」

 

「本当に?」

 

「ああ。ここで一人前減らしたら、説明を求められそうなのでね」

 

 セリカが笑った。

 

「食べ物には厳しいんだ」

 

「どうやら、私の周りにはそういう人が多いらしい」

 

     ◇

 

 出来上がった餃子は、持ち帰り用の容器へ丁寧に詰められた。

 

 袋の中には、たれの小さな包みも入っている。

 

 受け取ると、底から温かさが伝わってきた。

 

「帰ったら、なるべく早く食べてね」

 

「ああ。二人にも、連絡しておくよ」

 

 会計を済ませる。

 

 セイアは昼にもらったメモを取り出した。

 

 何度か開いたので、折り目が少し柔らかくなっていた。

 

「これは、持って帰ってもよいかな」

 

「別にいいけど。帰り道に使うんでしょ?」

 

「それもある。……今日の記録にもなるのでね」

 

「そんな大したものじゃないわよ」

 

 セリカは照れたように目を逸らした。

 

 それから、メモの端へ視線を戻す。

 

「あ、ここ。次に来る時も、今はこっちから入った方が楽だから」

 

 ペンを取り、帰り道とは逆向きに、小さな矢印を足した。

 

 セイアは、その手元を見た。

 

 昼には、出ていくための地図だった。

 

 今は、戻ってくるための道も書かれている。

 

「……ありがとう」

 

「今度は迷わないで来なさいよ」

 

「次は、ここを目指して来ることにしよう」

 

 セリカは一瞬、口を止めた。

 

 そのあと、少しだけ顔を上げる。

 

「だったら、分かりやすいところまで来たら聞いて。変な道へ入る前に」

 

「ああ」

 

 厨房から、大将の声がした。

 

「またどうぞ」

 

 セイアは振り返り、会釈をした。

 

「ごちそうさま。とても美味しかったよ」

 

 セリカが扉を開ける。

 

 夕方の空気が、湯気のある店内へ入ってきた。

 

     ◇

 

 餃子の袋を倒れないように収めてから、セイアは端末を開いた。

 

 ナギサには、これから帰ること。

 

 夕食に、少しだけ加えてほしいものがあること。

 

 ミカには、写真を一枚送った。

 

 柴関の看板と、その下の入口。

 

 すぐに返事が来る。

 

『ラーメン?』

 

『ああ』

 

『今日、どこまで行ったの?』

 

 セイアは少し笑ってから、返信した。

 

『アビドスだよ』

 

 しばらく、何も届かなかった。

 

 それから、

 

『え???』

 

 という文字が現れた。

 

 セイアは、助手席の袋を見た。

 

 説明することは、随分ある。

 

 道路工事のことから始めるべきだろうか。

 

 それとも、まずシロコと会った話だろうか。

 

 考えた末に、短く送る。

 

『お土産もある。帰ったら話すよ』

 

 端末をしまう。

 

 今度は、きちんと帰る道が分かっていた。

 

     ◇

 

 大きな通りへ出ると、夕日が車体の横から差した。

 

 白いボンネットに、淡い橙色が乗る。

 

 道の端の砂は昼よりも影を持ち、吹き寄せられた形がよく見えた。

 

 セイアは早めに速度を落とし、広い交差点を曲がった。

 

 青い庇の店。

 

 その先の高架。

 

 教わった通りに進むと、道路の先が開けた。

 

 クラッチを踏み、一段上のギアへ。

 

 音が低くなる。

 

 左手をハンドルへ戻すと、車はゆったりとした調子で、町の外側へ伸びる道を走り始めた。

 

 窓は閉めたままだった。

 

 外では、まだ乾いた風が吹いている。

 

 車内には、エンジンの低い響きと、持ち帰りの餃子の香りがあった。

 

 セイアは一度、深く息を吸った。

 

「……これは、帰るまでにまた腹が減りそうだね」

 

 誰もいない助手席へ言った。

 

 昼に通った時には、どこへ行けば何があるのか、ほとんど分からなかった。

 

 今は、赤い自動販売機の先に水を買える店があると知っている。

 

 青い庇の下には椅子がある。

 

 あの道を戻れば、柴関がある。

 

 広い空の下を、自転車で走る生徒もいる。

 

 窓の暗い建物や、砂の入った道が消えたわけではなかった。

 

 ただ、それらの間に、自分の知っている場所ができた。

 

 前方の信号が変わる。

 

 セイアはアクセルを戻し、滑らかに減速した。

 

 停車して、レバーをニュートラルへ戻す。

 

 丸い計器の向こうで、夕日の色が少しずつ薄くなっていった。

 

 朝、通ってみようと思っていた展望道路のことを思い出す。

 

 今日は、そこへ行かなかった。

 

 その代わりに、戻ってこられる店を一つ覚えた。

 

     ◇

 

 車庫へ着く頃には、空は暗くなっていた。

 

 見慣れた場所へ車を収める。

 

 エンジンを切ると、長く聞いていた低い響きが消えた。

 

 セイアは少しだけ、そのまま座っていた。

 

 足元には、歩いた時についた細かな砂がある。

 

 鞄には、水の残ったボトル。

 

 淡い青のハンカチ。

 

 折り畳んだ、小さな道順のメモ。

 

 遠出の記録としては、どれもささやかなものだった。

 

 けれど、それぞれを手にした場所は、すぐに思い出せた。

 

 ドアを開け、荷物を取り出す。

 

 そこへ、建物の方からミカがやってきた。

 

「セイアちゃん!」

 

「ただいま」

 

「アビドスって、どういうこと?」

 

「説明すると、少々長くなるね」

 

「長くなるの!?」

 

 少し後ろから、ナギサも歩いてくる。

 

 まずセイアの顔を見て、それから車を見た。

 

「お帰りなさい。お怪我などは?」

 

「ないよ。少し砂がついたくらいだ」

 

「それなら、よかったです」

 

 ナギサが息をつく。

 

 ミカは、セイアの手元へ目を向けた。

 

「……あれ。いい匂い」

 

「柴関ラーメンのお土産だよ」

 

「ラーメン持って帰ってきたの?」

 

「餃子だ」

 

 袋を持ち上げると、ミカの表情が明るくなった。

 

「やった。まだ温かい?」

 

「早く食べた方がよさそうだね」

 

 ナギサが建物の方を振り返る。

 

「では、お皿を用意しましょう。お話は食事をしながら伺います」

 

 セイアは頷いた。

 

 ミカが箱の数を確かめるように、袋を覗き込む。

 

「三人分?」

 

「ああ」

 

「セイアちゃん、お昼にも食べたんでしょ?」

 

「昼は、ラーメンと半チャーハンだよ」

 

「ちゃんと食べてるねえ」

 

 感心したような声だった。

 

 セイアは笑い、車の鍵をしまった。

 

 鍵と一緒に指へ触れたメモを、もう一度だけ取り出す。

 

 帰り道の線。

 

 店を示す四角。

 

 最後に書き足された、逆向きの小さな矢印。

 

 セイアはそれを丁寧に折り、今度は鞄の内側へ収めた。

 

「それ、何?」

 

 ミカが尋ねた。

 

「道案内だよ」

 

「迷わないように?」

 

「ああ。次はね」

 

 ナギサが何か言いかけたが、袋から立つ香りに気づいたように、先に扉を開けた。

 

 暖かな灯りが、足元へ広がる。

 

 セイアは二人と並んで、その中へ入った。

 

 今日見てきた町の話は、餃子が冷める前には、とても話し終えられそうになかった。

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