その音は、いつもの音に、ほんの少しだけ混じっていた。
低く続くエンジンの響き。
路面の継ぎ目を越えた時に、座席へ伝わる小さな揺れ。
窓の外を流れていく風。
百合園セイアは、それらを聞きながら、緩い上り坂へ向けてアクセルを踏み足した。
その時だった。
ちり、と。
薄い金属を震わせたような音がした。
セイアの視線が、前方から一瞬だけ計器へ下りる。
針の位置に、目立った変化はない。
車は普通に前へ進んでいた。
けれど、アクセルを戻したところで消えた音は、次に軽く踏み足した時、もう一度だけ聞こえた。
「……君には、そういう声もあったかな」
返事はなかった。
もちろん、返事があると思って言ったわけではない。
セイアは先の案内を確かめ、ほどなく現れた休憩用の駐車場へ入った。
十分に速度を落とす。
駐車枠へ車を収め、レバーをニュートラルへ戻した。
少しだけ、耳を澄ませる。
今は、聞こえない。
それがかえって、判断を難しくした。
いつもと違う音がした。
分かるのは、そのことだけだった。
セイアはエンジンを止めた。
◇
その日は、ミレニアムの外周を抜け、郊外の広い道をひと回りするつもりだった。
特別な目的地はない。
昼食は、途中で見つけた店へ入る。
午後には戻り、本の続きを読む。
それくらいの、余裕のある予定だった。
助手席の鞄には、その本が入っている。
水筒もある。
朝食も済ませてきた。
ナギサへの連絡も、ミカへの「今度はどこへ行くの」という説明も、今回はきちんと終わらせている。
これ以上ないほど、準備の整った一人ドライブのはずだった。
「……準備をしていても、知らないことは起きるらしい」
車を降り、少し離れたところから白い車体を見る。
長いボンネットは、何事もなかったように朝日を受けていた。
見て分かるほどの変化はない。
けれど、分からないまま先へ進む気にはなれなかった。
セイアは携帯端末を取り出した。
まず、先生へ。
車から少し変わった音がしたこと。
今は安全な場所へ停めていること。
ミレニアムに近いので、機械に詳しい誰かへ相談できないだろうかということ。
返ってきたのは、怪我がないかを確かめる言葉と、すぐに連絡を取ってみる、という返事だった。
しばらくして、新しい連絡先が届く。
白石ウタハ。
その名前を見て、セイアは小さく頷いた。
頼る相手として、確かに心強い。
少々、独創的な答えが返ってきそうではあったけれど。
◇
『先生から聞いたよ。まず、今の状態を教えてほしい』
通話の向こうの声は、落ち着いていた。
セイアは聞こえた音を説明した。
走っていた時のこと。
坂道で少しアクセルを踏み足した時に、短く鳴ったこと。
停まってからは聞こえなかったこと。
ウタハは、途中で何度か質問した。
警告灯に変化はなかったか。
振動や匂いは。
ペダルの感触は、いつもと違わなかったか。
「私の分かる範囲では、音以外に変化はないね」
『分かった。ただ、音だけで原因を決めることはできない。そのまま動かさずにいてくれるかな。こちらから迎えに行こう』
「迎えに?」
『車も一緒に』
セイアは白い車を見た。
「……少々、大げさではないかな」
『軽い不具合だったなら、あとでそう言えばいいさ』
間を置かずに返ってきた言葉に、セイアは口を閉じた。
なるほど。
自分がよく使う、あとで考えればよい、という理屈にも、こういう使い方があるらしい。
「では、お願いするよ」
◇
やってきた積載車には、ウタハが乗っていた。
車を降りた彼女は、まずセイアへ挨拶し、それから白いロードスターを見た。
正面。
横。
低い車体の下。
視線が、順番に動いていく。
「……いいね」
「修理を頼んだつもりだったんだが」
「ああ。もちろん、その話をしている」
「本当かな」
ウタハは少し笑った。
「半分くらいは」
そう言ってからは、早かった。
車高に合わせて積み込む準備をし、必要なところを確かめる。車体を傷つけないよう、手を置く位置まで丁寧だった。
セイアは言われた通りに手伝い、やがて積載車の助手席へ座った。
いつもより、目線が高い。
窓の下に、低い縁石が小さく見えた。
車が動き出す。
今度は、自分の足も手も、何もしていない。
「不思議な顔をしているね」
ウタハが言った。
「車で来たのに、車に乗せてもらっているのでね」
「後ろの車も同じ気分かもしれない」
「私より、ずっと珍しい経験だろう」
鏡の中に、白い鼻先が見えた。
エンジンを止めたまま、知らない街へ運ばれていく、自分の車。
少し気の毒に見えた。
けれど、それと同じくらい、奇妙な眺めでもあった。
セイアは端末を取り出し、ナギサへ状況を伝えた。
怪我はない。
車は点検してもらう。
自分も一緒に移動している。
その三つを、先に書いた。
今回は、返事が来る前にもう一文を足す。
『無理に走らせてはいないよ』
◇
ミレニアムの建物は、遠くから見た時よりも近くに集まっていた。
ガラスの壁。
建物同士を結ぶ通路。
上の方を横切っていく高架。
その足元には、搬入口や小さな店舗が並んでいる。
大きく整ったものの間に、使う人の都合で増えたらしいものがあった。
通路の端に置かれた台車。
仮設の案内板。
扉へ貼られた、手書きの注意書き。
ウタハが車を入れた共同整備棟にも、入口の横へ大きな紙が貼られていた。
『搬入口の前に試作品を置かないこと』
その下に、違う筆跡で一行。
『試作品でなくても置かないこと』
「……議論の跡があるね」
セイアが言うと、ウタハは紙を一瞥した。
「運用してみると、足りない条件が分かることもある」
「随分と含みのある答えだ」
搬入口が開く。
中から、二人の生徒が出てきた。
一人は、ゴーグルをつけた小柄な生徒。
もう一人は、眼鏡の奥の目を、運ばれてきた車へ輝かせている。
「お待ちしていました! 音が出るのは特定の回転域というお話でしたよね。そうした場合には、まず共振の可能性も考えられるんですが、もちろんそれだけでは――」
「コトリ。先に車を降ろそう」
「あ、はい!」
もう一人の生徒が、セイアの方を見た。
「……ヒビキ。よろしく」
「百合園セイアだよ。こちらこそ、よろしく頼む」
ヒビキは軽く頷き、車の方へ向き直った。
その手には、柔らかそうな保護用の布があった。
◇
整備棟の中は、外から見た印象よりも静かだった。
機械が何も動いていないわけではない。
奥では加工機の低い音が続き、どこかで工具が触れ合っている。換気の音も聞こえる。
けれど、それぞれの音に場所があった。
何もかもが同じところで鳴っているのではない。
作業区画の線の内側へ車が収まり、セイアは、その外に用意された椅子へ案内された。
ウタハは作業票を開く。
「まずは原因の確認。必要な修理が分かったところで、内容と費用を説明する。それでいいかな」
「ああ」
「気になっていることは、ほかにも?」
セイアは少し考えた。
ボンネットの開けられた車を見る。
普段なら外から眺める形の内側に、管や配線や金属の部品が収まっている。
「……乗った感じを、あまり変えたくないんだ」
ウタハのペンが止まった。
「直したくない、という意味ではないよ。必要なところは、きちんと直してほしい。ただ、あの車の走り方を気に入っているのでね」
「分かった」
ウタハは、作業票へ何かを書いた。
短い言葉だった。
「それは、大事な注文だ」
セイアは、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
最初に行われたのは、音をもう一度、確かめることだった。
必要な点検を済ませてから、換気の整った区画でエンジンをかける。
セイアも説明を求められ、椅子から立った。
「このくらいの音の高さだったと思う」
自分の記憶が、思っていたほど具体的でないことに気づく。
いつも聞いている。
けれど、どのくらいの高さで、どの辺りから、どの長さで鳴ったかを言葉にしようとすると、曖昧になる。
ウタハは急かさなかった。
ヒビキが少し離れた場所で音を聞き、コトリが画面を見ている。
そして、ちり、と。
「それだよ」
セイアが言う。
ヒビキが顔を上げた。
「……分かった」
エンジンが止められる。
そのあと、三人の動きが少し変わった。
今度は、探す範囲が狭まったらしい。
車体が持ち上げられ、下側を照らす灯りがつく。
セイアは、浮いたタイヤを見た。
道を走っていない自分の車を、今日は何度も見ることになる。
ヒビキが手元を示し、ウタハが覗き込む。
コトリが説明しかけ、途中で自分から一度、口を閉じた。
まだ、確かめているところなのだ。
セイアは椅子へ戻った。
何か言いたかったが、何を言っても作業を早めることにはならない気がした。
鞄から本を出す。
開く。
同じ行を、二度読んだ。
◇
「原因は、ここだね」
呼ばれて顔を上げると、ウタハが写真を見せてくれた。
排気の熱から周囲を守る板。
それを支える金具の一部が傷み、決まった条件で板が震えていたらしい。
エンジンや変速機そのものの異常ではないという。
「板を外してしまえば、音だけは消える。しかし、それでは修理にならない。役目があって、そこにあるからね」
「では、どうするんだい」
「傷んだ固定部分を直す。周囲に傷みが広がっていないかも確認する。最後に温まった状態でも、走った時にも、音が戻らないか確かめたい」
セイアは頷いた。
説明を聞くと、ひとつひとつは小さな作業に思えた。
けれど、そのひとつひとつを、自分ではできない。
「……大きな故障ではなかったんだね」
「確認できた範囲ではね。気づいたところで停めてくれて、よかった」
「これくらいのことで、とも思ったよ」
ウタハは首を振った。
「これくらいかどうかを確かめるために、ここへ来たんだろう」
セイアは少し黙った。
それから、笑った。
「君は、私が言い訳を作るのを上手に止めるね」
「機械の方は、言い訳を聞いてくれないので」
◇
修理の内容と見積もりを確認し、セイアは正式に頼むことにした。
ウタハが頷く。
ヒビキは寸法を確かめに戻り、コトリは資料を開いた。
その途端、セイアは自分のすることがなくなった。
待つだけである。
旅先で待つ時間には、慣れてきたつもりだった。
列車を待つ。
料理を待つ。
写真を撮るために、光が変わるのを待つ。
けれど、今の待ち時間は、それらと少し違った。
自分で選んで立ち止まったわけではない。
車が直らなければ、帰り方も変わる。
そのことが、頭の端に引っかかっていた。
ウタハが椅子の方へ戻ってくる。
「昼食は、これからかな」
「ああ」
「ここで待っていても構わないが、近くに店もある。作業の見通しがついたら連絡するよ」
「……離れていても?」
言ってから、セイアは、自分の質問が少しおかしいことに気づいた。
自分が隣にいたところで、金具が早く直るわけではない。
ウタハは笑わなかった。
「車は、ここにある。君が戻る場所も、ここだ」
それだけ言った。
セイアは、開いたままの本を閉じた。
「そうだね」
鞄へしまう。
「では、少し歩いてくるよ」
◇
出かける前に、ヒビキが小さな札を渡してくれた。
整備棟の名前と、入口の場所が書いてある。
「……表からだと、入口が分かりにくいから」
「ありがとう」
セイアは札を受け取り、ポケットへ入れた。
そこで初めて、車の鍵を預けたままであることを、指先が思い出した。
いつも触れるものがない。
妙に軽かった。
「何か、忘れ物?」
ヒビキが尋ねる。
「いや。鍵がないと、少し落ち着かないらしい」
ヒビキは作業台の上を見た。
札をつけられた鍵が、決まった場所へ置かれている。
「……なくさないよ」
「ああ。疑っているわけではないんだ」
ヒビキは少し考え、それから頷いた。
「慣れてないだけ?」
「そうだね」
「……車も、多分」
セイアは振り返った。
白い車体の横で、ウタハとコトリが何かを相談している。
保護布のかかったフェンダー。
開いたボンネット。
丁寧に置かれた工具。
「そうかもしれない」
少しだけ笑って、外へ出た。
◇
ミレニアムを歩くと、まず、上を見ることが多くなった。
建物の階をまたぐ通路。
電光表示の案内。
ガラスの向こうを移動している小さな影。
そのあとで、足元を見る。
歩行者のための線と、搬送用の機械が通る線が分かれている場所があった。
小さな搬送ロボットが、交差するところで停まる。
セイアも停まった。
互いに、そのままになる。
ロボットの表示が変わる。
『お先にどうぞ』
「……それは、こちらの台詞だったんだが」
道を譲られ、セイアは歩いた。
通り過ぎてから振り返ると、ロボットも動き出していた。
何事もなかったように、箱を積んで角を曲がる。
その箱の一つには、手書きで、
『落とすな』
と書かれていた。
丁寧な文字ではなかった。
けれど、おそらく重要なのだろう。
セイアは少し笑った。
◇
昼食を取ったのは、通りに面した小さな食堂だった。
入口の看板には、調理設備の試験運用中であることが書いてある。
ただし、その下には大きく、
『食事の提供は通常通りです』
とあった。
ガラス越しに、機械の腕が見えた。
浅い鍋を動かし、皿を並べ、決まった場所へ運んでいる。
セイアは入口で少し立ち止まった。
怖いわけではない。
ただ、昼食を選ぶつもりで、少し別のものを見始めていた。
「いらっしゃいませ。お食事ですか?」
店員の生徒が声をかける。
「そうだね。今のところは」
「見学だけでも大丈夫ですけど、ご飯も美味しいですよ」
よくある反応なのかもしれない。
セイアは頷き、注文端末の前へ立った。
本日の定食。
豚の生姜焼き。
焼き野菜のカレー。
麺料理もある。
少し迷い、生姜焼きを選んだ。
ご飯の量を尋ねられる。
小盛り。
普通。
大盛り。
ここは、普通でよい。
注文を確定すると、番号が表示された。
セイアは窓際へ座った。
外を通る生徒の多くは、何かを持っていた。
箱。
部品の入った袋。
薄い板。
細い棒を束ねたもの。
トリニティであれば、本や書類を持つ姿は珍しくない。
ここでは、何に使うのか分からないものを持っている生徒が多かった。
見ているだけで、いくつも質問が増えていく。
◇
番号が呼ばれ、受け取り口へ向かう。
盆の上には、生姜焼きの皿と、ご飯。
細く切られたキャベツ。
小さなポテトサラダ。
湯気の立つスープもあった。
運ぶところまでは、自分の仕事らしい。
席へ戻り、箸を取る。
肉の表面には、薄く照りがあった。
一切れ持ち上げると、重なっていた玉葱が落ち、皿の上で柔らかくほどけた。
口へ運ぶ。
最初に甘い醤油だれ。
そのあとから、生姜の香りが上がってくる。
端の方には焼き目があり、噛むと少し香ばしい。
ご飯を食べる。
もう一度、肉へ。
セイアは、ガラスの向こうを見た。
機械の腕は、次の注文を作っている。
さっきまで見ていた動きと、自分が今食べているものが、ようやく繋がった。
「……なるほど」
箸を止めずに呟く。
よくできている。
けれど、それより先に、美味しかった。
スープには、卵と細かく切られた野菜が入っていた。
飲み込むと、身体が少し温まる。
午前中、自分が思っていたより緊張していたのかもしれない。
肉を一切れ、たれのついたキャベツと一緒に食べる。
キャベツの歯触りが残り、甘い味が少し軽くなった。
機械の精度について考えていたはずなのに、いつの間にか、ご飯をどのくらい残しておくべきかに関心が移っていた。
◇
食事を終えた頃、店員が様子を見に来た。
「いかがでしたか?」
「美味しかったよ。ご飯を普通にして、よかった」
「よかったです。アンケートも任意でお願いしてるんですが」
端末には、いくつかの項目が並んでいた。
温度。
量。
味付け。
自由記入欄。
セイアは少し考えた。
「この料理は、いつも同じ味になるのかな」
「同じ味になるようにしています。でも、食材の状態もありますし、設定も少しずつ変えていて」
「設定を?」
「今日は玉葱の切り方と、加熱の順番を試しているんです。昨日の感想で、もっと柔らかい方がいいって意見があって」
セイアは、空になった皿を見た。
自分が食べた玉葱は、確かに柔らかかった。
けれど、形は残っていた。
機械が勝手に正解へ辿り着いたわけではない。
昨日、食べた誰かがいて。
それを聞いて、変えた誰かがいる。
今、自分の前にあった皿も、その途中のものらしかった。
「……何を書こうか、少し迷うね」
「難しいことじゃなくて大丈夫ですよ。食べて思ったことを」
セイアは入力欄へ指を置いた。
『肉と玉葱を一緒に食べた時の味が好きだった。』
少し考え、もう一文。
『キャベツにたれをつけても美味しい。』
送信する。
店員はそれを見て、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。担当にも伝えますね」
セイアは盆を返した。
自分の昼食が、明日の誰かの皿へ、ほんの少し関係するかもしれない。
そういう店もあるらしかった。
◇
食堂を出たところで、セイアは端末を確かめた。
連絡は、まだ来ていない。
それを確認したあと、画面をしまおうとして、もう一度見た。
何も変わっていない。
「……二度見ても、進みはしないよ」
自分へ言って、ポケットへ戻す。
通りの先に、小さな店がいくつも並んでいた。
大きな研究棟の足元に、部品を扱う店が集まっている。
窓には、何に使うのか分からない形のものが並んでいた。
セイアは、その一軒へ入った。
店内には、浅い引き出しが壁一面にある。
ねじ。
端子。
小さな歯車。
柔らかい輪や、硬い輪。
同じように見えるものに、違う数字の札がついていた。
セイアが棚を眺めていると、店番のロボットが尋ねた。
「お探しのものは?」
「……それが、何を探せる店なのかを、まだ考えているところなんだ」
ロボットは一拍置いた。
「では、どうぞごゆっくり」
なかなか寛大な返事だった。
◇
奥では、生徒が小さなねじを一本、台の上へ置いていた。
「これと同じの、ありますか」
店番が寸法を確かめる。
引き出しを一つ開け、似たものを取り出した。
セイアには、ほとんど同じに見えた。
けれど生徒は首を傾げ、店番も、もう一度測った。
「長さは同じですが、こちらは頭の形が違いますね」
「あ、それだと蓋に当たるんです」
「では、こちらを」
別の引き出しが開く。
今度は、生徒が頷いた。
「それです」
たった一本のねじを、小さな袋へ入れてもらう。
それを受け取った生徒は、来た時よりも少し急いで店を出ていった。
待っている機械が、どこかにあるのかもしれない。
セイアは、棚へ視線を戻した。
似たものが多いのではない。
違う場所で必要になるものが、それだけあるのだ。
整備棟で見せられた金具を思い出す。
自分が知らなかった、小さな部分。
それが一つ傷んだだけで、あの大きな車も、いつもの音ではなくなった。
セイアは何も買わなかった。
けれど、店を出る時には、入る前より少しだけ、引き出しの数が必要に思えた。
◇
「……セイアさん?」
通りへ出たところで、聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、ユウカが立っていた。
隣にはノアもいる。
二人とも、買い物帰りというよりは、用事の途中らしかった。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は、何かこちらでご予定が?」
「車の修理を待っているんだ」
ユウカの表情が変わった。
「故障ですか? お怪我は?」
「ないよ。小さな異音がしたので、見てもらっている」
「そうでしたか……。どちらに?」
「エンジニア部に」
ユウカは、もう一度表情を変えた。
ノアが、その横顔を見て微笑む。
「ユウカちゃん」
「何も言ってないわよ」
「言う前のお顔でしたので」
セイアは二人を見比べた。
「……何か、聞いておいた方がよいことがあるかな」
ユウカは少し姿勢を正した。
「修理の腕は、確かです」
「その点は、心配していないよ」
「ええ。私もです。ただ、頼んでいない機能まで増えていないかは、確認してください」
「機能」
セイアは、白い車を思い浮かべた。
「走る以外に、何をさせるつもりなんだろう」
ノアが、少し考えるように首を傾ける。
「走る場所を増やす、という方向もありますね」
「……水の上、など?」
「空も含めるかもしれません」
セイアは、すぐには返事をしなかった。
ユウカがノアを見る。
「不安にさせないの」
「可能性のお話です」
「それが問題なのよ」
◇
近くの飲み物の店で、三人は少し休むことになった。
ユウカたちの用事までは、まだ少し間があるという。
セイアは紅茶。
ユウカはコーヒー。
ノアは、温かい飲み物と小さな焼き菓子を選んだ。
席につくと、ユウカはあらためて修理の話を聞いた。
見積もりは出ているか。
作業内容は確認したか。
追加の変更には、連絡をもらうことになっているか。
セイアが答えるたび、彼女は少しずつ安心した顔になった。
「それなら、大丈夫そうですね」
「君は、車ではなく依頼の方を点検しているようだ」
「後から認識が違っていた、となると困りますから」
ノアがカップを持ち上げる。
「修理前の確認は、大切ですからね」
「車と同じだね」
セイアも紅茶を飲んだ。
香りは柔らかく、飲み込んだあとに軽い渋みが残った。
窓の向こうには、大きな道路と、その上を渡る歩行者通路がある。
道路側からは分からなかった店の入口が、二階にも並んでいた。
今日は、車から降りたおかげで、見える高さが増えている。
「せっかくのお休みだったのに、予定が変わってしまいましたね」
ユウカが言う。
「そうだね。……最初は、少し落ち着かなかった」
セイアはカップを置いた。
「自分で停まるのと、停まらなければならないのとは、違うものらしい」
ユウカは頷いた。
ノアも、すぐには何かを言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
楽しい寄り道になったからよい、と、すぐに片づけられたくはなかったのかもしれない。
「ただ、昼食は美味しかったよ」
セイアが続けると、ユウカが少し笑った。
「それは、よかったです」
◇
修理の進捗が届いたのは、紅茶を半分ほど飲んだところだった。
固定部分の作業は終わった。
これから組み戻して、温まった状態で確認する。
もう少し、街を見ていて構わない。
その下に写真が一枚あった。
新しく整えられた金具。
その横に、寸法を記した紙。
さらに、その端へ、小さな字で何かが書かれている。
『追加機能なし』
セイアは、思わず笑った。
「どうかしましたか?」
ユウカへ画面を見せる。
彼女は写真を見てから、短く息をついた。
「……それを最初から書くくらいなら」
「自覚はある、ということだね」
ノアが楽しそうに目を細めた。
セイアは返信した。
『了解したよ。私の方も、今は異常なしだ』
送ってから、少し考える。
車ではないのだから、その報告はいらなかったかもしれない。
けれど、ウタハからはすぐ、
『昼食を取れたなら、よかった』
と返ってきた。
◇
二人と別れたあと、セイアは通路を少し遠回りした。
車を預けている場所は、分かっている。
戻る時刻の目安も、分かっている。
それだけで、歩く範囲を広げる気持ちになれた。
小さな広場には、いくつかの試作品が展示されていた。
日陰の長さに合わせて向きを変える庇。
空になった容器を受け取る回収装置。
荷物を持った生徒の後ろへ、一定の距離を保ってついていく小さな台車。
台車の持ち主が急に振り返ると、台車もぴたりと停まった。
生徒はそれを見て頷き、端末へ何かを記録する。
その足元には、紙袋が二つ置かれていた。
どうやら、全部を台車に任せているわけではないらしい。
セイアはしばらく眺めた。
試して。
確かめて。
直して。
また使ってみる。
完成したものばかりが並ぶ街ではなかった。
使えるようになってからも、誰かがずっと手を入れている。
そのことが、午前中に見た整備棟と、少しずつ重なった。
◇
帰り道、セイアは小さな焼き菓子の店へ寄った。
今度は、自分のためだけではない。
整備棟で働いている三人の顔が浮かんだからだ。
店の棚には、細長いパイと、木の実の入った菓子。
丸いクッキーには、歯車のような模様がついている。
セイアは、そのクッキーを見て少し笑った。
「こちらは、噛み合うのかな」
店員の生徒が、何を尋ねられたのか一瞬考えた。
それから、同じ形のものを二枚並べてみる。
歯の部分が、少しだけ重なった。
「……きれいには、回らないですね」
「それなら安心したよ。食べずに組み立て始められては困るので」
店員が笑った。
セイアはクッキーを一箱と、甘くない小さなパイを選んだ。
甘いものばかりでは、好みが分かれるかもしれない。
袋を受け取ると、端末が短く鳴った。
『一通りの確認が済んだ。戻ってきたら、一緒に試運転をしよう』
セイアは、その文字を二度読まなかった。
すぐに、来た道を戻り始めた。
◇
整備棟の入口へ着くと、白い車は床へ戻っていた。
ボンネットは閉じられている。
保護布も外されていた。
午前中と同じ車なのに、その姿を見ただけで、少しほっとした。
ヒビキが顔を上げる。
「……お帰り」
「ただいま。待たせたかな」
「今、終わったところ」
セイアは紙袋を持ち上げた。
「差し入れだよ」
コトリがすぐに近づいてきた。
「ありがとうございます! あ、歯車の形ですね。実際に噛み合わせるなら歯の形状が重要で、見た目が似ていても――」
「噛み合わないことは、店で確認してきたよ」
「確認されたんですか!?」
「君たちなら、気にするかもしれないと思ってね」
ウタハが笑った。
ヒビキも、箱の中を見て少し口元を緩めた。
「……食べる方にしよう」
工具のある机とは別の、小さな休憩用の机へ袋が置かれる。
三人は手を洗って戻ってきた。
作業用の手袋がなくなると、さっきまで車に向いていた手が、紙コップを持つ手になった。
◇
休憩の前に、修理したところを説明してもらった。
傷んでいた固定部分。
その周辺の確認。
交換した消耗品。
作業前と作業後の写真が、順番に並んでいる。
コトリの説明は、最初こそ少し速かった。
けれど、セイアが途中で、
「そこは、どうして隙間が必要なんだい」
と尋ねると、一度言葉を止め、別の図を開いた。
「熱で変化する分と、振動する分を考えないといけないんです。全部をただ硬く固定すればよい、というわけではなくて」
「動かない方がよいところと、少し動けた方がよいところがある、と」
「そうです!」
コトリの顔が明るくなる。
セイアも、写真を見る。
ただ元の位置へ戻しただけに見えていたものの中に、考えた跡があった。
ヒビキが、取り外した小さな金具を示した。
「……こっちが、傷んでいた方」
袋越しに見ると、小さな割れがあった。
午前中に聞こえた音と、この細い線が、繋がっている。
「こんなに小さかったのか」
「小さくても、鳴る時は鳴る」
ヒビキは静かに答えた。
「気づいてもらえて、よかったと思う」
セイアは顔を上げた。
ヒビキは車を見ていた。
それが誰にとってよかったのかを、細かく尋ねる気にはならなかった。
◇
試運転には、ウタハが同乗することになった。
ヒビキとコトリは、整備棟で記録をまとめて待っている。
セイアが運転席のドアを開くと、座席は、朝と同じ位置にあった。
腰を下ろす。
背中を落ち着かせる。
足を伸ばせば、いつものところにペダルがある。
細いシフトレバーも、そのままだ。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
ウタハが助手席へ座り、ベルトを締めた。
「まずは構内をゆっくり。それで問題がなければ、近くを一周しよう」
「了解したよ」
セイアもベルトを締める。
レバーがニュートラルであることを確かめ、クラッチを踏んでキーを回した。
始動音。
そのあと、低い響きが車内へ満ちた。
セイアは何も言わず、しばらく聞いた。
朝と同じ音だった。
少なくとも、今のところは。
「では、行こうか」
一速へ入れる。
右足で少しだけ回転を支えながら、左足を戻していく。
駆動がつながるところで、車が静かに前へ出た。
◇
構内を低速でひと回りし、問題がないことを確かめてから外の道へ出た。
午後の交通は、朝より少し落ち着いていた。
セイアは二速へ入れ、車の動きが馴染むのを待ってから、もう一段上げる。
音の高さが下がった。
左手をハンドルへ戻す。
助手席のウタハは、固定した測定器の表示と、道路の様子を交互に見ていた。
「次を曲がると、緩い上りになる」
「ああ」
交差点の手前で速度を落とす。
必要なギアを選び、曲がり終えてから少しアクセルを足す。
車は、坂へ向かって滑らかに伸びた。
セイアは耳を澄ませた。
低いエンジン音。
タイヤが路面を転がる音。
窓の外の風。
あの薄い金属音は、しなかった。
少し先でアクセルを戻し、流れに合わせてまた踏み足す。
車が、同じように応える。
「……どうかな」
ウタハが尋ねた。
セイアは前を見たまま答えた。
「いつも通りだ」
少し間を置いて、付け加える。
「変わっていないね」
「よかった」
ウタハの声が、わずかに柔らかくなった。
「今日は、それを聞きたかった」
◇
坂を上り切ると、道は建物の外側へ回り込んだ。
街が少し低く見える。
ガラスの壁に、午後の光が長く映っていた。
セイアはギアを上げ、一定の速さで走った。
車には、まだ余裕がある。
踏めば、もっと応えるだろう。
そのことを知っているのと、今それをすることは、別だった。
助手席には、確かめるために乗っている人がいる。
今日はその人と、自分の好きな音を聞いていたかった。
「運転は、ずっと自分で?」
ウタハが尋ねた。
「こうして出かける時はね」
「自動化したいとは思わない?」
セイアは少し笑った。
「疲れた時には、思うかもしれない」
「なるほど」
「ただ、今はこれが楽しいんだ。道に合わせてギアを選んで、車の返事を聞く。毎回、全く同じではないのでね」
ウタハは頷いた。
「なら、そこは直すところじゃない」
短い言葉だった。
セイアは、ハンドルを持つ指へ少し力を込めた。
次の信号が見える。
アクセルを戻し、早めに減速する。
停まってからニュートラルへ戻し、左足を休めた。
低い振動が、座席に残っている。
それまで取り去られたわけではない。
好きだったものは、そのままそこにあった。
◇
「正直に言えば、いじってみたいところはある」
信号待ちの間に、ウタハが言った。
「だろうね」
「何だ。その返事は」
「ユウカとノアに会ったのでね」
ウタハは一度、目を閉じた。
「……何を聞いた?」
「走る場所が増えるかもしれない、と」
「なるほど。そこまでしか聞いていないのか」
セイアが顔を向ける。
ウタハは、少しだけ笑っていた。
「冗談だよ」
「半分くらいは?」
「今回は、全部ということにしておこう」
信号が変わる。
セイアはクラッチを踏み、一速へ入れた。
発進してから、しばらく黙って走る。
整備棟へ戻る道へ入ったところで、ウタハが続けた。
「新しく作るのも好きだ。しかし、気に入って使われているものを、また使えるようにするのも悪くない」
「君の考えた機能が増えなくても?」
「ああ。使う人の好きなところまで、こちらが決める必要はないだろう」
セイアは頷いた。
「……それは、よい修理屋の答えだね」
「発明家でもあるつもりなんだが」
「両方、ということにしておこう」
今度はウタハが笑った。
◇
整備棟へ戻ると、ヒビキが待っていた。
車を停め、エンジンを切る。
セイアが降りる前に、彼女が窓の外から尋ねた。
「音は?」
「聞こえなかったよ」
ヒビキは頷いた。
コトリも近づき、記録を確認する。
温まった状態での点検と、最後の確認が終わるまで、セイアはもう一度、休憩用の机へ座った。
今度は、本を開かなかった。
車を見ていたかった。
午前中も同じことをしていた。
けれど、その時より、呼吸がずっと楽だった。
ヒビキが使い終えた工具を数え、元の場所へ戻す。
コトリが記録へ書き込み、ウタハが作業票へ目を通す。
直った、と言うまでに、まだすることがある。
セイアは、冷めかけたお茶を飲んだ。
それから、残っていたクッキーを一枚取った。
歯車の形は、ひと口かじると、簡単に崩れた。
◇
最後に、修理の記録と請求書を受け取った。
内容を確かめ、支払いを済ませる。
ウタハが鍵を差し出した。
小さな札がついたままだった。
「次にいつもの整備先へ行く時、この記録も見せておくといい」
「そうしよう」
「同じような音が戻る、あるいは別の変化があれば、無理せず連絡してほしい」
「ああ」
鍵を受け取る。
指先に、いつもの重さが戻った。
セイアはそれを握ったまま、三人を見た。
「今日は、本当に助かったよ」
「直ってよかった」
ヒビキが答える。
コトリは、少し遠慮がちに口を開いた。
「あの、今日の説明なんですが。資料もお渡しできますけど……必要でしょうか?」
「ぜひ、お願いするよ」
「いいんですか?」
「自分の車について、知らないところが随分あると分かったのでね」
コトリの顔が、ぱっと明るくなった。
「では、まず分かりやすいものをまとめます! 今回の振動の話から入って、固定方法と材料の違い、それから熱による――」
「コトリ」
ウタハが呼ぶ。
「今日中に帰れる量にしてあげよう」
「……まず、目次から送りますね」
「慎重な始め方だね」
セイアは笑った。
◇
帰ろうとしたところで、ウタハが薄い紙をもう一枚差し出した。
「こちらは、修理とは別だ」
セイアは受け取った。
表題を見る。
『快適性向上に関する検討案』
その下には、いくつかの図と、細かな文字が並んでいた。
セイアは黙って顔を上げる。
ウタハも黙っている。
ヒビキは、少し目を逸らした。
コトリは、説明したそうにしていた。
「……何も変えていないんだろうね」
「もちろん」
「これは?」
「考えるところまでは、依頼に含まれていなかったから」
「含まれていないことを、したわけだ」
「車には、していない」
セイアは紙を見た。
最初の案は、荷物を傷つけずに固定するための小さな工夫だった。
その次も、まだ理解できる範囲にあった。
三つ目から先は、少し様子が違った。
セイアは続きを読まず、丁寧に畳んだ。
「持ち帰って、検討するよ」
ウタハが頷く。
「それで十分だ」
「採用するとは言っていないが」
「知っている」
今度の返事は、少し楽しそうだった。
◇
外へ出ると、街の灯りがつき始めていた。
まだ空は明るい。
けれど建物の下の方では、看板の光が分かるようになっている。
セイアは車へ荷物をしまった。
鞄には、持ってきた本。
昼食の店でもらった小さなカード。
修理の記録。
そして、少し危険そうな検討案。
食べ物のお土産は、今回はあまりない。
代わりに、読んでもらうものが増えた。
端末を開き、ナギサへ連絡する。
『修理と確認が終わった。これから帰るよ』
ミカへも、短く送る。
『車は元通りだ』
ほどなく、返事が来た。
『空とか飛べるようになってない?』
セイアは画面を見つめた。
どうして、そこへ辿り着いたのだろう。
誰かから何かを聞いたのかもしれない。
それとも、ミレニアムと修理という言葉だけで、同じ想像をするものなのか。
『地面を走って帰る予定だよ』
そう返して、端末をしまった。
◇
乗り込む前に、セイアは整備棟を振り返った。
ウタハが入口に立っていた。
ヒビキは、その少し後ろ。
コトリは、まだ資料を何か確認している。
セイアが手を上げると、三人もそれぞれの仕方で返してくれた。
運転席へ座る。
ベルトを締める。
クラッチを踏み、キーを回す。
低い音が、戻ってくる。
セイアは耳を澄ませた。
あの金属音は、ない。
それ以外は、よく知っている。
ハンドルへ伝わる小さな振動も。
座席の位置も。
左足で確かめる、クラッチの重さも。
セイアは一速へ入れた。
車が、静かに前へ出る。
入口を抜ける時、ウタハが声をかけた。
「今度は、修理の用事がなくても寄ってくれていい」
セイアは少しだけ窓を下ろした。
「その時は、お茶を飲む時間を先に確保しておいてほしいね」
「善処しよう」
「ずいぶん不確かな返事だ」
ウタハが笑う。
セイアも笑って、窓を戻した。
◇
帰りの道は、朝には通るつもりのなかった道だった。
けれど、途中から見覚えのある景色が増えた。
昼食を取った店。
部品の並ぶ小さな店。
上を渡る歩行者通路。
荷物を運ぶロボットが停まった交差点。
車から眺めると、歩いていた時より、どれも短い時間で過ぎていく。
その短さの中に、今日の時間が収まっていた。
朝には、ミレニアムを抜けて、その先へ行くつもりだった。
実際に走った距離は、それほど長くない。
待っていた時間の方が、多かったかもしれない。
けれど、通り過ぎただけなら、この店も、この入口も、三人が手を拭いてから菓子を取る様子も、知らなかっただろう。
セイアは前を見た。
大きな道へ出る。
速度が落ち着いたところで、クラッチを踏み、ギアを一段上げる。
エンジンの響きが、すっと低くなった。
その音を、今日は自分以外にも、よく聞いてくれた人たちがいる。
セイアは左手をハンドルへ戻した。
白い車は、いつもの調子で、夕方の道を走っていった。
◇
車庫へ戻ると、セイアはいつもより少し丁寧に停車した。
駐車ブレーキを掛ける。
エンジンを止める。
静かになった車内で、今日受け取った記録をもう一度開いた。
点検した箇所。
修理した内容。
確認した項目。
作業した三人の名前。
その下に、依頼者が確認したことを記す欄があった。
整備棟で書いた、自分の名前がある。
その隣へ、セイアは小さく一行、書き足した。
『帰宅まで、異常なし。』
端末でも同じ内容を送り、記録を鞄へしまう。
すぐに、ウタハから返事が来た。
『確認した。よい報告をありがとう。』
続けて、もう一件。
『コトリからの資料は、分けて送ることにした。』
セイアは、少しだけ嫌な予感がした。
程なく届いた最初の資料には、
『第一章』
と書かれていた。
「……本の続きが、増えてしまったね」
ひとりで呟き、笑う。
車を降りる。
白いボンネットへ車庫の灯りが落ちていた。
見た目は、朝とほとんど変わらない。
けれど、その内側には、今日、誰かが直してくれた場所がある。
セイアはドアを閉めた。
よく知っている音がした。