百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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ミレニアム工業区・共同整備棟 #異音 #修理待ち #V12エンジン

 

 その音は、いつもの音に、ほんの少しだけ混じっていた。

 

 低く続くエンジンの響き。

 

 路面の継ぎ目を越えた時に、座席へ伝わる小さな揺れ。

 

 窓の外を流れていく風。

 

 百合園セイアは、それらを聞きながら、緩い上り坂へ向けてアクセルを踏み足した。

 

 その時だった。

 

 ちり、と。

 

 薄い金属を震わせたような音がした。

 

 セイアの視線が、前方から一瞬だけ計器へ下りる。

 

 針の位置に、目立った変化はない。

 

 車は普通に前へ進んでいた。

 

 けれど、アクセルを戻したところで消えた音は、次に軽く踏み足した時、もう一度だけ聞こえた。

 

「……君には、そういう声もあったかな」

 

 返事はなかった。

 

 もちろん、返事があると思って言ったわけではない。

 

 セイアは先の案内を確かめ、ほどなく現れた休憩用の駐車場へ入った。

 

 十分に速度を落とす。

 

 駐車枠へ車を収め、レバーをニュートラルへ戻した。

 

 少しだけ、耳を澄ませる。

 

 今は、聞こえない。

 

 それがかえって、判断を難しくした。

 

 いつもと違う音がした。

 

 分かるのは、そのことだけだった。

 

 セイアはエンジンを止めた。

 

     ◇

 

 その日は、ミレニアムの外周を抜け、郊外の広い道をひと回りするつもりだった。

 

 特別な目的地はない。

 

 昼食は、途中で見つけた店へ入る。

 

 午後には戻り、本の続きを読む。

 

 それくらいの、余裕のある予定だった。

 

 助手席の鞄には、その本が入っている。

 

 水筒もある。

 

 朝食も済ませてきた。

 

 ナギサへの連絡も、ミカへの「今度はどこへ行くの」という説明も、今回はきちんと終わらせている。

 

 これ以上ないほど、準備の整った一人ドライブのはずだった。

 

「……準備をしていても、知らないことは起きるらしい」

 

 車を降り、少し離れたところから白い車体を見る。

 

 長いボンネットは、何事もなかったように朝日を受けていた。

 

 見て分かるほどの変化はない。

 

 けれど、分からないまま先へ進む気にはなれなかった。

 

 セイアは携帯端末を取り出した。

 

 まず、先生へ。

 

 車から少し変わった音がしたこと。

 

 今は安全な場所へ停めていること。

 

 ミレニアムに近いので、機械に詳しい誰かへ相談できないだろうかということ。

 

 返ってきたのは、怪我がないかを確かめる言葉と、すぐに連絡を取ってみる、という返事だった。

 

 しばらくして、新しい連絡先が届く。

 

 白石ウタハ。

 

 その名前を見て、セイアは小さく頷いた。

 

 頼る相手として、確かに心強い。

 

 少々、独創的な答えが返ってきそうではあったけれど。

 

     ◇

 

『先生から聞いたよ。まず、今の状態を教えてほしい』

 

 通話の向こうの声は、落ち着いていた。

 

 セイアは聞こえた音を説明した。

 

 走っていた時のこと。

 

 坂道で少しアクセルを踏み足した時に、短く鳴ったこと。

 

 停まってからは聞こえなかったこと。

 

 ウタハは、途中で何度か質問した。

 

 警告灯に変化はなかったか。

 

 振動や匂いは。

 

 ペダルの感触は、いつもと違わなかったか。

 

「私の分かる範囲では、音以外に変化はないね」

 

『分かった。ただ、音だけで原因を決めることはできない。そのまま動かさずにいてくれるかな。こちらから迎えに行こう』

 

「迎えに?」

 

『車も一緒に』

 

 セイアは白い車を見た。

 

「……少々、大げさではないかな」

 

『軽い不具合だったなら、あとでそう言えばいいさ』

 

 間を置かずに返ってきた言葉に、セイアは口を閉じた。

 

 なるほど。

 

 自分がよく使う、あとで考えればよい、という理屈にも、こういう使い方があるらしい。

 

「では、お願いするよ」

 

     ◇

 

 やってきた積載車には、ウタハが乗っていた。

 

 車を降りた彼女は、まずセイアへ挨拶し、それから白いロードスターを見た。

 

 正面。

 

 横。

 

 低い車体の下。

 

 視線が、順番に動いていく。

 

「……いいね」

 

「修理を頼んだつもりだったんだが」

 

「ああ。もちろん、その話をしている」

 

「本当かな」

 

 ウタハは少し笑った。

 

「半分くらいは」

 

 そう言ってからは、早かった。

 

 車高に合わせて積み込む準備をし、必要なところを確かめる。車体を傷つけないよう、手を置く位置まで丁寧だった。

 

 セイアは言われた通りに手伝い、やがて積載車の助手席へ座った。

 

 いつもより、目線が高い。

 

 窓の下に、低い縁石が小さく見えた。

 

 車が動き出す。

 

 今度は、自分の足も手も、何もしていない。

 

「不思議な顔をしているね」

 

 ウタハが言った。

 

「車で来たのに、車に乗せてもらっているのでね」

 

「後ろの車も同じ気分かもしれない」

 

「私より、ずっと珍しい経験だろう」

 

 鏡の中に、白い鼻先が見えた。

 

 エンジンを止めたまま、知らない街へ運ばれていく、自分の車。

 

 少し気の毒に見えた。

 

 けれど、それと同じくらい、奇妙な眺めでもあった。

 

 セイアは端末を取り出し、ナギサへ状況を伝えた。

 

 怪我はない。

 

 車は点検してもらう。

 

 自分も一緒に移動している。

 

 その三つを、先に書いた。

 

 今回は、返事が来る前にもう一文を足す。

 

『無理に走らせてはいないよ』

 

     ◇

 

 ミレニアムの建物は、遠くから見た時よりも近くに集まっていた。

 

 ガラスの壁。

 

 建物同士を結ぶ通路。

 

 上の方を横切っていく高架。

 

 その足元には、搬入口や小さな店舗が並んでいる。

 

 大きく整ったものの間に、使う人の都合で増えたらしいものがあった。

 

 通路の端に置かれた台車。

 

 仮設の案内板。

 

 扉へ貼られた、手書きの注意書き。

 

 ウタハが車を入れた共同整備棟にも、入口の横へ大きな紙が貼られていた。

 

『搬入口の前に試作品を置かないこと』

 

 その下に、違う筆跡で一行。

 

『試作品でなくても置かないこと』

 

「……議論の跡があるね」

 

 セイアが言うと、ウタハは紙を一瞥した。

 

「運用してみると、足りない条件が分かることもある」

 

「随分と含みのある答えだ」

 

 搬入口が開く。

 

 中から、二人の生徒が出てきた。

 

 一人は、ゴーグルをつけた小柄な生徒。

 

 もう一人は、眼鏡の奥の目を、運ばれてきた車へ輝かせている。

 

「お待ちしていました! 音が出るのは特定の回転域というお話でしたよね。そうした場合には、まず共振の可能性も考えられるんですが、もちろんそれだけでは――」

 

「コトリ。先に車を降ろそう」

 

「あ、はい!」

 

 もう一人の生徒が、セイアの方を見た。

 

「……ヒビキ。よろしく」

 

「百合園セイアだよ。こちらこそ、よろしく頼む」

 

 ヒビキは軽く頷き、車の方へ向き直った。

 

 その手には、柔らかそうな保護用の布があった。

 

     ◇

 

 整備棟の中は、外から見た印象よりも静かだった。

 

 機械が何も動いていないわけではない。

 

 奥では加工機の低い音が続き、どこかで工具が触れ合っている。換気の音も聞こえる。

 

 けれど、それぞれの音に場所があった。

 

 何もかもが同じところで鳴っているのではない。

 

 作業区画の線の内側へ車が収まり、セイアは、その外に用意された椅子へ案内された。

 

 ウタハは作業票を開く。

 

「まずは原因の確認。必要な修理が分かったところで、内容と費用を説明する。それでいいかな」

 

「ああ」

 

「気になっていることは、ほかにも?」

 

 セイアは少し考えた。

 

 ボンネットの開けられた車を見る。

 

 普段なら外から眺める形の内側に、管や配線や金属の部品が収まっている。

 

「……乗った感じを、あまり変えたくないんだ」

 

 ウタハのペンが止まった。

 

「直したくない、という意味ではないよ。必要なところは、きちんと直してほしい。ただ、あの車の走り方を気に入っているのでね」

 

「分かった」

 

 ウタハは、作業票へ何かを書いた。

 

 短い言葉だった。

 

「それは、大事な注文だ」

 

 セイアは、少しだけ肩の力を抜いた。

 

     ◇

 

 最初に行われたのは、音をもう一度、確かめることだった。

 

 必要な点検を済ませてから、換気の整った区画でエンジンをかける。

 

 セイアも説明を求められ、椅子から立った。

 

「このくらいの音の高さだったと思う」

 

 自分の記憶が、思っていたほど具体的でないことに気づく。

 

 いつも聞いている。

 

 けれど、どのくらいの高さで、どの辺りから、どの長さで鳴ったかを言葉にしようとすると、曖昧になる。

 

 ウタハは急かさなかった。

 

 ヒビキが少し離れた場所で音を聞き、コトリが画面を見ている。

 

 そして、ちり、と。

 

「それだよ」

 

 セイアが言う。

 

 ヒビキが顔を上げた。

 

「……分かった」

 

 エンジンが止められる。

 

 そのあと、三人の動きが少し変わった。

 

 今度は、探す範囲が狭まったらしい。

 

 車体が持ち上げられ、下側を照らす灯りがつく。

 

 セイアは、浮いたタイヤを見た。

 

 道を走っていない自分の車を、今日は何度も見ることになる。

 

 ヒビキが手元を示し、ウタハが覗き込む。

 

 コトリが説明しかけ、途中で自分から一度、口を閉じた。

 

 まだ、確かめているところなのだ。

 

 セイアは椅子へ戻った。

 

 何か言いたかったが、何を言っても作業を早めることにはならない気がした。

 

 鞄から本を出す。

 

 開く。

 

 同じ行を、二度読んだ。

 

     ◇

 

「原因は、ここだね」

 

 呼ばれて顔を上げると、ウタハが写真を見せてくれた。

 

 排気の熱から周囲を守る板。

 

 それを支える金具の一部が傷み、決まった条件で板が震えていたらしい。

 

 エンジンや変速機そのものの異常ではないという。

 

「板を外してしまえば、音だけは消える。しかし、それでは修理にならない。役目があって、そこにあるからね」

 

「では、どうするんだい」

 

「傷んだ固定部分を直す。周囲に傷みが広がっていないかも確認する。最後に温まった状態でも、走った時にも、音が戻らないか確かめたい」

 

 セイアは頷いた。

 

 説明を聞くと、ひとつひとつは小さな作業に思えた。

 

 けれど、そのひとつひとつを、自分ではできない。

 

「……大きな故障ではなかったんだね」

 

「確認できた範囲ではね。気づいたところで停めてくれて、よかった」

 

「これくらいのことで、とも思ったよ」

 

 ウタハは首を振った。

 

「これくらいかどうかを確かめるために、ここへ来たんだろう」

 

 セイアは少し黙った。

 

 それから、笑った。

 

「君は、私が言い訳を作るのを上手に止めるね」

 

「機械の方は、言い訳を聞いてくれないので」

 

     ◇

 

 修理の内容と見積もりを確認し、セイアは正式に頼むことにした。

 

 ウタハが頷く。

 

 ヒビキは寸法を確かめに戻り、コトリは資料を開いた。

 

 その途端、セイアは自分のすることがなくなった。

 

 待つだけである。

 

 旅先で待つ時間には、慣れてきたつもりだった。

 

 列車を待つ。

 

 料理を待つ。

 

 写真を撮るために、光が変わるのを待つ。

 

 けれど、今の待ち時間は、それらと少し違った。

 

 自分で選んで立ち止まったわけではない。

 

 車が直らなければ、帰り方も変わる。

 

 そのことが、頭の端に引っかかっていた。

 

 ウタハが椅子の方へ戻ってくる。

 

「昼食は、これからかな」

 

「ああ」

 

「ここで待っていても構わないが、近くに店もある。作業の見通しがついたら連絡するよ」

 

「……離れていても?」

 

 言ってから、セイアは、自分の質問が少しおかしいことに気づいた。

 

 自分が隣にいたところで、金具が早く直るわけではない。

 

 ウタハは笑わなかった。

 

「車は、ここにある。君が戻る場所も、ここだ」

 

 それだけ言った。

 

 セイアは、開いたままの本を閉じた。

 

「そうだね」

 

 鞄へしまう。

 

「では、少し歩いてくるよ」

 

     ◇

 

 出かける前に、ヒビキが小さな札を渡してくれた。

 

 整備棟の名前と、入口の場所が書いてある。

 

「……表からだと、入口が分かりにくいから」

 

「ありがとう」

 

 セイアは札を受け取り、ポケットへ入れた。

 

 そこで初めて、車の鍵を預けたままであることを、指先が思い出した。

 

 いつも触れるものがない。

 

 妙に軽かった。

 

「何か、忘れ物?」

 

 ヒビキが尋ねる。

 

「いや。鍵がないと、少し落ち着かないらしい」

 

 ヒビキは作業台の上を見た。

 

 札をつけられた鍵が、決まった場所へ置かれている。

 

「……なくさないよ」

 

「ああ。疑っているわけではないんだ」

 

 ヒビキは少し考え、それから頷いた。

 

「慣れてないだけ?」

 

「そうだね」

 

「……車も、多分」

 

 セイアは振り返った。

 

 白い車体の横で、ウタハとコトリが何かを相談している。

 

 保護布のかかったフェンダー。

 

 開いたボンネット。

 

 丁寧に置かれた工具。

 

「そうかもしれない」

 

 少しだけ笑って、外へ出た。

 

     ◇

 

 ミレニアムを歩くと、まず、上を見ることが多くなった。

 

 建物の階をまたぐ通路。

 

 電光表示の案内。

 

 ガラスの向こうを移動している小さな影。

 

 そのあとで、足元を見る。

 

 歩行者のための線と、搬送用の機械が通る線が分かれている場所があった。

 

 小さな搬送ロボットが、交差するところで停まる。

 

 セイアも停まった。

 

 互いに、そのままになる。

 

 ロボットの表示が変わる。

 

『お先にどうぞ』

 

「……それは、こちらの台詞だったんだが」

 

 道を譲られ、セイアは歩いた。

 

 通り過ぎてから振り返ると、ロボットも動き出していた。

 

 何事もなかったように、箱を積んで角を曲がる。

 

 その箱の一つには、手書きで、

 

『落とすな』

 

 と書かれていた。

 

 丁寧な文字ではなかった。

 

 けれど、おそらく重要なのだろう。

 

 セイアは少し笑った。

 

     ◇

 

 昼食を取ったのは、通りに面した小さな食堂だった。

 

 入口の看板には、調理設備の試験運用中であることが書いてある。

 

 ただし、その下には大きく、

 

『食事の提供は通常通りです』

 

 とあった。

 

 ガラス越しに、機械の腕が見えた。

 

 浅い鍋を動かし、皿を並べ、決まった場所へ運んでいる。

 

 セイアは入口で少し立ち止まった。

 

 怖いわけではない。

 

 ただ、昼食を選ぶつもりで、少し別のものを見始めていた。

 

「いらっしゃいませ。お食事ですか?」

 

 店員の生徒が声をかける。

 

「そうだね。今のところは」

 

「見学だけでも大丈夫ですけど、ご飯も美味しいですよ」

 

 よくある反応なのかもしれない。

 

 セイアは頷き、注文端末の前へ立った。

 

 本日の定食。

 

 豚の生姜焼き。

 

 焼き野菜のカレー。

 

 麺料理もある。

 

 少し迷い、生姜焼きを選んだ。

 

 ご飯の量を尋ねられる。

 

 小盛り。

 

 普通。

 

 大盛り。

 

 ここは、普通でよい。

 

 注文を確定すると、番号が表示された。

 

 セイアは窓際へ座った。

 

 外を通る生徒の多くは、何かを持っていた。

 

 箱。

 

 部品の入った袋。

 

 薄い板。

 

 細い棒を束ねたもの。

 

 トリニティであれば、本や書類を持つ姿は珍しくない。

 

 ここでは、何に使うのか分からないものを持っている生徒が多かった。

 

 見ているだけで、いくつも質問が増えていく。

 

     ◇

 

 番号が呼ばれ、受け取り口へ向かう。

 

 盆の上には、生姜焼きの皿と、ご飯。

 

 細く切られたキャベツ。

 

 小さなポテトサラダ。

 

 湯気の立つスープもあった。

 

 運ぶところまでは、自分の仕事らしい。

 

 席へ戻り、箸を取る。

 

 肉の表面には、薄く照りがあった。

 

 一切れ持ち上げると、重なっていた玉葱が落ち、皿の上で柔らかくほどけた。

 

 口へ運ぶ。

 

 最初に甘い醤油だれ。

 

 そのあとから、生姜の香りが上がってくる。

 

 端の方には焼き目があり、噛むと少し香ばしい。

 

 ご飯を食べる。

 

 もう一度、肉へ。

 

 セイアは、ガラスの向こうを見た。

 

 機械の腕は、次の注文を作っている。

 

 さっきまで見ていた動きと、自分が今食べているものが、ようやく繋がった。

 

「……なるほど」

 

 箸を止めずに呟く。

 

 よくできている。

 

 けれど、それより先に、美味しかった。

 

 スープには、卵と細かく切られた野菜が入っていた。

 

 飲み込むと、身体が少し温まる。

 

 午前中、自分が思っていたより緊張していたのかもしれない。

 

 肉を一切れ、たれのついたキャベツと一緒に食べる。

 

 キャベツの歯触りが残り、甘い味が少し軽くなった。

 

 機械の精度について考えていたはずなのに、いつの間にか、ご飯をどのくらい残しておくべきかに関心が移っていた。

 

     ◇

 

 食事を終えた頃、店員が様子を見に来た。

 

「いかがでしたか?」

 

「美味しかったよ。ご飯を普通にして、よかった」

 

「よかったです。アンケートも任意でお願いしてるんですが」

 

 端末には、いくつかの項目が並んでいた。

 

 温度。

 

 量。

 

 味付け。

 

 自由記入欄。

 

 セイアは少し考えた。

 

「この料理は、いつも同じ味になるのかな」

 

「同じ味になるようにしています。でも、食材の状態もありますし、設定も少しずつ変えていて」

 

「設定を?」

 

「今日は玉葱の切り方と、加熱の順番を試しているんです。昨日の感想で、もっと柔らかい方がいいって意見があって」

 

 セイアは、空になった皿を見た。

 

 自分が食べた玉葱は、確かに柔らかかった。

 

 けれど、形は残っていた。

 

 機械が勝手に正解へ辿り着いたわけではない。

 

 昨日、食べた誰かがいて。

 

 それを聞いて、変えた誰かがいる。

 

 今、自分の前にあった皿も、その途中のものらしかった。

 

「……何を書こうか、少し迷うね」

 

「難しいことじゃなくて大丈夫ですよ。食べて思ったことを」

 

 セイアは入力欄へ指を置いた。

 

『肉と玉葱を一緒に食べた時の味が好きだった。』

 

 少し考え、もう一文。

 

『キャベツにたれをつけても美味しい。』

 

 送信する。

 

 店員はそれを見て、嬉しそうに笑った。

 

「ありがとうございます。担当にも伝えますね」

 

 セイアは盆を返した。

 

 自分の昼食が、明日の誰かの皿へ、ほんの少し関係するかもしれない。

 

 そういう店もあるらしかった。

 

     ◇

 

 食堂を出たところで、セイアは端末を確かめた。

 

 連絡は、まだ来ていない。

 

 それを確認したあと、画面をしまおうとして、もう一度見た。

 

 何も変わっていない。

 

「……二度見ても、進みはしないよ」

 

 自分へ言って、ポケットへ戻す。

 

 通りの先に、小さな店がいくつも並んでいた。

 

 大きな研究棟の足元に、部品を扱う店が集まっている。

 

 窓には、何に使うのか分からない形のものが並んでいた。

 

 セイアは、その一軒へ入った。

 

 店内には、浅い引き出しが壁一面にある。

 

 ねじ。

 

 端子。

 

 小さな歯車。

 

 柔らかい輪や、硬い輪。

 

 同じように見えるものに、違う数字の札がついていた。

 

 セイアが棚を眺めていると、店番のロボットが尋ねた。

 

「お探しのものは?」

 

「……それが、何を探せる店なのかを、まだ考えているところなんだ」

 

 ロボットは一拍置いた。

 

「では、どうぞごゆっくり」

 

 なかなか寛大な返事だった。

 

     ◇

 

 奥では、生徒が小さなねじを一本、台の上へ置いていた。

 

「これと同じの、ありますか」

 

 店番が寸法を確かめる。

 

 引き出しを一つ開け、似たものを取り出した。

 

 セイアには、ほとんど同じに見えた。

 

 けれど生徒は首を傾げ、店番も、もう一度測った。

 

「長さは同じですが、こちらは頭の形が違いますね」

 

「あ、それだと蓋に当たるんです」

 

「では、こちらを」

 

 別の引き出しが開く。

 

 今度は、生徒が頷いた。

 

「それです」

 

 たった一本のねじを、小さな袋へ入れてもらう。

 

 それを受け取った生徒は、来た時よりも少し急いで店を出ていった。

 

 待っている機械が、どこかにあるのかもしれない。

 

 セイアは、棚へ視線を戻した。

 

 似たものが多いのではない。

 

 違う場所で必要になるものが、それだけあるのだ。

 

 整備棟で見せられた金具を思い出す。

 

 自分が知らなかった、小さな部分。

 

 それが一つ傷んだだけで、あの大きな車も、いつもの音ではなくなった。

 

 セイアは何も買わなかった。

 

 けれど、店を出る時には、入る前より少しだけ、引き出しの数が必要に思えた。

 

     ◇

 

「……セイアさん?」

 

 通りへ出たところで、聞き覚えのある声がした。

 

 顔を上げると、ユウカが立っていた。

 

 隣にはノアもいる。

 

 二人とも、買い物帰りというよりは、用事の途中らしかった。

 

「こんにちは」

 

「こんにちは。今日は、何かこちらでご予定が?」

 

「車の修理を待っているんだ」

 

 ユウカの表情が変わった。

 

「故障ですか? お怪我は?」

 

「ないよ。小さな異音がしたので、見てもらっている」

 

「そうでしたか……。どちらに?」

 

「エンジニア部に」

 

 ユウカは、もう一度表情を変えた。

 

 ノアが、その横顔を見て微笑む。

 

「ユウカちゃん」

 

「何も言ってないわよ」

 

「言う前のお顔でしたので」

 

 セイアは二人を見比べた。

 

「……何か、聞いておいた方がよいことがあるかな」

 

 ユウカは少し姿勢を正した。

 

「修理の腕は、確かです」

 

「その点は、心配していないよ」

 

「ええ。私もです。ただ、頼んでいない機能まで増えていないかは、確認してください」

 

「機能」

 

 セイアは、白い車を思い浮かべた。

 

「走る以外に、何をさせるつもりなんだろう」

 

 ノアが、少し考えるように首を傾ける。

 

「走る場所を増やす、という方向もありますね」

 

「……水の上、など?」

 

「空も含めるかもしれません」

 

 セイアは、すぐには返事をしなかった。

 

 ユウカがノアを見る。

 

「不安にさせないの」

 

「可能性のお話です」

 

「それが問題なのよ」

 

     ◇

 

 近くの飲み物の店で、三人は少し休むことになった。

 

 ユウカたちの用事までは、まだ少し間があるという。

 

 セイアは紅茶。

 

 ユウカはコーヒー。

 

 ノアは、温かい飲み物と小さな焼き菓子を選んだ。

 

 席につくと、ユウカはあらためて修理の話を聞いた。

 

 見積もりは出ているか。

 

 作業内容は確認したか。

 

 追加の変更には、連絡をもらうことになっているか。

 

 セイアが答えるたび、彼女は少しずつ安心した顔になった。

 

「それなら、大丈夫そうですね」

 

「君は、車ではなく依頼の方を点検しているようだ」

 

「後から認識が違っていた、となると困りますから」

 

 ノアがカップを持ち上げる。

 

「修理前の確認は、大切ですからね」

 

「車と同じだね」

 

 セイアも紅茶を飲んだ。

 

 香りは柔らかく、飲み込んだあとに軽い渋みが残った。

 

 窓の向こうには、大きな道路と、その上を渡る歩行者通路がある。

 

 道路側からは分からなかった店の入口が、二階にも並んでいた。

 

 今日は、車から降りたおかげで、見える高さが増えている。

 

「せっかくのお休みだったのに、予定が変わってしまいましたね」

 

 ユウカが言う。

 

「そうだね。……最初は、少し落ち着かなかった」

 

 セイアはカップを置いた。

 

「自分で停まるのと、停まらなければならないのとは、違うものらしい」

 

 ユウカは頷いた。

 

 ノアも、すぐには何かを言わなかった。

 

 その沈黙がありがたかった。

 

 楽しい寄り道になったからよい、と、すぐに片づけられたくはなかったのかもしれない。

 

「ただ、昼食は美味しかったよ」

 

 セイアが続けると、ユウカが少し笑った。

 

「それは、よかったです」

 

     ◇

 

 修理の進捗が届いたのは、紅茶を半分ほど飲んだところだった。

 

 固定部分の作業は終わった。

 

 これから組み戻して、温まった状態で確認する。

 

 もう少し、街を見ていて構わない。

 

 その下に写真が一枚あった。

 

 新しく整えられた金具。

 

 その横に、寸法を記した紙。

 

 さらに、その端へ、小さな字で何かが書かれている。

 

『追加機能なし』

 

 セイアは、思わず笑った。

 

「どうかしましたか?」

 

 ユウカへ画面を見せる。

 

 彼女は写真を見てから、短く息をついた。

 

「……それを最初から書くくらいなら」

 

「自覚はある、ということだね」

 

 ノアが楽しそうに目を細めた。

 

 セイアは返信した。

 

『了解したよ。私の方も、今は異常なしだ』

 

 送ってから、少し考える。

 

 車ではないのだから、その報告はいらなかったかもしれない。

 

 けれど、ウタハからはすぐ、

 

『昼食を取れたなら、よかった』

 

 と返ってきた。

 

     ◇

 

 二人と別れたあと、セイアは通路を少し遠回りした。

 

 車を預けている場所は、分かっている。

 

 戻る時刻の目安も、分かっている。

 

 それだけで、歩く範囲を広げる気持ちになれた。

 

 小さな広場には、いくつかの試作品が展示されていた。

 

 日陰の長さに合わせて向きを変える庇。

 

 空になった容器を受け取る回収装置。

 

 荷物を持った生徒の後ろへ、一定の距離を保ってついていく小さな台車。

 

 台車の持ち主が急に振り返ると、台車もぴたりと停まった。

 

 生徒はそれを見て頷き、端末へ何かを記録する。

 

 その足元には、紙袋が二つ置かれていた。

 

 どうやら、全部を台車に任せているわけではないらしい。

 

 セイアはしばらく眺めた。

 

 試して。

 

 確かめて。

 

 直して。

 

 また使ってみる。

 

 完成したものばかりが並ぶ街ではなかった。

 

 使えるようになってからも、誰かがずっと手を入れている。

 

 そのことが、午前中に見た整備棟と、少しずつ重なった。

 

     ◇

 

 帰り道、セイアは小さな焼き菓子の店へ寄った。

 

 今度は、自分のためだけではない。

 

 整備棟で働いている三人の顔が浮かんだからだ。

 

 店の棚には、細長いパイと、木の実の入った菓子。

 

 丸いクッキーには、歯車のような模様がついている。

 

 セイアは、そのクッキーを見て少し笑った。

 

「こちらは、噛み合うのかな」

 

 店員の生徒が、何を尋ねられたのか一瞬考えた。

 

 それから、同じ形のものを二枚並べてみる。

 

 歯の部分が、少しだけ重なった。

 

「……きれいには、回らないですね」

 

「それなら安心したよ。食べずに組み立て始められては困るので」

 

 店員が笑った。

 

 セイアはクッキーを一箱と、甘くない小さなパイを選んだ。

 

 甘いものばかりでは、好みが分かれるかもしれない。

 

 袋を受け取ると、端末が短く鳴った。

 

『一通りの確認が済んだ。戻ってきたら、一緒に試運転をしよう』

 

 セイアは、その文字を二度読まなかった。

 

 すぐに、来た道を戻り始めた。

 

     ◇

 

 整備棟の入口へ着くと、白い車は床へ戻っていた。

 

 ボンネットは閉じられている。

 

 保護布も外されていた。

 

 午前中と同じ車なのに、その姿を見ただけで、少しほっとした。

 

 ヒビキが顔を上げる。

 

「……お帰り」

 

「ただいま。待たせたかな」

 

「今、終わったところ」

 

 セイアは紙袋を持ち上げた。

 

「差し入れだよ」

 

 コトリがすぐに近づいてきた。

 

「ありがとうございます! あ、歯車の形ですね。実際に噛み合わせるなら歯の形状が重要で、見た目が似ていても――」

 

「噛み合わないことは、店で確認してきたよ」

 

「確認されたんですか!?」

 

「君たちなら、気にするかもしれないと思ってね」

 

 ウタハが笑った。

 

 ヒビキも、箱の中を見て少し口元を緩めた。

 

「……食べる方にしよう」

 

 工具のある机とは別の、小さな休憩用の机へ袋が置かれる。

 

 三人は手を洗って戻ってきた。

 

 作業用の手袋がなくなると、さっきまで車に向いていた手が、紙コップを持つ手になった。

 

     ◇

 

 休憩の前に、修理したところを説明してもらった。

 

 傷んでいた固定部分。

 

 その周辺の確認。

 

 交換した消耗品。

 

 作業前と作業後の写真が、順番に並んでいる。

 

 コトリの説明は、最初こそ少し速かった。

 

 けれど、セイアが途中で、

 

「そこは、どうして隙間が必要なんだい」

 

 と尋ねると、一度言葉を止め、別の図を開いた。

 

「熱で変化する分と、振動する分を考えないといけないんです。全部をただ硬く固定すればよい、というわけではなくて」

 

「動かない方がよいところと、少し動けた方がよいところがある、と」

 

「そうです!」

 

 コトリの顔が明るくなる。

 

 セイアも、写真を見る。

 

 ただ元の位置へ戻しただけに見えていたものの中に、考えた跡があった。

 

 ヒビキが、取り外した小さな金具を示した。

 

「……こっちが、傷んでいた方」

 

 袋越しに見ると、小さな割れがあった。

 

 午前中に聞こえた音と、この細い線が、繋がっている。

 

「こんなに小さかったのか」

 

「小さくても、鳴る時は鳴る」

 

 ヒビキは静かに答えた。

 

「気づいてもらえて、よかったと思う」

 

 セイアは顔を上げた。

 

 ヒビキは車を見ていた。

 

 それが誰にとってよかったのかを、細かく尋ねる気にはならなかった。

 

     ◇

 

 試運転には、ウタハが同乗することになった。

 

 ヒビキとコトリは、整備棟で記録をまとめて待っている。

 

 セイアが運転席のドアを開くと、座席は、朝と同じ位置にあった。

 

 腰を下ろす。

 

 背中を落ち着かせる。

 

 足を伸ばせば、いつものところにペダルがある。

 

 細いシフトレバーも、そのままだ。

 

 それだけのことが、妙に嬉しかった。

 

 ウタハが助手席へ座り、ベルトを締めた。

 

「まずは構内をゆっくり。それで問題がなければ、近くを一周しよう」

 

「了解したよ」

 

 セイアもベルトを締める。

 

 レバーがニュートラルであることを確かめ、クラッチを踏んでキーを回した。

 

 始動音。

 

 そのあと、低い響きが車内へ満ちた。

 

 セイアは何も言わず、しばらく聞いた。

 

 朝と同じ音だった。

 

 少なくとも、今のところは。

 

「では、行こうか」

 

 一速へ入れる。

 

 右足で少しだけ回転を支えながら、左足を戻していく。

 

 駆動がつながるところで、車が静かに前へ出た。

 

     ◇

 

 構内を低速でひと回りし、問題がないことを確かめてから外の道へ出た。

 

 午後の交通は、朝より少し落ち着いていた。

 

 セイアは二速へ入れ、車の動きが馴染むのを待ってから、もう一段上げる。

 

 音の高さが下がった。

 

 左手をハンドルへ戻す。

 

 助手席のウタハは、固定した測定器の表示と、道路の様子を交互に見ていた。

 

「次を曲がると、緩い上りになる」

 

「ああ」

 

 交差点の手前で速度を落とす。

 

 必要なギアを選び、曲がり終えてから少しアクセルを足す。

 

 車は、坂へ向かって滑らかに伸びた。

 

 セイアは耳を澄ませた。

 

 低いエンジン音。

 

 タイヤが路面を転がる音。

 

 窓の外の風。

 

 あの薄い金属音は、しなかった。

 

 少し先でアクセルを戻し、流れに合わせてまた踏み足す。

 

 車が、同じように応える。

 

「……どうかな」

 

 ウタハが尋ねた。

 

 セイアは前を見たまま答えた。

 

「いつも通りだ」

 

 少し間を置いて、付け加える。

 

「変わっていないね」

 

「よかった」

 

 ウタハの声が、わずかに柔らかくなった。

 

「今日は、それを聞きたかった」

 

     ◇

 

 坂を上り切ると、道は建物の外側へ回り込んだ。

 

 街が少し低く見える。

 

 ガラスの壁に、午後の光が長く映っていた。

 

 セイアはギアを上げ、一定の速さで走った。

 

 車には、まだ余裕がある。

 

 踏めば、もっと応えるだろう。

 

 そのことを知っているのと、今それをすることは、別だった。

 

 助手席には、確かめるために乗っている人がいる。

 

 今日はその人と、自分の好きな音を聞いていたかった。

 

「運転は、ずっと自分で?」

 

 ウタハが尋ねた。

 

「こうして出かける時はね」

 

「自動化したいとは思わない?」

 

 セイアは少し笑った。

 

「疲れた時には、思うかもしれない」

 

「なるほど」

 

「ただ、今はこれが楽しいんだ。道に合わせてギアを選んで、車の返事を聞く。毎回、全く同じではないのでね」

 

 ウタハは頷いた。

 

「なら、そこは直すところじゃない」

 

 短い言葉だった。

 

 セイアは、ハンドルを持つ指へ少し力を込めた。

 

 次の信号が見える。

 

 アクセルを戻し、早めに減速する。

 

 停まってからニュートラルへ戻し、左足を休めた。

 

 低い振動が、座席に残っている。

 

 それまで取り去られたわけではない。

 

 好きだったものは、そのままそこにあった。

 

     ◇

 

「正直に言えば、いじってみたいところはある」

 

 信号待ちの間に、ウタハが言った。

 

「だろうね」

 

「何だ。その返事は」

 

「ユウカとノアに会ったのでね」

 

 ウタハは一度、目を閉じた。

 

「……何を聞いた?」

 

「走る場所が増えるかもしれない、と」

 

「なるほど。そこまでしか聞いていないのか」

 

 セイアが顔を向ける。

 

 ウタハは、少しだけ笑っていた。

 

「冗談だよ」

 

「半分くらいは?」

 

「今回は、全部ということにしておこう」

 

 信号が変わる。

 

 セイアはクラッチを踏み、一速へ入れた。

 

 発進してから、しばらく黙って走る。

 

 整備棟へ戻る道へ入ったところで、ウタハが続けた。

 

「新しく作るのも好きだ。しかし、気に入って使われているものを、また使えるようにするのも悪くない」

 

「君の考えた機能が増えなくても?」

 

「ああ。使う人の好きなところまで、こちらが決める必要はないだろう」

 

 セイアは頷いた。

 

「……それは、よい修理屋の答えだね」

 

「発明家でもあるつもりなんだが」

 

「両方、ということにしておこう」

 

 今度はウタハが笑った。

 

     ◇

 

 整備棟へ戻ると、ヒビキが待っていた。

 

 車を停め、エンジンを切る。

 

 セイアが降りる前に、彼女が窓の外から尋ねた。

 

「音は?」

 

「聞こえなかったよ」

 

 ヒビキは頷いた。

 

 コトリも近づき、記録を確認する。

 

 温まった状態での点検と、最後の確認が終わるまで、セイアはもう一度、休憩用の机へ座った。

 

 今度は、本を開かなかった。

 

 車を見ていたかった。

 

 午前中も同じことをしていた。

 

 けれど、その時より、呼吸がずっと楽だった。

 

 ヒビキが使い終えた工具を数え、元の場所へ戻す。

 

 コトリが記録へ書き込み、ウタハが作業票へ目を通す。

 

 直った、と言うまでに、まだすることがある。

 

 セイアは、冷めかけたお茶を飲んだ。

 

 それから、残っていたクッキーを一枚取った。

 

 歯車の形は、ひと口かじると、簡単に崩れた。

 

     ◇

 

 最後に、修理の記録と請求書を受け取った。

 

 内容を確かめ、支払いを済ませる。

 

 ウタハが鍵を差し出した。

 

 小さな札がついたままだった。

 

「次にいつもの整備先へ行く時、この記録も見せておくといい」

 

「そうしよう」

 

「同じような音が戻る、あるいは別の変化があれば、無理せず連絡してほしい」

 

「ああ」

 

 鍵を受け取る。

 

 指先に、いつもの重さが戻った。

 

 セイアはそれを握ったまま、三人を見た。

 

「今日は、本当に助かったよ」

 

「直ってよかった」

 

 ヒビキが答える。

 

 コトリは、少し遠慮がちに口を開いた。

 

「あの、今日の説明なんですが。資料もお渡しできますけど……必要でしょうか?」

 

「ぜひ、お願いするよ」

 

「いいんですか?」

 

「自分の車について、知らないところが随分あると分かったのでね」

 

 コトリの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「では、まず分かりやすいものをまとめます! 今回の振動の話から入って、固定方法と材料の違い、それから熱による――」

 

「コトリ」

 

 ウタハが呼ぶ。

 

「今日中に帰れる量にしてあげよう」

 

「……まず、目次から送りますね」

 

「慎重な始め方だね」

 

 セイアは笑った。

 

     ◇

 

 帰ろうとしたところで、ウタハが薄い紙をもう一枚差し出した。

 

「こちらは、修理とは別だ」

 

 セイアは受け取った。

 

 表題を見る。

 

『快適性向上に関する検討案』

 

 その下には、いくつかの図と、細かな文字が並んでいた。

 

 セイアは黙って顔を上げる。

 

 ウタハも黙っている。

 

 ヒビキは、少し目を逸らした。

 

 コトリは、説明したそうにしていた。

 

「……何も変えていないんだろうね」

 

「もちろん」

 

「これは?」

 

「考えるところまでは、依頼に含まれていなかったから」

 

「含まれていないことを、したわけだ」

 

「車には、していない」

 

 セイアは紙を見た。

 

 最初の案は、荷物を傷つけずに固定するための小さな工夫だった。

 

 その次も、まだ理解できる範囲にあった。

 

 三つ目から先は、少し様子が違った。

 

 セイアは続きを読まず、丁寧に畳んだ。

 

「持ち帰って、検討するよ」

 

 ウタハが頷く。

 

「それで十分だ」

 

「採用するとは言っていないが」

 

「知っている」

 

 今度の返事は、少し楽しそうだった。

 

     ◇

 

 外へ出ると、街の灯りがつき始めていた。

 

 まだ空は明るい。

 

 けれど建物の下の方では、看板の光が分かるようになっている。

 

 セイアは車へ荷物をしまった。

 

 鞄には、持ってきた本。

 

 昼食の店でもらった小さなカード。

 

 修理の記録。

 

 そして、少し危険そうな検討案。

 

 食べ物のお土産は、今回はあまりない。

 

 代わりに、読んでもらうものが増えた。

 

 端末を開き、ナギサへ連絡する。

 

『修理と確認が終わった。これから帰るよ』

 

 ミカへも、短く送る。

 

『車は元通りだ』

 

 ほどなく、返事が来た。

 

『空とか飛べるようになってない?』

 

 セイアは画面を見つめた。

 

 どうして、そこへ辿り着いたのだろう。

 

 誰かから何かを聞いたのかもしれない。

 

 それとも、ミレニアムと修理という言葉だけで、同じ想像をするものなのか。

 

『地面を走って帰る予定だよ』

 

 そう返して、端末をしまった。

 

     ◇

 

 乗り込む前に、セイアは整備棟を振り返った。

 

 ウタハが入口に立っていた。

 

 ヒビキは、その少し後ろ。

 

 コトリは、まだ資料を何か確認している。

 

 セイアが手を上げると、三人もそれぞれの仕方で返してくれた。

 

 運転席へ座る。

 

 ベルトを締める。

 

 クラッチを踏み、キーを回す。

 

 低い音が、戻ってくる。

 

 セイアは耳を澄ませた。

 

 あの金属音は、ない。

 

 それ以外は、よく知っている。

 

 ハンドルへ伝わる小さな振動も。

 

 座席の位置も。

 

 左足で確かめる、クラッチの重さも。

 

 セイアは一速へ入れた。

 

 車が、静かに前へ出る。

 

 入口を抜ける時、ウタハが声をかけた。

 

「今度は、修理の用事がなくても寄ってくれていい」

 

 セイアは少しだけ窓を下ろした。

 

「その時は、お茶を飲む時間を先に確保しておいてほしいね」

 

「善処しよう」

 

「ずいぶん不確かな返事だ」

 

 ウタハが笑う。

 

 セイアも笑って、窓を戻した。

 

     ◇

 

 帰りの道は、朝には通るつもりのなかった道だった。

 

 けれど、途中から見覚えのある景色が増えた。

 

 昼食を取った店。

 

 部品の並ぶ小さな店。

 

 上を渡る歩行者通路。

 

 荷物を運ぶロボットが停まった交差点。

 

 車から眺めると、歩いていた時より、どれも短い時間で過ぎていく。

 

 その短さの中に、今日の時間が収まっていた。

 

 朝には、ミレニアムを抜けて、その先へ行くつもりだった。

 

 実際に走った距離は、それほど長くない。

 

 待っていた時間の方が、多かったかもしれない。

 

 けれど、通り過ぎただけなら、この店も、この入口も、三人が手を拭いてから菓子を取る様子も、知らなかっただろう。

 

 セイアは前を見た。

 

 大きな道へ出る。

 

 速度が落ち着いたところで、クラッチを踏み、ギアを一段上げる。

 

 エンジンの響きが、すっと低くなった。

 

 その音を、今日は自分以外にも、よく聞いてくれた人たちがいる。

 

 セイアは左手をハンドルへ戻した。

 

 白い車は、いつもの調子で、夕方の道を走っていった。

 

     ◇

 

 車庫へ戻ると、セイアはいつもより少し丁寧に停車した。

 

 駐車ブレーキを掛ける。

 

 エンジンを止める。

 

 静かになった車内で、今日受け取った記録をもう一度開いた。

 

 点検した箇所。

 

 修理した内容。

 

 確認した項目。

 

 作業した三人の名前。

 

 その下に、依頼者が確認したことを記す欄があった。

 

 整備棟で書いた、自分の名前がある。

 

 その隣へ、セイアは小さく一行、書き足した。

 

『帰宅まで、異常なし。』

 

 端末でも同じ内容を送り、記録を鞄へしまう。

 

 すぐに、ウタハから返事が来た。

 

『確認した。よい報告をありがとう。』

 

 続けて、もう一件。

 

『コトリからの資料は、分けて送ることにした。』

 

 セイアは、少しだけ嫌な予感がした。

 

 程なく届いた最初の資料には、

 

『第一章』

 

 と書かれていた。

 

「……本の続きが、増えてしまったね」

 

 ひとりで呟き、笑う。

 

 車を降りる。

 

 白いボンネットへ車庫の灯りが落ちていた。

 

 見た目は、朝とほとんど変わらない。

 

 けれど、その内側には、今日、誰かが直してくれた場所がある。

 

 セイアはドアを閉めた。

 

 よく知っている音がした。

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