太平洋の夢 第一巻 樺太の種   作:水野 純也

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 一九三三年三月二十七日、日本は国際連盟脱退を宣言した。
 その決定が太平洋を戦場に変えた。
 八年後、真珠湾。十二年後、広島・長崎。
 だが——鞄の中に、別の提案があったとしたら。
 これは、選ばれなかった歴史の物語である。


プロローグ

プロローグ 一八八一年(明治十四年)、東京

 

 

 その王は、自分の王国が地図から消えかけていることを知っていた。

 だから、海を渡ってきた。

 一八八一年三月、史上初めて日本の土を踏んだ外国の国家元首は、亡びかけた国の王だった。

 王は、まず海の話をした。謁見の席でも、晩餐会でも、翌日の伊藤との会談でも、最初に口を開くとき、いつも同じ場所から始めた。

 太平洋。

 ハワイ王国の国王カラカウアが東京を訪れたのは、明治十四年の春のことだった。世界を一周する旅の、最初の訪問国だった。王は小柄だった。しかし部屋に入ると、その場所が少し違う場所になった。

 明治天皇との謁見の後、宮中晩餐会が開かれた。シャンパンが出た。フランス料理が出た。王は箸を上手に使い、それを見た侍女たちが小声で笑った。

 翌日、王は伊藤博文と会った。場所は赤坂の仮応接所だった。通訳が二人いたが、会話の大半は英語で進んだ。伊藤の英語は流暢ではなかった。しかし王の話の要点は取れた。

「日本とハワイは、同じ海に生きる民族です」と王は言った。「アジアとポリネシアの血が混ざるとき、太平洋は安定する。混ざらないとき、太平洋は誰かに支配される」

 誰か、とは西洋列強のことだった。特にアメリカのことだった。王は名指しをしなかった。名指しをする必要が、もうないところまで来ていた。

 世界の海は、急速に列強のものになりつつあった。イギリスはインドを取り、フランスはインドシナに手を伸ばし、オランダは香料の島々を三百年握り続けている。太平洋に残された空白は、数えるほどもなかった。ハワイはその最後の一つだった。アメリカ人の農園主が土地を買い占め、砂糖の利権を握り、ホノルルの政治を内側から動かし始めている。王国は、外からではなく、内側から食われていた。

「皇族との縁組を提案したい」と王は続けた。「それから、アジアの連盟も。日本を盟主として」

 伊藤は王の話を聞きながら、考えていた。

 縁組は難しい。皇室の問題は政治より複雑だ。アジア連盟も、今の日本には早すぎる。条約改正さえまだ終わっていない。列強との関係が固まっていない段階で、新しい同盟を作ることの危険。

 しかし——と伊藤は思った。この王の目には、本物の危機感がある。

 その危機感は、日本が西洋列強に対して感じているものと、構造が同じだった。規模が違うだけだ。そして規模の差は、時間の差でしかないのかもしれなかった。

「すぐには答えられない」と伊藤は言った。「しかし、検討する価値はある」

 王は頷いた。

「それで十分です」と王は言った。「私はすぐに答えが欲しいわけではない。ただ、考え始めてほしいのです。次の世代が、動けるように」

 その夜、伊藤は一人で草案を書いた。

 縁組と連盟は保留。しかし、友好の枠組みは作れる。移民の往来、漁業の協定、教育の交流。条約未満の、しかし条約より実質的な何か。それを積み重ねれば、五十年後、百年後に、正式な枠組みに育てられるかもしれない。

 伊藤はその考えを「日布親善協定」と名付けた。

 翌朝、書き上がった草案を読んだ王は、笑った。

「これで十分です。十分すぎるくらいだ」

 その年の秋、日布親善協定が調印された。移民の往来、漁業の協定、教育の交流。それだけだった。連邦でも同盟でもなかった。しかし、何もないよりはるかに多かった。

 十年後、最初の移民船が横浜を出た。船簿の名前の多くは、広島や山口の村を出た小作の息子たちだった。三年の契約で海を渡った男たちは、砂糖の畑で石を拾い、水を引き、そのまま帰らなかった。土は、契約より強かった。

 伊藤は後年、この協定についてほとんど語らなかった。語るべき劇的なことが、何もなかったからだ。劇的でないことが、この協定の本質だった。

 五十二年が経つ。

 種を蒔いた男は、ハルビンの駅頭で暗殺されて、もういない。海の話をした王も、旅先のサンフランシスコで死んだ。二人とも、種の行方を見ていない。

 しかし種は、土の中に残っていた。

 そして王国は——まだ、地図から消えていなかった。

 




「太平洋の夢」のNoteを始めました。

小説の裏側——史実調査の記録、執筆の経緯、歴史の「if」への問いを書いていきます。
https://note.com/hal_miz
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