第九章 リットンの影
東京・上海 一九三一年(昭和六年)秋〜一九三二年(昭和七年)五月
世界が日本を見る目が変わるのに、六週間かかった。
満洲事変の報せがジュネーブに届いた最初の週、国際連盟の廊下の反応は、意外なほど静かだった。静けさの理由は同情ではなかった。各国が状況を測っていた。日本が、どこまでやるつもりか。
六週間後、関東軍は奉天から錦州へ向かった。
その時点で、静けさが終わった。
十一月、黒瀬は東京に呼ばれた。外務省の会議室は煙草の煙で白く、十人ほどの官僚が座っていた。黒瀬は末席だった。
三十分、話した。
連盟は調査団を派遣する。報告が出るまでに半年から一年かかる。その間、直接的な制裁はない。しかし報告が出た後——日本は連盟内で完全に孤立する可能性がある。
「軍部はそれを分かっているのか」と誰かが言った。
黒瀬は答えなかった。答えられなかったのではない。答えが会議室の空気を変えることを知っていたから、答えなかった。
外務省の会議室と、陸軍省の会議室は、霞が関の中で百メートルも離れていない。しかし二つの建物の間には、目に見えない断層がある。
外務省は言葉で動く。公電、条約、交渉の議事録。言葉が現実を作ると信じている省庁だ。陸軍省は力で動く。兵力、兵器、補給線。力が現実を作ると信じている省庁だ。
その二つが、一つの国家の中で同時に動いていた。問題は、力が言葉より速い、ということだった。
関東軍が満洲で行動を起こした。外務省は公電を打った。陸軍省は無視した。内閣は追認した。議会は沈黙した。新聞は「皇軍の勝利」を書いた。民衆は万歳を叫んだ。
そのひとつひとつの出来事が、次の出来事を可能にした。力は既成事実を作り、既成事実は新たな力を生んだ。
外務省には、その連鎖を断ち切る手段がなかった。あるとすれば、ひとつだけだった。
連鎖より速く、別の現実を作ること。
黒瀬はそれを、会議室の末席に座りながら考えていた。
会議が終わった後、廊下で条約局の先輩に声をかけられた。五十代の、温厚な男だった。三月の未遂の件を教えてくれた、あの先輩だった。
「黒瀬君」と先輩は言った。小声で。「あまり目立つ発言はしない方がいい」
「なぜですか」
「軍部が外務省の動きを監視している。特に連盟問題で軍部と違う意見を持つ職員を、リスト化していると聞いた」
黒瀬は先輩を見た。
「リストですか」
「噂だ。しかし噂には根拠がある」先輩は少し間を置いた。「君は上海でユダヤ人と会っていると聞いた。それも記録されている可能性がある」
不正確な情報だが、無視はできなかった。
「情報収集の一環です」
「そういう説明が通じる時代ではなくなってきている」
先輩は廊下の向こうを見た。誰もいなかった。
「気をつけなさい」
それだけ言って、先輩は歩き去った。
黒瀬は廊下に一人で立った。
リスト。軍部が外務省官僚をリスト化している。つまり外務省の内部に、軍部の目がある。外務省は統一した意思を持つ機関ではなく、軍部寄りの人間と、そうでない人間が混在する場所になっていた。
外から押されるだけでなく、内から崩れていた。
黒瀬が松岡洋右に賭けているのは、そのためだった。
松岡は外務省寄りの政治家だが、軍部を恐れていない数少ない一人だった。アメリカ育ちのプライドと、異常なほどの自己確信が、軍部の圧力を跳ね返す防壁になっていた。問題は、そのプライドが時に判断を歪める、ということだった。
その歪みを、別の方向に向けなければならない。
黒瀬はその問題を抱えたまま、上海に戻った。
*
上海の空気が変わっていた。
日本人租界の周辺に、中国人の若者が増えた。排日運動だった。不買の紙は、秋の間に倍になっていた。
黒瀬は租界の中国人コックに聞いた。コックは流暢な日本語を話した。十年間、日本人の家で働いていた男だった。
「日本は悪いことをしていますか」とコックは言った。
「難しい問いです」
「難しくありません」とコックは言った。「人の土地を取れば、悪いことです。どこの国でも」
コックの言葉は、どの言語に変換しても意味が変わらなかった。モルヒネは必要ない。言語を変えても真実は変わらない。それが真実の定義だと黒瀬は思った。
*
一九三二年一月、上海事変が起きた。
日本海軍の陸戦隊と中国軍が、閘北で交戦を始めた。砲声が聞こえた。英米の権益が集中する都市で、日本軍が戦闘を始めた。これは、局地的な問題ではなくなった。
翌朝、領事館の廊下で英国総領事と顔が合った。総領事は黒瀬を見て、口を開かなかった。その無言が、長い演説より多くを語っていた。
二月、閘北の北の廟行鎮で、三人の陸軍工兵が爆薬筒を抱えて鉄条網に突っ込み、死んだ。
稚拙な作戦計画と機材・技術の不足が招いた犠牲だった。しかし陸軍はこれを覚悟の自爆として発表し、三人を「軍神」として大々的に顕彰した。東京の紙面の上は、爆弾三勇士。肉弾三勇士。新聞二社が競って歌の歌詞を懸賞で募り、応募は十万を超えた。レコードが出て、映画が六本作られ、銅像の寄付が集まった。三人の母親のもとへ、新聞社が香典を運んだ。香典の額も、紙面に載った。
黒瀬は東京から送られてくる新聞の束をめくりながら、砲声の続く方角を聞いていた。
死は、ここでは煙と瓦礫の匂いがした。八百キロ東では、歌の節がついていた。
戦争を娯楽として売る技術を、新聞は恐慌の中で見つけたのだった。
同じ二月から三月にかけて、東京では前の大蔵大臣と、財閥の総帥が、続けて撃ち殺された。撃ったのは二十歳前後の若者たちで、一人一殺、と唱える結社に属していた。金解禁を断行した井上準之助と、三井の団琢磨。金の窓を開けた男と、金で立つ男。恐慌の恨みには、狙いやすい顔が必要だった。
その夜、黒瀬は手帳を開いて、日付を書き並べてみた。
浜口首相が撃たれた日。三月事件。柳条湖。十月事件。上海の砲声。廟行鎮。井上。団。
並べてから、間隔を測った。狭くなっていた。半年が三ヶ月になり、三ヶ月が一ヶ月になり、井上と団の間は、三週間と四日だった。
その横に、こちら側の日付を並べようとして、手が止まった。
書けるものが、少なかった。幣原外交が倒れた日。不拡大方針が無視された日。意見書を書いた日——読まれたかどうかは、分からない。こちらの欄は、間隔が開いていく一方だった。
撃つ側は、一晩で次の的を決める。こちらは、一枚の覚書に十日かける。速度が違うのではない。時間の種類が違うのだった。向こうの時間は引き金の時間で、こちらの時間は紙の時間だ。紙の時間で走っている限り、追いつく日は、計算の上に存在しなかった。
黒瀬は手帳を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
白い頁が、まだ残っている。それだけを確かめて、今度こそ閉じた。
*
三月、リットン卿が上海に着いた。
国際連盟調査団。団長は英国のリットン卿。ベンガルで知事を務めた男だ。委員は四人——ドイツのシュネー、フランスのクローデル、アメリカのマッコイ、イタリアのアルドロヴァンディ。いずれも、アフリカかアジアかフィリピンで、植民地の統治を歩いてきた男たちだった。
名簿を見たとき、黒瀬は手を止めた。
植民地の帝国が、一人ずつ代表を出している。満洲を調べに来たのは、世界の植民地行政の、生き字引の一団だった。
ある夕食会の後、黒瀬は葉巻の煙の中でその一団の端に座った。若い書記官は、置物として扱われる。置物の耳は、警戒されない。
シュネーが、ブランデーのグラスを回しながら言った。ドイツ語だった。
「日本が満洲でやっていることは、我々がアフリカでやったことと、本質は変わらんよ。鉄道を引き、兵を置き、現地の政権を立てる。手順まで同じだ」
「では何が問題なのです」とアルドロヴァンディが英語で聞いた。半分は座興の口調だった。
「時期だよ」とシュネーは言った。「我々がやった頃には、まだ規約がなかった。今はある。それだけの違いだ。しかしその違いが、すべてだ」
クローデルは何も言わず、葉巻の灰を落とした。マッコイは窓の外を見ていた。誰も、シュネーの言葉に反対しなかった。
黒瀬は置物のまま、頭の中で書き取った。
連盟が裁くのは、規約の違反だ。クラブの会則を破った会員だ。
列強がやってきた手順を、規約の後に来た国が真似ることは許されない。同じことをしても、時期が違えば罪になる。列強の植民地政策の真似事は、極東の日本には許されていない。ならば、その先を進むしかない。
会則の内側で、クラブの誰もやったことのないことをやれば、どうなる。
問いはそこで止まった。答えの形は、まだなかった。しかし問いは、根を張る場所を見つけた。樺太という言葉の、すぐ隣だった。
別の夜、リットンと二人でブランデーを飲んだ。
「あなたはどう思いますか。率直に」とリットンはフランス語で言った。
「日本は間違った方向に向かっています。しかしその間違いを正す機会は、まだあると思っています」
「機会とは何ですか」
「日本が連盟に対して、何かを提示することです。日本が孤立を望んでいないという証拠を」
「何を提示できますか」
黒瀬は答えなかった。まだ答える段階ではなかった。
「それを考えるのが、私の仕事です」と黒瀬は言った。
リットンは少し笑った。
「好きな答えだ」と彼は言った。「しかし時間がない。あなたの国は、時間が残り少ない」
リットンのブランデーの飲み方は、急いでいなかった。しかし目が急いでいた。黒瀬はその目の速さを、後から何度も思い出した。
*
五月十五日、午後五時半。
海軍の青年将校たちが、首相官邸に乱入した。
犬養毅首相は、応接室に一人で出て行った。将校の一人が拳銃を向けた。
犬養は「まあ話を聞け」と言った。
将校は撃った。
犬養は廊下に倒れ、数時間後に死んだ。七十七歳だった。最後の政党内閣が終わった。
黒瀬はその報せを、上海で公電として読んだ。「話を聞け」という最後の言葉は書かれていなかった。しかしその言葉だけ、鮮明に覚えている。
まあ話を聞け。
政治家の言葉だ。軍人には通じない言葉だ。
二年前の夏、神田の講堂で立花が言った言葉を思い出した。刀を最初に抜いたのは犬養さんですよ。統帥権という刀を研いだ老人が、問答無用の銃口の前に立って、話を聞け、と言った。刀は議会に残る。誰の手に渡るかを、刀は選ばない——あの夜、手帳に書いた通りのことが、最悪の形で起きた。
*
報せは、宮中にも届いた。
三十一歳の天皇は、白い髭の小さな老人の顔を思い浮かべた。上奏の席で、あの老人は言葉を惜しまなかった。言葉で立つ者が、問答無用の四文字で倒された。
三年前、天皇は一度だけ、首相を強く叱ったことがある。満洲で起きた爆殺事件の始末が、上奏の言葉と違ったからだ。その内閣は、倒れた。立憲の君主が言葉を使えば、政治がひとつ動いてしまう。以来、言葉を仕舞うことに決めていた。
仕舞った言葉の分だけ、撃たれる者が増えていくようにも思われた。証明の仕方は、なかった。
幼い頃、祖父の御世の話として、海の向こうから王が来た話を聞いたことがある。同じ海に生きる民族です、と王は言ったという。その海が、いま火薬の匂いをさせ始めていた。
その夜の宮中の庭は、静かだった。
*
軍部が、政治の表舞台に出てきた。
それまで軍部は政治の裏側にいた。しかし五・一五以降、直接介入するようになった。首相を撃ち、内閣を倒し、後継の枠を決めた。政党内閣は終わり、海軍の長老を首班とする「挙国一致」の内閣が立った。外務省は、その過程で完全に傍観者だった。
外務省の廊下の空気が変わった。
意見を言う人間が減った。軍部の方針に異を唱える声が、会議室から消えた。消えたのではなく、聞こえなくなった。
かつて外務省は、日本政府の中で独自の声を持つ機関だった。今は、軍部の決定を対外的に説明する機関になりつつあった。
外交官が、翻訳者になっていた。
力の言葉を、外交の言葉に訳す翻訳者に。