第十章 焦土の秋
上海・東京 一九三二年(昭和七年)夏〜十一月
八月、東京から議会の速記録が届いた。
新しい外務大臣・内田康哉の答弁が、そこにあった。満洲国の承認について問われて、外務大臣はこう答えていた。
——国を挙げて焦土となっても、この主張を徹すことにおいては、一歩も譲らない。
黒瀬は速記録を二度読んだ。
焦土。
外交の言葉ではなかった。外交とは、国を焦土にしないための技術の名前だ。その技術の最高責任者が、焦土という言葉を自分の口で使った。
速記録には、括弧書きで議場の様子が記されていた。
(拍手)
外務大臣が国を焼くと言い、議会が拍手をした。
黒瀬は速記録を閉じた。
内田康哉は、若い大臣ではない。四十年、外交をやってきた老人だ。大戦の後、連盟の創設に日本側で関わった世代でもある。協調の建物を作った側の老人が、焦土を口にした。退路は、外務省の側から焼かれ始めていた。
九月、政府は満洲国を正式に承認した。調査団の報告書が出る前に、答えを先に置いたのだった。
承認の夜、東京では提灯行列が出た、と新聞にあった。承認とは何かを説明できる者が、行列に何人いたかは分からない。数えた新聞が、なかった。
*
その年の秋、リットン報告書が出た。
黒瀬は全文を一晩で読んだ。
公平な文書だった。
九月十八日の軍事行動は、自衛とは認められない。満洲国は、住民の自発的な独立運動の産物とは認められない。——そこまでは、日本への否定だった。
しかし報告書は、そこで終わっていなかった。
満洲における日本の権益と、条約上の特殊な地位は認める。単純な原状回復は解決にならない。満洲に広範な自治政権を作り、国際的な顧問団を置き、日本の経済的利益を保障する——という解決案が、後半に置かれていた。
最後の椅子だ、と黒瀬は思った。
公表の数日後、東京から呼び出しの電報が来た。報告書への対応を協議する会議に、現地の意見を出せという名目だった。黒瀬は船で東京に戻った。
*
東京の空気は、報告書を読む前に答えを決めていた。
新聞は公表の翌日から一斉に書いた。認め難き認定。正義の蹂躙。連盟何するものぞ。報告書の前半だけが引用され、後半の妥協案は、どの紙面でも数行だった。
床屋に行くと、鏡の前の親父が言った。
「お客さん、連盟てのは、日本をいじめて何が楽しいんですかね」
ラジオが、その横で相撲を中継していた。ラジオの契約は、この年に百万を超えた。声の届く速さで、世論の固まる速さも変わっていた。
外務省の前の路上で、黒瀬は立花に会った。
東京日日の腕章は同じだったが、名刺の肩書が変わっていた。社会部から、政治部。
「火事場から、火元に移りましてね」と立花は言った。
「報告書は読みましたか」と黒瀬は聞いた。
「読みましたよ。全部」
立花は少しの間、黙った。路上の音だけがあった。
「いい文書です」とやがて言った。「後半なんか、よく考えてある。うちの論説の連中も、読めば分かる。読んで、分かって、それで『認め難し』と書くんです」
「なぜ」
「一紙だけ降りることは、できないんですよ」と立花は言った。「うちが妥協案を推して、よその紙が正義を叫べば、うちの部数だけが減る。減った部数は戻らない。新聞は輪転機を止められない。止められないものを抱えた人間は、走り続ける理由を後から探すんです」
二年前の夜より、立花はよく喋った。喋り方に、どこか脆いものが混じっていた。
「あなたは、それでいいのですか」
「いい悪いの商売じゃありません」と立花は言った。「売れるか、売れないかの商売です」
同じ台詞を、この男は二年前にも言った。二年前は楽しそうに言った。今は、手すりに掴まるように言った。
黒瀬は一年前の小さな経済誌のことを思い出した。満洲も蒙古も要らない、放棄して貿易で立て、と社説に書いた雑誌が、東京にひとつだけあった。正しさは何万部かで、威勢は何百万部だった。
外務省の受付には、投書の束が届いていた。宛名は大臣だったり、省全体だったりした。文面は似ていた。連盟に頭を下げる軟弱外交官は国賊である。庶務の若い者が、束を紐で縛って倉庫に運んだ。縛る手つきが、もう慣れていた。
*
会議は外務省の三階だった。
各局の課長たちが並び、黒瀬は末席に座った。発言の順番は、最後だった。
「報告書は、日本に残された最後の椅子です」と黒瀬は言った。「満洲からの単純な撤退を求めてはいません。日本の経済的権益も認めている。世界が日本のために残した、最後の妥協案です。ここを蹴れば、次に日本が座れる椅子は、世界のどこにもありません」
会議室は静かだった。
誰も反論しなかった。誰も同意しなかった。
末席の発言は、議事録に残らなかった。しかし議事録に残らない言葉ほど、遠くまで歩く。それを黒瀬はまだ、正確には知らなかった。
政府は報告書を拒否した。
同じ頃、政府は連盟特別総会への全権に、松岡洋右を任じた。英語で世界と喧嘩のできる男を、世界との喧嘩に送る人事だった。新聞は「わが正義を世界に訴える快男児」と書き立て、出発の埠頭には万歳の声と旗が出た。
神田の講堂で見た男が、ジュネーブへ行く。
黒瀬は手帳の二年前の頁を、開かずに思い出していた。使える。ただし、刃の向きまでは選べない。
同じ名簿の少し上に、もうひとつ名前があった。
次席全権、佐藤尚武。
三年前のジュネーブで、受信紙を三枚並べて、末席の書記官に「どう読む」と聞いた人だった。
外務省は内部で異論を持ちながら、表向きは拒否に同意した。異論を持つ官僚たちは、会議室の外でひっそりと顔を見合わせた。何も言わなかった。言えなかった。軍部のリストがある、という噂は、その頃さらに広まっていた。
拒否の決定が出た翌日、黒瀬は外務省の廊下で条約局長に呼び止められた。
「黒瀬君」と条約局長は言った。「君には上海に戻ってもらう。当面、東京には来なくていい」
「それは」
「君の意見が、陸軍省に伝わっている。しばらく距離を置いた方がいい」
黒瀬は条約局長を見た。この男は善意で言っている。しかし善意の警告は、同時に圧力でもある。
距離を置く、とは、黙れという意味だ。
「分かりました」と黒瀬は言った。
分かった、という返事は嘘だった。しかし今は、嘘をつく必要があった。
廊下に一人で立った。
窓の外で風が鳴っていた。
議会は拍手し、新聞は輪転機を止められず、床屋の親父は連盟に腹を立て、末席の言葉は議事録に残らない。この国で、最後の椅子の話を聞く場所は、もうどこにも残っていないように見えた。
残っているとすれば、海の向こうだった。
その夜、黒瀬は佐藤尚武に宛てて、意見書を書いた。
私信の体裁の、意見書だった。リットン報告書は最後の妥協案であること。蹴れば、次に日本が座れる椅子はないこと。脱退を口にする前に、日本の側から一度、提案の形を作る必要があること——十月の会議室で議事録に残らなかった言葉を、今度は届く宛先へ、一語ずつ書き直した。
樺太の字は、書かなかった。提案の中身も書かなかった。書いたのは、提案が要るという理屈と、ジュネーブの空気を素手で読める人間がもう一人要るはずだ、という一行だけだった。求職の手紙と読まれても構わなかった。そう読める男にしか届かない書き方を、した。
宛名のない手紙も、もう一通書いた。
——椅子は蹴られました。代わりの椅子を作ります。二月までに図面を。扉が開いたとき、手ぶらでは、開けた意味がありません。
投函は、翌朝一番にした。
分の悪い賭けだった。しかし、張らない賭けは、当たらない。
外れたら、次はないかもしれなかった。
東京の十月の夜は、長かった。