太平洋の夢 第一巻 樺太の種   作:水野 純也

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第十一章 リストの男

第十一章 リストの男

 

  上海 一九三二年(昭和七年)十二月

 

 

 呼び出し状は、軍の書式で来た。

 上海陸軍武官府。十二月九日、午後二時。用件の欄は空白だった。

 用件を書かない呼び出しは、用件が本題ではないという意味だ。黒瀬誠一郎は封筒を机の引き出しに入れ、鍵をかけた。

 東京から上海に戻されて、ひと月半になる。

 リットン報告書を政府が拒否した翌日、条約局長に言われた。君の意見が陸軍省に伝わっている。しばらく距離を置いた方がいい。

 距離を置く、とは黙れという意味だった。黙って、上海にいた。

 その黙っている男を、今度は陸軍が呼び出した。

 距離は、向こうから詰められた。

 

  *

 

 十二月の上海は、乾いた寒さだった。

 虹口へ渡る橋の上で、黒瀬は川の匂いを吸った。泥と、石炭と、冬の水の匂い。

 閘北の方角に目をやった。今年の一月、ここで日本海軍と中国軍が撃ち合った。崩れた壁は、まだそのままの場所が多かった。壁の穴を板で塞いで、人が住んでいた。

 撃ち合いは三ヶ月で終わった。穴は残った。

 武官府は租界の北の外れにあった。石造りの三階建てで、玄関に歩哨が立っていた。

 応接室に通された。石炭ストーブが焚かれていた。壁に大きな支那全図が貼ってあった。満洲の部分にだけ、書き込みが多かった。

 十分、待たされた。

 待たせるのも用件のうちだ、と黒瀬は思った。

 

  *

 

 入ってきた男は五分刈りで、背広より軍服が体に馴染んでいた。

 四十代の半ば。肩幅が広く、動きに無駄がなかった。

「陸軍省軍務局、田中である」

 大佐の階級章があった。東京から来た男だった。上海の武官府は、部屋を貸しただけらしかった。

 田中は卓を挟んで座った。茶が出た。田中は手をつけなかった。

「外務省欧亜局、黒瀬書記官」と田中は言った。

 確認ではなかった。読み上げだった。

 卓の上に、紐で綴じた書類の束が置かれた。厚みは指二本分。表紙に、何も書いていなかった。

「貴官のことは、名簿で知った」と田中は言った。

 名簿。

 外務省の廊下では、それはリストと呼ばれていた。軍部が要注意の職員をリスト化している——先輩はそう言った。横文字だった。外務省は横文字で怯える。

 陸軍は、名簿と言う。

 同じ紙の話だった。しかし名簿という言葉の方が、重かった。リストには項目が載る。名簿には、人が載る。

「名簿に載る人間には二種類ある」と田中は続けた。「使える人間と、危険な人間だ。どちらであるかは、本人が決める」

 黒瀬は茶を一口飲んだ。ぬるくなっていた。

「私はどちらに載っていますか」

「それを確かめに来た」

 

  *

 

 田中は綴じ紐を解いた。

 一枚目を、卓の上で黒瀬の方へ回した。

「昭和四年十月。ジュネーブ。国際連盟事務局の廊下において、貴官は身元不詳の欧州人女性と接触。同夜、同人を宿舎に伴う。以後、同人と文通を続けている形跡がある」

 読み上げる声に、抑揚がなかった。経理の数字を読む声だった。

 代表部の宿舎には、使用人の目がある。三年前の目が、いま紙になって卓の上に出てきた。文通、と黒瀬は頭の中で繰り返した。宛名を書かなかった手紙のことなら、形跡、という言葉は正確だった。中身は読まれていない。流れだけが、見られている。

 二枚目。

「昭和六年四月。東京。同一人物と思われる女性が、麹町の外務省官舎に貴官を訪問。深夜まで在室」

 宿直の記録だ、と黒瀬は思った。官舎の宿直は、出入りを帳面につける。帳面は、誰でも買える。

 三枚目が回ってきた。

「昭和五年十一月。上海。四馬路裏の阿片窟に貴官が入るのを、憲兵隊の協力者が確認。二日後、領事館職員に運ばれて退出」

 黒瀬は三枚目を見た。

 文字は正確だった。日付も正確だった。

 体の内側で、何かが一段、冷えた。

 冷えたことを、顔に出さなかった。出さない訓練は、この三年でできていた。しかし指先が、上着の内ポケットの位置を確かめたがっていた。確かめなかった。確かめる仕草そのものが、四枚目の記録になる。

「阿片は支那人の病気だと思っていたが」と田中は言った。「外交官もやるとは知らなかった」

「情報収集です」と黒瀬は言った。「阿片窟は情報が集まる。白系ロシア人、青幇の下の者、租界警察の内通者。机の上に来ない話が、あそこの長椅子には転がっています」

 半分は本当だった。半分は、噓だった。

 田中は黒瀬を見た。

 測る目だった。値踏みではない。この男がどこまで折れるか、折れない場合はどう動かすか。その計算だけをしている目だった。

「二日、記憶を失う情報収集か」

「収集には犠牲が伴います」

 田中は四枚目を出しかけて、卓には置かず、綴りに戻した。

「四枚目は女だ。仏租界の酒場の、露西亜人の楽士。読み上げるまでもない。女の趣味は問わん。醜聞は、貴官の階級では商品にもならん」

 戻された紙の厚みを、黒瀬は目で測った。

 ミリアムとソフィアは区別されている。正確だった。

 田中の口の端が、わずかに動いた。笑いではなかった。笑いの形をした、別のものだった。

「面白い男だ」と田中は言った。「面白い男は、名簿の上では危険な男と同じ欄に入る」

 

  *

 

 ストーブの石炭が爆ぜた。

「単刀直入に言う」と田中は言った。「外務省の中に、話の分かる人間が要る。満洲の件で、外務省は陸軍の足を引っ張り続けている。幣原は辞めたが、幣原の頭で考える人間はまだ庁舎に残っている。誰が残っているのか、陸軍は知りたい」

「名簿を作るのですか」と黒瀬は言った。

「名簿はもうある」と田中は言った。「貴官に頼むのは、名簿に注釈をつける仕事だ」

 部屋が静かになった。歩哨の靴音が、窓の外を規則正しく通った。

 黒瀬は計算した。

 断れば、三枚目の紙が生きる。阿片の記録は、外務省の懲戒に十分だった。ユダヤ人女性との記録は、色をつければ機密漏洩の疑いにできる。

 受ければ、紙は眠る。そして自分は、陸軍の帳面の「使える人間」の欄に移る。移った人間が、どう使われていくか。外務省の廊下で、そうなった顔を何人か見てきた。

 視線だけ動かして、壁の支那全図を見た。

 満洲に書き込みが多かった。線は南へも伸び始めていた。

 この男たちの地図は、大きくなり続けている。地図が大きくなる速さに、紙の弾は要らなくなる日が来る。自分程度の書記官を潰す価値が、盤面の拡大とともに下がっていく。

 つまり、時間の問題だ。生き延びる方法は、隠れることではなかった。盤面の、もっと大きい場所へ出ることだった。佐藤への意見書に追加の掛け金を乗せた。

「お断りします」と黒瀬は言った。

 田中の表情は動かなかった。

「理由を聞こう」

「私は外務省の書記官です。外務省の中のことを外に流せば、それは陸軍にとっても信用できない人間になる。信用できない注釈に、価値はありません」

「屁理屈だな」

「理屈です」と黒瀬は言った。「屁がつくかどうかは、使う側が決めることです」

 田中は黒瀬を長く見た。

 それから書類の束を揃え、紐をかけ直した。

「この綴りは東京へ持って帰る」と田中は言った。「焼きはしない。名簿は消えない。紙は、使う日を選べる。それだけを覚えておけ」

 田中は立ち上がった。戸口で一度だけ振り返った。

「黒瀬」

「はい」

「貴様の女は、この二年、樺太を調べている。地図。農業の統計。港の水深。人の口も、紙の注文も、思いのほか残るものだ。ユダヤ人の女が、なぜ帝国の島を調べるのか——理由を調べたが、分からなかった。分からないものは、危険の欄に入れる。それが軍部だ」

 足音が廊下を遠ざかった。

 黒瀬は動かなかった。

 樺太、という言葉を、黒瀬は東京の誰にも言っていない。手紙にも書いていない。言葉は無事だった。しかし言葉の周りを掘る手が、雪の上に足跡を残していた。彼女の三年分の仕事が、陸軍の綴りの中で、意味の分からない危険として眠っている。

 意味が分からないうちは、まだいい。

 意味の分かる者が読む前に、形にしなければならなかった。

 黒瀬は一人で応接室に残された。

 茶は、完全に冷えていた。

 

  *

 

 外に出ると、日が傾いていた。

 橋を渡って租界へ戻った。川の上で、黒瀬は立ち止まった。

 内ポケットに手を入れた。小瓶の重さがあった。

 三枚目の紙のことを考えた。

 あの紙が抽斗で眠っている限り、自分の首には見えない紐がかかっている。紐の端は、東京の陸軍省の机に結ばれている。

 紐を切る方法は、二つしかない。紙より先に死ぬか。紙が届かない高さまで、上がるか。

 手を抜いた。

 今夜は要らない。要らないことにする、ではなく、要らない。

 その区別が自分の中でまだつくことを、黒瀬は川の上で確かめた。

 いつまでつくのかは、確かめなかった。

 

  *

 

 その十二月、紙面は二つのネタでよく売れていた。

 ひとつは、ジュネーブから来た。特別総会の演壇で、松岡全権が一時間二十分、原稿なしの英語で弁じたのだ。二十世紀の世界は日本を、十字架にかけようとしている——演説の結びが、東京の紙面で見出しになった。十字架上の日本。殉教者の扱いだった。演説は連盟を説得するために打たれ、紙面は読者を酔わせるために売られた。同じ言葉が、八千キロ離れて、別の商品になった。

 もうひとつは、東京の新聞社が自分たちで作った。国内の新聞と通信社——百三十二社が、連名で共同宣言を出したのだ。満洲国の擁護に一致協力する。連盟がこれを覆そうとするなら、断固として拒否する、と。

 黒瀬は宣言の全文を読んだ。

 新聞が、政府より先に、退路を焼いて見せた。百三十二の輪転機が同じ言葉を刷る国で、違う言葉は、何部刷れるのか。

 同じ月、モスクワとの間で、細い扉がひとつ閉まった。ソ連が一年前から打診していた不可侵条約の締結を、日本政府が正式に断ったのだ。断りの文面は丁寧で、理由は曖昧だった。曖昧さの奥の本音は、条約で手を縛られたくない、だった。

 黒瀬は公電の写しを読みながら、頭の中の地図の北端を見ていた。

 断られた提案は、消えない。形を変えて、机の抽斗で待つ。条約で縛れない日ソの間に、条約より厚い緩衝材を置く方法があるとすれば——

 地図の上のあの島が、また少し、輪郭を濃くした。

 

  *

 

 電報は、十日後に来た。

 領事館の通信室で受け取った。発信は東京、外務省人事課。文面は三行だった。

 

 対連盟特別総会に関し、松岡全権への随行を命ず。シベリア経由にて速やかにジュネーブへ向かうべし。詳細は追って訓令す。

 

 黒瀬は電文を二度読んだ。

 上海で干されていた書記官が、全権随行に化ける。人事課の発案ではあり得なかった。

 佐藤次席への意見書という賭けは、通った。

 紐の届かない高さへの階段に、一段目が見えた。

 

  *

 

 出発の前の夜、黒瀬は霞飛路の店に行った。

 客はまばらだった。ソフィアは注文のない時間で、スクリャービンを弾いていた。

 弾き終わるのを待って、黒瀬はピアノの脇に立った。

「ジュネーブに行きます」とロシア語で言った。

「知ってる」とソフィアは言った。

 長い間が空いた。黒瀬の心臓が音をたてた。

 知ってる。

 辞令は三日前に来た。店では誰にも話していない。領事館の中でも、知る者は数人だった。

 田中の綴りには、彼女も載っていた。女、という欄に。陸軍はそこで安心して、紙を綴じた。しかし、夏の夜の問いがまだ耳に残っている。ジュネーブへは、いつ戻るの——話した記憶のない地名。そして、月に一度買いに行く使わない楽譜。

 調べる目は、ひとつではない。聞く耳も、ひとつではなかった。

「誰に、聞かれているのですか」と黒瀬は静かに言った。

 何に、ではなく、誰に。

 ソフィアは鍵盤を見ていた。長いこと、見ていた。

「オデッサに、母がいるの」とやがて言った。「弟も。手紙は年に三度来る。検閲の判子と一緒に。判子はね、約束なの。手紙が来るうちは、母たちは無事だという約束」

 顔を上げた。

「あなたのことは、大したことは言っていない。言えるほど、あなたは何も話さなかったから。……何も聞かない女は、楽だったでしょう」

 黒瀬は答えなかった。

 二年間、週に二度、同じ部屋にいた。気づかなかった。人の噓を測って食ってきた男が、隣で弾かれていた噓だけを、聴き分けられなかった。

 通報すれば、彼女は消える。オデッサの判子も止まる。何もしなければ、モスクワの抽斗で、クロセという綴りが少しずつ厚くなっていく。

 できることは、なかった。

 できることがない、という事実だけを、正確に覚えておくことにした。上野駅のホームで覚えたのと、同じ種類の事実だった。

「一曲だけ」と黒瀬は言った。「注文します」

「何を」

「あなたが弾きたいものを」

 ソフィアは少し笑って、鍵盤に手を置いた。

 スクリャービンではなかった。もっと古い、単純な旋律だった。子供の歌のようだった。黒海の子守唄かもしれなかった。聞いたことのない曲で、しかし母音の置き方だけは、知っている歌だった。

 弾き終わると、彼女は静かに蓋を閉めた。

 蓋の上に手を置いたまま、ソフィアは言った。

「相手があなたで、よかったと思ってる」

 こちらを見ない言い方だった。

「そう思った時点で、この仕事には向いていないの。二年かけて、それが分かった。向いていないまま終われるのは——あなたが、何も話さない人だったおかげ」

 それから、初めてまっすぐに黒瀬を見た。

「気をつけて、セイイチロウ」

 名前を呼ばれたのは、初めてだった。

「セイイチロウは」と黒瀬は言った。「モスクワへの手紙には、書きにくい名前でしょう。今夜のことは、こう書いてください。クロセは何も気づいていなかった、と。——その方が、オデッサの判子は長持ちする」

 ソフィアは目を見開き、それから、泣くのと同じ顔で笑った。

「あなた、やっぱり外交官ね」

「それと」ドアの前で、黒瀬は一度だけ振り返った。「楽だった、と言いましたね。わたしは——楽しかった。メリークリスマス、ソフィア」

 店を出た。霞飛路の街灯が、等間隔に濡れていた。

 それが、ソフィアを見た最後になった。

 

  *

 

 宿舎に戻り、トランクを出した。

 ロシア語の辞書を入れた。フランス語の条約集を入れた。買ったまま読めずにいるヘブライ語の詩集を、少し迷って、入れた。

 小瓶は、最後に入れた。ソフィアのバンドと撮った写真は覚えて焼いた。

 シベリアは長い。長い汽車の中で、言語たちがどれだけ騒ぐか、黒瀬にはもう分かっていた。

 窓の外で、黄浦江が暮れていった。

 満洲を通って、雪の大陸を渡って、ジュネーブへ。汽車は、樺太のずっと南を走る。

 それでも近づいている、と黒瀬は思うことにした。

 




「太平洋の夢」のNoteを始めました。

小説の裏側——史実調査の記録、執筆の経緯、歴史の「if」への問いを書いていきます。
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