幕間 ワイパフの土
ハワイ・オアフ島 一九二六年(大正十五年)七月
通告書は、朝のうちに貼り出された。
ワイパフ耕地会社の事務所の壁。製糖工場の門。日本人キャンプの集会所の柱。
英語だった。
荒木勇は、集会所の柱の前で二度読んだ。一度目は英語のまま。二度目は、頭の中で日本語に置き換えながら。
要点は二つだった。ワイケレ川の取水口を付け替え、用水の全量を会社の耕地に回す。日本人小作農との借地契約は、今期限りで更新しない。
署名は支配人のハワード・レイン。発効は二週間後。
勇は二十一歳だった。この島で生まれた。父の国を、まだ見たことがなかった。
集会所に人が集まり始めた。
「読んでくれ」と誰かが言った。
勇は通告書を日本語で読み上げた。読み終えると、静かになった。
それから、老人たちが一斉に喋り始めた。
*
父の畑は、耕地の外れにあった。
会社から借りた土地だった。サトウキビの区画の隙間に、野菜を作っていた。大根と、茄子と、それから内地から種を取り寄せた菜っ葉。
荒木清蔵は、畑の真ん中にしゃがんでいた。土を一握り、掌の上で崩していた。
「三十五年だ」と父は言った。
広島の村を出たのは明治二十四年だった。親善協定の移民船だった。契約は三年のはずだった。
三年が、三十五年になった。
「石だらけだった」と父は言った。「石を拾って、水を引いて、土を作った。土は買えん。作るもんだ」
母は家の裏で洗濯をしていた。
母はこの島の人間だった。名前をレイといった。祖父の代からワイケレ川の下流でタロイモを作る家の娘だった。
父は日本語で話し、母はハワイ語で話し、二人の間ではどちらでもない言葉が使われた。勇はその全部の言葉の中で育った。学校では英語を使った。日本語学校では日本語を使った。母の親戚の集まりでは、ハワイ語を使った。
どの言葉が自分の言葉か、考えたことはなかった。考える必要がなかった。
通告書が貼られるまでは。
*
ケアヴェ老は、川の上流にいた。
タロイモの田の、水口の脇。いつもの場所だった。
母の大叔父にあたる人だった。歳は誰も正確に知らなかった。本人は「王様が日本へ行った年には、もう船を漕いでいた」と言った。
勇は通告書の写しを持って行った。
老人は英語が読めた。読めたが、読まなかった。写しを膝に置いたまま、川を見ていた。
「水を止めると書いてあるか」と老人は言った。
「上で全部取ると書いてあります」
「同じことだ」
老人は水口を見た。石で組んだ、古い水口だった。祖父の祖父の代からある、と勇は聞いていた。タロイモの田は、水が止まれば三日で駄目になる。
「カラカウアがな」と老人は言った。
唐突に。しかし唐突ではなかった。
「日本から帰った年、浜で話すのを聞いた。わしは若かった。王は言った。アジアとポリネシアの血が混ざれば、この海は誰にも取られん。混ざらなければ、いつか誰かのものになる、と」
老人は勇を見た。
「お前は、その混ざった血だ」
勇は答えなかった。
「会社は二週間と書いた」と老人は言った。「キビの刈り入れは、いつからだ」
「十日後です」
老人は初めて笑った。
「なら、向こうの二週間より、こっちの十日が先だ」
*
座り込みは、水口から始まった。
最初の朝、ハワイ人が九人、取水口の石の上に座った。ケアヴェ老が真ん中だった。
昼までに、日本人が二十人並んだ。清蔵がいた。勇がいた。
翌日、刈り入れの人夫たちが鎌を置いた。
サトウキビは、刈る時期を選ぶ作物だった。糖度には頂点があり、頂点は待ってくれない。刈らなければ、畑一枚ぶんの砂糖が、日ごとに水に戻っていく。
工場も止まった。キビが来なければ、圧搾機は回らない。
会社の帳簿の中で、数字が溶け始めた。
三日目、レイン支配人が馬で来た。
「契約違反だ」とレインは英語で言った。
誰も動かなかった。
ハワイ人は英語が分からないふりをした。日本人は、本当に分からない者が多かった。
レインは勇を見つけた。学校で英語を覚えた小僧だと知っていた。
「訳せ」
勇は訳した。正確に訳した。
それから、老人たちの返事を英語に訳した。
「水はお前が来る前からここを流れている。お前が帰った後も流れる。座っているのは、それを確かめるためだ」
レインは何かを言いかけて、やめた。馬の向きを変えた。
その日から、会社は人を雇い始めた。
*
銃を持った男たちが来たのは、二週目の初めだった。
ホノルルの警備会社の男が、六人。猟銃と、棍棒。
男たちは、水口から十歩の場所に並んだ。
座っている側は、五十人を超えていた。日本人の女たちが、握り飯を配っていた。ハワイ人の子供が、大人の間で寝ていた。
六人と、五十人が、半日向かい合った。
夕方、ケアヴェ老が立ち上がった。
腰の後ろに手を当てて、ゆっくり立った。タロイモの苗を一本、手に持っていた。
老人は水口まで歩き、銃を持った男たちの見ている前で、泥の中に苗を植えた。植え終えると、手の泥を川で洗い、元の場所に戻って座った。
銃を持った男たちの、いちばん若いのが、銃を下げた。
理由は誰にも分からなかった。本人にも分からなかったかもしれない。
六人は日暮れに引き上げた。翌日は、四人しか来なかった。その翌日は、誰も来なかった。
*
ホノルルの日本領事館では、若い書記官が報告書を書いていた。
三通目だった。
一通目は「農園における労働争議の発生」と書いた。二通目は「争議の継続」と書いた。
三通目のペンが、止まっていた。
争議、という言葉が違う気がした。賃金の話ではなかった。水と土地の話だった。そして、日本人だけの話でもなかった。
書記官は窓の外を見た。港にアメリカの船と日本の船が並んで泊まっていた。その向こうに、建設が止まったままの軍港の岸壁が見えた。
書記官はペンを取り直した。
「本件の本質は労働争議に非ず。日本人移民とハワイ先住民が、土地の管理権をめぐり事実上の共同戦線を形成せるものなり。両者を結びつけたるは通婚による血縁、及び水利の共有なり」
一行空けて、続けた。
「十数万の日本人移民が先住民と結びついたる場合、本諸島において実力を以てこれを排除し得る勢力は存在せず。ワシントンが本件を重視するは必定と思料す」
書き終えて、読み直した。
大袈裟だろうか、と思った。
消さなかった。
*
三週間目の木曜日、会社が折れた。
取水口の付け替えは撤回された。借地契約は、従来の条件で更新された。
文書には、レイン支配人の署名があった。サンフランシスコの本社から来た電報が、署名の後ろにあった。砂糖の相場は、争議の三週間を待ってくれなかった。
文書の写しが、集会所の柱に貼られた。
今度は、英語と日本語の二つで。
その夜、日本人キャンプとハワイ人の集落の間の空き地で、火が焚かれた。
豚が焼かれた。誰かが三味線を弾いた。誰かがウクレレを弾いた。二つの楽器は、途中から同じ歌を探し始めた。
清蔵は、火から離れた場所に座っていた。土を一握り、掌の上で崩していた。癖だった。
勇が隣に座った。
「親父」
「なんだ」
「日本を見てみたいと思うか」
清蔵はしばらく答えなかった。
「土がある方が、俺の国だ」
とやがて言った。
火の向こうで、ケアヴェ老が笑い声を上げていた。
*
報告書はホノルルから東京へ送られ、写しがワシントンの大使館にも回された。
ワシントンの新聞が、一週間遅れで小さな記事を載せた。
「ハワイは誰のものか」
という見出しだった。
記事は短かった。しかし、その問いは短くなかった。
国務省の極東部で、誰かがその記事を切り抜き、綴じ込みに挟んだ。陸軍省の作戦部で、誰かが真珠湾の工事日程表を眺め直した。
答えは、誰も書かなかった。
四十五年前、東京で一人の王が海の話をした。王はもういない。協定の草案を書いた男も、もういない。
しかし種は、土の中にあった。
ワイパフの土の中に。ワイケレ川の泥の中に。混ざった血の中に。
芽が出るまで、あと七年だった。