第十三章 ジュネーブの冬
ジュネーブ・旧市街 一九三三年(昭和八年)二月二十六日〜三月十三日
二月のジュネーブは雪だった。
宿舎の暖炉は一日中焚いていても、窓際は冷たかった。
朝、黒瀬は窓の結露を手で拭いてから、湖の方を見た。湖面が灰色だった。いつも灰色だった。
レマン湖の岸に薄く氷が張っていた。旧市街の石畳を歩くと、霜で足元が滑った。
ミリアムのアパルトマンは、旧市街の外れにあった。石造りの古い建物の三階。階段が急で、踏み板が鳴った。
部屋は他人名義で借りてあった。東京から監視の電報が出ていることを、彼女は把握していた。郵便は二筋向こうの雑貨屋で受け、階段を上る時刻は毎回ずらした。用心は、家具のように部屋に馴染んでいた。
誰に習ったのかを、黒瀬は聞かなかった。習う必要のある人生だった、という答えしか、返ってこないはずだった。
扉を開けると、テーブルの上に地図が広げてあった。
樺太の地図だった。
手書きの書き込みがあった。ミリアムの文字だった。キリル文字と、ところどころヘブライ文字が混じっていた。人口分布、農地として使える土地の範囲、港の位置、既存の集落、鉄道の路線。
書き込みの密度が、三年分の仕事の重さを示していた。
この地図が、上海の武官府の綴りの中で「危険」の欄に入っている。黒瀬はそのことを、彼女に伝えてあった。それから郵便の受け場所を、もうひとつ変えた。
「いつ作ったのですか」と黒瀬は聞いた。
「少しずつ。この三年で」とミリアムは言った。
二年ぶりの再会だった。しかし二人の間には、再会の儀礼が存在しなかった。東京で別れたときと同じ場所から、話が始まった。
その日から、二人の作業が始まった。
午前中は地図と向き合った。樺太の地理、気候、農業適地、港湾の規模、既存の日本人集落との位置関係。ミリアムは数字に強かった。黒瀬は条文に強い。二人の得意が補い合った。
午後は文言を練った。フランス語で書き、英語に直し、日本語で検証した。どの言語でも崩れない論理を探した。崩れる部分が見つかれば、また最初から書き直した。
一度、黒瀬の書いた前文を、ミリアムが二行削った。
「種を蒔く、という言い方はやめて欲しい」と彼女は言った。「条文に比喩は要らない。面積と、人数と、期日。信じられるのは、それだけ」
削られた二行は、たしかに美しかった。
夜は議論した。ヴァイツマンをどう説得するか。各国代表の反応をどう読むか。陸軍の圧力にどう対処するか。
ミリアムはガロワーズを吸いながら、地図を指で押さえながら、話した。黒瀬はモルヒネを使いながら、ノートに書きながら、聞いた。
その繰り返しが、十日続いた。
三月に入っても、雪は残っていた。旧市街の屋根に白い帽子が乗っていた。朝、ミリアムが窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。アルプスの方向から来る風だった。
東京からの公電の写しは、代表部で読んだ。国内の紙面は、脱退の日取りを祝祭の日取りのように数え始めていた。連盟よさらば、という見出しがあった。
熱河では、省都が落ちた。提案を磨いている間にも、地図は動き続けた。
*
三月六日の夜、黒瀬はミリアムに言った。
「薬を抜きます」
ミリアムは少し間を置いた。
「今?」
「今です。ここで作ったものを、素面で確認したい。発表の場に薬物を持ち込みたくない」
ミリアムは何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ、ガロワーズを一本取り出した。
それが答えだった。
一日目の夜は眠れなかった。発汗があった。体の節々が痛かった。黒瀬は毛布を引き寄せたが、寒かった。部屋の暖炉は焚いていたのに、体の芯が冷えていた。
二日目、頭の中で言語が走り始めた。走るというより、暴走した。英語が叫び、ロシア語が怒鳴り、フランス語が泣いた。日本語はどこかに消えていた。
母語が消えるとき、人間は何かを失う。黒瀬はその喪失を、暖炉の火を見ながら感じた。
ミリアムはずっとそこにいた。何もしなかった。ただ、いた。
三日目の明け方、黒瀬は聞いた。
「あなたはなぜ、素面でいられるのですか」
ミリアムはしばらく黙っていた。
窓の外でジュネーブの夜が明けつつあった。湖の方から光が来た。
「記憶を消したくないの」とミリアムはやがて言った。「消えてしまったものが多すぎる。これ以上消したくない」
部屋が静かになった。暖炉の薪が爆ぜた。
黒瀬は記憶を切断するために薬物を使ってきた。ミリアムは記憶を維持するために素面でいた。同じ痛みを持ちながら、正反対の方向に向かってきた二人だった。
四日目、言語の暴走が止まった。
疲れ果てて、静止した。薬物によってではなく、燃え尽きることによって。
その静止の中で——阿片のときと同じ、モルヒネのときと同じ、しかし今回は体の奥底から来た——何かが浮かんだ。
アイヌのことを、黒瀬は考えていた。
樺太の提案を連盟の場で発表するとき、アイヌの問題を避けて通ることはできない。ユダヤ人が移住する土地に、すでにアイヌがいる。ニヴフがいる。ウィルタがいる。
彼らを無視して進めれば、それはパレスチナで起きていることと同じ構造になる。移住が既成事実になり、力が既成事実を守る。
黒瀬はその繰り返しを、樺太でやりたくなかった。
頭の中で、世界の地図をもう一度めくった。
ワシントンは先月、フィリピンに独立の日付を与えた。しかし保留地の先住民には、市民権の紙を渡しただけで、土地は今も代理人が管理している。ロンドンはインドとの円卓会議を三度開いて、三度空転させた。パリはイェンバイの蜂起の後、村ごと焼いた。バタヴィアは弁の立つ若者を島流しにした。
どの帝国も、統治の内側の異民族に、本物の自治を与えたことはない。一度もない。それが一九三三年の世界の、偽らざる帳簿だった。
そして東京には、旧土人保護法がある。
明治三十二年の法律。保護という名で、アイヌの土地を「下付」し、猟を制限し、言葉を学校から締め出した法律だ。黒瀬は条文を資料室で読んだことがある。善意で書かれた条文ほど、読み返すのがつらいものはない。
第四点は、列強への問いである前に、この法律の否定だった。
日本は、自分の法律を書き換えずに、この提案を口にすることはできない。口にした瞬間から、書き換えの義務を負う。それでいい、と黒瀬は思った。誰もやったことがないなら、最初にやる国が、規約の内側で一番遠くへ行く。
「ミリアム」と黒瀬は言った。
ミリアムが顔を上げた。
「四点目を加えます」黒瀬は言った。「アイヌの自治区です。北海道に。樺太の先住民族の権利保護とセットで」
ミリアムはしばらく黒瀬を見た。
「それが必要よ」と彼女は言った。「それなしでは、私たちがパレスチナと同じことをすることになる」
「そうです」
ミリアムは頷いた。一度だけ。それで決まった。
四点目の文言が、最も難しかった。
日本語では明確に書けた。しかしフランス語に直すと、どうしても「植民地政策の反省」という文脈に引っ張られた。それは黒瀬の意図ではなかった。
共生の宣言として書く。樺太の先住民族とユダヤ人が共に自治する——その具体的な枠組みの提案として書く。日本が何かを認めるのではなく、日本が何かを提案する。その違いが、フランス語の語順に現れる。
翌朝、黒瀬は早く起きた。ミリアムはまだ眠っていた。テーブルに座り、四点目の文言を書き直した。下書きを、もう一度フランス語で整えた。
ミリアムが起きてきた。
黒瀬の書いたフランス語の文書を見た。声に出して読んだ。ペンを取った。
一か所だけ直した。フランス語の語順の問題だった。意味は変わらないが、音が変わった。修正後の方が、演壇で読んだときに響く音になっていた。
「ありがとう」
「私のフランス語はあなたより上手ね」
「知っています」
窓の外でジュネーブの朝が始まっていた。三月の光が石畳に差していた。屋根の雪が少し解けていた。湖の色が、夜の黒から灰色へ、それから薄い銀色へと変わった。
*
三月十三日の夕方、松岡の随員が旧市街のアパルトマンを訪ねてきた。
「全権がお呼びです」と随員は言った。それだけだった。
松岡の宿舎は連盟本部に近いホテルだった。黒瀬が部屋に入ると、松岡は窓際に立っていた。外を見ていた。振り返らなかった。
「陸軍から最終通告が来た」と松岡は言った。「二十七日の詔書をもって脱退を宣言する旨、閣議に提案する。私に同意を求めている。今夜中に返答しろとのことだ」
黒瀬は黙っていた。
「お前の進み具合はどうだ」と松岡は言った。
「三点の提案の文言が固まりました。三日後にヴァイツマンと会います」
三点、と黒瀬は言った。手の中の紙には、四つ目が書いてある。
四点目は、言わなかった。ヴァイツマンの感触を見てからでいい、と自分に説明した。説明の半分は、噓だった。承認を先に求めれば、削られるかもしれないものは、承認の後に置く。既成事実の作り方を、この三年で覚えすぎていた。
松岡がようやく振り返った。黒瀬を見た。
「三日後か」
「はい」
「ヴァイツマンが承諾すれば、連盟に対して私が提案する。閣議決定に反して、陸軍の反対を押し切って、だ。それがお前の言う『別の選択肢』か」
「そうです」
松岡はしばらく黒瀬を見た。
「なぜ私がそこまでやると思う」
「二月二十四日、閣下が退場される背中を、傍聴席から見ていました」と黒瀬は言った。「あれは、脱退を喜んでいる人間の背中ではありませんでした」
松岡は窓の外に目を戻した。レマン湖が夕暮れの中で光っていた。
「陸軍に返答する前に、お前に聞きたかった」と松岡はやがて言った。「ヴァイツマンは動くか」
「動かすつもりです。黙認だけでいい。公式の支持は要りません」
「三日で結果を出せるか」
「出します」
松岡は深く息を吐いた。
「分かった」と彼は言った。「今夜の陸軍への返答は保留する。ヴァイツマンとの会談の結果を待つ。ただし——十六日の夜に報告に来い。それが私の最後の判断の場になる」
「はい」
「急げ」と松岡は言った。「時間はない」
黒瀬は部屋を出た。ホテルの廊下を歩いた。
外に出ると、三月のジュネーブの夜気が肌に触れた。冷たかった。屋根の雪がまだ残っていた。
レマン湖が見えた。夕暮れの中で、湖面が鈍く光っていた。