太平洋の夢 第一巻 樺太の種   作:水野 純也

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第十四章 黙認の条件

第十四章 黙認の条件

 

  ジュネーブ 一九三三年(昭和八年)三月十六日

 

 

 ヴァイツマンとの約束は、昼だった。

 湖畔のホテルのレストランだった。

 窓の外にレマン湖があった。三月の湖は灰色で、対岸のアルプスが白く霞んでいた。昼の光の中で、湖面がときおり鈍く光った。

 テーブルはすべて埋まっていた。フランス語とドイツ語と英語が混ざり合い、料理の匂いと煙草の煙と一緒に漂っていた。

 場所はミリアムが選んだ。公的な場所を選んだのは計算だった。密室で会えば密談になる。人目のある場所で会えば、単なる昼食になる。単なる昼食であれば、後からどちらも否定できる。

 ヴァイツマンは、すでにいた。

 背が高かった。額が広く、顎に短い髭があった。メニューを手にしていたが、目が動いていなかった。考えていた。

 黒瀬が近づくと、顔を上げた。

 言葉を交わすのは、初めてだった。四年前のジュネーブで、パレ・ウィルソンの廊下の遠くに、姿を見かけたことがあるだけだ。あの頃より少し老けていたが、目の鋭さは変わっていなかった。化学者の目。対象を分解して理解しようとする目。

 黒瀬を見て、それからミリアムを見た。

 ミリアムを見る目が、黒瀬を見る目とは違った。長い付き合いの中で積み重なった、複雑なものを含む目だった。

 最初の十分は、気候の話をした。

 料理が来た頃、ヴァイツマンが言った。

「本題を話しましょう」

 黒瀬は四点の提案を、簡潔に説明した。

 ヴァイツマンは食事をしながら聞いた。表情を変えなかった。途中でワインを一口飲んだ。グラスを置いた。また聞いた。

 黒瀬が話し終えると、長い沈黙があった。

「樺太」とヴァイツマンはやがて英語で言った。「チェーホフが視察に行って、本を書いた島ですね」

「サハリン島。一八九〇年の著作です」

「読みましたか」

「ロシア語で」

 ヴァイツマンはナプキンで口を拭いた。テーブルの上に置いた。

「流刑地だった島に、ユダヤ人の国家を作る」と彼は静かに言った。「歴史の皮肉ですね。私たちはずっと流刑されてきた民族だ。その流刑地に、自分たちの国を作る」

「皮肉を逆手に取ることもできます」と黒瀬は言った。

 ヴァイツマンは黒瀬を見た。しばらく見た。それからミリアムを見た。

「ミリアム」

「なぜこの男を信用するのか」声のトーンが変わっていた。柔らかくなった、というより、本音に近くなった。

 ミリアムはヘブライ語で短く答えた。黒瀬には分からなかった。しかしヴァイツマンの表情が、その答えを受けて少し変わった。

 それからゆっくり黒瀬に向き直った。

「私の父はオデッサのユダヤ人でした。毎晩祈っていた。来年はエルサレムで、と。その祈りを聞いて育ちました。エルサレムは私にとって、地図の上の場所ではない。魂の問題です。あなたはそれを理解できますか」

「理解できません」と黒瀬は言った。「私にはそういう魂の故郷がない。しかし——だからこそ、外側から見えるものがあります。今のヨーロッパで何が起きているか。ヒトラーが政権を取った。公電によれば、ドイツはミュンヘン郊外に政治犯の収容施設を作り、議会から立法権を奪う法律を通したところです。ドイツが本格的に動き始めています。エルサレムを待っている時間が、どれだけあるか」

 ヴァイツマンは黒瀬を見た。長く見た。

「それは脅しですか」

「現実です」と黒瀬は言った。「パレスチナへの道は長い。アラブ人との問題がある。英国の委任統治がある」

「英国」とヴァイツマンは言った。

 短い言葉に、四十年分の重さが乗っていた。

「私は英国のために火薬を作った男です。大戦のさなか、アセトンを発酵で作る方法を英国に渡した。無煙火薬の製造に欠かせない溶剤です。あの四年間、英国の砲弾は、私の細菌が飛ばしていた。その借りの中で、バルフォア卿は手紙を書いた。ユダヤ民族の郷土をパレスチナに、と。一枚の手紙です。それから十五年、英国は白書を重ねて、手紙を薄めてきた。三年前の白書は、移民の枠を絞ると書いた。抗議をすれば、今度は書簡で薄めた白書を薄める。手紙と白書と書簡。帝国の約束は、紙の種類が増えるたびに軽くなる」

 化学者は、自分のグラスを見た。

「列強に対して幻想はありません、ミスター・クロセ。あなたの国にもです。私が量っているのは、誠実さではない。化学と同じです。条件が揃っているかどうか、それだけだ」

「樺太は、今すぐ動けます」

「領土移譲の承認に時間がかかるとしても、移民の協定から始めればいい。臨時ビザを出せば明日からでも可能です」と黒瀬は言った。「インフラがある。三十万人の日本人がいて、すでに街が動いている。完璧ではない。しかし今、逃げ場が必要な人々がいます」

 ヴァイツマンは椅子の背にもたれた。天井を見た。しばらくそのままでいた。

 レストランの他の客が話し、笑い、食器が鳴った。ヴァイツマンだけが止まっていた。

「これは私の信念への裏切りかもしれない」

 と彼はやがて言った。独り言のような声だった。

「裏切りではありません」

 とミリアムが言った。初めて口を開いた。

「生存です」

 ヴァイツマンがミリアムを見た。二人の間に何かが流れた。

 黒瀬には入れない場所にある何かだった。ユダヤ人同士の、長い歴史の重さを共有する者同士の何かだった。

 ヴァイツマンは深く息を吐いた。

「条件があります」と彼は言った。

「聞かせてください」

「三つです。第一に、この提案はユダヤ人組織の公式な要請として発表しないこと。あくまで日本政府の提案として出す。私たちは関与していない」

「了解しました」

「第二に、パレスチナへの移住と樺太への移住は、あくまで別個の選択肢として存在すること。樺太案がパレスチナ案を否定するものではないという立場を、日本政府が明確にすること」

「できます」

「第三に」ヴァイツマンは少し間を置いた。

「アイヌの問題です。あなたは北海道にアイヌの自治区を設けると言った。樺太のアイヌとニヴフとウィルタの人々にも適用されるべきです。ユダヤ人の移住が彼らの権利を侵害しないという保証が必要です。文書で」

 黒瀬は一拍置いた。

「文書にします」

「即答ですね」

「その条件は正しいからです」

 ヴァイツマンはしばらく黒瀬を見た。

「黒瀬さん、なぜこれをやるのですか。あなた個人の動機は何ですか」

「上海のコックに言われました。人の土地を取れば悪いことだ、と。日本が満洲でやっていることは、悪いことです。しかし日本のすべてが悪いわけではない。悪い歴史と並行して、正しいことをする可能性もある。その可能性に賭けています」

「賭けですか」

「外交はいつも賭けです」

 ヴァイツマンが笑った。四年前の廊下で、遠くから見た誰かへの笑い方と同じ、人懐っこい笑い方だった。自分に向けられるのは、初めてだった。

 しかしその目の奥には、さっきまでなかった疲れがあった。何かを決めた人間の疲れだった。

「分かりました。反対しません」

 ヴァイツマンは立ち上がった。帰り際、ミリアムの肩に手を置いた。

 それだけだった。

 

  *

 

 ホテルを出た。ミリアムと二人で湖畔を歩いた。三月の午後、湖面が光っていた。

「うまくいったわね」

「第三の条件は、想定していませんでした」

「ヴァイツマンは正しいわ。先住民族の権利の保証なしに進めれば、同じ過ちを繰り返すだけ」

「文書を作ります。松岡には事後報告になりますが」

「松岡さんは怒るでしょう」

「怒ります。国際連盟の場での提案に入れるか入れないかは、彼の判断です」

 ミリアムが黒瀬を見た。

「あなたはいつも、既成事実を作ってから報告する」

「効率的な方法です」

「危険な方法よ」

「同じことです」

 湖の水が光っていた。アルプスの雪解け水が流れ込む、深くて冷たい湖。

 

  *

 

 その夜、黒瀬は松岡の宿舎を訪ねた。

 ホテルの廊下は静かだった。遠くで誰かが話す声がした。フランス語だった。

 黒瀬がドアをノックすると、間があった。扉が開いた。

 松岡は背広を脱いでいた。シャツの袖をまくっていた。机の上に書類が積んであった。灰皿に煙草が燃えていた。一人で、夜の書類と向き合っていた。

「ヴァイツマンの黙認を得ました」と黒瀬は言った。「三つの条件付きで」

 松岡は黒瀬の話を最後まで聞いた。聞き終えて、しばらく黙っていた。

 窓の外で、ジュネーブの夜が深まっていた。

「四点目は聞いていない」と松岡は言った。

「アイヌ自治区は、私の承認を得ていない」

「そうです。薬——」黒瀬は言葉を選び直した。「十日前に、文言に加えました。三日前の報告では、伏せました。ヴァイツマンの条件と合致したので、提案に含めます」

「伏せた、と今言ったな」

「言いました」

 松岡は黒瀬を見た。

「お前は私を操っているのか」

「操っていません。材料を揃えています。判断は閣下がされます」

 松岡は机の上の文言に、もう一度目を落とした。

「気づいているか」とやがて言った。「この四点目は、樺太とアイヌで終わる紙ではないぞ。帝国の中の民族に自治という言葉を使えば、次に指を差されるのは朝鮮だ。台湾だ。連盟の連中より先に、朝鮮人が読む。読んで、覚えている」

「承知の上です」と黒瀬は言った。

「承知の上で、書いたのか」

「いずれ、必ず問われる問いです。外から問われる前に、自分の言葉で書いておきたい。答えを持っている国と、答えを持たされる国の差は、そこで付きます」

「今は言うなよ。ここでも、東京でも」

「明言はしません。読める者にだけ、読めるように書いてあります」

 松岡はしばらく黙った。

「十一日後に詔書が出る。その前に私が発表する。閣議決定は脱退だ。それに反することを私がやる。分かっているか」

「分かっています」

「分かっていて、お前は動いた」

「はい」

 松岡が立ち上がった。窓際に行った。

「ひとつだけ言っておく」と松岡は言った。

「脱退は変わらない」

 黒瀬は松岡を見た。

「今ではない、ということだ。時間が必要だ。その時間を稼ぐために、私は連盟に提案する。それだけだ。連盟が満洲国を認めない限り、日本がいずれ出ることは変わらない。しかし、今ではない。それがこの提案の意味だ。陸軍にもそう説明する。外務省内の脱退派にもそう説明する。将来の脱退は変わらない——ただし今ではない、と」

 黒瀬はその言葉を聞いた。

 松岡の言い訳だった。

 しかし言い訳は、時に現実を動かす。言い訳があるから人間は動ける。言い訳のない決断は、英雄だけが下せる。

 松岡洋右は英雄ではなかった。しかしそれゆえに、この言い訳を使って動けた。

「分かりました」と黒瀬は言った。

「明日、佐藤次席を交えて三人で話す」と松岡は言った。「それまでは——静かにしていろ」

「はい」

 黒瀬は宿舎を出た。

 三月のジュネーブの夜だった。レマン湖が見えた。夜の湖は黒かった。

 しかし黒の中に、深い色があった。

 夜にしか見えない青だった。

 




「太平洋の夢」のNoteを始めました。

小説の裏側——史実調査の記録、執筆の経緯、歴史の「if」への問いを書いていきます。
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