第十六章 特別総会
ジュネーブ 一九三三年(昭和八年)三月二十五日
朝、六時に目が覚めた。
カーテンの隙間から光が入っていた。ミリアムはもういなかった。
テーブルの上に紙が一枚あった。ヘブライ語で何か書いてあった。読めなかった。
捨てなかった。上着のポケットに入れた。
シャワーを浴びた。髭を剃った。外務省から支給された濃紺の背広を着た。ネクタイを締めた。鏡を見た。
鏡の中に外交官がいた。
黒瀬誠一郎、三十五歳。今日これから、再開された特別総会で、松岡洋右が誰にも承認されていない提案を発表する。その原稿を発案し、十八分に削った男。
ラッキーストライクを一本取り出した。火をつけようとして、やめた。
今日は要らないと思った。
宿舎を出ると、街角の売り子が朝刊を差し上げていた。仏字紙の一面に、熱河の地名があった。長城の関所の名前も、写真の下にあった。演壇の外では、今日も地図が動いている。この提案は、動く地図の上で読まれる。
*
パレ・デ・ナシオンの前の広場で、黒瀬は松岡と会った。
松岡は一人で立っていた。随員も秘書もいなかった。コートの襟を立てて、建物を見上げていた。
三月の朝の光が、石造りの外壁を白く照らしていた。黒瀬が近づいても、松岡は振り返らなかった。
「十日前、私はお前に言った」と松岡は言った。「脱退は変わらない。今ではないだけだ、と。今日、演壇に立っても、それは変わらない。この提案は脱退の先送りだ。満州問題から連盟の目を逸らせて、時間を稼ぐだけだ。それでいいか」
「その時間で、何かが変わるかもしれません」と黒瀬は言った。
「変わらないかもしれない」
「そうです」
「それでもやるか」
「あなたがやります。私は原稿を書いただけです」
松岡が少し笑った。声のない笑い方だった。
「お前は本当に、どこの省庁にも向いていない人間だな」
「よく言われます」
松岡は建物の方を向いた。
「怖いのは、陸軍ではない」と松岡は言った。「政府と、世論だ。詔書はまだ机の上にある。それに——講和をまとめた男が、桟橋で国賊と呼ばれるのを、この国は一度やっている。ポーツマスの後だ。俺は上海で聞いた。入省したての年だった」
「七歳でした」と黒瀬は言った。「神田で、父と、店の雨戸に釘を打ちました」
松岡が黒瀬を見た。短く見て、建物に目を戻した。
「なら、覚悟の相場は知っているな」
「はい」
「ひとつ聞く」と松岡は言った。「お前は本当に、これが正しいと思っているか」
黒瀬は即座に答えなかった。
「正しいかどうかは、分かりません」とやがて黒瀬は言った。「しかし、脱退よりはましだと思っています。脱退の先に何があるか、私には見えています」
「見えているものとは何だ」
「戦争です」と黒瀬は言った。「脱退の先に、戦争があります。どの国との、どんな形の戦争かは分かりません。しかし孤立した国家が最終的に向かう場所は、決まっています」
松岡の表情が変わった。変わった、というより、何かが抜けた。鎧のようなものが、ほんの少し、緩んだ。
「私も見えている」と松岡は静かに言った。
「だから眠れなかった」
二人は黙った。広場に風が吹いた。三月の冷たい風だった。
広場の石畳に、朝の光が斜めに差していた。松岡の影と、黒瀬の影が、同じ方向に伸びていた。
「行くか」と松岡はやがて言った。
「はい」と黒瀬は言った。
二人は並んで歩いた。正面玄関に向かって。石畳の上を。影が前に伸びた。
*
議場に入った。
特別総会の再開を求めたのは、日本だった。名目は、勧告に対する帝国政府の態度の表明。各国の代表は、脱退の正式な口上を聞くつもりで戻ってきていた。葬式の顔で席に着く代表が、いくつもあった。
国際連盟の議場は、朝の光の中で荘厳だった。天井が高かった。大理石の床に、各国代表の靴音が反響した。
四十を超える国の代表が座っていた。それぞれの言語でざわめいていた。そのざわめきが混ざり合って、言語ではない何かになっていた。
傍聴席の一角に、オブザーバー席がある。連盟に加盟していないアメリカは、ベルンの公使をそこに座らせていた。満洲問題の討議を、アメリカは二年間、その席から見てきた。少し離れた席に、軍縮会議のためにジュネーブに滞在しているソ連代表部の制服たちもいた。加盟していない二つの大国が、それぞれの理由で、この議場に耳を置いていた。
黒瀬はそのざわめきを聞きながら、自分の体の状態を確認した。手が震えていなかった。心拍が速くなっていなかった。胃が痛くなかった。内側の静けさが続いていた。
席に着く直前、松岡が黒瀬の耳元で言った。小声で、しかし明確に。
「黙って見ていろ」
「はい」と黒瀬は言った。
日本の発言順が来た。
松岡が演壇に向かった。黒瀬は三列後ろの席に座った。
原稿は松岡の手にある。黒瀬の手には、何もなかった。
松岡の背中を見た。小柄な体。濃いグレーの背広。白いポケットチーフ。
演壇に上がる前に、松岡は一度立ち止まった。
黒瀬はその一秒を見た。松岡の背中が、一瞬だけ揺れた。揺れたというより、止まった。呼吸が止まったのかもしれなかった。それとも、何かを決めた瞬間の静止だったのかもしれなかった。黒瀬には分からなかった。
しかし何かが、その一秒間に起きた。それだけは分かった。
松岡が演壇に立った。
話し始めた。
最初の三分は、通常の外交的な文言だった。国際連盟への敬意、平和への希求。議場のざわめきは続いていた。
四分目に、松岡の声のトーンが変わった。
「日本政府は本日、太平洋の平和的秩序のために、具体的な提案を行います」
ざわめきが静まった。
資料から顔を上げる代表が増えた。黒瀬は議場全体が呼吸を変えるのを感じた。
松岡が第一点を読んだ。
ハワイの日米共同統治。
アメリカのオブザーバー席で、公使が手帳を出した。書く速さが、外交官の速さではなかった。英国代表がフランス代表に何か言った。フランス代表が前傾みになった。
松岡が第二点を読んだ。
樺太のユダヤ民族への移譲。イスラエル国建国の支援。
議場が静止した。
完全な静止だった。
四十カ国以上の代表が、一瞬だけ同じ状態になった。今聞いたことが本当に起きているのか、という確認の静止。
黒瀬はその静止を、体全体で感じた。三秒間。
それから、ざわめきが戻った。今度は別の質のざわめきだった。さっきより高く、速く、複数の言語が同時に走るざわめき。
傍聴席の隅で、ソ連代表部の男が一人、部屋を出て行った。歩き方が速かった。打電の速さを競う歩き方だった。北樺太、という言葉が、モスクワへ向かって走り始めていた。
松岡が第三点を読んだ。
南洋委任統治の国際監視受け入れ。
松岡が第四点に入る前に、一拍置いた。
その一拍が、黒瀬には分かった。松岡は今、迷っている。読むかどうか、迷っている。
誰の承認も得ていない四点目を、読むかどうか。
その一拍は、長さにして一秒にも満たなかった。しかし黒瀬には、永遠に近い長さに感じられた。
松岡が読んだ。
「日本政府は、北海道における先住民族アイヌの自治区設定を推進します。これは日本が多民族の共存を国家の基本方針とすることの表明であり、樺太における先住民族の権利保護と不可分の提案であります」
議場が再び静止した。
今度の静止は、三秒より長かった。
黒瀬は議場を見渡した。
英国代表が目を細めていた。手元の紙を見ていなかった。目は議場のどこでもない場所にあった。そこに何が見えているか、黒瀬には見当がついた。円卓会議の空転した議事録。ガンディーの独房。帝国の中で自治という言葉が持つ、火薬の重さ。
フランス代表は、ペンを持ったまま止まっていた。ハノイの総督府にも、同じ言葉を向けられる日が来る——書き留めれば、その日が近づく気がする言葉だった。
オランダ代表は、隣の席に何かを囁きかけて、やめた。
植民地を持たない国の席から、最初の拍手が起きた。北欧の席だった。ラテンアメリカの席が続いた。まばらで、しかしはっきりした拍手だった。
植民地を持つ国の代表たちは、手を動かさなかった。動かせなかった。拍手をすれば、自国の新聞に問われる。なぜ拍手をしたのか、と。
日本への評決のはずだった。
四点目が、評決の向きを変えた。日本が問われる側から、問う側に、一枚の紙の上で入れ替わった。
それが、三秒より長い静止の正体だった。
黒瀬はソ連のオブザーバーの空いた椅子を見た。それから、英国代表の細めた目を見た。
それで十分だ、と黒瀬は思った。今は。
*
同じ時刻、東京は夜だった。
ラジオは、朝からずっと、ジュネーブの総会の予定を伝えていた。今夜、わが代表団は連盟に決別を告げる——各紙の夕刊は、そういう趣旨の紙面をすでに刷り終えていた。脱退の二文字は、どの新聞社でも、一番大きな活字で組んであった。
日比谷の交差点に、人が出ていた。号外を待つ人々だった。提灯を持って出てきた者もいた。
深夜、短波の第一報が通信社に入った。
編集局が、静かになった。
脱退ではなかった。提案だった。ハワイ。樺太。ユダヤ人。アイヌ。電文の単語は、どれも用意した活字の箱に入っていなかった。
歓声の準備をしていた喉が、行き場を失った。
組んであった紙面は、ばらされた。輪転機は止まったまま、朝を待った。
*
松岡が演壇を降りた。
席に戻る途中、松岡は黒瀬の横を通った。立ち止まらなかった。視線を合わせなかった。しかし右手が、一瞬だけ黒瀬の肩に触れた。一秒にも満たない接触だった。
しかしそれは、松岡洋右という男が、生涯を通じて発した最も長い賞賛だった。
黒瀬はそれを知っていた。
議場を出た廊下で、英国代表のひとりが黒瀬に近づいてきた。
「インタレスティング」と彼は英語で言った。
それだけ言って、行ってしまった。
廊下の端に、ヴァイツマンがいた。
壁に背をもたせて立っていた。黒瀬と目が合った。ヴァイツマンは頷いた。一度だけ。それから歩き去った。
廊下の別の端に、松岡がいた。
煙草を吸っていた。窓の外を見ていた。黒瀬が近づいても振り返らなかった。黒瀬は松岡の隣に立った。
二人で窓の外を見た。レマン湖が見えた。三月の午後の光の中で、湖は青かった。
「東京の紙面は、割れる」と松岡は言った。
「おそらく」
「政府は、割れた風向きを確かめてから怒りに来る。詔書を握ったままな」
「おそらく」
「お前は謝らないのか」
「何を謝るのですか」と黒瀬は言った。「閣下が判断されました。私は原稿を書いただけです」
松岡が黒瀬を見た。横目で見た。それから前を向いた。煙草を一口吸った。
「そういうことにしておく」
「はい」
「ただし」と松岡は言った。「これで終わりだと思うな。始まりだ。今日から本当の仕事が始まる。詔書は、まだ止まっていない。斎藤さんが二日、止めてくれるかどうかだ。ソ連が動く。陸軍が動く。アメリカが反応する。東京の新聞が、明日の朝、何と書くか——俺たちはその全部を相手にしなければならない。逃げるなよ」
「逃げません」
松岡は煙草を窓の外に捨てた。
「行くぞ」と松岡は言った。
「はい」
二人は廊下を歩いた。松岡が前で、黒瀬が少し後ろだった。
黒瀬は上着のポケットに手を入れた。
ミリアムの書いた紙があった。ヘブライ語の文字。読めない文字。
読めない言語がある。まだ習得していない言語がある。それはつまり、まだ終わっていないということだった。
廊下の窓から、レマン湖が見えた。三月の午後の光の中で、湖は初めて青かった。
灰色ではなかった。確かに、青かった。