終章 四十二の首都
一九三三年(昭和八年)三月二十五日夜〜四月
その夜、電文は四十二の首都へ走った。
同じ文面が、別々の机で、別々の意味になった。
ロンドン。
外務省の極東部では、電文が二度回覧された。一度目は事実として。二度目は、前例として。
タイムズの論説委員は、社説の見出しを三度書き直した。決定稿は「興味深い、しかし危険な先例」となった。何が危険なのかは、社説の中では最後まで特定されなかった。特定すれば、インドの名前を書くことになるからだった。
インド省では、若い書記官が提案の第四点に赤線を引き、上司の未決箱に入れた。翌朝、書類は赤線ごと、既決箱に移されていた。コメントは付いていなかった。コメントを付けること自体が、危険な先例になる種類の書類だった。
植民地省の別の階では、パレスチナ委任統治の担当官が、同じ電文を、別の帳簿の横で読んでいた。移民の割当をひとつ絞るたびに、ロンドンで抗議が起き、エルサレムで陳情が積まれ、アラブの側では別の火が点く。挟まれて十五年になる帳簿だった。極東の雪の島が、この圧力の幾らかを引き受けてくれるのなら。
担当官は、報告メモの結論欄に慎重なひと言を書いた。
——歓迎スベキ可能性アリ。
役所の言葉としては、最大級の本音だった。
パリ。
ケ・ドルセーの極東課長は、報告メモの余白に一行だけ書いた。
——ハノイで同じ提案を求められた場合の回答を、準備しておく必要はないか。
書いてから、しばらく見て、その一行を線で消した。
消した線の下で、文字はまだ読めた。
ハーグ。
植民省の反応は、公式には存在しなかった。非公式には、バタヴィア総督府への定期便の中に、切り抜きが一枚増えただけだった。切り抜きに添えられた紙には「参考」とだけあった。参考、は役所の言葉で、忘れるな、という意味だった。
ベルリン。
できたばかりの宣伝省は、絶好の材料を見つけたと考えた。ユダヤ人の島。極東の劣等人種が、寄生虫に土地を与える——見出しの語彙は、すでに揃っていた。嘲笑は、翌日の党の新聞に躍った。
同じ朝、シャルロッテンブルクのユダヤ人街では、同じ記事が別の意味で読まれた。
時計商の老人が、記事を丁寧に切り抜いた。孫に読ませるためではなかった。住所録の頁に挟むためだった。横浜、と書かれた古い住所の頁に。
ワルシャワ。
イディッシュ語の新聞は、一面の半分を使った。
地図が刷られた。ポーランドのユダヤ人の大半が、生まれて初めて見る形の島だった。細長く、北で切れて、雪の色をしていた。
記事の結びは疑問文だった。「エルサレムは遠い。この島は、もっと遠い。しかし、遠さには二つの種類がある——距離の遠さと、扉の遠さと」
その号は、刷った分だけ売り切れた。
モスクワ。
外務人民委員部では、リトヴィノフが電文を二度読んだ。
三ヶ月前、日本は不可侵条約を断った。その同じ国が、国境の島を第三者に渡すと言い出した。挑発か、迂回か、それとも本物の緩衝か。
計算は三通り書けた。三通りのどれにも、悪くない数字が出た。ユダヤ資本、外貨、そして極東の国境から日本の旗が一枚減る可能性。
委員部の建物から少し離れた、別の建物でも、同じ夜に抽斗がひとつ開いた。
クロセ・セイイチロウ、という綴りのファイルだった。表紙の裏に、写真が一枚貼ってある。上海の楽団と撮った、被写体が笑っている一枚だった。その下に、上海発の報告が時系列で綴じられている。最新の頁は、まだ薄い。しかし今夜から、この綴りは優先度の欄の印が変わる。
ファイルを繰る手は、事務的だった。
上海。
霞飛路の店は、その週も客が少なかった。ソフィアは注文のない時間に、スクリャービンではなく、黒海の子守唄を弾いた。弾き終えて蓋を閉め、楽譜の間から便箋を出した。
書くことは決めてあった。クロセは何も気づいていなかった。提案のことは、店の誰も知らなかった——それだけを書いて、封をした。嘘ではない部分だけで組んだ報告だった。母の手紙の判子がもう一つ増えるなら、それで足りた。
それから、楽譜の間からもう一枚——黒瀬がバンドの仲間たちと撮った写真を出して、しばらく眺めた。眺めてから、報告書と同じ楽譜の間に戻した。
南京。
外交部の反応は、冷静で、正確だった。
提案のどこにも、満洲の文字はない。熱河では今も日本軍が動いている。ジュネーブの美しい四点は、長城の内側の一個師団も動かさない——その認識が、部内メモの前段だった。
後段は、少しだけ違った。
東京の内部で、何かが割れ始めている。割れ目は、使える。
メモは委員長の机に上がり、印だけ押されて戻ってきた。
ワシントン。
新しい大統領は、就任から三週間しか経っていなかった。銀行は閉まり、また開いたばかりで、ホワイトハウスの関心の九割は国内の帳簿にあった。
それでも国務省の極東部は、夜のうちにメモを作った。ハワイ共同統治の提案は、法的には検討に値せず、政治的には無視できず、軍事的には海軍が反対する——三つの意見が一枚に同居した。
海軍作戦部では、灯りがひとつ、遅くまで点いていた。机の上に、真珠湾の工事日程表があった。七年前、ホノルルの領事館の報告書を綴じ込みに挟んだ部屋と、同じ部屋だった。
日程表は、この七年で三度、後ろへずれていた。
将校はそれを眺め、眺めただけで、抽斗に戻した。
東京。
未明の新聞社では、ばらされた紙面の組み直しが続いていた。
整理部の棚から、活字が拾われていく。売、国、外、交。拾う職工の手は速かった。組む前に、デスクの声が飛んだ。待て。まだ組むな。論調が決まっていない。
脱退の熱で走ってきた紙面が、行き先を失って空転していた。糾弾するには、提案はまだ何も失っていない。称えるには、昨日までの社説が邪魔だった。
立花は、自分の机で原稿用紙を見ていた。
一行目が、書けなかった。
売国、と書けば済む。済むことは分かっていた。百三十二社の宣言に、自分の社も判を押している。線路は敷いてある。走れば済む。
ペンを持ったまま、立花は窓の外の空を見た。空が白み始めていた。
書けない朝が来ることを、この商売を始めたときの自分は、知っていただろうか。
締め切りは、待たなかった。立花は一行目を書いた。どちらの一行だったかは、朝刊が決めた。
官邸。
首相の机に、電報が二通並んでいた。一通は、発言の一時間前に届いた全権の親展。重大なる発言を行う、渙発の手続きは反響の到着まで待たれたし。もう一通は、夜のうちに束になった、各国の第一報だった。
斎藤実は二通を長いこと見てから、秘書官を呼んだ。
「枢密院の日程を、二日、繰り延べる。理由は、文案の再検討としておきなさい」
秘書官は聞き返さなかった。
詔書の渙発は、延びた。
宮中。
報告は、未明に上がった。
天皇は報告の紙を二度読んだ。ジュネーブで四つの提案が行われ、詔書の渙発は延期された。紙には、そう書いてあった。
「そうか」とだけ言った。
紙を返した。それ以上の言葉は、出さなかった。出せば、政治が動く。動かし方を誤った三年前の記憶が、まだ手の中にある。
安堵、という言葉を、立憲の君主は使えない。使えない言葉は、胸の中で別の形になる。
その朝、天皇は庭を少し長く歩いた。
祖父の御世に、海の向こうから来た王がいた。同じ海に生きる民族です、と王は言ったという。五十二年前の言葉が、昨夜、ジュネーブの演壇で四つの提案になった——繋がりを知る者は、庭には誰もいなかった。
歩幅だけが、いつもより少し、ゆっくりだった。
陸軍省。
軍務局の一室で、田中大佐は上海から持ち帰った綴りを机に置いた。
詔書は、渙発の予定日を過ぎても出なかった。全権は勝手な提案を読み、外務省の一書記官の名前が、いくつかの部屋で同時に口にされ始めていた。
田中は提案の写しを、もう一度、四点目だけ読み返した。北海道の先住民の自治区。紙に書かれていない地名が、大佐には見えていた。京城。台北。自治、という二字が海を渡ったとき、最初に拾うのは総督府ではない。総督府に治められている側だ。
樺太の島一つより、この二字の方が遠くまで飛ぶ——陸軍省で最初にそう読んだのは、田中だった。
紙は、使う日を選べる。
田中は綴じ紐に指をかけた。
解く手前で、止めた。
まだだ、と大佐は思った。紙の弾は一発しかない。一発の弾は、的が一番大きくなった日に撃つ。
綴りは、抽斗に戻された。
抽斗の閉まる音が、夜明けの省内に、思いのほか大きく響いた。
豊原。
樺太の朝は、まだ雪だった。
製紙工場の食堂で、職工たちが二日遅れの新聞を回し読みしていた。
「ここに、誰が来るって?」
「ユダヤ人だと」
「ユダヤ人てのは、何人だ」
誰も正確には答えられなかった。三十万人の日本人が住む島で、その民族を実際に見たことのある者は、食堂に一人もいなかった。
窓の外で、雪が製材の山に積もっていた。
ワイパフ。
勇は、集会所の前で新聞を二度読んだ。
一度目は英語のホノルルの朝刊で。二度目は、一日遅れの邦字紙で。
共同統治、という言葉を、二つの言語で読み比べた。英語では条約の言葉に見えた。日本語では、約束の言葉に見えた。
畑から戻った清蔵に、勇は要点を訳した。
「わしらの畑は、どうなる」と清蔵は言った。
「変わらない」と勇は言った。「たぶん——変わらない、ということが、初めて決まるんだ」
清蔵は頷いて、畑へ戻っていった。
勇は集会所の柱を見た。七年前、通告書が貼られた柱だった。いま貼ってあるのは、青年会の野球の対戦表だけだった。
王様が日本へ行った年には、もう船を漕いでいた——そう言った老人の声を、勇はふと思い出した。
海の話は、まだ終わっていなかった。
*
ジュネーブ。
夜、旧市街のアパルトマンで、黒瀬とミリアムは各国の第一報を机に並べていた。
電文の写し、切り抜き、代表部で書き取った反応の断片。四十二の首都の温度が、紙の形でテーブルに載っていた。
「これからどうなるかしら」とミリアムが聞いた。
珍しい問いだった。答えの決まっていない問いを、この人はめったに口にしない。
「分かりません」と黒瀬は言った。「でも、不可能ではなくなりました」
ミリアムが少し笑った。四年前の廊下で、初めて見せたのと同じ笑い方だった。
「あなたの『分かりません』を聞くと、安心するの。不思議ね」
ミリアムはテーブルの切り抜きを一枚、揃え直した。
「この安心は、家族がいたころ以来よ」
黒瀬は上着の内ポケットから、今朝の紙を出した。ヘブライ語の文字が、灯りの下にあった。
読めない文字だった。
「読みましょうか」とミリアムが言った。
「まだいい」と黒瀬は言った。「読める日まで、取っておきます」
二人の指が折り畳まれた紙の上で触れ合った。
窓の外に、夜のレマン湖があった。
五十二年前に蒔かれた種は、土の下で五十二回の冬を数えた。五十三回目の冬が終わった夜、芽はまだ、土の中にいた。
しかし土の上では、四十二の首都が、初めて同じ島の名前を口にしていた。
—— 第一巻 樺太の種 了 ——