第二章 オデッサの記憶
ジュネーブ 一九二九年(昭和四年)十月 翌朝
翌朝、黒瀬が目を覚ますと、ミリアムはすでに起きていた。
カーテンの隙間から光が入っていた。昨夜の雨は上がり、湖の方から薄い霧が石畳を這っていた。部屋の中に、タバコの煙の残りと、革表紙の本の匂いがした。
ミリアムは窓際の椅子に座って、何かを読んでいた。自分のバッグから出した本だった。
それだけで黒瀬は少し安心した。安心するような人間ではないはずだが、と思いながら。
「オデッサ出身ですか」
と黒瀬はロシア語で言った。昨夜の会話から推測していた。母音の置き方、特定の子音の処理が、ウクライナの南方訛りに近かった。
ミリアムは本から目を上げなかった。
「分かるの?」
「ウクライナ語の干渉がロシア語のリズムを変える。オデッサか、でなければヘルソン」
「オデッサよ」
今度は顔を上げた。何かを測るような目だった。
「一九〇五年にポグロムがあった。兄が死んだの。それが理由で、私はここにいる」
黒瀬は何も言わなかった。言葉を足すのは失礼だと判断した。
しかし頭の中で、ロシアの地図を広げた。オデッサ。黒海に面した港湾都市。十九世紀から大きなユダヤ人コミュニティがある。一八七一年、一八八一年、一九〇五年——三度のポグロムがあった街だ。一九〇五年のそれは、日露戦争の敗戦と革命の混乱の中で起きた。戦艦ポチョムキンが反乱を起こしたのと、同じ年、同じ港。
黒瀬はその年の公文書を、外務省の資料室で読んだことがある。数字が並んでいた。死者数、損壊家屋数、難民数。数字は事実を伝えるが、事実の重さは伝えない。
ミリアムの兄は、その数字の中の一人だった。
一九〇五年、と黒瀬は思った。
同じ年、東京では講和に怒った群衆が交番を焼いていた。オデッサでは、引き裂かれた寝具の羽毛が雪のように路地を舞った。大陸の両端で、七歳の少年と十歳の少女が、それぞれの群衆を見ていた。
そのことを、黒瀬はまだ彼女に話していない。
「昨夜の話」とミリアムは言った。「樺太の話。本気なの?」
「まだ分かりません」
「正直ね」
「慎重なだけです」
ミリアムは窓の外を見た。レマン湖はまだ霧の中にあった。
「ヴァイツマンはパレスチナ以外を認めない」
と彼女は言った。ヴァイツマン。世界シオニスト機構の代表だ。
「彼にとってはエルサレムか死か、それだけ。でも私は違う。私は兄に生きていてほしかった。エルサレムでなくてよかった。どこかに。本当に、どこかに生きていてほしかった」
部屋が静かだった。
「一七年に革命があった」とミリアムは続けた。「ボルシェヴィキが政権を取ったとき、私はジュネーブにいた。レーニンの周囲にはユダヤ人の革命家が多かった。平等の国が来るかもしれないと思った人が、オデッサにもいた」
「しかし」と黒瀬は言った。
「しかし」とミリアムは繰り返した。「スターリンが出てきた。今、オデッサで何が起きているか、私には分からない。手紙が来なくなった。来たとしても、本当のことは書けない。ソ連の検閲がある。私の家族がまだ生きているかどうか——」
ミリアムはそこで止まった。一秒。
「分からない」
部屋が静かになった。
ロシア帝国がユダヤ人を迫害したように、ソ連もユダヤ人を利用し、また迫害した。形が変わっても、構造は変わらない。黒瀬はそれを外交文書で知っていた。しかし外交文書は、感情を伝えない。
「私はITOにいたの」とミリアムは続けた。「解散する前の、ユダヤ領域主義機構に。ザングウィルの思想を引き継いでる。パレスチナではない場所に、ユダヤ人の土地を作る可能性を探してる。でも金もなく、組織もなく、誰も聞かない」
「聞かないのは、思想の問題ではないでしょう」と黒瀬は言った。
「そう。扉の問題」
ミリアムは指を折り始めた。
「アメリカは五年前に移民法を変えた。国ごとの割当制に。東欧からの枠は、それまでの一割以下になった。エリス島の扉は、事実上閉まった。イギリスはパレスチナへの移民を年ごとに絞ってる。アラブの反発が怖いから。カナダも、オーストラリアも、南米も、恐慌の前から扉を細くしていた。これからは、もっと細くなる。景気が悪くなった国が最初にすることは、よそ者を締め出すこと。どの国でも。いつの時代でも」
黒瀬は頭の中で世界地図を広げた。彼女の言うとおりだった。世界は広い。しかし、入れる場所は年々狭くなっている。大戦が終わってから、国境の数は増え、旅券は分厚くなり、査証の判子は減った。十九世紀には、旅券なしで大西洋を渡れたのだ。
「行き場のない人間が数百万いて、扉のある国が一つもない。それが今のヨーロッパなの」
「日本なら聞くかもしれない」
と黒瀬は言った。
ミリアムが黒瀬を見た。慎重さが少し溶けた顔だった。
「なぜ」
「地政学的な理由があります。具体的には、今は言えない。私個人の考えにすぎない」
黒瀬は起き上がって、ラッキーストライクを探した。
「ただ、もし可能性があるとしたら——」
「ところで、あなたは日本語をどこで覚えたのですか」
「横浜にユダヤ人のコミュニティがあって、そこの男に教わったの」
ミリアムは少し間を置いた。
「元の話に戻る?それとも、別の話をする?」
黒瀬はタバコに火をつけた。
「どちらも同じ話です」と彼は言った。
ミリアムは初めて、ほんの少し、笑った。
窓の外のレマン湖から、霧が引き始めていた。