第三章 待っていた女
ジュネーブ 一九二九年(昭和四年)十月
その廊下を、ミリアム・カッツは三週間かけて測っていた。
軍縮委員会第四分科会が終わる時刻。日本の書記官が出てくる扉の位置。書記たちが散っていく方向。柱から扉まで、七歩。
彼女は「待ち伏せ」という言葉を使わなかった。頭の中では、面談と呼んでいた。相手がまだ知らないだけの、面談。
煙草は切らしていなかった。マッチも持っていた。それでも、煙草を一本乞うところから始めると決めていた。物を乞う人間は、警戒されない。特に、女は。
髪は後ろで束ねた。きちんと束ねてはいけない。きちんとした女は、目的を持って見える。雑に束ねた女は、他のことに忙しいだけに見える。
鏡の前で、彼女は束ね方を三度やり直した。雑に見えるように、丁寧に。
*
オデッサ。一九〇五年。
その年のことを、ミリアムは鮮明に覚えている。
五月、兄が台所に駆け込んできた。ダヴィド。十七歳。手に新聞を持っていた。
「皇帝の艦隊が沈んだ」と兄は言った。「日本だ。日本が沈めたんだ」
対馬という海峡の名前を、ミリアムはその日に覚えた。十歳だった。
兄は切手を集めていた。遠い国の切手ほど、価値があった。その夏、兄は手に入れたばかりの一枚を妹に見せた。菊の花の紋章が刷られた、小さな四角。
「皇帝を負かした国の切手だ」
六月、港の沖に戦艦が来た。ポチョムキン。街のどこかが燃えて、夜の空が低く赤かった。父は鎧戸を閉めた。
十月、通りが変わった。
最初は音だった。遠くの通りで、ガラスの割れる音。それから、羽毛が飛んできた。引き裂かれた寝具の羽毛が、雪のようにモルダヴァンカの路地を流れた。十月の雪は白くて、軽くて、燃えた家の煤で汚れていた。
三日間、一家は地下室にいた。
ダヴィドは二日目の夜、外へ出た。隣の一家を呼びに行く、と言った。
戻らなかった。
見つかったのは五日目だった。どこで、どんなふうに、を、大人たちは十歳の娘に言わなかった。言われなくても、通りを見れば分かった。
後年、ミリアムは公文書でその週の死者の数を読んだ。四百という数字だった。数字をどこから切っても、兄は出てこなかった。
切手帳は、荒らされた部屋のどこからも見つからなかった。菊の紋章の一枚だけが、床板の隙間に落ちていた。
ミリアムはそれを持たなかった。
持てば、いつか失う。覚えることにした。覚えたものは、奪われない。
*
一九一三年、ジュネーブ。
ロシア帝国の大学には、ユダヤ人の入学枠があった。狭い枠だった。女には、さらに狭かった。スイスの大学は、枠を設けていなかった。オデッサのユダヤ人の娘たちは、金を貯めて西へ向かった。ミリアムもその一人だった。
ジュネーブ大学、医学部。解剖学の教室で、彼女は人間の体を初めて開いた。体は精密で、壊れやすく、そして直せた。直せることが、彼女を医学に留めていた。
一九一九年の春まで。
その春、ウクライナからの報せが続けて届いた。プロスクロフ。ジトーミル。キエフ周辺の町と村の名前が、毎週増えた。数字も増えた。数百から数千へ。数千から数万へ。
ミリアムは講義の帰りに事務局へ寄り、退学の書類に署名した。理由の欄は空欄にした。
書ける大きさの理由ではなかった。
一人の体は、縫えば閉じる。しかし縫う速さより、殺す速さのほうが速い。医学は個人を救う。個人では、もう間に合わなかった。
必要なのは、逃げ込める土地だった。
*
ユダヤ領域主義機構——ITOのロンドン事務所は、狭くて寒かった。
パレスチナでなくてもいい。どこかに、今すぐ、ユダヤ人が主人でいられる土地を。それがザングウィルの思想だった。一九〇五年、シオニスト会議がウガンダ案を葬った年に生まれた組織だった。
ミリアムは調査員として働いた。
ガルヴェストンの記録を整理した。テキサスの港に一万人を移した計画は、大戦で止まっていた。アンゴラ案の書類を読んだ。ポルトガル議会の議事録の中で、案は三年かけて乾いて死んでいた。
断られ方には種類がある、と彼女はその机で学んだ。
即座の拒絶は、まだいい。「検討します」が、一番殺す。
一九二五年、機構は解散した。最後の会合で、ザングウィルは長く話さなかった。
「夢は、もういい」と老人は言った。「ユダヤ人に必要なのは夢ではない。土地だ。私は先に疲れた。誰かが続けるなら——名簿は要らない」
翌年、ザングウィルは死んだ。
ミリアムは、名簿のない仕事を続けた。組織はない。金もない。肩書は、必要なときに借りた。
シオニスト連盟ジュネーブ支部——机は本当にあった。給料は出なかった。名刺は、最初からなかった。
生活費は、翻訳で稼いだ。医学の論文と、役所の報告書と、商館の手紙。ジュネーブは言葉の町で、言葉には値段がついた。医学部の五年は、体を直す役には立たなかったが、体の言葉を訳す役には立った。
*
一九二九年八月、ヘブロンの報せが届いた。
死者、六十七人。
ミリアムは電文を二度読んだ。一九〇五年と同じ作業を、頭が勝手に始めた。数字のどこを切っても、人は出てこない。
パレスチナは英国が統治していた。アラブの民衆がいた。移民の枠は細り、土地の値段は上がり、双方の死者だけが増えていく。
ヴァイツマンは、それでもパレスチナと言った。廊下で行き合ったとき、彼はミリアムに言った。
「ミリアム、他の土地の話なら、聞かない」
化学者の目は、優しくて、動かなかった。
地図が要る、とミリアムは思った。祈りの地図ではなく、生存の地図が。
*
日本という国は、リストの端にずっとあった。
最初にそれを置いたのは、兄だった。皇帝を負かした国。菊の紋章の切手。
二番目に置いたのは、ゲルショムだった。時計商の老人で、横浜に十二年住んだ男だった。ジュネーブの安レストランで、薄い紅茶を飲みながら彼は言った。
「日露戦争の戦費を、誰が貸したか知っているか。ニューヨークのユダヤの銀行だ。日本人はそれを忘れていない。あの民族は、借りを帳簿につける。何十年でも消さない」
「ポグロムは」とミリアムは聞いた。
「ない」とゲルショムは言った。「私のいた十二年、一度もなかった。ユダヤ人が珍しすぎて、憎む習慣が育っていない。無関心は、憎悪よりずっといい」
ミリアムは半年、ゲルショムの店に通って日本語を習った。帳簿の言葉と、挨拶と、値切り方。役に立つ順番に覚えた。
国は、決まりつつあった。入口だけが、なかった。
*
入口の噂を聞いたのは、九月の終わりだった。
国際連盟に、通訳を使わない日本人がいる。
ロシア代表団の若い書記が、笑い話として喋っていた。
「その日本人に、最初に何を教えたと思う。罵倒語だ。あの男は罵倒語から言語を覚える。しかも発音が完璧なんだ」
黒瀬誠一郎。外務省書記官。軍縮委員会、第四分科会。
ミリアムは三週間、観察した。
男は毎回、会議の記録を自分で取った。四つの言語が飛び交う部屋で、通訳の席を一度も見なかった。廊下では煙草を一本だけ吸った。アメリカの煙草。火をつける前に、いつも一秒、間があった。
役職は低い。だが、あの耳は役職より先に動く種類のものだった。
外交は建物だ、と彼女は思っていた。正面の扉は、大臣たちのためにある。自分のような人間は、開いている窓を探すしかない。
あの男は、窓かもしれなかった。
*
十月の午後、雨だった。
分科会が終わる音がした。椅子の脚が床を擦る音。書類がまとめられる音。複数の言語が、扉の内側で混ざり合う音。
ミリアムは柱に背をもたせた。
台詞は決めてあった。煙草を乞う。名前を呼ぶ。調べてあることを、少しだけ見せる。警戒される寸前で、止める。
扉が開いた。
「タバコを一本もらえますか、黒瀬さん」
日本語は、ゲルショムに直されたとおりに出た。母音の癖だけは、直りきらなかった。
男が顔を上げた。そして、ロシア語で返してきた。
「日本語を話せるのですか」
ミリアムは一秒、目を細めた。
母音の処理を聞いた。教科書のロシア語ではなかった。罵倒語から覚えた人間の、生きた耳のロシア語だった。
噂は、本当だった。
「少し。あなたのロシア語のほうが上手ね」
ラッキーストライクを受け取り、自分のマッチで火をつけた。アメリカの煙草は好みではなかった。それも計算のうちだった。
名前を名乗った。所属は、半分だけ本当のものを使った。
そこまでは、設計図のとおりだった。
そのあとが、違った。
用意していた台詞は、外交的に磨いた長いものだった。出てきたのは、別の言葉だった。
「私たちには土地が必要です」
短すぎる、と言った瞬間に思った。裸すぎる。二十四年分が、そのまま出た。
「パレスチナでなくてもいい。どこかに。本当に、どこかに」
男は自分の煙草に火をつけた。一秒の間が、今日もあった。
それから男は、一つの地名を言った。
ミリアムのどのリストにも、載っていない地名だった。ゲルショムの帳簿にも、ザングウィルの書類にも、なかった。ロシアと日本の間で宙ぶらりんになっている、雪の島。
「本気で言っていますか」
「分かりません」と男は言った。「でも、不可能ではない」
分かりません、と言った外交官を、ミリアムは初めて見た。
この稼業で、正直さは二種類ある。計算された正直さと、素の正直さ。聞き分けられると、彼女は思っていた。
これは、どちらでもなかった。三つ目だった。自分の中の何かに驚いている人間の、正直さだった。
男がフランス語に切り替えて、今夜の時間を聞いた。
ミリアムは三秒、男を見た。
一秒目で、危険を数えた。東京がこの男をどう見るか。この廊下を、誰が見ていたか。
二秒目で、収穫を数えた。窓ではなかった。これは、扉かもしれなかった。
三秒目は、数えるものがなかった。ただ、兄の切手の菊の紋章が、理由もなく浮かんだ。
「あります」
と彼女はフランス語で答えた。
二人は、同じ方向に歩き出した。石畳の音がした。雨はまだ降っていた。
二十四年待った、とミリアムは思った。
煙草一本分の時間で、それが終わるかもしれなかった。