太平洋の夢 第一巻 樺太の種   作:水野 純也

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第四章 昭和五年

第四章 昭和五年

 

  東京 一九三〇年(昭和五年)夏〜秋

 

 

 辞令は六月に来た。

 上海総領事館、領事館書記官。ジュネーブから上海へ。理由は書いていなかった。理由など、辞令には書かれない。

 赴任の前に、ひと月余りの帰朝が許された。黒瀬が横浜の埠頭に降りたのは、七月の初めだった。

 東京は暑かった。そして、静かだった。

 静かさの種類が、四年前と違っていた。景気の悪い街の静かさだった。

 丸の内から神田まで歩いた。職業紹介所の前に列があった。列は長く、ほとんど動かなかった。並んでいる男たちの中に、仕立てのいい背広が交じっていた。

 「大学は出たけれど」という言葉が、前の年から流行っていた。映画の題名だった。題名だけで中身が分かるので、誰も中身を説明しなかった。

 新聞は、年の初めに「金解禁断行」を祝った。十年越しの悲願。世界経済への復帰。円の信認。見出しは景気がよかった。街は、冷えていた。

 別の日、上野駅に行った。北へ帰る人間を見るには、あの駅がいちばんいい。

 ホームに、大きな風呂敷を背負った男たちがいた。東京へ職を探しに出てきて、見つからずに村へ帰る男たちだった。改札の脇には周旋屋らしい男が立ち、連れられた娘が三人、うつむいて並んでいた。年は十五、六に見えた。

 東北の養蚕農家が沈んでいた。生糸の最大の買い手はアメリカだった。恐慌で絹の靴下が売れなくなり、生糸の値が半分に落ち、繭を売って暮らす村がまとめて沈んだ。ニューヨークの株式市場と、東北の村の娘。その二つを繋ぐ線は、新聞のどこにも図解されていなかった。

 黒瀬は娘たちの前を通り過ぎた。できることは、なかった。できることがない、という事実だけを、正確に覚えておくことにした。

 

  *

 

 神田の実家は、まだ古本屋だった。

 父は老いて、耳が少し遠くなっていた。店番は変わらず父がやっていた。

 黒瀬が店にいた半日で、本を買いに来た客は二人だった。売りに来た客は、七人だった。

「学生が本を売りに来る」と父は言った。「月末に多い。下宿代の払いの日でな」

 帳簿を見せてもらった。仕入れの欄ばかりが埋まって、売上の欄が痩せていた。

 昔の高い相場のまま円を金に結びつければ、円は高くなる。円が高ければ、輸出が沈む。物の値が下がり、物を作る人間の給金が下がり、給金で本を買う人間が消える。

 しかも海の向こうでは、去年の十月からアメリカの金が燃え続けている。世界の恐慌と、東京の緊縮。二つの嵐が、同じ海の上で重なっていた。嵐に向かって窓を開けた家が、どうなるか。ジュネーブの受信紙で見た数字が、父の帳簿の細い字になって、そこにあった。

「お前、外国で何をしとる」と父が聞いた。

「言葉の仕事です」と黒瀬は言った。

 父は頷いた。それ以上は聞かなかった。聞かないことで育てられた、と黒瀬は思っている。

 帰り際、店の雨戸に古い釘の穴が並んでいるのを見た。二十五年前の九月に、父と二人で打った釘の痕だった。父は塞がずに、そのままにしていた。

 

  *

 

 八月の夜、日比谷の公会堂で、条約反対の国民大会があった。

 ロンドンで結ばれた海軍軍縮条約が、この夏の政治の中心にあった。巡洋艦以下の補助艦の保有量を、対米七割弱で妥結した条約だった。海軍の軍令部が要求した七割に、僅かに届かなかった。その僅かが、「統帥権」という言葉に火をつけた。

 統帥権。軍を動かす天皇の大権。憲法はそれを、内閣の外に置いていた。政府が軍令部の頭越しに兵力量を決めたのは「大権の干犯」である、という理屈だった。野党の政友会がその理屈に飛びつき、議会で政府を攻めた。政府を斬るのに、これほどよく切れる刀はなかった。

 海軍の中も割れた。軍令部長は辞表を叩きつけ、条約を呑んだ提督たちと、呑まされたと考える提督たちの間に、目に見えない線が引かれた。条約は批准へ向かう。線だけが、海軍の中に残る。

 黒瀬は世論を測るつもりで、聴衆の後ろに立った。

 壇上で弁士が叫んだ。国防の危機。軟弱外交。干犯、干犯、干犯。聴衆が沸いた。夜の熱気の中で、拍手は雨のような音がした。

 隣に、若い男が立っていた。手帳に鉛筆を走らせている。書く速さで商売が分かった。

 男の方から名刺を出した。東京日日新聞、社会部、立花。三十前に見えた。

「役所の方でしょう」と立花は言った。「外務省あたりだ。見物の顔じゃなく、検分の顔をしてる」

 察しのいい男だった。黒瀬は名刺を出さなかった。立花は気にしなかった。

「統帥権干犯というのは」と黒瀬は聞いてみた。「あなたには、分かりますか」

「分かりませんよ」と立花はあっさり言った。「ここにいる誰も分かっていない。分からないから、効くんです。分かる話は分かった時点で終わる。分からない話は、無限に燃える」

「条約の中身は、どう思います」

「読者は中身を読みません。見出しを読むんです。『七割崩れる』は見出しになる。『六割九分七厘五毛』は見出しにならない」

 立花は鉛筆を止めなかった。楽しそうだった。

 二十五年前、雨戸の外を駆けていった男たちと、同じ楽しさに見えた。

「あなた自身は、条約に反対なんですか」

「僕はどちらでもありません」と立花は言った。「売れる方に賛成です」

 黒瀬が黙っていると、立花は付け足した。

「刀を最初に抜いたのは、政友会の犬養さんと鳩山さんですよ。議会でね。野党の仕事は政府を斬ることですから、よく切れる刀を選んだだけだ。僕らはそれを大きく刷る。読者が沸く。沸くから、また刷る」

 犬養毅。言葉で軍人を叱れる、数少ない政治家の一人だ。その人が、政府を斬るために、軍が政府を斬るための刀を研いだ。刀は議会に残る。誰の手に渡るかを、刀は選ばない。

 悪びれた様子はなかった。正直といえば、これほど正直な男もいなかった。正直さの中身が、ミリアムとは正反対なだけだった。

 会場を出ると、夜の日比谷公園は暗かった。

 二十五年前、ここで交番が焼けた。今夜、燃えているのは言葉だった。燃えるものが変わっただけで、火の周りに集まる顔は、変わっていなかった。

 

  *

 

 九月、黒瀬は条約局の部屋で帰朝の報告をした。

 ジュネーブの空気。軍縮分科会の行き詰まり。恐慌が各国の議会を内向きに変え始めていること。末席の書記官の報告としては、長すぎる報告だった。誰も途中で止めなかった。

 終わり際に、幣原喜重郎が部屋に入ってきた。

 外務大臣。協調外交という言葉が、ほとんどこの人の固有名詞として使われていた。そしてこの夏、統帥権の嵐が正面から吹きつけている当の本人だった。

 幣原は末席の報告の残りを、立ったまま聞いた。

「ジュネーブでは、日本はどう見えていますか」と幣原は聞いた。

「まともな国に見えています」と黒瀬は言った。「今のところは、まだ」

 幣原はしばらく黙っていた。「今のところ」を咎める顔ではなかった。「まだ」を検算する顔だった。

「条約は、枢密院を通します」とやがて幣原は言った。事実だけを言う言い方だった。「通した後のことは、通してから考えます」

 それだけだった。

 疲れた男の顔ではなかった。疲れを、あらかじめ予算に組み込んである男の顔だった。

 十月、条約は批准された。

 政府は統帥権の嵐を正面から受けて、勝った。

 勝ったように、見えた。

 

  *

 

 十月の半ば、黒瀬は上海行きの船に乗った。

 浜口雄幸狙撃の報は、上海で受け取った。

 十一月十四日、朝の東京駅。首相は西へ向かう列車に乗るところを、至近距離から撃たれた。撃ったのは二十二歳の男だった。取り調べに対して男は、統帥権の干犯を口にした、と公電の続報にあった。

 首相は一命を取り留めた、ともあった。

 黒瀬は公電を机に置いて、窓の外の黄浦江を見た。

 条約に勝った政府の、その首相が撃たれた。

 紙が人を撃つわけではない。しかし、引き金の重さを軽くすることはできる。

 

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