太平洋の夢 第一巻 樺太の種   作:水野 純也

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第六章 来訪者

第六章 来訪者

 

  東京 一九三一年(昭和六年)四月

 

 

 東京は匂いが薄い。

 これが黒瀬の正直な感想だった。上海から帰るたびに思う。街の匂いが、人間の密度に比べて薄すぎる。整理されすぎている。

 一時帰国の名目は、満洲情勢に関する打ち合わせだった。

 丸の内の外務省から神田まで歩いた。四月、桜が散り始めていた。桜の花びらが石畳に張り付いていた。確かに美しかった。黒瀬は美しいと思った。

 しかし美しいと思いながら、どこか居心地が悪かった。この美しさには文脈がない、と感じた。桜は毎年咲いて、毎年同じように散って、それを見る人間も毎年同じように美しいと言う。その反復の中に、黒瀬が上海の南京路や、ジュネーブの廊下で感じた「何かが起きつつある」感覚が、ない。

 神田の古本屋街に入った。

 黒瀬が育った街だった。実家の店は露地の奥にまだあって、父の顔は昨日見た。今日は、他人の棚を見る日だった。

 英語の洋書が並び、その隣に漢籍があり、その隣にロシア語の革命前の本があった。本の言語が混在している場所は、人間の思考の混在を許容する。そういう棚の間で育った人間には、ここの空気だけが呼吸に合った。

 黒瀬は一時間かけて棚を見て、ロシア語のトルストイと英語のキプリングと、それから理由は分からないがヘブライ語の薄い詩集を買った。

 ヘブライ語は読めなかった。

 しかし、買った。

 

  *

 

 外務省に顔を出した日、廊下で条約局の先輩に袖を引かれた。

 三月に、陸軍の一部が議会を包囲する計画があった、という話だった。民間の国家主義者と、参謀本部の中堅が組んだ。クーデタ未遂。計画は寸前で流れ、関わった将校は、誰一人処分されていない。

「新聞には一行も出ていない」と先輩は小声で言った。「出ていないから、なかったことになっている」

 なかったことになった事件は、必ずもう一度起きる。処分のない未遂は、予行演習と同じだ。

 黒瀬は礼を言って、廊下を歩いた。

 

  *

 

 滞在中の一夜、神田の講堂で政友会の時局演説会があった。

 弁士の一人が、松岡洋右だった。

 満鉄の副総裁を辞めて、代議士になった男だ。この年の一月、議会で「満蒙は我が国の生命線である」と演説し、生命線という言葉はそれから独り歩きを始めていた。新聞が使い、弁士が使い、床屋の親父が使った。言葉がひとつ流行ると、その言葉で考えることを省略できる。

 松岡は原稿を持たずに喋った。

 英語で考えて日本語で怒る男だ、と黒瀬は思った。文の構造が英語だった。結論が先に来て、理由が三つ並び、最後にもう一度結論が来る。組み立ては雄弁術の教科書どおりで、しかし声だけが、教科書に載らないものを載せていた。屈辱、に近い何かだった。理屈が組み上がるより速く、その何かが動く。

 アメリカで育った男が、アメリカに向かって怒っている。

 厄介なのは、この男の英語が本物であることだった。世界と喧嘩のできる言葉を持った人間が、世界と喧嘩をしたがっている。逆であってくれれば、ずっと安全なのだが。

 生命線、の一言が出るたびに、客席は沸いた。

 黒瀬は沸かなかった。手帳に一行だけ書いた。

 ——使える。ただし、刃の向きまでは選べない。

 

  *

 

 銀座のバーで、スコッチを一杯だけ飲んだ。

 隣のサラリーマン風の男が、満洲の話をしていた。関東軍が大陸を押さえれば日本の未来は明るい、と言っていた。男の目が輝いていた。

 黒瀬はスコッチを飲み干した。

 輝いている目を見ると、黒瀬はいつも不安になった。

 

  *

 

 官舎に帰ったのは、夜の十一時過ぎだった。

 麹町の外務省官舎は古い木造の建物で、廊下を歩くと床が鳴った。自分の部屋の前まで来て、黒瀬は立ち止まった。

 扉の前に、人が座っていた。

 壁に背をもたせて、膝の上に本を開いて、読んでいた。読んでいるというより、本を口実に待っている、という姿勢だった。コートは黒で、髪は後ろで束ねていた。

 顔を上げる前に、黒瀬には分かった。その束ね方を知っていたから。雑で、しかし計算されている。

「帰る時間が分からなかったので」とミリアムはロシア語で言った。「外で待っていました」

 黒瀬は三秒間、立ったまま彼女を見た。

「どうやってここが分かったのですか」

「外務省に電話しました。親切な方が教えてくれました」

「それは問題のある親切ですね」

「日本人は外国人に親切です」とミリアムは言った。「少なくとも、今はまだ」

 その「今はまだ」という留保が、黒瀬の背筋を冷やした。ミリアムの言葉には時々そういう棘がある。棘というより、正確な観察。世界が変わりつつあることへの、冷静な認識。

 黒瀬は鍵を開けた。

「入ってください」

 部屋は狭かった。机と椅子とベッドと、小さな本棚。本棚にはロシア語と英語とフランス語の本が混在していた。机の上に、公電の束と、神田で買った数冊の古本を置いた。

 ミリアムは、ヘブライ語の詩集を手に取った。

「読めるの?」

「読めません」

「じゃあ、なぜ買ったの?」

「分かりません」と黒瀬は正直に言った。

 ミリアムは詩集を開いた。声に出して読んだ。

 ヘブライ語の音が、部屋に満ちた。

 黒瀬にはその意味が分からなかった。しかし音の構造は分かった。長い母音と、喉の奥から出る子音。砂漠の言語だ、と黒瀬は思った。水が少ない場所で生まれた言語は、音が乾いている。

 ミリアムが読み終えた。

「ビアリクよ。ハイム・ナフマン・ビアリク。ユダヤの国民的詩人と言われてる。この詩は、キシニョフのポグロムについて書かれたもの。一九〇三年」

「オデッサのポグロムの、二年前」

「よく知ってるのね」

「ジュネーブで勉強しました。あなたに会った後で」

 部屋が静かになった。官舎の廊下で誰かが咳をした。木の床が鳴った。

「東京には、何をしに来たのですか」と黒瀬は言った。

 湯を沸かしながら。手を動かしていないと、この女の前では何かが崩れる気がした。

「あなたに会いに来たの。ヴァイツマンと話し合ったのだけど、私の考えは、彼の方針と相容れない。私は今、どの組織にも属していない」

 黒瀬は茶を二つ淹れた。

「それで」

「それで」とミリアムは繰り返した。「今、私は一人」

 一人、という言葉が部屋に残った。

 ミリアムが弱音を吐く人間でないことは、ジュネーブの一夜で分かっていた。組織を失い、資金を失い、しかし思想は失っていない。その状態を、彼女は正確に言語化した。

「樺太の話。この二年で調べたの。日本の施政下にある。人口が少ない。気候は厳しいけど、農業は可能。問題は山積み。でも、不可能じゃない」

「それを私に言いに来たのですか」

「あなたが言い出したことよ」

 ミリアムの目が、黒瀬を真っすぐに見た。

「今も、本気なの?」

「今はまだ分からない。しかし、動く理由は増えています。満洲の情勢が悪くなっています。関東軍の若い連中が、何かを計画している。三月には東京で、軍の一部が議会を囲む計画が潰れたばかりです——新聞には一行も出ていませんが。それが動いたとき、日本は国際的な孤立の方向に引っ張られる。そうなる前に——」

「そうなる前に、日本が国際社会に何かを提示する必要がある、と」

「そうです。それが樺太案です」

「ジュネーブに戻ってください」と黒瀬は言った。「連盟の周辺で情報を集めてほしい。私は東京と上海から動きます」

「金の話をしておきます」と黒瀬は続けた。「私が出せるのは、書記官の月給の残りだけです。そして、出しません。出せば、あなたは私の雇い人になる」

「雇われません」とミリアムは言った。「翻訳で食べているから大丈夫。ジュネーブは言葉の町。言葉には、値段がつくの」

「調査の費用は」

「足りない月は、ロンドンの老人が二人、小さな為替を送ってくる。ザングウィルの葬式で会った老人たち。名簿のない会費、と言うところ」

 雇い人でないなら、何なのか。黒瀬はそれを聞かなかった。聞けば、答えに名前がついてしまう。

 夜が深くなった。ミリアムは椅子に座ったまま眠った。

 寝顔を見つめていることに気づいて視線を外した。

 公電の束を読みながら、部屋の中にミリアムの呼吸音がある、という事実を、頭の片隅で感じていた。

 言語の騒音が、今夜は少し静かだった。その理由を黒瀬は考えなかった。考えないことにした。考えれば、言語が戻ってくる。

 窓の外で風が止んだ。

 東京の四月の夜の、澄んだ静寂の中に、二人分の呼吸があった。

 




「太平洋の夢」のNoteを始めました。

小説の裏側——史実調査の記録、執筆の経緯、歴史の「if」への問いを書いていきます。
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