昔のフランは、よく笑う子だったわ。
庭で珍しい虫を見つけたときも、私より高く跳べたときも、何かあるたびに振り返るの。
「お姉様、見て!」
はいはい、見ているわよ。
そんなふうに返事をしながら、結局は手を止めて妹を見る。
だって、見てあげないといつまでも呼ぶんだもの。あの子、そういうところは昔から変わらないのよね。
父と母がいて、領民たちも私たちを恐れていなかった頃。
妹の笑い声を聞いていれば、それだけでよかった。
その声を怖いと思う日が来るなんて、考えもしなかったわ。
◇
屋敷が焼かれた夜、母はフランの手を私へ預けた。
逃げなさい。
振り返ってはいけない。
妹を守りなさい。
それが、母から聞いた最後の言葉だった。
森へ逃げても、追手は諦めなかった。
木々の間に松明が揺れ、猟犬の声が近づいてくる。
「お姉様……怖いよ」
握った手が震えていた。
私だって怖かったわ。
でも、姉まで泣き出したら、この子は誰を頼ればいいの。
だから、笑ってみせた。
「大丈夫よ、フラン。これは鬼ごっこなの」
「おにごっこ?」
「ええ。捕まらないように逃げるのよ」
剣を持った男が、木々の間から飛び出した。
フランが悲鳴を上げる。
小さな手が握られ、男の身体が弾けた。
私は足を止めた。
フランは震えながら、私の顔を窺っていた。
「……私、勝った?」
後ろからは、まだ追手の声が聞こえる。
「ええ。よくできたわ」
頭を撫でると、妹の震えが少しだけ収まった。
あのとき、ほかに何と言えばよかったのかしら。
フランが力を使わなければ、二人とも捕まっていたかもしれない。
だから、あの夜の自分を間違っていたとは思わない。
でも、その後は?
安全な場所へ辿り着いてからなら、話せたはずなのよ。
もう追ってくる者はいない。
誰かを壊さなくてもいい。
それを教える時間は、いくらでもあった。
私は妹が欲しがるものを与え、危険が近づかないようにした。
フランが誰かを傷つけるようになると、妹を地下へ遠ざけた。
あそこなら誰にも傷つけられない。この子が誰かを傷つけることもない。
よく考えたつもりだったわ。
少なくとも、あの頃の私はね。
◇
「私とは遊んでくれないのに」
荒れた庭で、フランはそう言った。
……それを、今ここで言うのね。
妹の手には紅い大鎌がある。
その前に立つナガトも、既に傷を負っていた。
早く二人を引き離さなければ。
そう思っているのに、肝心の言葉が出てこなかった。
欲しがるものは与えてきた。
会いに行かなかったわけでもない。
でも、この子が言っているのは、そういうことではないのでしょうね。
咲夜が一歩前へ出た。
それをナガトが制する。
「手助けは要らない」
自分がフランを止めるのだと言う。
何を言い出すの、この男は。
貴方は人間で、それも今は本来の力が出せないのでしょう?
相手が誰なのか、分かっているのかしら。
「俺が止める」
ナガトは退かなかった。
フランも、彼から目を離さない。
いつもなら、私が誰かを呼んだ時点で不満そうな顔をするのに。
今はナガトが次に何を言うのか、待っているようだった。
「……分かったわ」
自分で言っておいて、どうかしていると思ったわ。
でも、ここで皆がかりで取り押さえたら、フランはまた私をあの目で見るのでしょうね。
私の話は聞いてくれないくせに、と。
紅い霧を広げたとき、私はフランに館に残るよう言った。
霊夢が来ても、妹を勝負へは出さなかった。
あの子を守るためだった。それは今でも間違いではないと思う。
でも、守ると言いながら、私はまたフランを置いていこうとしていたのね。
「ただし、あなたが戦えなくなったら、私が止める。これは譲らないわ」
ナガトが頷く。
咲夜にはパチェを呼びに行かせた。
何かあれば私が止める。パチェが来れば、取れる手も増える。
そこまで考えて、ようやく少し息がつけた。
「それから、ナガト。死んだら許さないからね」
「善処しよう」
「善処じゃなくて、絶対よ!」
まったく。
もう少し、主を安心させる返事というものがあるでしょうに。
どうして戦う本人より、私の方が気を揉まなければならないのよ。
◇
戦いが始まると、フランはよく笑った。
ナガトが何かするたびに驚いて、目を輝かせて、また近づいていく。
そんなに楽しいの?
尋ねるまでもなかったわ。
新しい玩具を渡したときだって、あんな顔はしなかったもの。
でも、相手は玩具ではない。
フランの傷はすぐに塞がるけど、ナガトの傷は残る。
人間なのだから当たり前だと、私も分かっていたわ。
でも、ナガトは倒れても起き上がるのよ。
そのたびにフランは喜んで、私は踏み出しかけた足を止める。
少しは、見ている方の身にもなってほしいものね。
館へ来て間もない使用人に、こんなに振り回されるなんて。
真面目に働くし、妙な力で家事を片づけるし、退屈しない男なのは認めるわ。
だからって、ここまで気にかける理由にはならないはずでしょう?
そう思っていた。
彼の左腕を覆っていた装甲が崩れるまでは。
「ナガト! フランに流水を当てなさい! 流れる水は、吸血鬼の魔力を乱すわ!」
考えるより先に、声が出た。
……言ってしまった。
それ、私の弱点でもあるのだけれど。
「お姉様! 教えちゃ駄目でしょう!」
「これ以上続ける方が悪いのよ!」
そうよ。私の言うことを聞かないから悪いの。
少しくらい困らせたって、罰は当たらないでしょう?
妹への仕返し。
そう思うことにしたわ。
水龍に追い回されるフランを見ながら、私はナガトの様子を確かめた。
ようやく息を整えている。
それを見て、胸の奥が緩んだ。
……仕返しなら、妹の方を見ていなさいよ、私。
その余裕も、フランが札を取り出すまでだった。
止めに入っても手をかわされ、今度こそと思えば、コウモリの群れに行く手を塞がれる。
妹の名を呼ぶ自分の声が、だんだん余裕を失っていく。
やがて空で炎が広がり、その中からナガトが落ちた。
私は彼のもとへ急いだ。
もう十分。
これ以上は、本人が何と言おうと終わりにする。
咲夜がパチェを連れて戻ってきたのも、そのときだった。
フランは攻撃をやめ、ナガトの前へ降りてくる。
「……すごいね。こんなに遊べたの、初めて」
さっきまでとは違う声だった。
私は二人のそばに立ったまま、妹を見つめた。
◇
「どうして、まだ立とうとするの?」
「お前を止めるためだ」
ナガトは片膝をついたまま答えた。
まだ妹と話すつもりらしい。
頑固にもほどがあるわね。
でも、フランも彼の言葉を待っている。
次に手を出したら、すぐに止める。
今だけは、私もこの子の話を聞こうと思った。
フランはナガトが見せた力を指折り数えた。
それから、少し声を落とす。
「お姉様も、咲夜も、パチュリーも、あなたのことを気にしてた。どうしてなのか、ずっと知りたかったの」
胸の奥が痛んだ。
この子は、見ていたのね。
私たちがナガトと話しているところを。
彼が何かするたびに驚いたり、呆れたり、笑ったりするところを。
自分も話しかけてみたい。
一緒に遊んでみたい。
それくらい、当たり前のことじゃない。
どうして私は、妹が欲しがるものを部屋へ運ばせるだけで、十分だと思っていたのかしら。
「死んだら、遊べなくなるだけでしょう?」
ナガトが、それでもなぜ続けるのかと尋ねる。
フランは目を伏せた。
「だって――そうやって遊んできたもの」
あの夜の森が蘇った。
――これは鬼ごっこなの。
――ええ。よくできたわ。
私が言ったことだ。
妹は、ちゃんと覚えていた。
叱ろうとするたび、私は怖かったのだと思う。
あのときは褒めてくれたのに。
そう言われたら、何と答えればいいのか分からなかった。
だから、誰も傷つかない場所へ遠ざけた。
それなら、難しい話をしなくても済むものね。
……本当に、よくできた姉だこと。
フランが知らないのは、私が教えなかったからだ。
そんな簡単なことを、いつまで認めずにいたのだろう。
「でも、あなたは今までと違った」
妹の掌に赤い光が浮かんだ。
「フラン! それだけは駄目!」
手を伸ばす。
間に合わない。
ナガトを失いたくない。
その思いが、はっきりと胸に浮かんだ。
興味を持って拾った人間だった。
でも、今はもう、それだけではなかった。
あの男が館からいなくなるなんて、嫌だった。
フランの拳が閉じる。
何も起こらない。
ナガトは、そこにいた。
私は息をつくことさえ忘れて、彼を見つめた。
妹も自分の拳を見ている。
その身体がナガトのもとへ引き寄せられ、彼が拳を振り上げた。
何をするつもり?
思わず身構えた、その目の前で。
こつん。
「……痛い」
金色の頭に、拳骨が落ちた。
私は、まばたきをした。
あれだけの力を使って、最後はそれなの?
フランまで、ぽかんとした顔をしている。
「力は、そんなことに使うものではない」
ナガトは妹の前にいた。
叱った後も、離れていかない。
フランが尋ねれば答え、分からなければ、また言葉を重ねる。
この子も、黙って聞いていた。
私は、叱れば傷つけると思っていたわ。
嫌われるのも怖かった。
でもナガトは、叱ったくらいでこの子との関わりが終わるなんて、考えてもいないようだった。
「壊したものは、元には戻らない」
その声を聞きながら、フランの顔を見た。
逃げ出そうとも、耳を塞ごうともしていない。
私がちゃんと話していたら、この子は私の言葉も聞いてくれたのかしら。
やがて、妹が小さな声で尋ねた。
「……あなたも、一緒に考えてくれる?」
壊さずに遊ぶ方法を。
ナガトが頷く。
フランの表情が、少しだけ緩んだ。
叱られても、また一緒にいていい。
この子は今、それを教えてもらったのね。
姉である私の目の前で。
嬉しかったわ。
悔しくもあったけれど。
だって、それを教えるのは、本当なら私の役目だったじゃない。
◇
「ナガト、貴方……」
礼を言わなければ。
無茶をしたことも、きちんと叱っておかなければ。
そう思って近づいたのに、先に口を開いたのは彼だった。
「妹を大切にするのはいいが、しつけはしっかりとした方がいいぞ」
「……え?」
ちょっと待ちなさい。
次は私なの?
姉妹揃って叱るなんて、随分と偉くなったものね。
そう言い返しかけて、すぐそばのフランを見た。
妹は頭を押さえたまま、私の返事を待っている。
「守ることと、何も教えないことは違う」
……分かっているわよ。
今なら、そのくらい。
「……ええ。分かったわ」
声にすると、思っていたより素直な返事になった。
ナガトが引き受けてくれたからといって、また任せてしまってはいけない。
私もフランと話さなければ。
そう考えていたら、立ち上がりかけた彼の身体が傾いた。
「ナガト!」
咄嗟に抱き留める。
衣服は裂け、血と土に汚れていた。
さっきまで私を叱っていたくせに。
こんな身体で、最後まで人の心配ばかりして。
「死んだら許さないって言ったでしょう!」
声が震えた。
妹の前なのに、もう取り繕えなかった。
ただ、生きていてほしい。
「……善処はした」
「馬鹿!」
ナガトの眼が閉じる。
私は彼を支える腕に力を込めた。
咲夜がすぐにそばへ屈み、パチェも近づいてくる。
その向こうで、フランが立ち尽くしていた。
さっきまであれほど話しかけていた相手を、黙って見つめている。
「フラン」
名を呼ぶと、妹が顔を上げた。
また地下へ戻れと言われると思っているのかしら。
それとも、ナガトのことが心配なの?
分からない。
今までの私は、そんなことまで分かったつもりでいたのね。
「ナガトを部屋へ運ぶわ。貴方も来なさい」
フランは私を見たまま、少し遅れて頷いた。
「……うん」
まずは、この大馬鹿者を休ませる。
それから、妹と話そう。
うまく説明できなくても、途中でやめたりしない。
私だって、あんなふうに妹と話せるはずよ。
だって、この子の姉は私なのだから。
母に託されたあの日、私はフランの手を引いて逃げた。
もう逃げなくていいところまで来たのだと。
今度こそ、私の言葉で伝えよう。