長門が眠り続けて、三日が過ぎた。
身体の傷は咲夜が処置し、吸収しすぎた魔力についてはパチュリーが調整した。
呼吸も脈も落ち着いている。
それでも、寝台の長門が目を開くことはなかった。
「魔力の残滓は、ほとんど抜けたわ」
パチュリーは長門の腕から手を離した。
指先に灯っていた淡い光が消える。
「傷も塞がり始めている。今は、身体が休息を求めているのでしょうね」
「本当に、それだけ?」
寝台の反対側で、レミリアが尋ねる。
パチュリーは親友へ目を向けた。
「三日間で、同じことを何度聞きに来たか覚えている?」
「館の主として、使用人の状態を確認しているだけよ」
「そう。なら、さっきと同じ答えで構わないわね」
「少しくらい変わっているかもしれないでしょう」
レミリアは腕を組み直した。
その視線が、また長門へ戻る。
パチュリーはそれ以上追及せず、長門の腕へ布団をかけ直した。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様。永琳様がお見えです」
入ってきたのは、長い銀髪を三つ編みにした女性だった。
赤と青に分かれた衣服をまとい、片手には薬箱を提げている。
八意永琳。
魔法の森で倒れていた長門を連れ帰った際にも、レミリアが診察を頼んだ医師だった。
「久しぶりね。そろそろ元気な顔を見られるかと思ったのだけれど」
永琳は寝台へ近づき、長門の包帯へ目を向けた。
「また寝込んでいるとは思わなかったわ」
「少し、事情があったのよ」
「庭を見れば分かるわ。ずいぶん大きな事情だったようね」
レミリアは返事に詰まった。
永琳は椅子を引き寄せ、長門の傍らへ腰を下ろす。
「経過を見に寄っただけのつもりだったけれど、ちょうどよかったわ。何があったのか、聞かせてもらえる?」
◇
事情を聞き終えると、永琳は小さく息をついた。
「吸血鬼の妹と戦って、魔力を大量に取り込んで、最後は空から落ちた、ねぇ…」
長門の手首を取り、脈を確かめる。
「前に診たときは、起き上がることもできなかったのだけれど」
「止めても聞かなかったのよ」
「それは、こちらの患者が?」
レミリアは一瞬、返事に詰まった。
「……両方よ」
永琳は小さく息をついた。
傷の具合を確かめ、脈を取り、長門の瞼をそっと持ち上げる。
パチュリーも傍らに立ち、行った処置や、長門が取り込んだ魔力について説明した。
その間、レミリアは寝台の向こう側で待っていた。
永琳の手が止まるたび、その顔を窺う。
やがて、診察を終えた永琳が布団を整えた。
「処置は適切よ。回復も進んでいるし、今のところ命に関わる異常はないわ」
「それなら、目は覚ますのね?」
「ええ。ただし、起きたからといって、すぐに働かせては駄目よ」
「そのくらい分かっているわ。うちには使用人が大勢いるのだから」
「本人にも言っておいて。話を聞く限り、そちらの方が必要そうね」
レミリアは長門へ目を落とした。
目覚めた途端に、仕事の心配を始める姿は容易に想像できた。
「まったく。人間が吸血鬼に対抗するなんて、大したものだけれど……ここまで無茶をすることはないでしょうに」
「人間ではないわよ。この人」
永琳が、薬を取り出しながら言った。
レミリアは顔を上げた。
「……何ですって?」
「厳密に言えば、人間に近い存在、と言うべきかしらね」
永琳は手を止め、レミリアを見た。
「半死半生。生きた身体を持ちながら、死者としての性質も残しているわ」
レミリアは、もう一度長門へ目を向けた。
布団が呼吸に合わせて上下している。
食事もする。疲れれば眠る。
抱き留めた身体にも、確かに温もりがあった。
「幽霊だとでも言うの?」
「いいえ。身体は生きているもの。ただ、魂と身体の結びつきが、普通の生者とは違うのよ」
「半人半霊のようなもの?」
パチュリーが尋ねた。
永琳は僅かに首を傾ける。
「似たところはあるけれど、あれよりも生者に近いわね。生まれつきそういう種族だった、という感じでもないし」
「どうして、そんなことに?」
「そこまでは分からないわ。診察で分かることにも限りがあるもの」
永琳の視線が、眠る長門へ戻った。
レミリアもしばらく黙って、その顔を見つめていた。
その眼も、不思議な術も、ここへ来るまでの事情も。
知らないことはいくらでもある。
それでも、人間であることまで疑ったことはなかった。
「最初に診たときから、分かっていたの?」
「普通の人間ではないことはね。あのときは衰弱がひどかったから、まず身体を回復させることを優先したけれど」
「そういうことは、先に言いなさいよ」
「説明が足りなかったわね」
あっさり認められ、レミリアは続けようとした言葉を飲み込んだ。
代わりに、寝台へ一歩近づく。
「それで、今こうして眠っていることと、関係はあるの?」
「今回目を覚まさない原因は、戦いによる消耗と考えているわ。傷を治して、十分に休ませる必要がある。それは変わらない」
「……そう」
赤い髪が、長門の頬へかかっていた。
レミリアはそれを指先で払った。
半死半生。
聞き慣れない言葉を当てはめられても、眠る顔は先ほどと変わらない。
「何であろうと、うちの使用人には違いないわ。ちゃんと元気になってもらわないと困るもの」
「それなら、しばらくは働かせずに養ってあげなさい」
「そのくらいの余裕はあるわよ。誰の館だと思っているの?」
レミリアが胸を張った。
永琳は僅かに笑い、薬箱から小さな包みを取り出した。
◇
永琳は薬の使い方を説明するため、咲夜とともに部屋を出た。
パチュリーも、長門が目を覚ましたら知らせるよう言い残して図書館へ戻っていった。
部屋には、レミリアと眠る長門だけが残された。
レミリアは寝台の横へ椅子を寄せる。
ひとまず、安心して良いらしい。
そう思っても、すぐに立ち去る気にはなれなかった。
「お姉さま」
扉の方から、小さな声がした。
フランが顔を覗かせている。
「入ってもいい?」
「ええ。いらっしゃい」
フランは音を立てないように近づき、長門を見下ろした。
「まだ起きないの?」
「もう少し休ませてあげましょう。先生にも診てもらったから、大丈夫よ」
「……そう」
フランは布団から出た長門の手を見つめた。
指を伸ばしかけ、包帯の手前で止める。
それから、その手を自分の胸元へ引き戻した。
「ねえ、お姉さま」
「何?」
「私、悪いことをしたの?」
レミリアは妹へ向き直った。
フランは姉の返事を待っている。
叱られた理由も、長門がまだ眠っている理由も、確かめようとしているのだろう。
「ええ。貴方は、ナガトにひどいことをしたわ」
フランは目を伏せた。
「でも、昔は壊していいって言ったでしょう?」
「……そうね」
「追いかけてくる人たちを壊したら、お姉様は褒めてくれたよ」
レミリアは膝の上で両手を重ねた。
あの夜は、逃げ延びるだけで精いっぱいだった。
妹の力に救われたことも、間違いではない。
けれど、逃げる必要がなくなった後まで、同じことを続けさせてよいはずがなかった。
「だから、私にも悪いところがあったの」
「お姉さまにも?」
「ええ。あのときは、捕まったら二人とも殺されていたかもしれない。貴方が助けてくれたのよ」
レミリアは妹の目を見た。
「でも、本当は遊びなんかじゃなかった。貴方が怖がらないように、私がそう言ったの」
フランは黙って聞いていた。
「その後で、ちゃんと教えるべきだったわ。もう逃げなくていいって。傍に来る人を、みんな壊す必要なんてないって」
レミリアの視線が、長門へ向く。
「ナガトは、私たちを傷つけに来たわけではないでしょう?」
「……うん」
「遊びたい相手を、あんなふうに傷つけてはいけないのよ」
フランも寝台を見た。
どれほど攻撃しても立ち上がってきた長門が、今は何も言わずに眠っている。
「でも、ほかの遊び方、よく分からない」
「そうね。私も、貴方に教えてこなかったもの」
レミリアは、妹が下ろした手へ自分の手を重ねた。
「だから、分からないことがあったら聞きなさい。私にも、咲夜にも、パチェにも」
「聞いてもいいの?」
「ええ。ちゃんと答えるわ」
フランは姉の顔を見つめた。
やがて、小さく頷く。
「分かった」
レミリアはその手を一度だけ握り、離した。
フランはしばらく長門を眺めていたが、やがて扉へ向かった。
「起きたら、教えてね」
「ええ」
「お姉さまは、まだここにいるの?」
「もう少ししたら戻るわ」
「ふうん」
フランは何か言いたそうに姉を見たが、そのまま部屋を出ていった。
◇
レミリアは椅子の背へ身体を預けた。
廊下の足音が遠ざかると、再び長門の呼吸だけが聞こえた。
「まったく……」
寝台へ目を戻す。
「姉妹揃って叱るなんて、随分と偉くなったものね」
返事はない。
「私だって、ちゃんと話したわよ」
眠る長門を見つめ、少しだけ口を尖らせる。
「貴方に言われるまでもなく……とは、もう言えないけれど」
長門の瞼は閉じたままだった。
いつもなら、何か一言くらい返してくる。
それが少し腹立たしい言い方でも、今は構わなかった。
「早く起きなさいよ、ナガト」
その直後だった。
「……随分と勝手な言い分だな」
掠れた声が返ってきた。
レミリアは身体を起こした。
長門の瞼が、ゆっくりと開いていく。
紫色の輪廻眼が天井へ向けられ、それから傍らのレミリアを捉えた。
「ナガト?」
「ここは……俺の部屋か」
「そうよ」
「俺は、どれほど眠っていた?」
「三日よ。館の主を三日も待たせるなんて、いい度胸ね」
「待っていたのか?」
「容体を確認していただけよ」
長門の眉が僅かに動いた。
「そうか」
それ以上は尋ねず、ゆっくりと部屋を見回す。
「フランは?」
レミリアは一瞬、言葉を失った。
目を覚まして、まず気にするのが妹のこと。
自分の身体の具合くらい、先に確かめればよいものを。
「無事よ。貴方の拳骨くらいで、吸血鬼がどうにかなるものですか」
「なら、よかった」
長門は目を閉じ、小さく息を吐いた。
その顔から力が抜ける。
「もう一度眠るの?」
「少し疲れただけだ」
「三日も寝ておいて?」
「寝ている間に、傷まで消えるわけではない」
「……それは、そうだけれど」
レミリアは布団へ視線を落とした。
長門はそんな彼女を見て、僅かに口元を緩める。
「起きた途端に叱られるとは思わなかった」
「目が覚める前から叱っていたわよ」
「それは知らなかったな」
レミリアは小さく息を漏らした。
それから立ち上がり、呼び鈴を鳴らした。
ほどなくして現れた咲夜は、目を開けた長門を見て足を止める。
「……起きたのね、長門」
「ああ。世話をかけた」
「本当にね」
咲夜はそう答えたものの、その声は柔らかかった。
「パチュリー様たちへ知らせてくるわ。起き上がらずに待っていて」
「フランも呼んであげて」
レミリアが付け加える。
咲夜は頷き、部屋を出ていった。
◇
フランは扉の傍で一度立ち止まった。
寝台の長門を見つめ、その目が開いていることを確かめる。
「起きたの?」
「ああ」
声を聞いてから、ようやく近づいてきた。
「まだ、痛い?」
「少しな」
長門は短く答えた。
フランの視線が包帯へ落ちる。
しばらく黙っていた後、小さく頭を下げた。
「……ごめんなさい」
長門は僅かに目を見開いた。
傍らのレミリアへ一度視線を向け、それからフランへ戻す。
「次から気をつければいい」
「うん」
長門が右手を伸ばした。
フランの肩が、僅かに上がる。
だが、その手は拳を作らず、金色の髪へ置かれた。
フランは目を瞬かせた。
それから少しだけ頭を下げ、長門に撫でられるままになった。
「ねえ」
「何だ?」
「治ったら、また遊んでくれる?」
「ああ。約束したからな」
「今度は、壊さない遊び?」
「そうだ」
フランは頷いた。
その顔に、小さな笑みが浮かぶ。
レミリアは何も言わずに、二人を見守っていた。
◇
それから、さらに数日が過ぎた。
朝の霧に包まれた中庭を、レミリアは二階の窓から眺めていた。
庭には、長門とフランの姿があった。
木製のボールが霧の中を滑り、その後を金色の髪が追っていく。
ときおり、明るい笑い声が窓辺まで届いた。
「お嬢様」
振り返ると、咲夜が立っていた。
「お声をかけなくてよろしいのですか?」
「今はいいわ」
レミリアは庭へ視線を戻した。
「せっかく楽しんでいるのだもの」
咲夜も窓の外へ目を向けた。
しばらく二人で眺めた後、レミリアは窓辺を離れようとした。
だが、再びフランの笑い声が聞こえると、足が止まった。
妹が長門へボールを差し出している。
もう一度とねだる声に、長門が頷いた。
レミリアはもう一度だけ窓の外へ目を向け、そのまましばらく動かなかった。