目を覚ましてから、数日が過ぎた。
傷はほとんど残っていない。
身体の奥にはまだ僅かな重さがあったが、館の仕事へ戻るには問題のない程度まで回復していた。
咲夜からは、もう少し休んでいても良いと言われた。
しかし、寝台の上で天井を眺め続けることには、とうに飽きていた。
それに、確かめておきたいこともあった。
中庭を覆う朝霧の中で、俺は右手を前へ伸ばす。
少し離れた場所に置いた木製のボールが、ゆっくりと地面を離れた。
そのまま引き寄せ、手元へ収まる直前で弱い斥力を働かせる。
ボールが霧の中へ飛んでいく。
今度は引力で勢いを殺し、地面へ落ちる前に呼び戻した。
行きと帰り。
まずは、それだけを繰り返す。
強い力で天道の能力を使えば、次に使えるまで間が空く。
だが、ボールを一つ動かす程度なら、こうして続けても支障はなかった。
問題は、力加減だ。
僅かに強めすぎれば、ボールは狙った場所を通り過ぎる。
逆に弱めすぎると、戻ってくる前に地面へ落ちた。
以前と同じ感覚で使えば、思ったようには動かない。
今の身体で、どれだけの力を、どこまで扱えるのか。
もう一度、確かめ直す必要があった。
少し前、パチュリーから言われた言葉を思い出す。
「今の貴方に必要なのは、無理に力を引き出すことじゃないわ。もっと気軽に使いなさい」
「気軽に?」
「そう。日常の呼吸みたいにね。今の理に馴染ませるには、実際に使うのが一番よ」
それから、俺の顔を見て付け加えた。
「ただし、また倒れるまで使うのはやめてちょうだいね」
「分かっている」
「本当かしら」
随分と信用を失ったものだ。
もっとも、三日も眠り続けた後では、強く言い返すこともできなかったが。
「壊さない程度の力加減を覚えるのも、立派な修行でしょう?」
その言葉に従い、こうして輪廻眼の力を使っている。
ボールが手元へ戻ってきた。
今度は少し横へ逸らし、庭木の幹を回り込ませる。
途中で軌道が膨らみ、低い枝へぶつかりかけた。
慌てて引き戻す。
なかなか、思うようにはいかない。
敵を吹き飛ばすだけなら、多少狙いがずれても問題はなかった。
だが、今は違う。
壊さず、落とさず、狙った場所を通さなくてはならない。
小さなボール一つに、これほど神経を使うことになるとは思わなかった。
俺は呼吸を整え、もう一度手を伸ばした。
そのとき、庭へ続く扉の辺りに気配を感じた。
振り返ると、扉の陰から金色の髪が僅かに覗いている。
「フラン」
髪が引っ込んだ。
しばらく待っていると、今度は顔だけが現れた。
深紅の瞳が、俺と宙に浮かぶボールを交互に見ている。
「……何をしているの?」
「訓練だ」
「それ、遊んでるんじゃないの?」
「遊んでいるわけではない」
「でも、楽しそう」
そう見えるのだろうか。
俺は手元のボールへ目を落とした。
あの戦い以来、フランが俺へ襲いかかってくることはなかった。
目を覚ました日に謝りに来てからは、廊下で会えば挨拶をする。
ただ、その後も何かを言いたそうに、こちらを見ていることがあった。
今もそうだった。
扉の陰から出てきたフランは、少し離れたところで足を止める。
「ねえ」
「何だ?」
「それ、私もやっていい?」
フランがボールを指さした。
「これをか?」
「うん。見てるだけじゃ、つまんないもん」
俺は宙に浮かぶボールを見た。
決まった軌道で動かすだけなら、一人でもできる。
だが、追ってくる相手をかわすとなれば、その動きに合わせて力を調整しなければならない。
訓練にはなるだろう。
それに、壊さずに遊ぶ方法を一緒に考えると、約束したのだった。
「いいだろう」
「本当?」
フランの顔が明るくなる。
「ただし、約束がある」
「約束?」
俺はボールを手元へ引き寄せた。
「俺がこれを動かす。お前は、それを捕まえれば勝ちだ」
「捕まえるだけ?」
「ああ。ただし、壊した場合は負けとする」
フランはボールを覗き込んだ。
両手を伸ばしかけ、途中で止める。
「……壊さなければいいの?」
「ああ」
「捕まえた後も?」
「当然だ」
フランは少し考えた後、強く頷いた。
「分かった!」
俺が手を離すと、ボールがゆっくりと浮かび上がる。
初めは、フランの目の高さで止めた。
「始めるぞ」
「いつでもいいよ!」
フランが腰を落とす。
俺は指先を動かし、ボールを横へ滑らせた。
同時にフランが地面を蹴る。
金色の髪をなびかせ、その後を追った。
思ったより速い。
伸ばされた手が触れる寸前、俺はボールを引き戻した。
「あっ!」
フランの指が空を掴む。
ボールは彼女の脇を抜け、反対側へ飛んでいった。
「待って!」
フランが翼を広げる。
今度は地面から足を離し、低く飛びながら追いかけ始めた。
庭木の間を抜けたボールへ、迷わず手を伸ばす。
俺は弱い斥力で軌道を変えた。
「ああっ、もう!」
ボールは上へ。
フランもその後を追う。
追いつかれそうになったところで、今度は地面すれすれまで引き下ろした。
「ずるい!」
「俺から奪う遊びだ。簡単に捕まえられては意味がないだろう」
「絶対に捕まえるんだから!」
フランが勢いよく身体を傾ける。
その速さに、先日の戦いを思い出した。
だが、今はその手に大鎌はない。
魔弾が降ってくることもなければ、庭木が薙ぎ倒されることもなかった。
フランは枝へぶつからないように身を縮め、ボールだけを追っている。
俺も、その動きを見ながら次の軌道を考えた。
右へ逃がす。
フランが先回りしようとする。
それを見て左へ戻すと、今度はすぐに追わず、こちらの手元へ目を向けた。
動かす方向を読もうとしているらしい。
ならば、とボールを頭上へ引き上げた。
「そっち!」
フランが飛びつく。
思わず力を強めかけ、抑えた。
ここで大きく弾いては、庭の外まで飛んでいってしまう。
ぎりぎりのところで手をかわし、彼女の頭上を通す。
「惜しかったな」
「今の、絶対に捕まえられたのに!」
「捕まってはいない」
「次は捕まえる!」
休むつもりはないらしい。
俺もボールから意識を逸らせなくなっていた。
フランの動きは速い。
しかも、同じかわし方をすれば、次はその先へ回り込んでくる。
単に遠くへ飛ばせば良いというものでもない。
追いつけそうで、手が届かない。
その距離を保とうとするだけで、力加減は何度も変わった。
いつの間にか、俺も目の前の遊びに集中していた。
◇
「今度こそ!」
フランが真下から迫る。
俺はボールを高く弾き上げた。
先ほどよりも速く、霧の上へ抜けるほど高く。
フランも一気に上昇する。
七色の結晶が淡い光を受け、金色の髪が風に広がった。
ボールを横へ逃がそうとする。
だが、その前に小さな両手が届いた。
「捕まえた!」
頭上から、得意そうな声が響く。
フランはボールを胸へ抱え、そのままこちらを見下ろした。
「ほら!」
「ああ。分かったから、落とすなよ」
「落とさないよ!」
そう言った直後、フランの身体が下がった。
ボールを見せることに気を取られたのか、翼から力が抜けている。
俺は咄嗟に右手を向けた。
弱く広げた斥力で、その身体を受け止める。
「わっ」
落下が止まり、フランの髪がふわりと浮いた。
そのまま、少しだけ押し返す。
小さな身体が再び宙へ舞い上がった。
「きゃははっ!」
フランが笑う。
「すごい! もう一回!」
ボールを抱えたまま、こちらへ足を向けて降りてくる。
今度は、自分からだった。
俺は手を上げ、再びその身体を受け止めた。
先ほどよりも、少し高く押し上げる。
七色の翼が霧の中へ遠ざかる。
その瞬間、別の光景が脳裏をよぎった。
砕けた地面。
崩れた建物。
その中で、一人の少女を宙へ放り上げた。
そして、その身体を地面へ叩きつけた。
右手に、僅かな震えが走る。
俺は、この力を何度も人へ向けてきた。
近づく者を弾き飛ばし、逃げる者を引き寄せる。
痛みを与え、抵抗する力を奪うために。
「もっと高く!」
霧の上から、フランの声が聞こえた。
顔を上げる。
ボールを抱えた少女が、こちらを見て笑っていた。
次も受け止めてもらえると、疑っていない顔だった。
俺は息を整えた。
今は、落とすためではない。
降りてくる身体へ、ゆっくりと力を添える。
急に止めてしまわないように。
抱えているボールを、取り落とさないように。
フランの身体が穏やかに浮き上がった。
「そう、それ!」
楽しそうな声が、頭上で弾む。
同じ力だった。
俺が、多くのものを壊すために使ってきた力。
それでも今、フランは笑っている。
俺はその姿を見上げたまま、右手の震えが収まるのを感じていた。
もう一度だけ、ゆっくりと押し上げる。
それから力を弱め、フランを地面の近くまで降ろした。
彼女は翼を一度動かし、俺の前へ降り立った。
「楽しかった!」
満足そうに笑い、両手のボールを掲げる。
「それに、ほら。壊してないよ!」
木製の表面に傷はない。
俺は受け取り、ひと通り確かめてから頷いた。
「ああ。お前の勝ちだ」
「やった!」
フランが嬉しそうに飛び跳ねた。
その様子を見て、俺も僅かに口元を緩める。
「ちゃんと、壊さずに遊べただろう」
「うん!」
返事と同時に、フランの手が俺の袖を掴んだ。
「もう一回!」
「まだやるのか?」
「今度はもっと速くして!」
どうやら、物足りないという心配は要らなかったらしい。
俺は肩を軽く動かした。
痛みはない。
目の奥にも、あの戦いのときのような重さはなかった。
「もう少しだけだぞ」
「うん!」
「壊さないという約束も忘れるなよ」
「分かってるよ!」
俺が手を離すと、ボールは再び宙へ浮かんだ。
フランが構える。
その視線がボールへ定まるのを待ち、先ほどとは逆へ飛ばした。
「あっ、そっち!?」
慌てて振り返るフランを見て、思わず息が漏れた。
「よく見ていろ」
「見てるよ!」
フランが翼を広げる。
逃げるボールを追い、再び霧の中へ飛び込んでいった。
俺も右手を動かした。
庭木を回り込み、低く滑らせ、それから少しだけ高く。
先ほどよりも細かく軌道を変えたが、フランは離れなかった。
一度捕まえたことで、自信がついたらしい。
曲がるたびに距離を詰め、とうとう両手を伸ばした。
「今度こそ!」
ボールが、小さな手の間へ収まる。
「捕まえ――」
ぱきり。
乾いた音がした。
フランの笑顔が止まる。
両手の間から、木片が一つ落ちた。
俺は手を下ろした。
フランはボールと俺の顔を交互に見て、それから、そっと両手を背中へ回した。
「……捕まえたよ?」
「音がしたぞ」
「ちょっとだけ」
「見せてみろ」
恐る恐る差し出されたボールは、見事に割れていた。
勢いよく捕まえたまま、握り締めてしまったらしい。
「……今のは、負け?」
「ああ」
フランが肩を落とす。
先ほどまで庭中を飛び回っていた翼まで、心なしか下がって見えた。
「さっきは、壊さなかったのに」
「それなら、次もできるだろう」
フランが顔を上げた。
「またやっていいの?」
「新しいボールを用意してからだ。まずは、散らばった欠片を拾うぞ」
「うん!」
フランはしゃがみ込み、落ちた木片へ手を伸ばした。
今度は潰さないように、指先でそっと摘まんでいる。
俺もその隣へ膝をついた。
力加減の修行は、まだまだ続きそうだった。