紅魔館に来て、一月が経った。
館の雑務に、空いた時間には力の扱いを確かめる修行。
パチュリーの研究に付き合い、美鈴とは時々組み手をし、レミリアとお茶を飲む機会も増えた。
そして、時折本を盗みに来る魔理沙を捕まえる。
あいつは、少しくらい懲りても良いと思うのだが。
最近では、俺に見つかった途端、笑いながら逃げていく。
追いかけられること自体を楽しんでいるのではないだろうか。
……まあいい。
ともかく、慌ただしくも悪くない日々を送っていた。
そして、もう一つ。
「お兄さま、早く!」
庭の上から、元気な声が降ってくる。
見上げると、フランが待ちきれない様子でこちらを見ていた。
いつの間にか、俺はそう呼ばれるようになっていた。
初めて聞いたときは、誰のことかと思った。
理由を尋ねると、フランは「お兄さまみたいだから」と答えた。
説明になっているような、なっていないような返事だった。
咲夜はその呼び方を聞くたびに、何とも言えない顔をする。
俺にどうしろというのだろう。
「今日は壊すなよ」
手の中の木製のボールを掲げる。
先日のものより、少し大きい。
「分かってるよ! 昨日は壊さなかったでしょう?」
「ああ。その前は壊したが」
「今日は大丈夫!」
随分と自信があるらしい。
俺はボールを手放した。
天道の力で宙へ浮かべ、そのまま横へ滑らせる。
「始めるぞ」
「今度こそ!」
フランが翼を広げた。
ボールが庭木の間を抜けると、そのすぐ後ろを追ってくる。
枝をかわし、幹を回り込み、伸ばした指が木の表面へ触れかけた。
その直前で、引力を働かせる。
「あっ!」
ボールが急に向きを変えた。
フランも身を翻し、笑いながら追いすがる。
この遊びは、すっかり日課になっていた。
フランは力加減を覚え、俺は細かな制御を練習できる。
もっとも、最近はこちらが少しでも気を抜くと、すぐに捕まってしまう。
今日も、簡単にはいかなそうだった。
「もう、ずるいよ、お兄さま!」
「さっきは捕まえられそうだったぞ」
「だったら、逃がさないでよ!」
「それでは俺の訓練にならないだろう」
「むーっ!」
頬を膨らませながらも、その目はボールから離れない。
俺が次の軌道を考えた、そのときだった。
「そこのあんた! ちょっと待ったぁぁ!」
大きな声とともに、青い影が霧の中から飛び出してきた。
俺はボールを引き戻し、片手で受け止める。
「チルノちゃん、待ってよぉ!」
少し遅れて、もう一つの影が追ってきた。
先に飛び込んできた少女は、俺の前へ勢いよく着地すると、胸を張った。
青い髪。
背中から伸びた、氷のような羽。
見たところ、妖精らしい。
その後ろでは、緑色の髪をした妖精が息を切らしている。
「そこの妖怪!」
青い妖精が、俺を真っすぐ指さした。
「あたいと勝負しろ!」
「……妖怪?」
「あたいは最強だからな! どんな妖怪が相手でも逃げないぞ!」
俺は自分の服装へ目を落とした。
どこから見ても、紅魔館の執事にしか見えないはずだ。
輪廻眼を見て、勘違いしたのだろうか。
「チ、チルノちゃん!」
後から来た妖精が、慌ててその腕を引く。
「いきなりそんなこと言ったら駄目だよ。この人、紅魔館の……ええと……」
「長門だ」
「あ、はい。長門さんです!」
名前も知らなかったらしい。
「私は大妖精です。それで、この子がチルノちゃんです。ごめんなさい。悪い子じゃないんですけど……」
「何で謝るんだよ!」
「勝手に人のお庭へ入ったら駄目だってば!」
そう言われ、俺は門の方へ目を向けた。
霧の向こうに、門柱へ寄りかかる紅い人影が見える。
動いている様子はない。
……美鈴が起きているかどうかは、後で確かめよう。
「お兄さま」
いつの間にか降りてきたフランが、俺の袖を引いた。
「この子と勝負するの?」
「勝負と言われてもな」
そもそも、なぜ挑まれたのかが分からない。
そう尋ねる前に、チルノが再び胸を張った。
「最近、紅魔館に強そうな妖怪が入ったって聞いたんだ。だから、あたいがどっちが最強か決めに来てやった!」
強そうな妖怪。
誰がそんな話を広めているのだろう。
魔理沙かもしれない。
いや、あいつなら面白がって言いそうだ。
「断る」
「何でだよ!」
「俺には、お前と戦う理由がない」
「逃げるのか!?」
「そう思いたければ、勝手に思え」
「むきーっ!」
チルノが地団駄を踏む。
その隣で、大妖精が何度も頭を下げていた。
どうしたものか。
そう考えていると、チルノの視線が、俺の手元へ落ちた。
そこには、先ほどまで動かしていたボールがある。
試しに、少し持ち上げてみた。
チルノの目も上へ動く。
右へ。
視線も右へ。
左へ戻すと、やはり目で追った。
「……お前も、これで遊びたいのか?」
「ち、違う!」
チルノは慌てて顔を上げた。
「あたいは最強だから、そんな子供っぽい遊びになんか興味ないぞ!」
「そうか」
俺はボールを軽く放り上げ、宙へ浮かべた。
「では、続きを――」
「ちょっと待て!」
「何だ?」
「その……勝負なら、それでもいいぞ」
「興味がないのではなかったのか?」
「これは遊びじゃない! 最強を決める勝負だからな!」
随分と都合の良い理屈だった。
だが、このまま追い返そうとしても、素直に帰るとは思えない。
俺は小さく息を吐いた。
「分かった。これを壊さずに捕まえられたら、お前の勝ちだ」
「本当か!?」
チルノの顔が、一瞬で明るくなる。
「簡単だ! すぐ捕まえてやる!」
「私もやる!」
フランがチルノの隣へ並んだ。
「まだ、私の途中だったでしょう?」
「そうだな」
「よーし! じゃあ、どっちが先に捕まえるか勝負だ!」
「負けないよ!」
いつの間にか、俺とチルノの勝負ではなくなっている。
二人は顔を見合わせ、そのまま空へ飛び上がった。
取り残された大妖精が、困ったようにこちらを見る。
「……本当に、良いんですか?」
「ああ。お前もやるか?」
「私は、その……チルノちゃんが心配なので」
そう言いながらも、目はボールへ向いていた。
どうやら、気にはなるらしい。
俺は少し高く浮かべた。
「では、始めるぞ」
◇
「待てぇぇぇ!」
ボールが飛び出すなり、チルノが勢いよく追いかけた。
そのすぐ横を、フランが並んで飛ぶ。
二人の手が届く寸前、俺はボールを上へ逃がした。
「あっ!」
「ずるいぞ!」
続けて右へ曲げ、庭木の幹を回り込ませる。
フランは滑らかに身を傾け、その後を追った。
一方、チルノは曲がりきれず、慌てて両腕を振る。
「うわっ、わっ――!」
木へぶつかる直前で、どうにか身体を持ち上げた。
枝の上を通り抜け、遅れてボールを追いかける。
「危なかったよ、チルノちゃん!」
後を追っていた大妖精が声を上げた。
「わざとだ! あたいは今、相手を油断させたんだ!」
苦しい言い訳だった。
フランが空中で笑う。
「私、先に行っちゃうよ!」
「待て! 今のはなしだ!」
チルノが追いつこうと速度を上げた。
俺は二人が並ぶのを見て、ボールを低く飛ばす。
フランが先に降下し、チルノもその後へ続いた。
だが、地面の近くでボールを引き上げると、チルノだけが遅れた。
「うおっ!?」
慌てて上を向いた身体が、大きく傾く。
すぐ後ろにいた大妖精が、その腕を掴んだ。
「もう、無茶しないでってば!」
「だ、大丈夫だ! あたいは最強だからな!」
「助けられたまま言っても、説得力がないぞ」
「うるさい!」
チルノは顔を赤くし、大妖精の手を離した。
その間にも、フランはボールを追っている。
先ほどのように、目の前だけを見ているわけではなかった。
時折チルノを振り返り、追いついてくると、また笑って速度を上げる。
「こっちだよ!」
「分かってる!」
俺はボールを横へ滑らせた。
フランが追う。
その先へ、チルノが回り込んだ。
「あたいの勝ちだ!」
両手を広げ、待ち構えている。
俺は手元へ引き戻そうとした。
だが、その軌道へフランが飛び込んできた。
「もらった!」
小さな両手が、ボールを抱え込む。
今度は、乾いた音はしなかった。
「捕まえた!」
フランが高く掲げる。
チルノは空中で止まり、悔しそうにそれを見た。
「むぅ……今のは、あたいがちょっと油断してただけだからな」
「私の勝ち!」
「次は負けないぞ!」
「もう一回やる?」
「当然だ!」
先ほどまで名前も知らなかったはずだが、既に二人だけで話が進んでいた。
フランが俺の前へ降りてくる。
「お兄さま、もう一回!」
すぐ横へ、チルノも飛んできた。
「今度はもっと難しくしていいぞ! あたいなら捕まえられるからな!」
「まだ一度も捕まえていないだろう」
「今度は本気だ!」
本気でない最強というのも、なかなか忙しいものらしい。
俺はボールを受け取り、二人の後ろへ目を向けた。
「大妖精も、追いかけて良いんだぞ」
「えっ、でも……」
「大ちゃんもやろうよ!」
フランが振り返って言う。
大妖精は少し驚いた顔をした後、小さく頷いた。
「じゃあ……少しだけ」
「よし! 今度は三人で勝負だ!」
チルノが、なぜか自分で仕切っている。
俺はボールを宙へ浮かべた。
三人の視線が、一斉に上を向く。
これでは、こちらも休めそうになかった。
◇
結局、それからしばらく遊び続けた。
フランが何度か捕まえ、チルノも一度、両手でボールを掴んだ。
ただし、喜んで片手を上げた途端、取り落とした。
本人は捕まえたのだから勝ちだと主張し、フランは途中で落としたから駄目だと譲らなかった。
大妖精が困った顔で俺を見る。
次からは、捕まえたら俺へ手渡すところまで、と決めた方が良さそうだ。
「今日は引き分けだな!」
遊びを終えたチルノは、両手を腰へ当てて胸を張った。
「私の方が、いっぱい捕まえたよ?」
フランが言う。
「数じゃない! 次に勝った方が最強なんだ!」
「じゃあ、次も私が勝つ!」
「負けないからな!」
どうやら、決着は持ち越しらしい。
チルノはくるりと背を向け、霧の中へ飛び上がった。
「じゃあな、フラン! また勝負しような!」
大妖精もその後を追いかける。
途中でこちらへ振り返り、頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
それから、フランへ手を振る。
「また遊ぼうね、フランちゃん」
「……うん!」
フランが手を振り返した。
二人の姿は、やがて霧の向こうへ消えていく。
静かになった庭で、フランはしばらくその方角を見ていた。
腕の中には、ボールが収まっている。
表面には土がついていたが、割れてはいなかった。
「お兄さま」
「何だ?」
「……また来るかな?」
「来るだろう」
「どうして分かるの?」
「次は負けないと言っていたからな」
フランは少し目を丸くした。
それから、もう一度霧の向こうを見る。
「そっか」
小さく笑い、ボールを抱え直した。
◇
それから数日後。
庭へ出ると、聞き覚えのある声が響いた。
「よっ! また来てやったぞ!」
チルノが、当然のような顔で立っている。
隣には大妖精。
だが、今日は二人だけではなかった。
触角と羽を持つ少女と、黒い服を着た金髪の少女が、その後ろからこちらを覗いている。
「今日は仲間も連れてきたぞ!」
チルノが胸を張った。
「こっちがリグルで、こっちがルーミアだ!」
「リグルだよ。よろしく」
「ここで遊べるって聞いたのよー」
二人が、それぞれ手を上げる。
フランは四人を見回し、深紅の瞳を輝かせた。
「今日は、みんなで遊ぶの?」
「もちろんだ! 今日は絶対にあたいが勝つ!」
どうやら、参加者が増えたらしい。
俺は並んだ顔を見回した。
「……増えたな」
「長門」
背後から、咲夜の声がした。
振り返ると、彼女は腰へ手を当て、庭に集まった子供たちを眺めていた。
「この状況、どうするつもり?」
「俺に聞くのか?」
「ほかに誰に聞くのよ」
それもそうなのだが。
咲夜は小さく息を吐き、フランたちへ向き直った。
「遊ぶのは構わないけれど、庭を壊さないこと。窓へ何かをぶつけないこと。それから、花壇には絶対に入らないこと」
「分かった!」
フランが元気よく答える。
チルノたちも頷いた。
「あと、お茶の時間には一度休んでもらうわよ」
「お菓子もあるの?」
ルーミアが尋ねる。
「きちんと約束を守れたらね」
「守る!」
チルノが勢いよく答えた。
こちらの約束は、随分と受け入れやすかったらしい。
咲夜は最後に俺を見る。
「長門。きちんと見ていてね」
「俺がか?」
「お兄さまなのでしょう?」
僅かに口元を上げると、館へ戻っていった。
あの呼び方は、どうやら便利に使われることになったらしい。
「いいじゃない」
代わりに声をかけてきたのは、レミリアだった。
黒い日傘を差し、漆黒のドレスの裾を揺らしながら、庭へ出てくる。
その視線が、フランの周囲へ集まった四人を順に追った。
フランも姉に気づき、こちらへ駆けてくる。
「お姉さま! 今日は、リグルとルーミアも来たの!」
「見れば分かるわよ。随分と賑やかになったわね」
「みんなで遊んでもいい?」
レミリアは、妹の顔を見た。
それから、後ろで待っている四人へ目を向ける。
「咲夜との約束は聞いていたでしょう?」
「うん!」
「なら、仲良く遊びなさい」
フランの顔が明るくなった。
「ありがとう、お姉さま!」
すぐに踵を返し、四人のもとへ駆けていく。
レミリアは日傘を持ち直した。
「館の庭が、完全に遊び場になっているぞ」
俺が言うと、彼女は何でもないことのように肩をすくめた。
「今さらでしょう?」
「それはそうだが」
「だいたい、これだけ広いのよ。五人増えたくらいで、窮屈にはならないわ」
「増えたのは四人だ」
「細かいわね」
レミリアは少しだけ口を尖らせた。
その視線の先では、フランがボールを抱え、遊び方を説明している。
「捕まえたら勝ちだけど、壊したら負けなの。それから、花壇には入っちゃ駄目だよ」
つい先ほど、咲夜から言われたことまで教えていた。
チルノが横から口を挟む。
「あたいは、もう知ってるぞ!」
「リグルたちに教えてるの!」
「ああ、そうか!」
そのやり取りを聞いて、レミリアが小さく笑った。
「楽しそうじゃない」
「ああ」
フランがこちらへ振り返る。
「お兄さま、今日もボールを飛ばして!」
「また俺が動かすのか?」
「だって、お兄さまのじゃないと逃げないもん」
それは確かにそうだった。
チルノまで大きく頷いている。
「今日は捕まえたら、あんたに渡せばいいんだろ!」
「覚えていたのか」
「当然だ!」
前回の件は、本人も気にしていたらしい。
俺はフランからボールを受け取った。
その横で、レミリアが楽しそうに言う。
「随分と懐かれたものね、ナガト」
「俺は、ボールを動かしているだけだ」
「それなら、今日もしっかり動かしてあげなさい」
言いながら、レミリアは妹へ目を向けた。
フランは既にチルノと並び、こちらを見上げて待っている。
「お茶の時間になったら、私も来るわ。咲夜に、お菓子を多めに用意させておきましょう」
「やった!」
返事をしたのは、ルーミアだった。
レミリアが一瞬目を丸くする。
それから笑い、館へ戻っていった。
俺は右手を掲げた。
木製のボールが、ゆっくりと宙へ浮かぶ。
五人の視線が、その動きを追った。
「今度こそ負けないぞ!」
「私だって!」
「二人とも、ぶつからないでね!」
賑やかな声が重なる。
これだけ人数がいれば、逃がす場所も考えなくてはならない。
俺の訓練も、随分と難しくなったものだ。
「始めるぞ」
ボールを、霧の中へ滑らせる。
フランたちが一斉に飛び上がった。
先頭を追うチルノへ、フランが横から並ぶ。
二人の後をリグルが追い、大妖精が声をかける。
ルーミアは少し出遅れ、慌ててその後へ続いた。
少し前まで、庭で聞こえるフランの声は、俺へ向けられるものばかりだった。
今は違う。
名前を呼べば返事があり、先を越されれば悔しがり、追いつけば一緒に笑っている。
俺はボールを高く逃がした。
五つの影が、その後を追って霧の中へ昇っていく。
――良かったな、フラン。