東方輪廻談 ~ナガト幻想郷忍伝~   作:Takuma218

16 / 16
第十五話 月夜の来訪者

その日の仕事を終えて部屋へ戻ると、ようやく静けさが訪れた。

 

咲夜にあれこれ指示され、パチュリーから魔力の講義を受け、その合間には美鈴と組み手をした。

 

庭へ出れば、フランたちに呼び止められる。

 

少しだけのつもりでボールを動かしていたら、結局、咲夜が呼びに来るまで付き合うことになった。

 

今日も相変わらず、落ち着く暇のない一日だった。

 

上着を脱いで椅子の背へ掛け、窓辺に立つ。

 

外には白い満月が浮かんでいた。

 

月の輪郭は紅魔館を包む霧に滲み、夜空の中でぼんやりと揺れている。

 

以前は、月をゆっくり眺めることなどほとんどなかった。

 

夜は身を隠し、敵の気配を探るための時間だった。

 

だが、ここでは夜になっても、遠くで爆音が轟くことも、誰かの悲鳴が響くこともない。

 

ただ、虫の声と、風が木々を揺らす音だけがある。

 

昼間の騒がしさが嘘のようだった。

 

俺は窓枠へ手を置き、しばらく月を眺めていた。

 

 

 

「――満月の夜には、妖怪が出るわよ」

 

 

突然背後から、女の声がした。

 

「――っ!」

 

反射的に振り向き、身構える。

 

部屋へ入ってきた気配はなかった。

 

扉が開く音も、窓が動く音も聞いていない。

 

それにもかかわらず、俺の寝台には一人の女が腰掛けていた。

 

月明かりを受けて淡く輝く、長い金髪、金色の瞳。

 

白と紫を基調とした衣服。

 

その手には、閉じた扇が握られている。

 

女は、まるで初めからそこにいたかのような顔で微笑んでいた。

 

「驚かせてしまったかしら?」

 

「……誰だ」

 

「八雲紫。紫で構わないわ」

 

女――紫は、腰掛けたまま軽く頭を下げた。

 

「一応、この幻想郷を見守っている者よ」

 

「幻想郷を見守る者は、他人の部屋へ勝手に入るのか?」

 

「あら。随分と冷たい歓迎ね」

 

「歓迎した覚えはない」

 

「それもそうね」

 

紫は扇を口元へ添え、楽しそうに笑った。

 

俺は構えを解かなかった。

 

敵意は感じない。

 

だが、これほど近くへ侵入されるまで、何一つ察知できなかった相手だ。

 

女の周囲には、魔力の揺らぎすらほとんどない。

 

「別に、貴方を害するつもりはないわ」

 

「それを信じろと?」

 

「少なくとも、貴方はまだ私を攻撃していないでしょう?」

 

「侵入に気づけなかった相手へ、考えもなく仕掛けるほど愚かではない」

 

紫の目が僅かに細くなる。

 

「……なるほど。怖がっていないのではなく、警戒の仕方を知っているのね」

 

「お前以上の威圧を放つ者とは、何度も対峙してきたものでな」

 

「あら、それは残念」

 

少しも残念そうではなかった。

 

「もう少し驚いてくれた方が、忍び込んだ甲斐もあったのだけれど」

 

「やはり、わざと気配を消していたのか」

 

「どうかしら?」

 

扇の向こうで、紫が笑う。

 

俺は扉までの距離を確かめた。

 

助けを呼ぶにしても、まずはこの女から目を離さずに動く必要がある。

 

もっとも、扉へ向かえば逃がしてくれるという保証もなかった。

 

「それで、幻想郷を見守る者が俺に何の用だ?」

 

「少し、顔を見ておきたかったの」

 

「俺のことを知っていたのか?」

 

「ええ。貴方がここへ現れた頃から」

 

俺は紫を見据えた。

 

「時々、様子を見ていたわ。けれど、すぐに何かをする必要はなさそうだったから」

 

「既に俺を調べ終えているということか?」

 

「そうは言っていないわ」

 

「実害がないと判断したから、今まで姿を見せなかったのだろう」

 

紫の扇が止まった。

 

「……思ったより細かい男ね」

 

「お前の言い方が曖昧なだけだ」

 

「ふふっ。それでは訂正しましょう」

 

紫は寝台から立ち上がる。

 

俺は僅かに足を引いた。

 

その動きを見ても、女の歩調は変わらない。

 

「遠くから眺めているだけでは分からないこともあるから、直接会いに来たの」

 

「何を確かめに来た?」

 

「それを言ったら、確かめる意味がなくなるでしょう?」

 

月明かりの中で、扇がゆっくりと開かれた。

 

俺は黙って、その向こうの目を見ていた。

 

先に口を開いたのは、紫だった。

 

「紅魔館での暮らしはどう?」

 

「それも、確かめたいことの一つか?」

 

「あら。普通の世間話よ」

 

「お前の言葉を、普通に受け取る気にはなれない」

 

「疑り深いのね」

 

「部屋へ忍び込んだ者に言われたくはない」

 

紫は愉快そうに肩を揺らした。

 

「でも、居心地は悪くないのでしょう?」

 

俺は答えなかった。

 

「館の仕事をして、魔法を学んで、門番と組み手をして。最近は妹君とも遊んでいる」

 

「随分と詳しいな」

 

「見守っていると言ったでしょう?」

 

「時々ではなかったのか?」

 

「時々でも、それくらいは分かるわ」

 

昼間の庭が脳裏をよぎった。

 

ボールを追うフランたち。

 

窓辺や、霧の向こうに目を向けた覚えはない。

 

あのときも、どこかで見ていたのだろうか。

 

「貴方は、あの子を怖がらなかったのね」

 

紫が言った。

 

先ほどまでの笑みは変わらない。

 

だが、その目は俺から離れなかった。

 

「フランのことか?」

 

「ええ。あれほどの力を向けられたのに、最後には拳骨一つ。随分と変わった止め方をするものだと思って」

 

「悪いことをした子供を叱っただけだ」

 

「吸血鬼を、ただの子供として扱うの?」

 

「フランはフランだ。それ以外に何かあるのか?」

 

紫は一瞬、黙った。

 

それから、扇で口元を隠す。

 

「……いいえ。貴方にとっては、それで良いのでしょうね」

 

窓の外で、風が木々を揺らした。

 

俺は構えていた手を、僅かに下げる。

 

警戒を解いたわけではない。

 

だが、この女にも尋ねておきたいことができた。

 

「今度はこちらから聞く」

 

「あら、何かしら?」

 

「俺をここへ連れてきたのは、お前か?」

 

紫の笑みが、ほんの僅かに薄れた。

 

「いいえ」

 

短く、はっきりとした否定だった。

 

俺はその目を見た。

 

嘘をついているようには見えない。

 

だが、この女が表情だけで真意を読ませるとも思えなかった。

 

「では、俺がここへ来た理由を知っているのか?」

 

「知らないわ」

 

「本当に?」

 

「私が何を知っているかと、それを貴方に話すかどうかは別でしょう?」

 

「今、知らないと言ったはずだ」

 

「ええ。貴方がこちらへ来た理由は知らない」

 

紫は扇の向こうから、こちらを見た。

 

「ただ――貴方が、こちらへ来られた理由には少し興味があるけれど」

 

「どういう意味だ?」

 

「言葉の通りよ」

 

「俺の身体か。それとも輪廻眼に原因があると考えているのか?」

 

「あら。今のは二つの質問ね」

 

「答えるつもりはないのだろう」

 

「よく分かってきたじゃない」

 

紫の笑みが戻った。

 

俺は窓枠から手を離した。

 

身体にも、眼にも、以前とは違うところがある。

 

それは自分でも分かっている。

 

だが、紫が何に目をつけているのかは分からなかった。

 

「俺を連れてきたのではない。それだけは信じろということか?」

 

「信じるかどうかは、貴方が決めることよ」

 

「随分と無責任だな」

 

「責任を持てるほど、私は貴方のことを知らないもの」

 

「知らない相手の部屋には入るのだな」

 

「あら。知らないからこそ、会いに来たのよ」

 

扇が、軽い音を立てて閉じられた。

 

紫は部屋の中央へ歩いていく。

 

その背後で、空間に一本の裂け目が走った。

 

俺は息を止めた。

 

音もなく開いた暗い裂け目。

 

その奥から、幾つもの眼がこちらを覗いていた。

 

時空間忍術に似ている。

 

だが、何かが違う。

 

向こう側に、別の景色が見えるわけではない。

 

ただ、部屋の中にあるはずのない奥行きが、そこに口を開けていた。

 

「もう帰るのか?」

 

「ええ。あまり長居をすると、貴方の同僚に見つかってしまうもの」

 

「咲夜を避けているのか?」

 

「まさか。今夜は貴方と二人で話したかっただけよ」

 

紫は、裂け目へ足を向けた。

 

「最後に一つだけ答えろ」

 

「あら、まだあるの?」

 

「俺は、幻想郷にとって危険か?」

 

紫が足を止める。

 

振り返った顔には、先ほどまでと同じ笑みがあった。

 

だが、返事をするまでに僅かな間があった。

 

「今のところは、何も」

 

「今のところ、か」

 

「未来のことまで保証するなんて、幻想郷の管理者でもできないわ」

 

紫は裂け目の中へ一歩下がった。

 

「でも、幻想郷は貴方を拒んでいない」

 

「何?」

 

「貴方はここへ来て、紅魔館に受け入れられた。あの妹君とも笑い合えるようになった。それでもまだ、自分がここにいて良いのかと疑っているのでしょう?」

 

俺は答えなかった。

 

仕事を与えられ、食事を共にし、名前を呼ばれる。

 

それらに慣れてきたことは、否定できない。

 

だが、それと、ここにいて良いと思えることは同じではなかった。

 

紫が僅かに目を細める。

 

「ここにいる。それが今の答えよ」

 

「それだけで、判断できるものなのか?」

 

「ええ。幻想郷とは、そういう場所だもの」

 

その声には、先ほどまでのからかうような調子がなかった。

 

俺が何かを言う前に、紫は再び扇を開いた。

 

「それに、近いうちにちょっとした催しがあるわ」

 

「催し?」

 

「きっと貴方も楽しめると思うわよ」

 

「何がある?」

 

「それは、そのときのお楽しみ」

 

紫は扇を軽く振った。

 

「この幻想郷がどんな場所なのか、自分の目で見てきなさい」

 

まるで、俺がそこへ行くことまで決まっているような口ぶりだった。

 

「それでは、おやすみなさい。長門」

 

「待て。まだ――」

 

「質問は、また今度」

 

紫の姿が闇の中へ消える。

 

閉じていく裂け目から、最後に金色の瞳だけが覗いた。

 

「満月の夜には、また妖怪が出るかもしれないわよ」

 

空間が閉じる。

 

部屋には、月明かりだけが残った。

 

◇

 

俺はしばらく、その場から動かなかった。

 

周囲の気配を探る。

 

扉の外にも、窓の向こうにも、紫の存在は感じられない。

 

寝台へ目を向けた。

 

つい先ほどまで女が腰掛けていた場所には、何も残っていなかった。

 

結局、何を確かめに来たのだろう。

 

俺についてどこまで知り、何を隠しているのか。

 

あれだけ言葉を交わしたのに、問いは増えていた。

 

ただ、自分が俺を連れてきたのではないという答えだけは、妙にはっきりしていた。

 

あれを信じて良いのかも分からない。

 

そして、もう一つ。

 

――幻想郷は貴方を拒んでいない。

 

俺は自分の右手へ目を落とした。

 

昼間は、この手でボールを動かしていた。

 

フランが追い、チルノが騒ぎ、咲夜が休憩を告げに来た。

 

明日も庭へ出れば、同じように呼び止められるのだろう。

 

紫は、そういうことを言いたかったのか。

 

それとも、俺には分からない何かを見ていたのか。

 

「……胡散臭い女だ」

 

小さく呟き、肩の力を抜いた。

 

寝台へ腰を下ろすと、一気に疲労が押し寄せてくる。

 

咲夜に一日中働かされるより、紫と少し話す方がよほど疲れる。

 

近いうちにあるという催しも気になるが、今夜はこれ以上考えても仕方がなさそうだった。

 

窓の外では、満月が変わらず霧の向こうに浮かんでいた。

 

満月の夜には妖怪が出る。

 

確かに、その言葉は間違っていなかった。

 

もっとも、次に出るときは、せめて扉から入ってきてもらいたいものだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。