その日の仕事を終えて部屋へ戻ると、ようやく静けさが訪れた。
咲夜にあれこれ指示され、パチュリーから魔力の講義を受け、その合間には美鈴と組み手をした。
庭へ出れば、フランたちに呼び止められる。
少しだけのつもりでボールを動かしていたら、結局、咲夜が呼びに来るまで付き合うことになった。
今日も相変わらず、落ち着く暇のない一日だった。
上着を脱いで椅子の背へ掛け、窓辺に立つ。
外には白い満月が浮かんでいた。
月の輪郭は紅魔館を包む霧に滲み、夜空の中でぼんやりと揺れている。
以前は、月をゆっくり眺めることなどほとんどなかった。
夜は身を隠し、敵の気配を探るための時間だった。
だが、ここでは夜になっても、遠くで爆音が轟くことも、誰かの悲鳴が響くこともない。
ただ、虫の声と、風が木々を揺らす音だけがある。
昼間の騒がしさが嘘のようだった。
俺は窓枠へ手を置き、しばらく月を眺めていた。
「――満月の夜には、妖怪が出るわよ」
突然背後から、女の声がした。
「――っ!」
反射的に振り向き、身構える。
部屋へ入ってきた気配はなかった。
扉が開く音も、窓が動く音も聞いていない。
それにもかかわらず、俺の寝台には一人の女が腰掛けていた。
月明かりを受けて淡く輝く、長い金髪、金色の瞳。
白と紫を基調とした衣服。
その手には、閉じた扇が握られている。
女は、まるで初めからそこにいたかのような顔で微笑んでいた。
「驚かせてしまったかしら?」
「……誰だ」
「八雲紫。紫で構わないわ」
女――紫は、腰掛けたまま軽く頭を下げた。
「一応、この幻想郷を見守っている者よ」
「幻想郷を見守る者は、他人の部屋へ勝手に入るのか?」
「あら。随分と冷たい歓迎ね」
「歓迎した覚えはない」
「それもそうね」
紫は扇を口元へ添え、楽しそうに笑った。
俺は構えを解かなかった。
敵意は感じない。
だが、これほど近くへ侵入されるまで、何一つ察知できなかった相手だ。
女の周囲には、魔力の揺らぎすらほとんどない。
「別に、貴方を害するつもりはないわ」
「それを信じろと?」
「少なくとも、貴方はまだ私を攻撃していないでしょう?」
「侵入に気づけなかった相手へ、考えもなく仕掛けるほど愚かではない」
紫の目が僅かに細くなる。
「……なるほど。怖がっていないのではなく、警戒の仕方を知っているのね」
「お前以上の威圧を放つ者とは、何度も対峙してきたものでな」
「あら、それは残念」
少しも残念そうではなかった。
「もう少し驚いてくれた方が、忍び込んだ甲斐もあったのだけれど」
「やはり、わざと気配を消していたのか」
「どうかしら?」
扇の向こうで、紫が笑う。
俺は扉までの距離を確かめた。
助けを呼ぶにしても、まずはこの女から目を離さずに動く必要がある。
もっとも、扉へ向かえば逃がしてくれるという保証もなかった。
「それで、幻想郷を見守る者が俺に何の用だ?」
「少し、顔を見ておきたかったの」
「俺のことを知っていたのか?」
「ええ。貴方がここへ現れた頃から」
俺は紫を見据えた。
「時々、様子を見ていたわ。けれど、すぐに何かをする必要はなさそうだったから」
「既に俺を調べ終えているということか?」
「そうは言っていないわ」
「実害がないと判断したから、今まで姿を見せなかったのだろう」
紫の扇が止まった。
「……思ったより細かい男ね」
「お前の言い方が曖昧なだけだ」
「ふふっ。それでは訂正しましょう」
紫は寝台から立ち上がる。
俺は僅かに足を引いた。
その動きを見ても、女の歩調は変わらない。
「遠くから眺めているだけでは分からないこともあるから、直接会いに来たの」
「何を確かめに来た?」
「それを言ったら、確かめる意味がなくなるでしょう?」
月明かりの中で、扇がゆっくりと開かれた。
俺は黙って、その向こうの目を見ていた。
先に口を開いたのは、紫だった。
「紅魔館での暮らしはどう?」
「それも、確かめたいことの一つか?」
「あら。普通の世間話よ」
「お前の言葉を、普通に受け取る気にはなれない」
「疑り深いのね」
「部屋へ忍び込んだ者に言われたくはない」
紫は愉快そうに肩を揺らした。
「でも、居心地は悪くないのでしょう?」
俺は答えなかった。
「館の仕事をして、魔法を学んで、門番と組み手をして。最近は妹君とも遊んでいる」
「随分と詳しいな」
「見守っていると言ったでしょう?」
「時々ではなかったのか?」
「時々でも、それくらいは分かるわ」
昼間の庭が脳裏をよぎった。
ボールを追うフランたち。
窓辺や、霧の向こうに目を向けた覚えはない。
あのときも、どこかで見ていたのだろうか。
「貴方は、あの子を怖がらなかったのね」
紫が言った。
先ほどまでの笑みは変わらない。
だが、その目は俺から離れなかった。
「フランのことか?」
「ええ。あれほどの力を向けられたのに、最後には拳骨一つ。随分と変わった止め方をするものだと思って」
「悪いことをした子供を叱っただけだ」
「吸血鬼を、ただの子供として扱うの?」
「フランはフランだ。それ以外に何かあるのか?」
紫は一瞬、黙った。
それから、扇で口元を隠す。
「……いいえ。貴方にとっては、それで良いのでしょうね」
窓の外で、風が木々を揺らした。
俺は構えていた手を、僅かに下げる。
警戒を解いたわけではない。
だが、この女にも尋ねておきたいことができた。
「今度はこちらから聞く」
「あら、何かしら?」
「俺をここへ連れてきたのは、お前か?」
紫の笑みが、ほんの僅かに薄れた。
「いいえ」
短く、はっきりとした否定だった。
俺はその目を見た。
嘘をついているようには見えない。
だが、この女が表情だけで真意を読ませるとも思えなかった。
「では、俺がここへ来た理由を知っているのか?」
「知らないわ」
「本当に?」
「私が何を知っているかと、それを貴方に話すかどうかは別でしょう?」
「今、知らないと言ったはずだ」
「ええ。貴方がこちらへ来た理由は知らない」
紫は扇の向こうから、こちらを見た。
「ただ――貴方が、こちらへ来られた理由には少し興味があるけれど」
「どういう意味だ?」
「言葉の通りよ」
「俺の身体か。それとも輪廻眼に原因があると考えているのか?」
「あら。今のは二つの質問ね」
「答えるつもりはないのだろう」
「よく分かってきたじゃない」
紫の笑みが戻った。
俺は窓枠から手を離した。
身体にも、眼にも、以前とは違うところがある。
それは自分でも分かっている。
だが、紫が何に目をつけているのかは分からなかった。
「俺を連れてきたのではない。それだけは信じろということか?」
「信じるかどうかは、貴方が決めることよ」
「随分と無責任だな」
「責任を持てるほど、私は貴方のことを知らないもの」
「知らない相手の部屋には入るのだな」
「あら。知らないからこそ、会いに来たのよ」
扇が、軽い音を立てて閉じられた。
紫は部屋の中央へ歩いていく。
その背後で、空間に一本の裂け目が走った。
俺は息を止めた。
音もなく開いた暗い裂け目。
その奥から、幾つもの眼がこちらを覗いていた。
時空間忍術に似ている。
だが、何かが違う。
向こう側に、別の景色が見えるわけではない。
ただ、部屋の中にあるはずのない奥行きが、そこに口を開けていた。
「もう帰るのか?」
「ええ。あまり長居をすると、貴方の同僚に見つかってしまうもの」
「咲夜を避けているのか?」
「まさか。今夜は貴方と二人で話したかっただけよ」
紫は、裂け目へ足を向けた。
「最後に一つだけ答えろ」
「あら、まだあるの?」
「俺は、幻想郷にとって危険か?」
紫が足を止める。
振り返った顔には、先ほどまでと同じ笑みがあった。
だが、返事をするまでに僅かな間があった。
「今のところは、何も」
「今のところ、か」
「未来のことまで保証するなんて、幻想郷の管理者でもできないわ」
紫は裂け目の中へ一歩下がった。
「でも、幻想郷は貴方を拒んでいない」
「何?」
「貴方はここへ来て、紅魔館に受け入れられた。あの妹君とも笑い合えるようになった。それでもまだ、自分がここにいて良いのかと疑っているのでしょう?」
俺は答えなかった。
仕事を与えられ、食事を共にし、名前を呼ばれる。
それらに慣れてきたことは、否定できない。
だが、それと、ここにいて良いと思えることは同じではなかった。
紫が僅かに目を細める。
「ここにいる。それが今の答えよ」
「それだけで、判断できるものなのか?」
「ええ。幻想郷とは、そういう場所だもの」
その声には、先ほどまでのからかうような調子がなかった。
俺が何かを言う前に、紫は再び扇を開いた。
「それに、近いうちにちょっとした催しがあるわ」
「催し?」
「きっと貴方も楽しめると思うわよ」
「何がある?」
「それは、そのときのお楽しみ」
紫は扇を軽く振った。
「この幻想郷がどんな場所なのか、自分の目で見てきなさい」
まるで、俺がそこへ行くことまで決まっているような口ぶりだった。
「それでは、おやすみなさい。長門」
「待て。まだ――」
「質問は、また今度」
紫の姿が闇の中へ消える。
閉じていく裂け目から、最後に金色の瞳だけが覗いた。
「満月の夜には、また妖怪が出るかもしれないわよ」
空間が閉じる。
部屋には、月明かりだけが残った。
◇
俺はしばらく、その場から動かなかった。
周囲の気配を探る。
扉の外にも、窓の向こうにも、紫の存在は感じられない。
寝台へ目を向けた。
つい先ほどまで女が腰掛けていた場所には、何も残っていなかった。
結局、何を確かめに来たのだろう。
俺についてどこまで知り、何を隠しているのか。
あれだけ言葉を交わしたのに、問いは増えていた。
ただ、自分が俺を連れてきたのではないという答えだけは、妙にはっきりしていた。
あれを信じて良いのかも分からない。
そして、もう一つ。
――幻想郷は貴方を拒んでいない。
俺は自分の右手へ目を落とした。
昼間は、この手でボールを動かしていた。
フランが追い、チルノが騒ぎ、咲夜が休憩を告げに来た。
明日も庭へ出れば、同じように呼び止められるのだろう。
紫は、そういうことを言いたかったのか。
それとも、俺には分からない何かを見ていたのか。
「……胡散臭い女だ」
小さく呟き、肩の力を抜いた。
寝台へ腰を下ろすと、一気に疲労が押し寄せてくる。
咲夜に一日中働かされるより、紫と少し話す方がよほど疲れる。
近いうちにあるという催しも気になるが、今夜はこれ以上考えても仕方がなさそうだった。
窓の外では、満月が変わらず霧の向こうに浮かんでいた。
満月の夜には妖怪が出る。
確かに、その言葉は間違っていなかった。
もっとも、次に出るときは、せめて扉から入ってきてもらいたいものだ。