身体の下に、柔らかな感触があった。
背中を受け止めているのは、湿った土でも冷たい岩でもない。清潔な布が敷かれた寝台だった。胸元まで掛けられた布団から、陽に干した布の匂いが微かに漂っている。
――ここは、どこだ。
重い瞼を開く。
視界は白く霞み、木製らしき天井が輪郭を結ばない。顔にかかった長い白髪が片目を覆っていたが、それを払うだけの力さえ入らなかった。目の奥に鈍い痛みが走り、俺は一度瞼を閉じた。
最後に覚えているのは、
それなのに、俺には今、身体がある。
息を吸えば胸が上下する。心臓がゆっくりと脈打ち、身体の隅々へ血を送り出している。指先には温度があり、乾いた喉には痛みがあった。
穢土転生の器ではない。
紛れもなく、生きた肉体だった。
再び目を開き、ぼやける視界をゆっくりと横へ動かす。
寝台の傍らに置かれた椅子に、一人の女が腰掛けていた。
銀色の髪に、青い瞳。青と白を基調とした見慣れない衣服を身につけ、静かに本を読んでいる。
姿勢にも呼吸にも隙がない。
ただ本を読んでいるだけのように見えて、その意識は部屋全体に向けられていた。少なくとも、何の力も持たない使用人ではない。
俺の視線に気づいたのか、女は本を閉じた。
「目を覚まされましたか」
声音は穏やかだった。
俺は身体を起こそうとした。しかし腕に力が入らず、肩が僅かに浮いただけで、再び寝台へ沈み込んだ。
身体が酷く衰弱している。
チャクラを練ろうとしても、意識が定まらない。仮に目の前の女が敵だったとしても、今の俺には抵抗する力すら残されていなかった。
「無理をなさらないでください。今の貴方は、起き上がれる状態ではありません」
女が立ち上がり、俺の掛け布を整えた。
「……ここは……あの世か……?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
女は僅かに目を瞬かせる。
「……? ここは霧の湖の畔にある館、
「紅魔館……?」
聞いたことのない名だった。
魔法の森という言葉も気になったが、頭に靄がかかったように思考がまとまらない。
「貴方はまだ絶対安静です。お話は、もう少し回復してからにいたしましょう。今は大人しく眠っていてください」
女が水を含ませた布で、俺の額を静かに拭う。
何者なのかは分からない。
だが、俺を害するつもりなら、意識を失っている間にいくらでもできたはずだ。
そう判断した直後、抗い難い眠気が押し寄せてきた。
返事をするより早く、俺の意識は再び暗闇へ沈んでいった。
◇
――どれほど眠っていたのだろうか。
次に目を覚ましたとき、木製の天井がはっきりと見えた。
窓から淡い陽光が差し込み、深い赤色の敷物を照らしている。壁には燭台と風景画が飾られ、部屋の隅には艶のある木製の机が置かれていた。
俺が暮らしてきた土地では、あまり見かけない様式だ。慎ましくも洗練され、調度品の一つ一つが上質だった。
身体を僅かに動かしてみる。
全身には重さが残っているものの、今度は腕にも指にも力が入った。
俺は腹の奥へ意識を集中させ、慎重にチャクラを練る。
多少の淀みはあるものの、体内のチャクラは意志に従って流れた。視界にも異常はなく
だが、意識を周囲へ向けると、微かに妙な感覚があった。
空気の中に、チャクラとどこか似た力が満ちている。
生き物の内に蓄えられた力ではない。空気や大地、この館の壁にまで薄く染み込み、絶えず揺らいでいるように感じられた。
自然エネルギーにも似ているが、俺の知るそれとも少し違う。
今の俺には、その正体までは分からなかった。
「お目覚めですか」
声のした方を見る。
あの銀髪の女が、部屋の一角で静かに紅茶を淹れていた。湯気とともに、柔らかな香りが広がっていく。
「あらためまして、私はこの紅魔館でメイド長を務める、
女――咲夜は、両手でスカートの裾を軽く持ち上げ、優雅に礼をした。
「俺は長門だ」
俺も寝台の上で軽く頭を下げる。
「俺は、どれほど眠っていた?」
「最初に一度目を覚ましてから、丸三日です。発見した日から数えれば、もう少し長くなります」
「三日……」
「食事も満足に取れる状態ではありませんでしたので、こちらで少しずつ処置をしておきました。あの状態で、よく生きていたものです」
咲夜の言葉には、僅かな呆れと感心が交じっていた。
俺は自分の腕へ目を落とす。
外道魔像に長く生命力を吸われ続け、骨と皮ばかりに痩せ細った身体。
それがなぜ、再び生きた肉体として存在しているのか。俺自身にも説明できなかった。
「……ここは、本当にあの世ではないのか?」
「先日も申し上げた通り、違います。ここは霧の湖の畔にある紅魔館。そして、この土地は『
「幻想郷……聞いたことがないな」
だが、それにしては不可解なことが多すぎる。
俺が黙り込むと、咲夜は紅茶の入ったカップを机へ置いた。
「長門様は、外の世界から来られたのでしょうか。幻想郷には時折、外から人や物が迷い込んでくることがありますから」
「外の世界?」
「幻想郷の外側にある世界です。ここは結界によって外界から隔てられています」
結界によって閉ざされた土地。
それならば、知らない文化や術が存在することにも一応の説明はつく。
だが、本当の驚きはその後だった。
「戦争は……どうなった」
「戦争、ですか?」
「ああ。忍連合と暁の戦争だ。うちはマダラは……それに、ナルトはどうなった?」
咲夜の表情に、明確な戸惑いが浮かんだ。
「申し訳ありませんが、どれも存じません。少なくとも幻想郷では、そのような戦争が起きているという話は聞いていませんが……」
「忍五大国を知らないのか?」
「そのような国名も聞いたことがありません」
咲夜は少し考えた後、不思議そうに首を傾げた。
「それと、ナルトというのは……ラーメンに入っている、渦巻き模様の具材でしょうか。生憎、当館では普段使いませんけれど」
「……いや、人の名だ」
冗談を言っている様子はない。
忍五大国も、第四次忍界大戦も、うずまきナルトも知らない。
「ここには、忍はいないのか?」
「少なくとも、私はお会いしたことがありません。似たような者なら、どこかにいるかもしれませんが」
「では、チャクラは?」
「チャクラ……というものも存じません。この幻想郷で超常の力として知られているのは、妖力や霊力、そして魔力でしょう」
妖怪。霊力。魔力。
聞き覚えのある概念もあったが、咲夜のいう魔力は、忍術に使うチャクラとは別のものらしい。
ここは単なる秘境ではない。
俺は死後、かつていた世界とは異なる場所へ流れ着いたのかもしれない。
そう考えるのが、最も自然だった。
――俺は、どうしてここに来てしまったのだろうか。
◇
それからしばらく、療養の日々が続いた。
咲夜は決まった時間に食事と薬を運び、俺の身体の状態を確認した。初めは流動食に近いものしか口にできなかったが、日を追うごとに固形物も食べられるようになった。
彼女は必要なこと以外、ほとんど尋ねなかった。
俺が何者なのか。
なぜ魔法の森に倒れていたのか。
そして、この目が何なのか。
疑問はいくらでもあるはずだ。それでも咲夜は、俺が自分から話そうとしない限り、無理に聞き出そうとはしなかった。
ただし、警戒を解いているわけではない。
彼女が部屋にいる間、俺は常にその視線を感じていた。何度か袖口に銀色の光が見えた。恐らく刃物の類だろう。
当然の対応だった。
素性も知れず、見慣れない眼を持つ男を、主人の住む館へ置いているのだ。
俺もまた、紅魔館について少しずつ観察した。
廊下の向こうから聞こえる、多数の足音。窓の外を横切る、翼の生えた小さな人影。日が沈む頃になると、それまで静かだった館のあちこちから、活動を始める者たちの気配が感じられた。
ここは、人間だけが暮らす場所ではない。
それでも不思議と、俺へ向けられた殺気は感じなかった。
夜になると、眠れないこともあった。
目を閉じれば、十拳剣に呑み込まれた瞬間が蘇る。
今度こそ、すべてが終わるはずだった。
長い戦いから解放され、死者のもとへ行けると思っていた。
それなのに、俺は再び生きている。
初めのうちは、この身体も穢土転生と同じ偽物なのではないかと疑った。しかし、空腹も、傷の痛みも、日に日に戻ってくる力も、これが生きた身体であることを告げていた。
なぜ生き返ったのか。
なぜ、見知らぬ土地へ来たのか。
考えても答えは出ない。
ある夜、俺は寝台を離れ、窓辺へ立った。
夜空には、白い月が浮かんでいる。
空だけは、向こうと変わらない。
そのことに僅かな安堵を覚えている自分に気づいた。
「弥彦、小南……自来也先生」
呼びかけても、答えはない。
「あなたたちに会うのは、まだ先になりそうだ」
死を望んでいるわけではない。
だが、生き直すことを望んでいたわけでもなかった。
すべてをナルトへ託し、自分の役目は終わったはずだった。そんな俺が、今さら何のために生きればよいのか。
まだ分からない。
それでも、再び与えられた命を、理由も分からないまま捨てることはできなかった。
せめて、自分がなぜここへ来たのか。
それを知るまでは、生きてみよう。
答えと呼ぶにはあまりに頼りない結論だったが、今の俺にはそれで十分だった。
◇
数日が過ぎる頃には、杖を借りれば一人で歩けるまでに回復していた。
その日、咲夜が俺の部屋を訪れた。
「お嬢様がお会いになるそうです」
「この館の主か」
「ええ。もっとも、魔法の森で長門様を発見したのも、お嬢様ですけれど」
俺は寝台から立ち上がり、貸し与えられた衣服を整えた。
命を救われ、長い間保護されている。
まずは礼を述べるべきだろう。
◇
紅魔館の奥、重厚な扉の前へ案内された。
扉の向こうから、強い気配を感じる。
人間のものではない。膨大な力を小さな器へ押し込めたような、濃密で冷たい気配だった。
咲夜が扉を開く。
その先には、高い天井と深紅の絨毯が敷かれた広間が広がっていた。
窓には厚い幕が下ろされていたが、完全に閉ざされてはいない。その隙間から差し込む昼の光が、細い帯となって床を照らしていた。
部屋の奥、玉座を思わせる椅子に、一人の少女が腰掛けている。
淡い青紫色の髪。蝙蝠を思わせる翼。そして、血のように深い紅色の瞳。
少女が身に纏っているのは、幼い外見には似つかわしくない、重厚な漆黒のドレスだった。幾重にも重なった布が首元から足先までを覆い、長い袖の先には黒い手袋が見える。
その姿だけを見れば、年端もいかない少女にしか見えない。
しかし、身体から放たれる威圧感は、歴戦の忍にも劣らなかった。
少女の紅い瞳が、俺を捉える。
その視線が、顔の半分を覆う髪の隙間へ向けられた。
そして、そこから覗く輪廻眼を正面から見据える。
その瞬間、彼女の瞳の奥で、紅い光が揺らめいたように見えた。
俺は無意識に足を止める。
だが、それはあまりにも一瞬のことで、次に瞬きをしたときには、少女はただ興味深そうにこちらを見つめているだけだった。
咲夜に促され、俺は再び歩みを進める。
少女の前で立ち止まると、静かに頭を垂れた。
「……忍の長門と申します。このたびは命を救っていただき、誠にありがとうございます」
「レミリア・スカーレットよ。この紅魔館の主をしているわ」
少女――レミリアは、玉座の肘掛けへ片肘を置いた。
「元気になったようで何よりね。見つけたときは、一瞬、死体かと思ったわ。骨と皮ばかりで、よく生きていたものだと感心したくらいよ」
レミリアはそこで、俺の顔へ垂れた髪に目を留めた。
「それにしても、その髪。本当は赤かったのね」
「……髪?」
「見つけたときは真っ白だったもの。随分と印象が変わったわ」
言われて、自分の髪を一房つまみ上げる。
白く変わっていたはずの髪は、いつの間にか、かつての赤色を取り戻していた。
療養の間、自分の姿を鏡で確かめる余裕などなかったため、今まで気づかなかった。
「俺にも、いつ戻ったのかは分からない」
「身体が若返った影響かしら。ますます面白いわね、あなた」
レミリアは俺の頭から足元までを、改めて観察するように眺めた。
「……そう見えても仕方あるまい。俺自身、なぜあの場所にいたのか分からない」
「あの森に、突然現れたということ?」
「恐らくは」
「昼間に咲夜と森を通りかからなければ、見つけるのがもう少し遅れていたかもしれないわね。運が良かったと思いなさい」
昼間。
窓から差し込む光と、肌を隠すようなレミリアの衣服を見比べる。
これほど強い人外の気配を持ちながら、彼女は昼の森を歩いていたという。
俺の知る妖怪や怪異の常識が、この場所でも通じるとは限らないらしい。
レミリアは椅子の肘掛けへ頬杖をつき、興味深そうに俺を眺める。
「咲夜から聞いていたけれど、その目、本当に紫色なのね。それに、ただ色が変わっているだけではなさそう」
視線が輪廻眼へ集中する。
「何か、特別な力を持っているのでしょう?」
俺はすぐには答えなかった。
この場所について何も知らない状況で、輪廻眼の能力を明かすのは危険だ。
「……この目は、輪廻眼という。俺がいた場所では、六道仙人が持っていたと伝えられる目だ」
「仙人の目、ね」
レミリアは楽しそうに笑った。
「やっぱり、ただの人間ではなさそう。まあいいわ。話したくないことまで、今すぐ聞き出すつもりはないもの」
彼女は椅子へ深く腰掛けると、こちらを値踏みするように目を細めた。
「あなたが十分に回復するまで、この紅魔館に滞在することを許可してあげる。行くあてもないのでしょう?」
「……ああ」
「その代わり、この館で問題を起こさないこと。咲夜の指示には従うこと。それから――」
レミリアの紅い瞳が、再び輪廻眼を捉える。
「いつか、その目の力を私にも見せなさい。とても興味があるわ」
「承知した。ご厚意、痛み入る」
俺は再び、深く頭を下げた。
死んだはずの俺が、なぜこの場所で再び肉体を得たのか。
何者が、何のために俺をここへ導いたのか。
答えは何一つ分からない。
それでも俺は、もう一度目を開いた。
すべてをナルトへ託し、自らの物語を終えたはずの俺に、新たな生が与えられた。
それが救いなのか、罰なのかは、まだ分からない。
こうして俺は、紅い館でしばらく暮らすこととなった。
望んだわけでもない新たな物語が、静かに動き始めていた。
お読み頂きありがとうございます。
紅魔館に転生した長門はこれからどうなるのか!?
NARUTO本編では悲劇の人生であった彼の物語、
こちらでは光あるものにしていきたいです。
さて、お気づきの方も多いと思いますが、レミリアの衣装が原作とは違います。
これは日の光に弱い彼女たち吸血鬼が、肌を晒した服装をするかな?と思い、光を遮断する黒に肌の露出を極力押さえた服装にしました。
今作ではこのように、私の解釈、妄想で様々な独自の設定を組み立てているので、そういうものとして楽しんで頂けたら幸いです。