俺は終えたはずの生を、この場所でもう一度始めることになったのだ。
◇
朝、窓から差し込む光で目を覚ました。
紅魔館を取り囲む霧を通した日差しは柔らかく、室内を淡い白色に染めている。窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえ、風に揺られた木々が静かに葉を鳴らしていた。
戦場とは無縁の、穏やかな朝だった。
寝台から身体を起こし、腕を曲げ伸ばしする。
レミリアとの謁見から一週間。咲夜の用意した食事と薬のおかげで、俺の身体は日常生活に支障がない程度まで回復していた。
チャクラも問題なく練ることができる。
ただ、
失われたわけではない。瞳術が封じられている様子もない。それでも、向こうにいた頃と同じように力を巡らせようとすると、どこかで流れを妨げられるような感覚が残った。
身体が衰弱しているためなのか。
それとも、この場所そのものに原因があるのか。
今の段階では判断できなかった。
寝台から下りたところで、扉が規則正しく三度叩かれた。
「長門、起きている?」
「ああ。入ってくれ」
扉を開けて入ってきた咲夜は、両腕に黒い衣服を抱えていた。
白いシャツの上に、背中の裾が長く仕立てられた黒い上着とズボン、そして小さな黒い布が重ねられている。
「随分と顔色がよくなったわね」
「ああ。もう一人で動いても問題ない」
「それなら、今日から少しずつ働いてもらうわ」
咲夜は衣服一式を寝台の上へ置いた。
これまでの丁寧な口調とは違う。
俺がそのことに気づいたのを察したのか、咲夜は衣服を整えながら続けた。
「今日からは同じ紅魔館で働く仲間よ。いつまでも客人として扱う必要はないでしょう?」
「それは構わない。俺も咲夜に敬語を使う必要はないということか」
「ええ。その方が私も指示を出しやすいわ」
「分かった。これからよろしく頼む、咲夜」
「こちらこそよろしく、長門」
咲夜が置いた服へ目を戻す。
黒を基調とした、異国風の仕立てだった。余計な装飾は少ないが、生地はしっかりしている。俺の体格に合わせて用意されたらしく、目測でも大きさに狂いはなさそうだった。
「これが俺の服か」
「ええ。紅魔館の執事として働くなら、それにふさわしい身なりをしてもらうわ」
紅魔館での生活が決まった翌日、俺はレミリアに、回復後は館の仕事を手伝わせてほしいと申し出ていた。
命を救われ、食事と寝床まで与えられている。
行くあてもないからといって、何もせず世話になり続けるつもりはなかった。
レミリアは少し考えた後、「それなら咲夜の下で働きなさい」と言った。
館には大勢の妖精メイドがいるらしいが、彼女たちの仕事ぶりには少々問題があるという。咲夜一人に任されている仕事も多く、人手が増えること自体は歓迎された。
もっとも、なぜ俺が「執事」なのかは分からない。
咲夜によれば、館に仕える成人男性を妖精メイドと同じ格好にするわけにもいかず、ほかに適当な呼び名もなかったらしい。
「着替えが済んだら呼んで。仕事の説明をするわ」
そう言い残して、咲夜は部屋を出ていった。
◇
渡された服に袖を通す。
白いシャツの上から黒い上着を羽織り、同じ色のズボンを穿く。忍装束より身体に密着する部分が多く、初めは窮屈に感じた。
ただ、動きを妨げるほどではない。
鏡の前に立って襟を整える。
肩へかかる赤い髪は相変わらず顔の片側を覆い、その隙間から紫色の輪廻眼が覗いていた。
白いシャツに黒い上着。見慣れた赤髪と輪廻眼だけが、鏡の中の男を辛うじて自分だと思わせている。
以前は、暁の黒衣か忍装束を身につけていることがほとんどだったためか、こうした服を着た自分の姿には、ひどく違和感がある。
戦いから離れた場所へ来たのだと、服装にまで言い聞かされているようだった。
最後に、残された小さな黒い布を手に取る。
首元へ巻き、正面で蝶のような形に結ぶものらしいが、何度試しても左右の大きさが揃わない。
決められた形を指で結ぶという点では、印と似ていなくもない。そう考えて手順を覚えようとしたが、当然ながら勝手はまるで違った。
四度目の失敗をしたところで、再び扉が叩かれた。
「長門、入ってもいい?」
「ああ」
咲夜が部屋へ入る。
彼女は鏡の前に立つ俺と、形の崩れた首元を見比べた。
「随分と苦戦しているようね」
「……思ったより複雑だ」
「初めはそんなものよ。ちょっと貸して」
咲夜は僅かに笑うと、俺の前へ立った。
彼女の指が、首元の布を解く。
左右の端を重ね、片方を折り畳み、中央へもう片方を回す。複雑そうに見えた動作は淀みなく進み、間もなく首元に整った蝶形の結び目が出来上がった。
「これで完成」
咲夜は蝶ネクタイの両端を軽く整えた。
「蝶ネクタイの結び方も、これから練習しないといけないわね」
「覚えることが多いな」
「紅魔館の執事を名乗るなら、これくらいは身につけてもらうわ」
鏡に映る俺の姿を確認し、咲夜は満足そうに頷いた。
「……意外と似合っているじゃない」
「そうか」
淡々と返したが、悪い気はしなかった。
着慣れない服を褒められただけだというのに、胸の内が僅かにくすぐったい。
そうした感覚を覚えること自体が、ひどく久しぶりだった。
◇
俺に任されたのは、主に館内の清掃や荷物の運搬、食事の準備といった仕事だった。
幸い、雑事そのものには慣れている。
幼い頃、自来也先生から修業を受けていたときも、弥彦や小南と暮らしていたときも、生活に必要なことは自分たちで行っていた。掃除、洗濯、簡単な調理であれば、一通りこなせる。
問題は、紅魔館独自の作法だった。
客へ紅茶を出す順番。
食器の持ち方と並べ方。
食卓を飾る花の選び方。
廊下ですれ違った相手への礼。
どれも戦場では必要のなかった知識ばかりだ。
「カップの取っ手はこちら。受け皿の模様も、客人から見て正面になるように置いて」
「向きに意味があるのか?」
「意味があるかどうかではなく、そうした方が美しいのよ」
俺には理解しづらい理屈だった。
しかし、咲夜の動作には一切の迷いがない。食器を一つ置く仕草さえ、長い修練を経て磨かれた技のように見えた。
忍術とはまるで違うが、これも一つの型なのだろう。
そう考えると、覚えること自体は苦にならなかった。
館の廊下は長く、部屋の数も多い。
妖精メイドたちも働いていたが、一人が掃いた場所を別の一人が汚し、運んでいた皿を落としては、笑いながら片づけている。その姿を見ていると、咲夜が常に忙しそうにしている理由も分かる気がした。
それでも館の日常は、奇妙なほど穏やかだった。
怒号も、爆発音も聞こえない。
誰かの命を奪うために力を使う必要もない。
失敗すれば叱られることはあっても、それで仲間を失うことはない。
俺はまだ、この静けさに慣れていなかった。
◇
数日後、中庭で咲夜と洗濯物を取り込んでいたときのことだった。
空は薄い霧に覆われ、雲の切れ間から差し込む日差しも柔らかい。
咲夜が物干し台からシーツを外した瞬間、湖の方角から強い風が吹いた。
白い布が大きく膨らみ、彼女の手を離れて宙へ舞い上がる。
「まったく、こういうときに限って……」
咲夜が小さく息をつく。
彼女が宙へ浮かび上がろうとしたのを見て、俺は先に右手を伸ばした。
飛ばされていくシーツへ意識を集中させる。
この程度ならば、今の俺にも扱えるはずだ。
「――
見えない力が、空中のシーツを捉える。
だが、以前のような鋭さはなかった。
力は布を一度大きく揺らし、それからゆっくりとこちらへ引き寄せた。俺は飛んできたシーツを両手で受け止める。
狙い通りではある。
しかし、以前なら意識するまでもなかった距離と重さだ。それだけの力を使ったにもかかわらず、目の奥に微かな疲労が残っている。
やはり何かが違う。
「飛ぶより早い方法ね」
いつの間にか、咲夜が俺の隣に立っていた。
驚いた様子は一瞬だけで、今は興味深そうにシーツと俺の右手を見比べている。
「今のは、魔法?」
「いや。そういうものではない」
「では、“万象天引”というのが?」
「俺の力の一つだ」
それ以上を語るつもりはなかった。
咲夜もそれを察したらしく、僅かに目を細めたものの、追及はしなかった。
「そう。随分と便利な力を持っているのね」
俺は手の中のシーツへ目を落とす。
「以前は、こんなことに使う力ではなかった」
敵を間合いへ引きずり込み、命を奪う。
あるいは岩や瓦礫を動かし、その下へ押し潰す。
万象天引は、そうした目的で使ってきた力だった。
洗濯物を取り込むために使う日が来るなど、考えたこともない。
「余り褒められたものではない」
俺が呟くと、咲夜はシーツの端を受け取った。
「どんな力かは知らないけれど、少なくとも今は、洗い直す手間が省けたわ」
彼女は俺と一緒にシーツを広げ、端を揃えて折り畳んでいく。
「私としては、十分に褒められる使い方よ」
「……そうか」
「ええ。ただし、食器に使うのは控えて。万が一割ったら、きちんと弁償してもらうから」
「気をつけよう」
咲夜は小さく笑った。
俺は、折り畳まれた白いシーツを見つめる。
かつて破壊のために振るった力が、今は一枚の布を汚さずに済ませた。
それは取るに足らないことだった。
だが、その小さな事実が、胸の奥へ不思議な感覚を残した。
◇
夜の帳が下り、廊下の窓から淡い月光が差し込む頃、その日の仕事が終わった。
俺は自室へ向かい、重い足取りで廊下を歩いていた。
身体はまだ完全には回復していない。それ以上に、一日中慣れない作法を教え込まれたことで、頭の方が疲れていた。
忍とは、堪え忍ぶ者。
この程度で弱音を吐くわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせながら角を曲がると、廊下の先に小柄な影が立っていた。
窓から入る月明かりが、幾重にも布を重ねた漆黒のドレスを照らしている。
血のように紅い瞳が、こちらを見つめていた。
「仕事の手際は悪くないそうね」
声の主はレミリアだった。
「咲夜が褒めていたわ。あの子が新入りを素直に褒めるのは珍しいことよ、ナガト」
「それは光栄です、お嬢様」
俺は教わった通りに姿勢を正し、胸へ手を添えて一礼する。
すると、レミリアは見るからに不満そうな顔をした。
「それ、やめなさい」
「何か間違っていたでしょうか?」
「間違ってはいないわ。だから気に入らないの」
随分と難しい注文だった。
レミリアは腕を組み、俺を見上げる。
「敬語も使わなくていいし、“お嬢様”ではなくレミリアと呼びなさい」
「しかし、俺はこの館の執事として働いていますが」
「それがどうしたの?」
「館の主を呼び捨てにすれば、指導している咲夜の面目が立たないのではないでしょうか」
「あれは咲夜が好きでやっていることよ。それに、ナガトから“お嬢様”などと呼ばれると、どうにも体がむずむずするわ」
レミリアは俺の頭から足元までを眺めた。
「見た目も態度も、誰かにかしずくような人間には見えないもの。無理に執事らしく振る舞われる方が落ち着かないわ」
「ですが――」
「咲夜には私から言っておく。これは紅魔館の主としての命令よ」
そこまで言われては、従うほかない。
「…分かった。敬語はやめよう」
俺は姿勢を戻し、改めて彼女を見る。
「これからよろしく頼む、レミリア」
レミリアは一度目を丸くし、それから満足そうに微笑んだ。
「ええ。初めからそう呼べばいいのよ」
どうやら機嫌を直したらしい。
「それで、仕事には慣れた?」
「覚えることは多いが、問題ない。世話になっている以上、館のためにできることはするつもりだ」
「真面目なのね」
レミリアはそう言うと、何かを思い出したように目を細めた。
「そういえば、咲夜から聞いたわ。見えない力で、飛ばされたシーツを引き寄せたそうじゃない」
「ああ」
「便利そうな力ね。“万象天引”と言ったそうだけれど、ほかに何ができるの?」
「いくつかある」
「それだけ?」
「今は、それ以上話すつもりはない」
レミリアの紅い瞳が、俺をまっすぐに見据える。
機嫌を損ねる可能性も考えたが、彼女は怒るどころか、どこか楽しそうに口元を緩めた。
「用心深いのね」
「自分の力を不用意に明かす趣味はない」
「まあ、いいわ。無理に聞き出しても面白くないもの」
レミリアはあっさりと身を引いた。
「でも、その“万象天引”という力は、魔法ではないのでしょう?」
「ああ。少なくとも、俺がいた場所ではそう呼ばれていなかった」
「それなら、明日“パチェ”のところへ行ってみなさい」
「……パチェ?」
「パチュリー・ノーレッジ。地下の大図書館に住んでいる、私の友人よ。この館で一番の知識人――賢者と言ってもいいわね」
レミリアは唇に指を添え、楽しそうに笑った。
「未知の力や術式の話なら、私よりパチェの領分よ。ナガトの力が何であれ、何か分かるかもしれないわ」
俺は返事をせず、レミリアの言葉を考える。
この場所の空気や大地を満たしている、チャクラとどこか似た力。
向こうでは感じたことのないその力について、俺はまだ名前すら知らない。
魔法に通じた者ならば、何か手掛かりを持っている可能性はある。
「分かった。会ってみよう」
「そうしなさい。パチェには私から話しておくわ」
レミリアは満足そうに頷くと、俺の横を通り過ぎた。
「明日の仕事が終わったら、咲夜に図書館まで案内してもらいなさい」
「ああ」
「それでは、おやすみなさい。新米執事さん」
漆黒のドレスの裾を揺らし、レミリアは廊下の角へ消えていった。
静けさを取り戻した廊下で、俺は一人立ち尽くす。
魔法。
この場所を満たしている、チャクラとどこか似た力。
そして、以前のようには働かない輪廻眼。
パチュリーという人物に会えば、その答えへ近づけるのだろうか。
俺は窓の外へ目を向ける。
霧に霞んだ湖の上で、月が淡い光を放っていた。
戦うためではなく、ここで生きていくために。
俺はもう一度、自分の力が何であるのかを知る必要があった。
◇
そんな長門を、廊下の奥から見つめる小さな影があった。
僅かに開いた扉の向こうで、七色の欠片が月明かりを受けて揺れる。
やがて長門が立ち去ると、その影も音もなく闇の中へ消えた。
お読みいただきありがとうございます。
いよいよ長門の執事修行が始まりました。
あの暁で猛威を振るっていた能力を家事に使う。中々に感慨深いものがありますね。
これは昔、某巨大ロボットアニメを見ていた時に、かつて世界を滅ぼした機体が洗濯や物干しに使われているのを見て、そういうの何か良いな~と思って長門にやって貰いました。