ある日の午後、俺は玄関広間の掃除をしていた。
紅魔館の正面玄関は大きい。
人が何人も並んで通れるほど幅のある扉に、高い天井。床には深紅の絨毯が敷かれ、その両脇には古めかしい甲冑や絵画が並んでいる。
これだけ広ければ、掃除にも相応の時間がかかる。
もっとも、以前に比べれば仕事には慣れてきた。
箒の扱いはもちろん、館内のどこに埃が溜まりやすいかも分かる。咲夜ほど素早くはできないが、少なくとも妖精メイドよりは役に立っているはずだ。
そうして絨毯の端を掃いていたとき、正面の扉が軽く叩かれた。
三度。
客人だろうか。
俺は箒を壁へ立てかけ、扉を開いた。
白い霧の向こうに、見覚えのない少女が立っていた。
紅と白を基調とした、どこか巫女装束を思わせる服。長い黒髪には、大きな赤いリボンが結ばれている。
片手には、先端に紙垂をつけた棒を持っていた。
その棒を肩にかけながら、少女は俺の顔を見上げる。
訝しげな視線が、髪の間から覗く俺の眼で止まった。
「……あなた、誰?」
「それはこちらの台詞だ。この館に何か用か?」
「用があるから来たのよ」
少女は当然のように答えた。
俺の顔を眺めながら、僅かに首を傾げる。
「もしかして、あなたが新しく入ったっていう使用人?」
「俺のことを知っているのか?」
「魔理沙から聞いたわ。紅魔館に、妙な眼をした面白い男がいるって」
随分な紹介だった。
今度会ったとき、訂正させた方がよいかもしれない。
「長門だ」
「私は
その名前には聞き覚えがあった。
以前、レミリアと咲夜から聞いたことがある。
幻想郷の均衡を守り、異変が起これば解決へ向かう博麗の巫女。そして
目の前の少女からは、そんな大役を担う者らしい威圧感は感じられない。
だが、油断はできなかった。
立ち姿には力が入っていない。それにもかかわらず、どこにも隙が見当たらない。
身体の動きではなく、もっと別の何かが、少女への接近を拒んでいるように感じる。
霊夢もまた、俺を観察していた。
輪廻眼だけではない。
頭から足元まで、俺という存在そのものを確かめているような視線だった。
「……妙ね」
霊夢が小さく呟いた。
「何がだ?」
「よく分からないから妙なのよ」
「随分と曖昧だな」
「そういうこともあるわ」
それ以上説明するつもりはないらしい。
俺も玄関先で立ち話を続けるわけにはいかず、扉を広く開いた。
「レミリアに用があるのだろう。中で待っていてくれ」
「ええ。そうさせてもらうわ」
霊夢は俺の横を通り、慣れた様子で館へ入っていった。
◇
霊夢を客間へ案内すると、ほどなくしてレミリアと咲夜がやってきた。
「遅かったじゃない、霊夢」
レミリアは霊夢の姿を見るなり、楽しそうに笑った。
「別に約束してないでしょう」
「私に会いに来るなら、前もって知らせるのが礼儀というものよ」
「知らせたら、どうせ無駄に大げさな出迎えを用意するじゃない」
「当然でしょう? このレミリア・スカーレットの友人を迎えるのだもの」
「だから知らせなかったのよ」
言いながら、霊夢は既に椅子へ腰掛けている。
レミリアもその向かい側へ座った。
以前聞いた紅霧異変の話から、もっと緊張した関係を想像していたが、実際の二人は長く付き合っている友人にしか見えない。
「それで、今日は何の用なの?」
「魔理沙から妙な話を聞いたから、ついでに見に来たのよ」
霊夢の視線が俺へ向く。
「この人のこと」
「あら。ナガトに興味があるの?」
レミリアが僅かに身を乗り出した。
声は楽しそうだが、その紅い瞳は霊夢を窺っている。
「興味というより、確認ね。紅魔館に正体の分からない者が入ったなら、一度くらい顔を見ておいた方がいいでしょう?」
「ナガトは私と咲夜が連れてきたのよ」
「だから何よ。あなたが面白がって拾っただけかもしれないじゃない」
「失礼ね。私にだって見る目はあるわ」
「その見る目で、図書館から本を盗む魔法使いを何年も出入りさせてるじゃない」
「あれはパチェの管理の問題よ」
二人のやり取りを、咲夜は何も言わずに聞いていた。
いつものことなのだろう。
やがて咲夜が俺へ銀の盆を渡す。
盆には紅茶の入ったポットと二人分のカップ、それに焼き菓子が載せられていた。
「長門、給仕をお願い」
「ああ」
まずレミリアの前へカップを置き、続いて霊夢の前へ置く。
霊夢は礼を言うより先に、皿の上の焼き菓子へ目を向けた。
幻想郷の守護者にも、甘いものを好む程度の普通らしさはあるようだ。
「それで?」
霊夢が菓子を一つ手に取り、こちらを見た。
「あなたは、どうしてここにいるの?」
「魔法の森で倒れていたところを、レミリアと咲夜に助けられた」
「外から来たのね」
「ああ」
「紅魔館で働くことにした理由は?」
「受けた恩を返すためだ。それに、俺には他に行く場所もないしな」
「ふうん」
霊夢は焼き菓子を一口かじった。
問い詰めるような口調ではなかったが、その目はこちらの僅かな変化も見逃さないように見えた。
「外では何をしていたの?」
「忍だ」
「忍?」
「忍術を使い、戦いや諜報を行う者だ」
「ああ。魔理沙が“忍者”とか言っていたのは、それのことね」
「そう考えて構わない」
「その魔理沙から、変な力で引き寄せられたとも聞いたわ」
あいつは一体、どこまで話したのだろうか。
「俺の力の一つだ」
「その眼の力?」
俺はすぐには答えなかった。
霊夢も答えを急かさない。
沈黙のまま、こちらの反応だけを見ている。
「詳しく話すつもりはない」
「そう」
霊夢は焼き菓子を一つ手に取り、一口かじった。
「話したくないなら、それでいいわ」
「随分と簡単に諦めるのだな」
「知らないことがあるだけで退治していたら、幻想郷から誰もいなくなるもの」
霊夢は紅茶へ口をつける。
「でも、その力で何か妙なことをしたら、私は止めるわ」
先ほどまでと変わらない声だった。
それでも、その一言だけは冗談でないと分かる。
俺は霊夢の目を見返した。
「そのつもりはない」
「ならいいわ」
霊夢はそれだけ言うと、再び菓子を口に運んだ。
「話は終わり?」
レミリアが少し不満そうに尋ねる。
「ええ。今のところは問題なさそうだもの」
「これだけの話で分かるのか?」
俺が尋ねると、霊夢はカップを置いた。
「勘よ」
「……勘?」
「博麗の巫女の勘は良く当たるのよ」
霊夢は、さも当然のように答えた。
「私の見る目も、なかなかのものでしょう?」
レミリアが得意そうに笑う。
「あなたの見る目を褒めたわけじゃないわよ」
「素直じゃないわね」
また口論が始まりそうだった。
そのとき、客間の外から慌ただしい足音が近づいてきた。
一人ではない。何人もの足音と、食器がぶつかり合う音。
嫌な予感がした。
「待って、押さないで!」
「そっちが先に曲がってよ!」
「前が見えないー!」
扉が勢いよく開く。
数人の妖精メイドが、大きな給仕用の台車とともに客間へ飛び込んできた。
どうやら廊下の角で互いにぶつかり、そのまま止まれなくなったらしい。
「きゃあっ!」
先頭の妖精が足を滑らせた。
台車が大きく傾き、その上に載せられていた茶器と菓子の皿が、一斉に宙へ舞った。
霊夢が咄嗟に手を伸ばし、菓子の載った大皿を両手で掴む。
俺も反射的に右手を伸ばした。
「――万象天引」
見えない力が、散らばった茶器を捉えた。
カップ、受け皿、ポット。
床へ落ちかけていたものが空中で止まり、俺の方へ引き寄せられる。
その中に、一人だけ妙なものが混じっていた。
「ちょっと!?」
霊夢だった。
彼女は両手で大皿を抱えたまま、皿ごと俺の方へ引き寄せられている。
「私まで引っ張ってどうするのよ!」
「……その皿を離せ」
「だったら先に言いなさいよ!」
俺は引力を弱め、霊夢を床へ降ろす。
その間にも、茶器は次々と手元へ集まってきたが、この数すべてを一人で受け止めるのは難しい。
次の瞬間、咲夜が動いた。
空中に浮かんでいたカップも受け皿も、何事もなかったように台車の上へ戻っている。
幸いにも割れたものは一つもなかった。
咲夜が妖精メイドたちへ向き直る。
「あなたたちねぇ……」
声は穏やかだった。
それを聞いた妖精たちの顔が、一斉に青ざめる。
「廊下を走ってはいけないと、何度言えば分かるのかしら?」
「ご、ごめんなさい!」
「わざとじゃないんです!」
「ちゃんと片づけますから!」
妖精メイドたちは口々に謝りながら、台車を押して逃げるように客間を出ていった。
あとで相応の叱責を受けるのだろう。
霊夢は守り抜いた大皿をテーブルへ置くと、俺の顔を見た。
「……あんた、その眼でいつもこんなことしてるの?」
「最近はな」
「魔理沙を捕まえたり、洗濯物を集めたり?」
「なぜ洗濯物のことまで知っている?」
「魔理沙がパチュリーから聞いたらしいわ」
話が広まっている。
俺の知らないところで、随分と便利な力として認識され始めているようだ。
霊夢は俺の輪廻眼と、無事に戻った茶器を見比べる。
「もっと物騒な力かと思ってた」
「物騒な使い方もできる」
「でしょうね」
霊夢はすぐに答えた。
だが、その声から先ほどまでの警戒は少し薄れていた。
「でもそれを今、あなたは妖精の失敗を片づけるために使った」
「ああ」
「……思っていたより、ずっと平和な使い方ね」
それが褒め言葉なのかは分からなかった。
ただ、悪い気はしなかった。
「君も、思っていた姿とは違った」
「私?」
「幻想郷を守る巫女と聞いていた。もっと厳格な人物を想像していた」
霊夢の手が、菓子へ伸びたところで止まる。
「どういう意味よ」
「そのままの意味だ」
「ナガト、それ以上はいけないわ」
レミリアは楽しそうに笑っていた。
「霊夢は、自分が思われているほど威厳がないことを気にしているのよ」
「気にしてないわよ!」
霊夢がレミリアを睨む。
レミリアは素知らぬ顔で紅茶を飲んでいる。
やはり、この二人は友人なのだろう。
少なくとも、俺の知っている敵同士は、このように同じ卓を囲んだりはしない。
◇
しばらくして、霊夢は帰ることになった。
レミリアと咲夜、それに俺も玄関まで見送る。
「それじゃ、また来るわ」
「次は先に知らせなさいよ」
「気が向いたらね」
霊夢は玄関前の石段を下りる。
その途中で、不意に足を止めた。
視線が、紅魔館の上階へ向けられる。
俺もつられて見上げた。
窓が幾つも並んでいる。
その一つで、カーテンが僅かに揺れた気がした。
「どうした?」
俺が尋ねると、霊夢はすぐに視線を戻した。
「別に」
それ以上は何も言わなかった。
霊夢の身体が、ふわりと地面を離れる。
「それじゃあね、長門」
「ああ」
霊夢は霧の中へ飛んでいく。
その姿が見えなくなった後、レミリアが俺の横で笑った。
「どうだった? 幻想郷最強の巫女は」
「掴みどころのない人物だな」
「そうでしょう?」
レミリアはどこか嬉しそうだった。
「でも、悪い子ではないわ」
「それは分かる」
霊夢は俺を警戒していた。
おそらく、今も完全に信用したわけではない。
それでも、事情を話さないというだけで敵と決めつけることはなかった。
俺もまた、博麗の巫女という肩書だけで、霊夢を理解したつもりになっていたのかもしれない。
館へ戻る前に、もう一度だけ上階の窓を見る。
誰もいない。
ただ、閉じられたカーテンが、微かに揺れていた。