――最近、誰かに見られている。
美鈴と組み手をした後、掃除の途中で感じた視線。
霊夢を見送った際に、上階で揺れていたカーテン。
どちらも、その向こうに誰がいたのかは分からない。
初めは気のせいかとも思っていた。
だが、咲夜と廊下を掃除していたとき、また同じ気配を感じた。
曲がり角の向こうから、誰かがこちらを覗いている。
俺は箒を止め、顔を上げた。
「どうしたの、長門?」
「今、あそこに誰かいなかったか?」
咲夜も廊下の先へ目を向けた。
「いいえ。誰も見ていないわ」
角の向こうを確かめたが、人影はなかった。
輪廻眼で探っても、館に満ちる濃密な魔力に紛れ、隠れた者の気配までは捉えられない。
「……そうか」
敵意は感じなかったため、俺はそのまま掃除へ戻った。
ただ、こちらが気づくたびに姿を隠す。
それが、少し気にかかった。
◇
少しして、昼の仕事を終えた俺は、紅魔館の廊下を一人で歩いていた。
館の奥にあるその場所には、昼間でも外の光がほとんど届かない。
ただ壁に並ぶ燭台の炎が揺れ、床へ細長い影を落としていた。
歩くたび、靴音だけが暗い廊下の奥へ響く。
そしてまた、あの視線を感じる。
俺は足を止めた。
その気配は今までよりも近い。
「誰だ?」
呼び掛けに返事はない。
「何のために俺を見ている?」
燭台の炎が、僅かに揺れた。
次の瞬間。
「――あそぼ」
耳元で、幼い声がした。
反射的に振り返る。
そこに、一人の少女が立っていた。
金色の髪。
枝のような翼には、色とりどりの結晶が吊り下がっている。
そして、レミリアとよく似た深紅の瞳。
「君は……」
少女が、にっこりと笑う。
「あそぼ!」
霧の中でお茶を飲んだ日の会話を思い出す。
レミリアには、フランドールという妹がいると聞いていた。
目の前の少女の深紅の瞳は、確かに姉を思わせるものだった。
「君が、レミリアの妹か?」
「私のこと、聞いてたんだ」
少女は嬉しそうに両手を後ろへ回した。
「お姉様が連れてきた人間って、あなたでしょう?」
「ああ。長門だ」
「私はフランドール・スカーレット。フランって呼んでね」
やはり、レミリアの妹らしい。
容姿こそ似ているが、受ける印象は随分と違う。
レミリアには、何気ない仕草にも館の主としての振る舞いがあった。
フランには、それがない。
思うままに距離を詰め、深紅の瞳で俺の顔を覗き込んでくる。
「俺のことを知っているのか?」
「うん。ずっと見てたもの」
あの視線は、フランのものだったらしい。
「なぜ姿を隠していた?」
「だって、知らない人だったから」
フランは何でもないことのように答えた。
「でも、お姉様も咲夜もパチュリーも、あなたとはお話しするでしょう?」
「それが気になったのか?」
「うん。それに、面白いこともできるんでしょう?」
フランの視線が、俺の輪廻眼で止まる。
「魔理沙を引っ張ったり、いろんなものを動かしたり」
話が随分と広まっている。
「それで、俺に何の用だ?」
「だから、遊びたいの」
フランが右手を差し出した。
その笑顔に裏があるようには見えない、ただ遊びへ誘う子供の顔だった。
それでも、胸僅かな違和感が残る。
俺は警戒を解かないまま、その手へ自分の手を伸ばした。
指先が触れようとした、その瞬間。
フランの瞳の奥で紅い光が弾け、周囲の魔力が急激に膨れ上がった。
「――っ!」
咄嗟に身を翻す。
直後、フランの掌から紅い光が放たれた。
轟音が廊下を揺るがす。
魔弾が壁へ直撃し、衝撃で燭台の火がすべて消えた。
破片と埃が舞い、廊下が暗闇へ沈む。
直撃していれば、ただでは済まなかった。
「すっごーい! 今の、避けちゃうんだ!」
暗闇の中に、二つの紅い光が浮かぶ。
そして、その場に似つかわしくない楽しげな少女の声が響いた。
フランは、心から楽しそうに笑っている。
俺は身体を低くし、右手を前へ構えた。
「今のが、お前の言う遊びか?」
「そうだよ」
フランの周囲へ、紅い魔力の塊が幾つも現れる。
「だって、普通の人間はすぐに壊れちゃうんだもの」
魔弾が一斉に放たれた。
狭い廊下では、すべてを避けきれない。
俺は餓鬼道の力を開き、正面から魔弾を受け止めた。
掌へ触れた光が次々に形を崩し、渦を巻きながら吸い込まれていく。
最後の一発が消え、廊下に再び暗闇が戻った。
「なにそれ、なにそれ!」
フランが目を輝かせる。
「どうなってるの!?」
「答える必要はない。もうやめろ」
「じゃあ、もう一回!」
話を聞いていない。
再び魔弾が生み出された。
先ほどより数が多い。
紅い光が連続して放たれ、暗い廊下を埋め尽くす。
一発、二発、三発。
餓鬼道で吸収するたび、魔力が身体の内側へ流れ込んできた。
この程度なら、まだ処理できる。
しかし、フランは魔弾が消える様子を面白がり、次々と数を増やしていった。
「すごい、すごい! 本当に全部なくなっちゃう!」
遊び。
本人にとっては、本当にそのつもりなのだろう。
そこに、明確な殺意はない。
だからこそ厄介だった。
フランは遊びのつもりで、人を殺し得る攻撃を放っている。
このまま廊下で続ければ、館への被害も広がる。
誰かが通りかかる可能性もあった。
一続きの魔弾を吸収し終えたところで、俺は背を向けた。
「あっ、待って!」
走り出した俺を、紅い光が追ってくる。
壁を蹴って軌道を変えると、直前までいた場所を魔弾が通過した。
「逃げないでよ! もっと遊ぼうよ!」
――それでいい。
俺はフランを引きつけたまま、廊下を駆けた。
曲がり角を抜け、階段を上がる。
フランは床へ足をつけることなく、飛びながら追ってきた。燭台や柱の隙間をすり抜け、魔弾を次々と放ってくる。
振り返りざまに一発を吸収する。
続く光を屈んでかわし、角へ滑り込む。
背後で壁が砕けた。
破片が肩へ当たったが、足は止めなかった。
突き当たりに、中庭へ続く大窓が見えた。
俺は窓の前で足を止め、振り返る。
追いついたフランの手に、紅い光が集まった。
光が細長く伸び、大鎌の形を取る。
「今度は、こっちだよ!」
フランが大鎌を振り上げ、そのまま突進してくる。
俺は刃が振り下ろされる寸前まで動かなかった。
間合いへ入った瞬間、その手首を掴む。
勢いを殺さず懐へ潜り込み、腰を落とした。
「えっ?」
身体を回転させる。
フランの軽い身体が宙を舞った。
そのまま一本背負いの要領で、大窓へ投げ飛ばす。
「わっ――!」
けたたましい音とともに、ガラスが砕けた。
フランは破片と一緒に窓の外へ放り出される。
俺も間を置かず、窓枠を蹴った。
庭へ着地し、顔を上げる。
フランは既に上空へ浮かんでいた。
衣服の一部が裂け、頬や腕には細かなガラス片が刺さっている。
「痛ったいなぁ、もう!」
だが、傷口は見る間に塞がっていった。
体内から押し出されたガラス片が、乾いた音を立てて地面へ落ちる。
吸血鬼の再生力か。
人間とは、身体の作りから違うらしい。
「ねえ、今のどうやったの?」
フランは痛みなど忘れたように笑っている。
「私、あんなふうに投げられたの初めて」
「もうやめろ」
「どうして?」
「これは遊びではない」
俺の言葉に、フランは不思議そうに首を傾げた。
「でも、まだ壊れてないでしょう?」
その答えと同時に、手元の大鎌が強く輝く。
フランは翼を広げ、空中から一気に距離を詰めてきた。
速い。
横薙ぎに振るわれた大鎌を、上体を反らして避ける。
刃が鼻先を通過し、風圧が赤い髪を大きく揺らした。
続けて、大鎌が切り返される。
俺は地面を蹴り、後方へ跳んだ。
フランは飛行の勢いを殺さず、そのまま追ってくる。
紅い刃が振り下ろされた。
「――神羅天征」
見えない斥力がフランを捉えた。
小さな身体が、大鎌ごと後方へ弾き飛ばされる。
だが、フランは空中で身を捻り、翼を広げて勢いを殺した。
ほとんど傷を負っていない。
威力が落ちていることは、事前に力を確かめた際にも分かっていた。
それだけではない。
出力を上げて天道の能力を使うと、再び使えるまでに、以前より長い間隔が必要になっていた。
「今度は何をしたの!?」
フランが俺の輪廻眼を見つめる。
「その眼、面白いね!」
距離を取らせたはずが、もう戻ってくる。
俺は右へ走った。
急降下してきたフランの大鎌が、すぐ脇の地面を抉る。
土と芝が高く舞い上がった。
その陰を抜けようとした俺へ、刃が追いついてくる。
身を屈める。
頭上を紅い光が通過した。
俺は刃を追わず、フランの手元を見る。
振り切った腕が戻る前に踏み込み、柄へ掌を当てた。
押さえ込めたのは、一瞬だった。
フランが無造作に腕を引く。
それだけで、こちらの身体まで引き寄せられそうになった。
手を離し、半歩退く。
直後、俺の腹があった場所を、柄の先端が突き抜けた。
まともに力を競うべきではない。
俺は距離を取りながら、足元の起伏へ目を走らせる。
植え込みの脇を抜け、低い石の縁を跳び越えた。
フランはその上を飛んでくる。
障害物など、ほとんど意味をなさない。
「どうして逃げるの?」
「大鎌を振り回している相手に、近づく理由はない」
「さっきは近づいたじゃない!」
大鎌が斜めに振り下ろされた。
身体を横へ滑らせ、避ける。
だが、フランは空振りした勢いのまま身を回し、柄の先端を突き出してきた。
予想より速い。
両腕を交差させ、受け止める。
凄まじい衝撃が腕を突き抜けた。
防御ごと押し切られ、両足が地面から離れる。
背中から大木へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
肺から息が漏れる。
視界が僅かに揺れた。
顔を上げたときには、フランが目の前まで迫っていた。
横薙ぎの刃が来る。
俺は膝を折り、その下へ潜り込んだ。
頭上を通過した大鎌が、背後の幹へ食い込む。
木が軋んだ。
斬り離された幹が傾き、枝葉を揺らしながら地面へ倒れていく。
その音を待たず、俺は踏み込んだ。
大鎌を振り抜いたフランの脇腹が、目の前にある。
「らあっ!」
拳を叩き込む。
フランの身体が浮き、後方へ流れた。
追って掌を向ける。
必要な間隔は、既に過ぎている。
「――神羅天征」
近距離から放った斥力が、フランを再び吹き飛ばした。
その身体が地面へ叩きつけられ、土煙が上がる。
やり過ぎたか。
そう思った直後、煙の中から笑い声が聞こえた。
「ふふっ……」
フランが何事もなかったように立ち上がる。
口元から僅かに血が流れていたが、手の甲で拭った頃には、傷も消えていた。
「今の、ちょっと効いたかも!」
怯えるどころか、さらに喜んでいる。
俺は息を整えた。
殴っても、吹き飛ばしても、すぐに立ち上がってくる。
このまま打ち合いを続けても、先に動けなくなるのはこちらだ。
フランが大鎌を肩へ担ぐ。
「ねえ、もう一回やって!」
「断る」
「じゃあ、こっちからいくよ!」
フランが地面を蹴った。
俺は倒れた幹の向こうへ回り込む。
振り下ろされた大鎌が枝を断ち、木片が頬を掠めた。
すぐに刃が引き戻される。
俺は幹に片手をつき、反対側へ跳び越えた。
着地と同時に身を低くする。
横薙ぎの刃が頭上を通り、背後の枝葉を散らした。
休む暇がない。
しかも、フランは追うたびに速くなる。
俺が避けられると分かるほど、力を込めるようになっていた。
正面からの斬撃を半歩ずれてかわす。
手首を狙って手を伸ばすが、柄を返され、引っ込める。
大鎌の間合いから抜けると、フランは足を止めた。
こちらを見つめ、楽しそうに笑っている。
「さっきみたいには投げないの?」
こちらの狙いまで、覚えているらしい。
俺は構えを解かず、ゆっくりと息を吐いた。
天道の力は、再び使える。
次は、吹き飛ばすだけでは終わらせない。
フランが翼を動かした。
大鎌を横へ構え、一気に飛び込んでくる。
俺はその踏み込みへ、右手を向けた。
「――万象天引」
引力がフランの身体を捉えた。
自ら飛び込んできた勢いに引かれ、姿勢が前へ崩れる。
大鎌を持つ腕が、胴から離れた。
狙うのは、その手首だ。
懐へ引き込み、腕を捻って地面へ押さえつける。
俺は半身になり、左手を伸ばした。
その直前、フランの空いた手が下を向く。
紅い光が足元で弾けた。
爆風に押され、フランの身体が横へ流れる。
伸ばした指が、その袖を掠めた。
フランは俺のすぐ脇を通り抜け、翼を広げて再び空中へ舞い上がった。
俺は引力を解き、振り返る。
――今の状況で、瞬時に判断したのか。
ただ力任せに暴れているわけではない。
姿勢を崩されても、怯まずに別の力を使う。
その反射と勘は、侮れなかった。
「今度は引っ張った!」
フランが嬉しそうに言った。
「ねえ、まだほかにもできるの?」
俺は答えず、構え直した。
両腕には、柄を受けた痛みが残っている。
背中も痛む。
対して、フランの傷はもう見えなかった。
「すごいね、あなた」
フランが空中から俺を見下ろす。
「お姉様が気にするのも、ちょっと分かったかも」
「レミリアが?」
「最近、あなたの話ばっかり」
笑っている。
だが、その声には僅かな棘が混じっていた。
「人間なのに、館の中をどこへでも歩いてるし。咲夜もパチュリーも、あなたとはお話しするんでしょう?」
フランの周囲へ、魔弾が浮かび上がる。
「ねえ」
先ほどまでよりも、紅い光が強くなった。
「あなたは、どこまでなら壊れないの?」
背筋に、戦場でしか感じなかった悪寒が走る。
フランは俺を憎んでいるわけではない。
殺したいわけでもない。
ただ、確かめようとしている。
自分の力をどこまで使えば、目の前の人間が壊れるのかを。
「まだ遊べるよね?」
フランが大鎌を回し、再び構えた。
「もっと、もーっと楽しくしようよ!」
そのとき、館の方角から二つの気配が近づいてきた。
「さっきの音は何なの!?」
「……長門!?」
レミリアと咲夜が、庭へ駆け込んでくる。
二人は荒れた庭と俺を見た後、上空の少女へ目を向けた。
咲夜の表情が強張る。
「フラン様……」
レミリアは一瞬だけ息を呑んだ。
そして、空中の妹へ鋭い声を放った。
「やめなさい、フラン!」
次回は10/6の予定です