卍解までは転生者の嗜み。 作:点差惨敗
あなたの気を惹くことができたのは
わたしが身を投げた時の 水の
寂しく落ちる 音の
響きだけ
31番から50番台までの改良が終わった。終わったら、やっぱり51番から80番台の改良が仕事になった。
いやぁ、仕事があるってイイネ。
そんな折に、山本総隊長に呼ばれ、隊首室へやってきた僕である。
そこにいたのは……志島さんと、そしてこの三百年くらいで一切関りの無かった七番隊隊長・執行乃武綱さん。『九番隊に聞いた初見だと怖い隊長順比べ』五十年連続第一位の人。一回善定寺さんに抜かされたりしてたかな。
「ああ、滑川君。お久しぶりやんな」
「はぁい、お久しぶりですぅ。……そして、初めまし、て。一番隊第七席、鬼道衆第一出張所所長の滑川平良と申しまぁす」
「……ああ、話は聞いておる。ひひ、あの飲みの席で見た時から思うておったが……なんともまぁ、匂いのせん小坊主よ」
まぁ匂いは始解が消しますからね。ええ、実は悪臭も状態異常なれば、ね。
「──その発言はぁ、
「ほう? ……ひひひ、あぁ、そうか、そうか。おぬし、我らを知ろうておったか。……志島、山本。話を進めるとしよう。この小坊主は、使えそうじゃ」
「おぬしの好きにはさせぬがな」
「わかっておる。お気に入りじゃということも。……初めに。──そろそろワシは、尸魂界の……瀞霊廷の転覆を計画する」
……あー。
そういう展開か。爆速理解は以下略。
「ほんまに分かっとるみたいやんな。やっぱり頭のええ子ぉや」
「……」
「護廷の中、いえ、瀞霊廷の中にはびこり始めたぁ、悪意、害意、私欲に外道。そういうのをぉ、執行さんがまとめ上げて、転覆計画に乗せてぇ、それを山本総隊長たちが止めて、自浄作用と相為そう……って計画、ですよ、ね?」
「……そうじゃ。儂は……好かぬがの」
結局あれから綱彌代家は動いていない。いないが、あの時に蓄積した各人の斬魄刀能力は、恐らくトッキーの模倣し得る斬魄刀リストに入っている。
計画が一つ潰されたから、あとは次代に渡して様子を見よう、って感じなのかなって判断しているけれど……綱彌代家が金で雇ったりそれを不当解雇したりして芽吹いた「悪」あるいは「欲」が、無視できない程の勢力になりつつある。
「善定寺からも報告があった。善定寺が懇意にしている件の場所が、無軌道になりつつあると。恐らく修多羅千手丸が零番隊へ向かった故であろう。無軌道になった集団は、悪事からの依頼も多数受けるようになっているようで、そろそろ善定寺も出禁を食らいそうじゃとな」
「ひひ、いつの時代も、人間とはそういうものだ。一度死した者なれど。……良い、良い。……余計な繋がりが起きぬよう、ワシから直接依頼をかけに行くか」
「一つ、お伺いしてもぉ?」
「なぜワシか、じゃろう? そして……なぜワシであるか、について、おぬしは見当がついている。違うか?」
「……まぁ、そうですねぇ」
「ひひひ、良い。言い当ててみよ、鬼道衆の神童」
なぜそんな悪役を彼が受け持つのか。その理由は。
「あなたの人化の術がそろそろ切れるから……じゃないですかぁ?」
「──正しい。ひひひ、しかも、一つ飛ばしたな。ワシが畜生道にいることはおろか、その秘術の存在まで知るか」
「ええ、まぁ、僕も畜生道を歩んでいるみたいなところありますから、ね。餓鬼道と二足の草鞋でぇ」
「……冗談ではない、という目をしておる。ひひひ、山本、中々良い
「はぁい、是非ともお楽しみくださいねぇ」
そんなの、今更だから。
「話を戻すぞ、二人とも」
「ああ。……そう、ワシの人化の術は、他の小僧共のものとは違う。命を落とす代償が無い分時間制限があり、さらに使えば使うほど老いる。この騒動が終わる頃には、ワシは巨体を持つ老狼と成り果て、他の畜生の心の臓を食ろうて生き長らえる、正真正銘の化生となろう」
「その前に人間の悪を背負って一つ花火でも上げてやろうというわけですねぇ」
「然り。……そして当然、双方に夥しい被害者が出よう。そこでおぬしの……というより、おぬしの手垢どもの出番じゃ、志島」
「はぁ……。わかっとるに。そんで、滑川君……まさかこういう形に相成るとは。こないなことを見越して君との約束をしたわけはなかったんに。君、想像の五千倍くらいいい子やん。企てなんか欠片もせんと」
いつか、黒痰咳の最後の詰めの時、志島隊長に呼び止められたと思う。
あの時聞かれたのは、護廷に忠誠があるかどうか。そして「何も言わず何も聞かず、ひたすら純粋な戦力を欲しいと思うか」というもの。
僕はどちらも首を振った。別に護廷の意志があるわけでもないし、ひたすら純粋な戦力も要らない、と。
そこからだ。総隊長からの監視がつくようになったのは。
「僕は君を危ない思た。知識、知力、技術力、能力。どれをとっても厄介やのに、護廷への忠誠心を持たんと、かといって戦力にも興味があらへん。君を縛り付けるもんが思い当たらん。……人はなんかしらの執着心を持って生きていくもんや。それ守るために強なり、それが狙われると弱なる。山本総隊長やったら瀞霊廷やし、執行隊長やったら自身の命。せやけど君にはそれがあらへん。なんかを失うても、そこを埋めてしまえるものを有しとる。怖かった。だから僕は、あんたがその後どう出るかを山本総隊長に相談したし、監視もつけるよう提言した」
「儂も似たような危惧をしておった。統学院を出てすぐの滑川は、ともすれば次の瞬間にでも虚や滅却師の味方になっていておかしくないと思うておった。ゆえに監視を許可した。……今のおぬしからは、それを感じぬが」
……そうだなぁ。誰にも明かさないでおく、を徹底していた僕なら……その判断は的確だ。
誰にも話さないということは、誰にも係留されないということ。大嵐が来ても高波が来ても、船さえあれば、そして乗り越えることの技術さえあれば、港は不要だ、という認識があったから。
「だから、もういっぺん同じ質問をする。あんたには護廷への忠誠ってものがあるんか。ほいて、好きに動かす武力が必要かを」
「相変わらず同じ、ですねぇ。護廷へ誓うものは、何もありません。でも、護廷に属する人達に、死んでほしくないという意思は、ありますねぇ。……そして、好きに動かせる部隊は、やっぱり不要です。なんでって僕──もう、そこそこ、強いのでぇ」
ゆらりと上体を逸らし、そのまま倒れる、みたいな姿勢で固まる。
その上を滑るように通り過ぎていく、三本のかぎ爪みたいな形の斬魄刀……じゃないな。ただの刃物だこれ。
「……ひひひ、食わせ者め。ワシが攻撃すると、読んでおったか?」
「あなたが口角の端を上げたのを見ていましたの、で」
四楓院さんからは「チッ、合格だよ。あーずっきー」と、厳原さんからは「お見事です」と、卯ノ花さんからは「……末恐ろしいですね。楽しみでもありますが」との評価を頂いた、滑歩完全版。そろそろ書に認めなさいと言われている「受けの技術」に関する全て。
つまるところ、自身では追い縋れないレベルの速度の攻撃でも、避け、往なすことならできるようになった、と。
「うん、執行隊長の不意打ち避けられるんやったらそら充分やんな。で……僕は今回の"取組"で悪人も秘密裡に治すつもりでおる。ほいてこと公になると、僕も責任を追及されて隊長を下り、卯ノ花隊長……とちゃう、卯ノ花副隊長に隊長を譲って隠居するつもりです。といっても王途川隊長と同じで、斬魄刀は返還せんで、しばらく休むっちゅうだけですけどね」
「その心はぁ?」
「なんか、あるんやろう? もっともっと先に、こんな小規模とちゃう大騒ぎのお祭りが」
「……えぇ、まぁ、僕はそう睨んでいます、よ」
「……チ。逆骨の糞爺が言っていたのはそれか。ああ、もう少し遅めに人化するべきだった。口惜しいのぅ口惜しいのぅ。そこに参加できるのは、一族の中だと誰になるのやら」
「畜生の目を介しての遠見とか、実はできるんでしょう?」
「ひひひ、そこまで知っていたか。……まぁ、そういうことで、しばらくワシら……ワシと志島は悪行に打って出る。その間におぬしの目にも留まるやもしれんが、山本に泣きつく以外でなら解決しても良い。此奴に泣きつかれると色々なことが滞るのでな」
「具体的に僕の役割とかは、無い感じですかねぇ」
「強いて言うなれば、心の拠り所であろう。……誰かが死ぬやもしれぬ。おぬしの周囲か、一切関わりを持てぬところにいる者か。誰も死なぬは夢物語よ」
思うところがないわけではないけれど……要するにどちらも、引退するだけ、であるのならば。
その散り際に咲かせる花の種類を僕が何か言うのもおかしな話だろう。
そう思っていたのに……念を押されてしまった。……誰も死なぬは、夢物語。
「ああ、ただ、そうじゃな。……伴って貴族も動く可能性も高い。よってワシと志島は、誘拐騒ぎなどを起こすにせよ、拐した者を瀞霊廷の外へは出さぬと誓う。それをやる者がいれば、それはつまり」
「おぬしらの手に掛からぬ本物の事件、ということじゃな。……迷惑をかけるの、執行」
「ひひひ、畜生道に落ちた我らには本望のようなものよ。なんせ死後の世界に来てまでも悪行の三昧を尽くす悪鬼たる魂魄を、文字通りのこちらの道へと引き摺り込めるのだから」
「それじゃ、よろしゅう。ああそれと、卯ノ花、四楓院は多分勘づいとる思うで、なんか露見しそうやったら言うてしもて構おらんよ。あの二人やったら口の堅さは信用できるし」
「はぁい。お疲れ様で、す」
僕も山本総隊長も、思うところは同じだろう。……それでも。
……激動に、なりそうだな。
ちゃんと……見張っておかないと。せめて……手の届くところは、誰も、取りこぼさないために。
*
京楽次郎総蔵佐春水。
真央霊術院に入り、授業のほとんどを抜け出しながらも斬拳走鬼の全ての値を上げ続けているその少年には、一つの悩みがあった。
「……やぁっぱりムリ。十四郎、コツとか無いのぉ?」
「始解についてか? それはやはり、真摯に斬魄刀に向き合い、対話を試みることだろう」
「だぁから……その対話の席にすら立ってくれないんだってぇ」
斬魄刀の始解。それを行うのは、死神になるための第一歩目のようなものである。
事実、同期の子供達は次々と始解を手にし始めている。だというのに、京楽のそれはうんともすんとも言ってくれない。
「才能、無いのかなぁ……また兄貴にどやされそうだぁ」
「才能が無いとは思わないが、何か、斬魄刀に対して隠し事でもしているんじゃないか?」
「ボクにそんな大層なものあるように見えるかい?」
「いいや。だが、人とはそういうものだろう」
彼の隣で日光を浴びているのは浮竹十四郎。病弱な少年ではあるが、京楽に並んで斬拳走鬼に長ける。
もう一人同期……貴族の、それも五大貴族な同期がいるのだが、今は顔を見せていない様子だった。
「……最近さ。山爺が……なんか、沈んだ顔してんだよね。気付いているかい、十四郎」
「ああ。何かを憂いておられる顔だった。そしてそれを、俺達に悟られたくない様子だったな」
「……兄貴、死神やってんだけどさ。なんか……最近、物騒らしくて。義姉さんも……心ここに非ず、って感じでさ。ちょっと、居心地が悪い、っていうか」
それは、今の霊術院にいる者たちであれば少なからず感じていることだろう。
どうにも物騒だ。悪事。犯罪。企て。そういう話をたくさん聞くようになった。瀞霊廷の内部で、だ。
何かが起きている。何かが起きつつある。誰かが、何かを起こそうとしている。
「……浮竹はさぁ、一目惚れって……信じるかい?」
「お兄さんたちの話か?」
「いやぁ、違うよ。どっちかっていうとボクの話」
「なんだ、誰かに惚れたのか?」
「逆だよ、逆。……歓楽街の……お姉さんにさ、遊びじゃなくて、本気で惚れた、とか……言われて。兄貴みたいに死神としての地位があるならともかく、ボクっていうのは……なんかやっぱ、ちょっと疑っちゃうよねぇ」
「ああ……京楽家に取り入ろうとしているのではないか、という懸念か」
「そういうこと」
ろくに学びもせずに、女のケツばかりを追い回している男、という他称は、寸分違わず間違っていない。
どころか歓楽街にまで足を運んでいるとなれば、近いうちに山本元柳斎の拳骨が飛ぶのは秒であろう。
そんな彼でも、本気で、なんて言葉には、真摯に向き合いたいと考えるらしい。
しかし。
「彼女、ねえ。……遊女……なんだよねぇ。歓楽街にいるから、当然にさ」
「遊女が一人の男を好きになる、というのは……許されることなのか? 俺はあまりそちらに詳しくないが」
「許されない。既に……かなりの騒ぎになってる。……一目惚れなんて存在しないと断じて、彼女からの誘いは断ってしまった方が……彼女のため、だよねぇ」
「流石にその判断は俺にはできないな。だが、それなら京楽家に取り入るため、という線は消えただろう。……何より、一度そういう言動を取った遊女ともなれば、もう客を取ることは難しくなりそうに思うんだが、実際はどうなんだろうな」
「わかんない。……でもさ、それで……食いっぱぐれるから助けるために身請けを、ってのも……またちょっと違うだろ」
難しい話である。
身分の差。立場の差。京楽がどの判断をしようと、その遊女の運命は大きく変わる。必ずだ。
そして……あるいは、この物騒になってきた世で、遊女としてもやっていけず、金も身ぐるみも剥がされ、京楽に頼ることもできなくなった女が、どのような末路を辿るか、など。
それが想像できない京楽でもない。けれどそれを理由にはどうなのか。
ぐるぐると……今の京楽を悩ませていることだ。
「始解ができないのは、それが理由かもしれないな」
「えぇ……? ……ボクの悩みが鬱陶しいから話を聞いてくれない、ってことぉ?」
「さぁな。どちらにせよ、お前が決めることだ。今まで散々女性に言い寄ってきたお前が決めるべきことだよ」
「うぅ……バチが当たったってことかなぁ。……わかった、それじゃあ」
「では、俺は厠に行ってくる!」
「ああ……いってらっしゃい。良いよそんなの報告しなくても……」
京楽は溜息を吐く。親友になりつつある男、浮竹十四郎は、非常に繊細な部分もある半面で、見事に自分調子だ。女の子に振り回されるならともかく、男に振り回されてもねぇ、というのが京楽の胸中なれば。
──いくら待っても帰ってこない浮竹に、血相を変える程度には、やはり親友なのだろう。
浮竹十四郎が誘拐された。
下手人は不明。真央霊術院内にいた彼をどのようにして攫ったのかも不明。現場には彼の斬魄刀・『双魚理』が解放前の段階で残されていたという。
最後に彼を見た京楽は、九番隊や刑軍の者達から仔細を聞かれ続け……しかし、なんの手助けもできなかった。
下級貴族といえども浮竹は貴族だ。その身柄を狙うとあらば、目的はやはり身代金になるのやもしれない。
ただ、そんなことよりも、と浮竹の家族が怯えていたのは、彼の病事情であった。
彼は病弱だ。一日に幾つかの薬を飲まなければ命が続かない──そう言われているほどに。
誘拐犯は、彼に薬を飲ませてくれるのか。どころか咳が煩いと……彼の喉笛を斬ってしまわないか。
霊術院の放課後、必ず二人組で帰るように言われた京楽であるが、一人で、俯いて歩いていた。あまりに危険な状態で。
どうしよう、どうしようと。最も近くにいて──何もできなかった。
その彼が……とん、と。誰かにぶつかる。
「あ……ああ、申し訳ない、考え事をしていて」
「困り事、かい?」
聞き覚えのある声に京楽が顔を上げれば、そこにあったのは、彼が最近の悩みの種にしている顔が。
「……
「追い出されたはちと違うね。三行半を突き付けて出てきてやった、が正しい」
「……ボクの、せいかな」
「それも違う。遊女を辞めたことに関しちゃ全部あちきのせいだし、そんでもって、今あんたが……あんたの友達が巻き込まれてんのも、多分あちきのせいだ」
「それは、どういう……」
「ちと、歩きながら話そうか。京楽家の次男坊が、一つの職を失った女についていって良いならね」
彼女は、その口を開く──。
「昔の話さ。あちきに一目惚れをしたと、身請けしたいと言ってきた奴がいた。残念ながら好みじゃなかったし、身請けしたいと言う割に出せた金額は身請け金の二十分の一程度。当然妓楼もあちきも断った。ま、よくある話さ。……そのよくある話が、さらによくある話に化ける」
「……逆恨みかい」
「そうさ。そいつは卑怯だの裏切りだのと喚き立て、あちきとあちきの妓楼をこっぴどくこき下ろした。が、あちきの妓楼の所有者たるお婆は、まさに山姥そのものおでね。妖怪さ、どんなところにでも出入りしていて、どんなところにも顔が利く。ちょっとやそっとの粗相じゃどうにもならないほどの位置にいる。そのお婆の妓楼に喧嘩を売ったとなれば、ソイツの家もまた尸魂界で干されるまでに至るわけだ」
よくある話だった。逆恨みからの逆上。鎮火したかと思えば権謀術数が逆巻いていて、双方共に損をするし、ぶつかって負けた方は貴族の暮らしから一気に流魂街への暮らしにまで戻される。
然もありなむ。貴族社会とはそういうものだ。
「その……干された家が、最近になって窃盗団として名を上げ始めた。流魂街での窃盗は勿論、瀞霊廷内に侵入してまでも"欲しいものは必ず盗る"と宣言していてね」
「……まさか」
「そう、そのまさかさ。そいつらはどこからか、あちきがあんたに懸想していると知ったらしい。奴自身がやってんのか、家族がやってんのかは知らないけど……あちきの狙う小僧を欲しがった。恐らくあちきを呼び出すために。……結果として、あんたよりもさらに面の良かったコがあちきの意中と勘違いされ、攫われたってわけさね」
「……」
「あちきの身から出た錆ってやつさ。……迷惑ばかりをかけたね。すまなかった」
やがて二人は、瀞霊廷の端、西の門である『
「初めてだったんだ。誰かに恋い焦がれる……一目見て惚れて、三度見て惚れた。そんな経験をしたことが、なかった。……この時初めて後悔したよ。あちきが遊女なんてどうでもよかったはずの仕事を続けていなければ……もしかしたら、叶った恋やもしれなかった、ってね」
「……どこへ……行くつもりだい? もうそろ、陽が落ちる。十四郎……浮竹を探すにしても、明日の朝に」
「いいや、それじゃああいつらの堪忍袋の緒は切れちまう。そういうくだらないやつらだって知っているからね。──遊女は辞めた。そんで、今ここに、死神の辞表も持っている」
「……死、神?」
「こうも気付かないのは珍しいというかなんというか。あちきの本当の顔は、護廷十三隊六番隊隊長、斎藤不老不死。……あんたに名乗ってたのは、あちきの本当の名前。朽木橙彩の欠片さ。その記憶の片隅にでも、あちきの名が残れば結構。ああこれ、六番隊副隊長の能登川ってやつに渡しといとくれ」
「そんな……こと……」
「じゃあね、春水。あんたと過ごした時間は少なかったけれど、楽しかった。なよなよした男は嫌いなはずなんだがね。第六感……一目惚れ。好い要素が詰まっていると、どうも、全てを許せるらしい。──待ってな。親友は必ず助けてやるから」
そう言って。
彩は……彼女は、卓越した瞬歩にてその場から消えた。
残された京楽は。
「嫌だよ……そういう、重いのは。……ボクは……そういうの、感じることさえ嫌なんだ。……こ、こんなの、持ってはいられないよ」
それが嫌で、避けに避け続けた人生を。
こんな紙切れで──。
「あ、不要でしたらそのゴミ、回収させていただきますよ」
「わっ……!?」
いた。いつの間にか、糸目の青年が。
死覇装を纏う金髪の青年。
「どうも、初めまして。私、六番隊副隊長の能登川真と申します。今しがたアホバカマヌケ隊長から何か言われたかと思いますが、お気になさらず。こんな紙切れ一枚で辞められるほど隊長は甘くない、ということを思い知らさねばなりませんので」
「あ、……と。つまり、
「ええ、副官です。あ、実際にあなたがアレに恋を返す場合はお止いたしませんのでそのつもりで。私もう結婚していますし」
急いでいるからだろう。多少早口気味なその死神の差し出す手に、京楽は辞表を……乗せて、そのまま、彼の手を握った。
「ボクが付いていったら……足手まとい、かな」
「……ふむ。足手まといかそうでないかと言えば、"ええ、とても"。ただし、お気持ちは理解できますし……駄々をこねる斎藤を引き戻すための手札としてはこの上ないやもしれません。──四楓院四席。もしもの場合を頼めますか」
「あいよ。好きにやんな。オレはそういうのが見たくて一般隊士になったみてーなところあるし」
「相変わらず良い趣味をお持ちのようですね。──では、君、名は?」
「京楽春水と……」
「ほう、京楽家の次男坊でしたか。春山君とはそれなりに仲が良いので、聞いていますよ。"真面目にやればできるくせにやる気を見せないうつけもの"と。──この瞬間、果たして君は、真面目にやってくれますか?」
頷きを返す京楽。途中聞こえた四楓院の名と声は、声ばかりがしたのに姿が見えなかった。
四楓院。隠密機動の総本山ともなれば、そういうこともあり得るのだろう。
そう納得した京楽は、差し出された手を握り返す。
日が暮れそうで。
雨の降りそうな、夕刻だった。
凄まじい速度の瞬歩。その背に揺られ、流魂街を駆け抜ける能登川。
「あ、そうだ。これを渡しておきます」
「これは……飴?」
「はい。私の知り合いの薬師が作ってくださいました、『効果は極めて薄いけどとりあえずなんにでも効くはずの膠飴』だそうです。ご友人の病状は知りませんが、繋ぎにはなるかと」
受け取ったソレを大事に懐へ入れる京楽。
そうだ。攫われているだけでなく、浮竹の命も危ぶまれているのだと、気持ちを入れ直す。
親友を失う、だなんて。
重いものを背負う気は、さらさらないのだと。
──不意に。
地面に、叩きつけられたかのような……感覚が、あった。
「……これは。もう始解をしましたか。気の早い人ですね、まったく」
「し……始解。それは、だから……彩の」
「はい、その通り。六番隊隊長斎藤不老不死さんの始解ですよ。霊圧差に驚きましたか?」
「……いえ。朽木家の血であるなら、理解できます……」
「ああ、そうかしこまらずとも結構ですよ。アレの好きになる人間がお堅い人間なワケありませんし。……しかし、そうですか。自身の出自まで明かしているとなると、本気で死ぬつもりですね、あの大馬鹿阿呆間抜け頓珍漢薄らトンカチ隊長は」
瞬歩の速度が上がる。未知の領域だ。霊術院で習う瞬歩は、ここまでの速度を出さない。
世界が糸杉のように溶けて後方へ靡いていく。
同時に、重苦しい深海のような霊圧の中心部へと踏み込んでいく。
……やがて、大きく円形に開かれた場所へ辿り着いた。
そこにいたのは──頭頂から円形に髪の一切を持たぬ男と、地を這う両腕を有し、人面を持つ蛇のようなものを刀身から出して操っている男。そして何かを喚き立てている女と……それらに対峙している彩であった。
「あや──」
「静かに。……おかしいですね。隊長はもう少し荒々しい方なのですが、どうして対峙したまま固まっているのでしょうか」
尤もな疑問だった。どうして固まっているのか。
その答えがあるとしたら、やはり斬魄刀だろう。
斬魄刀はそれぞれ固有の能力を持つ。始解にてそれを開き、卍解にてそれを究める。
死神における最大の武器が、斬魄刀なれば。
「なんにせよ少々不味い状況と見ました。……春水君。君は絶対に無理をしないようにしながら、浮竹君を探してください。戦力が隊長へ向いているということは、それだけ見張りが手薄になっている可能性が高い」
「……わかった。……どうか彩を、お願いします」
「ははは、それはこちらの言葉ですが」
行く。ここにいても、京楽にできることはない。
彼にできることがあるとすれば、一刻も早く浮竹を見つけ出し、この膠飴を舐めさせることだと信じているから。
*
ずきずきと痛む腹と、妙な苦しさ。それを感じた斎藤は、その意識を浮上させる。
さて、なんて声と共に、口の中に入ってきた覚えのある味を舌で舐めて、嫌悪の表情を浮かべるは斎藤不老不死である。
目の前には笑顔の青年。自身の副官、能登川真。
「……何しに来たんだい」
「馬鹿塵芥阿呆間抜け隊長に紙切れを突き返しにきました。まぁ色々言いたいことはあるでしょうが、敵の能力は?」
「チッ。……左の禿は、前にあちきに言い寄ってきたやつ。流水系だ。とはいえ水そのものじゃなく霧を操る感じと見たね。んで隣の蛇と繋がってる奴は、わからない。あれが出てきた途端、あちきの意識は……遠い昔の記憶に閉じ込められたような感じがする。この飴を舐めた瞬間戻ってこれたけどね」
「これは『
「半ば毒だろう、それ。作った奴の気が知れないね」
「ええ、また今度、お礼を言いにいきましょうね」
相変わらず話を聞かない副官にもう一度舌打ちをしつつ、敵を正眼に見る斎藤。
禿男……河童男の腕が動いた、その瞬間。
「啄め、
始解の解号と共に、河童男の右腕が
劈くような悲鳴を上げる河童男であるが、ふと、痛みが無いことに気が付いたのだろう。取れた腕と斬魄刀を拾い直す。
「相変わらず気味の悪い始解だことで」
「ええ? 平和的で良いじゃないですか。流血は伴わないわけですから」
「だから気味が悪いって言ってんだよ。……あっちの蛇の奴に攻撃するのは止しな。意識の檻に閉じ込められる」
「止した場合は、どのようにして勝つと?」
「鬼道があるだろ鬼道が。ほらとっとと使いなよ。いつもあちきを脅しているだろう。それで、ぱぱーっと」
「……ふむ。まぁここでお辞めになるつもりであれば、良いでしょう。実は私、鬼道はてんで全く使えないのです」
「は……はぁ? いつもいつも……あちきに覚えろだの学べだの、ワーギャー言っているやつが、なにを……というかあんたの斬拳走鬼を見た上で取っているんだ、そんなわけ」
「あの蛇の始解。恐らく対象に取れるのは一人までですね。──では、勝利を願っています」
能登川の剣が鞭のように伸びる。その先にあったのは、河童男の左腕と、蛇遣いの右腕。
それをちょん切って──能登川は、動かなくなった。
「……はぁ。……あちきは、それが嫌で……遊女をやってた、って。知らないわけでもないだろうに」
後は任せたとか。
どうか頼みますとか。
斎藤はなまじっか強かったから……無理矢理就任させられた六番隊隊長を、しっかり熟せてしまう潜在能力があったから。
だから……だけど、多くの部下を、繋ぎ止めることは、できなくて。
それが嫌で妓楼に戻ったというのに。
「まさか……全てから……春水からさえも逃げた先で、まだ背負わせられるとは」
蛇の斬魄刀を左手で拾い直した男。そして両腕をちょぎられた河童男に向き直り。
妖しく、口を開く。
「──卍解。
世界が薄桃色の着物に包まれる。桜吹雪。下りてくる屏風は何を意味するか。
この卍解を前に、男たちは──。
*
さて、花札が捲れるように、場面もまた切り替わる。
敵の本拠地へと侵入した京楽春水だ。
彼は『滑歩』と呼ばれる音を立てずにスムーズに移動する歩法を用い、その根城を探索していた。
増築に増築を重ねるような作りのせいで、どこがどこに繋がっているのかわかり難い。普段は使える霊圧知覚も、
それでも、足跡や……そして浮竹の残したメッセージを辿り、ようやく、そこへと辿り着く。
牢。その中に入れられ、後ろ手に拘束を受けている白髪の少年。何度も何度も咳を繰り返しているから、危険な状態と言える。
その前に座っているのは、赤い鬼面をつけた二人。斬魄刀を持っている様子はないが、槍は持っている。粗末なつくりと言えども、人体程度ならば貫ける槍だ。
一人なら、なんとかなったやもしれない。
始解もできていない浅打なれど、京楽の斬拳走鬼は上級生にも負けず劣らない。
まず一人を昏倒させて、もう一人を相手取る。それならば。
げほっ、と……浮竹が一際強く咳をし、枯れた声であらん限りを叫んだ。
「春水゛っ、後ろだ!!」
「おーら悪い子がやーっでき゛ただしな゛ぁ」
背後から急襲。京楽の顔を──掴むように、むしるように爪を立てて。
その眼球を、つぷりと、砕く。
「──っ!?」
瞬歩には一切の精緻がない。ふらつく足取り。
牢の看守も起き出した。焦点が上手く合わない……動かそうとすると激痛を発する眼球を瞑り、霊圧配置だけで敵の位置を掴もうとする。
右の肩口が貫かれた。痛み。左わき腹。痛み。
これまで散々授業を抜けてきたことへの罰か。
巨大な霊圧下での霊圧感知なんて、習っているはずなのに、できない。
集中力が続かない。痛みに遮られる。
膝に衝撃を覚えてから、自身が座り込んだことに気が付いた。
謝る相手は兄と、その妻と……親友と。
頭蓋に、強い衝撃を──。
次に京楽が意識を取り戻した時、彼は誰かから膝枕を受けていた。
目蓋は、開かない。血が固まっているのだろう。
唄が聞こえる。遊女のよく歌う唄だ。
「ああ……息を、吹き返して……くださいましたね。……ご安心を。浮竹君には件の薬を使用済みです。……申し訳ございません。戦力差を考えれば、まず浮竹君を助けてから、斎藤隊長の助太刀に入るべきでした。……不徳の致すところです」
そんなことはない。
敵前で……隊長が指一本動かせなくなっているのなら。見知らぬ子供と、隊長。どちらを優先するか、だなんて。
それに、ついていきたいと言ったのは己だと言おうとした。けれど、身体が……動かない。
「そして……斎藤不老不死隊長。……今まで、お世話になりました。辞表は必ず届けます。……事情の全てを、朽木家の皆さんに話します」
「……早く行きな、能登川。あの白髪の坊やは、一時的な薬だけじゃ、どうにもならないだろう」
「はい。──良い、道行きを」
瞬歩で消えたのだろう、ということは、わかったか。
静かな時間。
ゆったりとした時間の割に、京楽の身体は……少しずつ冷たくなっていく。
ごぼ……と吐き出した血で、ようやく、言葉が出せるようになった。
「……人生の最期の瞬間に、キミの顔を見ることができないのは……ちょっと、残念かな」
「あちきを振ったと、そう思っていたんだけどね。違ったのかい、春水」
霊圧知覚はできるから……唯一上がる左腕で、その頬を、撫でようとする。
だから。
その頬が濡れていることには、気付けただろう。
涙か、血か。
「泣いてくれているのかい。ボクのために」
「……違うよ、このすけこまし。……あちきの人生は、振り回されるばかりで……それを憎んで、八つ当たりをしたこともあったけど。……最後の最期には、自分で選べて、己の好いた男に、己の全てを明け渡すことができることを……嬉しく思って、泣いているのさ」
「どう……いう。今から死ぬのは、ボクじゃ」
──口吸いが、あった。京楽の頭を無理矢理持ち上げての口吸いだ。逆さの、無理矢理の。
「……もし何か、不調が出たら、一番隊の七席を頼りな。あいつは……必ずあんたを、どうにかしてくれる」
「
「好いた男と、遊ぶのさ。人生の終わりにね。──卍解。
卍解。その声と共に、知覚できる霊圧世界が一気に変わる。
閉じられ、仕切られ。
まるで、子供の作った秘密基地みたいに。
「あちきの斬魄刀はね、花札遊びが好きなんだ。だから始解は、花札を遊ばせられる。あちきも敵も。……そして卍解は、花札を使った花札ではない遊びをする。その中でもこの子が特に好きな決め事がこれ。
「……なん、だって?」
「安心しなんし。この卍解が解けるまではどの部位を失っても死なない。自由になった部位はそのままだ。だが、あちきに奪われちまった部位は損なわれる。……そしてこの決め事は、あちきにも適応される。本当に、始解もだけど、扱いづらい斬魄刀さ」
京楽の頬を撫でる指。
その感触が、先程と違う。……人肌ではなく、もっと……硬質な。
軽くて、ざらざらとした。
「あんたの目が潰れていて良かったよ。この卍解を使うと、あちきは最高に不細工になる。この状態で卍解を解けば……あるいは、あんたと一緒に死ぬことだってできる。なんせ今、あちきには肉体ってもんが無いんだから」
膝も、指も。
骨の感触を返すばかりだ。
「さて、札選びの時間だよ、春水。……あぁただ、お前さんの札は、少し高いところに出るから……十を数えたら、時間切れ。札は勝手に選ばれる」
「待つんだ。彩、それは」
「一枚目。──選びなんし、春水」
届かない。必死で高いところの何かを掴もうとしても、手が届かない。
「一枚目──左足。正解さ。持っていきな」
「待て、どこに……彩!」
「二枚目──右腕。正解さ。持っていきな」
十秒ごとに、身体の感覚が戻っていく。
十秒ごとに、彩の魄動が、小さく小さくなっていく。
三枚目。四枚目。
五枚目。
「六枚目。──おお、やっと出たね。眼球。正解さ、持っていきな」
「待って……待つんだ、彩。そこいらで……終わりにしよう。僕は京楽の次男坊で、君が朽木家なら……死神でなくともやっていける。お互い、どこか悪いところ残っちゃうかもしれないけどさ。それでも……死ぬよりは、良いよ。君と出会ったあの場所で……『秋風』でさ、またお酒でも呑みながら」
「七枚目。──背骨。正解さ、持っていきな」
「彩! ダメだ、それは。そんなのは……そうだ、ボクの背骨がどうにかなっているっていうんなら、回道を受けて治してもらおう。四番隊に頼んでさ。千切れた腕だってくっつけちゃう人がいるって聞いたよ、ボクは」
「……八枚目。──胃。持っていきな」
止めない。
止まらない。
まるで──その全てを授けねば、京楽が死してしまうとでも言うかのように。
九枚目。十枚目。
「すまないね。……こんなの、思い出したくもない記憶になるだろう。……それでもあちきは、あんたの心に残りたかった。今やっているのはただの自己満足さ。……すまないね。本当に済まない。あちきは……あんたの中に、住みたいだけなのさ。あんたの世界に住みたい。ただそれだけ」
「嫌だよ、彩。ボクが……キミを、身請けする。だから、思いとどまってくれ。ボクはキミを、失いたくない」
「嘘を吐くのが下手だねえ。あんたの今の言葉は、あちきが眼前で死するのが嫌だから出た言葉で……あちきに愛があるなんてことは、一切無いんだろう。そりゃそうだ。百年も生きていないガキに、こんな遊女が、懸想、だなんてさ。……そら、十一枚目。頭蓋骨」
まだ、目が、開かない。
まだ、腕が、上手く持ち上がらない。
まだ──あなたを、認めることができない。
「十二枚目。──脳髄。……この札を捲って、当たりだったら……あんたは五体満足で帰還する。そのそばに生成される骸骨のことは気にせずに帰りな。……何か、言い残すこと、あるかい。……恨み言でも、なんでも」
「愛しているよ、橙彩。だから──」
「……ごめんね。当たりだ。──持っていきな、春水」
ようやく、目が開く。
ようやく、認めることができた。
大きながしゃどくろ。その手に包まれた、遊女の着物を羽織った骸骨が一人。
「……やっと、見ることができた」
「……チッ。それが……嫌だから、脳や眼球を遅らせたってのに」
「やっぱり。その遊び、胴元がいかさまを張れるんだね」
「ああ。子が勝つことは、まずあり得ない。……イカサマばかりの、大人の遊び。……それを十連勝したのさ。誇りなよ、業運男」
「初めから、すべての札が正解であれば。……そういうことだろ」
「違うね、全然違う。……あんた、手品の種は明かしちゃいけないんだ。知らないのかい」
骸骨の頬を撫でる。
骸骨の涙を拭う。
その骸に、接吻を落そうとして……止められる。
「あちきのことを心から愛していない男からの口吸いなんて、要らないよ。さっきのはあちきがしたくてやったんだ。……これに懲りたら、遊女なんかさっさと振って……ちゃんとあんたを見て、振り向いてくれる女を選ぶんだね」
「……そんな人、もう、現れないかもしれない」
「何言ってんだい。あんたはこれから……長く長く、生きるんだ。……だけど、気を付けな。ちょっとやそっとのことで動じて……あんたの心をざわめかせる女だったら、容赦はしない。がしゃどくろの呪いさ。……あんたの心の片隅に住んで、いつか……安らかに眠るあんたに、また、膝枕でも──なんて。……じゃあね」
ざぁ、と。蘂落ちる桜が通りすぎていくように。渦を巻くように。
あれほど絢爛だった世界はどこにもなく。
あるのは、寂れた、空の牢ばかり。
仰向けに眠る骸骨と、その胸骨の中に埋まっている斬魄刀と。
……近くに落ちるは、京楽の浅打だ。
空っぽになった心が……ゆっくりとその柄を掴む。誘われるように。あるいは、転げ落ちるように。
頭に浮かんだのは解号だった。
「花風紊れて花神啼き、天風紊れて天魔嗤う。……今君が答えてくれたのは……そこにいる、ってことなのかな、花天」
名前を呼べば、引き込まれる。
桜吹雪の舞う空間。未だ落ち着きのない空間。
そこに、いた。
……彼女とは、所々が違う。けれど面影を覚える。
その名は。
「
「……難しいこと言うね」
「それが、おんしにできる最大限の報い、であろう?」
難しいことだ。
だって──最後に彼女に言われたことは、正鵠を射ているから。
キミを失いたくない。身請けする。愛している。
本当のところは、京楽は──。
「命を、借りていくよ。……ありがとう」
立ち上がり、骸骨の頬骨を撫でて。
その場を、あとにした。
本当は京楽家の庭先にでも埋めてあげたい。あるいは朽木家とも考えたけれど、双方にとってあまり良くない結果を招きかねないと思ったのだ。
だから……ここで、土へ還した方が、幾分か、と。
*
京楽が去った後。
現れたのは、褐色肌の青年だ。
「……結局死を選んだか。……オマエは……もう少し自由に生きられたらと、そう思うよ」
座って。瓢箪を……酒の入った瓢箪を飲んで。
「朽木本家の小さい子、っつってたか。……銀嶺はオマエが思うほどチビでもない。翠峰は悲しむよ。朽木家の口うるさい連中は、銀嶺に家督が移ってよかったとか、心ないこと言うんだろうけど……そういう奴らもひっくるめて、執行が外へ持っていってくれる。……瀞霊廷はまた、新しい時代を迎えるんだ」
魂魄の均衡の関係上、隊長格の死は、正確に報告する必要があるし、地獄の礎とするための儀式を行う必要がある。だから、斬魄刀も綺麗に抜き去って、準備をしていく。
取り出したるは金魚鉢のようなもの。そう、四楓院家の神具によって魂魄を集め──。
「んっ? 魂魄が……半分もねぇ。……まさか、本当に入り込んだのか? だとしたら……はは、やるなぁ」
少し上機嫌になった青年。
彼は、腰に付けていた瓢箪をひっくり返し……骨を酒まみれにした。
「じゃあな、不老不死。不老は良いが、不死はつらいらしいからな。死ねて何よりだと思えよ。そんで……後悔はするな。それがオマエを信じて見送った奴らへの、せめてもの償いってやつだ」
そう言って。
彼はまた、消える。京楽家のお坊ちゃんを遠くから護衛する必要があるから。
現世の暦においては、1337年のことになる。
朽木橙彩改メ、斎藤不老不死──此処と、彼の中にて、眠る。