異世界廻ー星廻アステリオンー   作:カノープス・ギア

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前作から引き続き来てくださった方、
そして今回初めて見つけてくださった方、ありがとうございます。

前作の最後に少しだけ予告していた、

『異世界廻 ―星環のアステリオン―』

ようやく、ここからスタートです。

最初にいくつかだけ。

本作では、制作や文章のブラッシュアップにAIを補助として使用しています。
自分でも読み返しながら修正していますので、文章や会話で気になるところがありましたら、感想などで教えていただけるとありがたいです。

原作知識は基本的にアニメ視聴が中心です。
漫画・小説・細かな公式補完設定まですべて把握しているわけではありませんので、その点はご容赦ください。

また、今後は恋愛・複数ヒロイン・ハーレム要素も含む予定です。
苦手な方はご注意ください。

そして、自分は音楽も好きなので、
この作品ではイメージOPやED、戦闘BGMなども考えながら書いています。

鬼滅編前半のイメージOPは、

UVERworld「一滴の影響」

です。

まだ何者でもない悠誠が、迷ったり、失敗したり、人から教わったりしながら、それでも一歩ずつ進んでいく。

そんな鬼滅編前半をイメージして選びました。

興味がありましたら、曲も頭の片隅で流しながら楽しんでもらえると嬉しいです。

それでは――

高瀬悠誠の二度目の人生。

ここから始まります。



第1話_夜明けまで

 

息を吸うたび、肺の奥が軋んだ。

 

冷たい。空気そのものが冷えている。夜気ではない。この鬼が纏わせた冷たさが、木々の葉にも、足元の土にも、白く薄い膜を張っていた。

 

胡蝶カナエは、刀を握り直す。指が思うように締まらない。脇腹から流れたものが袴を重くして、踏み込むたび、脚が自分のものでないほど鈍く感じられた。

 

——上弦の弐。

 

その眼に浮かんだ文字を見た時から、こうなることは分かっていた。分かっていて、ここで足を止めた。逃がせば、また人が死ぬ。

 

「まだ立てるんだね。すごいなあ」

 

鬼は、笑っていた。

 

崩れていない。カナエが刻んだ傷はいくつもあったはずなのに、白い喉も、開いた胸も、もう何事もなかったように閉じている。扇を持つ手つきに乱れはなく、こちらを見る目には、いたわりに似た何かさえ浮かんでいた。

 

それが一番、怖い。

 

削られているのは自分だけだ。息も、血も、体温も。相手は最初の一合から何ひとつ失っていない。

 

呼吸を整える。喉が焼ける。整えたはずの型が、吐き出す途中でほどけていくのが分かった。

 

カナエは冷静に数えた。あと何合。あと何度、あの扇を凌げるか。

 

——夜明けまでは、保たない。

 

死ぬのは怖い。美しいものだとも思わない。しのぶの顔が浮かんで、浮かんだこと自体を振り払った。今は、次の一手だ。

 

土を蹴る。踏み込みは浅い。それでも刃は走り、鬼の左肩を裂いた。手応えはあった。手応えしかなかった。

 

「うん、綺麗だ」

 

返しは見えていた。見えていて、身体が間に合わなかった。

 

扇が横薙ぎに来る。同時に、冷気が地を這って足首を掴む。着地の一歩が滑る。刀を立てても、この体勢では受けの角度が作れない。

 

ああ、と思った。

 

——ここで。

 

刃が入る、その線の上へ、横から別の刀が滑り込んだ。

 

弾く音ではなかった。受け止める音でもない。低く、擦れるような、長い音。刀身が寝かされ、その角度に沿って扇の軌道が外へ流れていく。

 

流し切れてはいなかった。割り込んだ影は肩から押し込まれ、足を滑らせ、石を巻き込みながら二歩、三歩と後退して、それでも倒れなかった。

 

カナエは、目を見開いた。

 

知らない男だった。二十代の後半だろうか。隊服ではない。羽織も、刀の下げ方も、鬼殺隊のどこにも属していない。呼吸の音だけが、聞いたことのない律で肩を上下させていた。

 

その男が、立っている。

 

自分と、上弦の弐の間に。

 

助かった、とは思わなかった。

 

思ったのは、まったく別のことだった。

 

——この人まで、死ぬ。

 

 

◇◇◇

 

 

肩から入った衝撃が、まだ背骨の中で鳴っている。

 

高瀬悠誠は足裏で土を掴み直し、崩れた重心を戻しながら、正面を見た。

 

見た瞬間、首の後ろが粟立った。

 

理屈より先だった。皮膚が、背中が、腹の底が、そろって同じことを言っている。近づくな。ここにいるな。呼吸が勝手に浅くなりかけて、悠誠は意識して喉を開いた。

 

超常の力が敵の強さを数値で教えてくれたわけではない。ただ、拾える情報が多すぎた。

 

立ち姿に力みがない。扇を持つ腕の高さが、いつでもどこへでも動ける位置にある。今の一撃を外へ流されたというのに、体勢がまったく変わっていない。地を覆う冷気は薄く広く、周囲一帯が相手の間合いだと告げていた。

 

そして、背後で息を乱している女性の血の量。

 

それらが、ひとつの結論へ落ちる。

 

——正面から勝てる相手じゃない。

 

怖い。怖いに決まっている。悠誠はそれを胸の中で否定しなかった。否定したところで膝の震えは止まらないし、止まったふりをした人間から先に判断を誤る。

 

だから、怖いまま考えた。

 

負傷者がいる。動かせるかは不明。鬼は日の光を嫌う。空はまだ暗いが、この時刻ならそう遠くない。

 

——倒す必要はない。

 

必要なのは、時間だ。

 

「立てるか」

 

声は自分でも驚くほど低く出た。振り返らない。目を鬼から外せない。

 

「……ええ」

 

背後から返る声は、整っているようで、語尾がわずかに掠れていた。

 

「どのくらい動ける。全力は聞いてない。あと何合、凌げるかだ」

 

返事はすぐには来なかった。背後で一度、浅い息が入る。

 

「三合か、四合。踏み込みは、もう深く入れません」

 

数字を濁さなかった。悠誠は、それだけで少し話が早くなった気がした。

 

「下がってろ、とは言わない。あんたの方が慣れてる」

 

「——あなたこそ、退いてください」

 

背後の声が、初めて強くなった。

 

「あれは、上弦です。あなたが立てる相手じゃない」

 

「知ってる」

 

自分でも思ったより素っ気なく出た。

 

「勝つ気はない。朝まで持たせる。それだけだ」

 

言い終わる前に、視界の端が動いた。

 

「じゃあ、先に君からね」

 

鬼が笑ったまま、間合いを消した。

 

速い。映像で見たとき、こんな距離感ではなかった。画面の中では確かに追えていた動きが、実物になると、目に映った時点でもう遅い。

 

悠誠は大きく跳んだ。跳びすぎた、と着地の瞬間に分かる。距離を取りすぎて、次に入れない。扇の切っ先が羽織の裾を裂き、通り過ぎた冷気が頬の皮膚を刺した。

 

二撃目。今度は逃げずに刀を出す。

 

角度。腕で止めるな。足裏から通す。

 

刃と扇が擦れ、力が外へ抜けていく——抜け切らない。肘が押し込まれ、肩が上がり、右足が半歩流れた。踏ん張った瞬間に膝が悲鳴を上げる。

 

息を吸った。冷たい空気が肺の奥で刺さり、吐き出す長さが足りなくなる。

 

三撃目が来る前に、視界が一瞬白く滲んだ。

 

——分かってる。分かってるのに、身体が間に合わない。

 

それでも、悠誠の目は動いていた。

 

扇を振る前、左の肩がわずかに落ちる。踏み込みの直前、笑顔の角度が変わらないまま、視線だけが先に行き先を撫でる。冷気が濃くなるのは、あの男が息を吐いた後だ。

 

一つ、覚えた。

 

二つ目を、探しにいく。

 

 

◇◇◇

 

 

押されている。

 

胡蝶カナエは、脇腹を押さえた手に力を込めながら、その事実を冷静に見ていた。

 

男は防戦一方だ。攻撃らしい攻撃を返せていない。羽織の裾はすでに何本も裂け、着地のたびに肩が上下している。冷気に肺をやられているのだろう。呼吸の音が濁っていた。

 

死ぬ。このままなら、あと十数合ももたない。

 

そう思った、その次の瞬間だった。

 

——今の。

 

扇が横から来る。男は跳んだ。だが、さっきほど大きくない。半歩分、退がる幅が減っている。

 

そんなはずはない。恐怖が薄れれば動きは雑になる。逆に慣れてくれば臆病になる。どちらでもない。ただ、無駄が消えている。

 

続く一撃。男は刀を出した。先ほどは同じように受けて身体ごと流され、石まで押し込まれていた。今度は違う。刃を寝かせる角度がわずかに深い。衝撃が斜め下へ抜け、男の踵は土を削っただけで済んだ。

 

——角度を、変えた。

 

カナエの喉が、乾いた。

 

さらに次。攻撃を凌いだ後の姿勢が違う。以前は受けたまま固まり、立て直しに一拍を費やしていた。今、彼の左足はすでに次の位置へ置かれていた。凌ぎ終わりが、次の始まりになっている。

 

同じ攻撃に、同じ対応をしていない。

 

数合前の失敗が、そのまま身体に残って、次の一合で消えていく。

 

戦い慣れた剣士なら、過去の経験から似た形を引き出す。カナエ自身もそうする。

 

だが、この男が拾っているのは、数合前の失敗だった。

 

——慣れているんじゃない。

 

——この人は、今、この場で覚えている。

 

背筋が冷えた。冷気のせいではない。

 

けれど、と同時にカナエは思った。柱として、そこで思考を止めるわけにはいかない。

 

追いついてはいない。

 

上弦の弐は、まだ一度も本気で崩れていない。扇の速度も、足の運びも、序盤から何ひとつ変えていない。むしろ——

 

男が新しい対応を見つけるたび、あの鬼は、それを見届けているように見えた。潰していない。許している。

 

嫌な予感が、腹の底で膨らんだ。

 

「そろそろ、飽きてきちゃったかな」

 

歌うような声。扇が返る。男の視線は右の一枚に固定されていた。左が遅れて起きるのを、彼はまだ知らない。

 

カナエは踏み込んだ。

 

脇腹が裂けるように痛んだ。深くは入れない。入れないなら、届く距離だけでいい。低く滑らせた刃が、左の扇の縁を横から叩いた。

 

軌道が、指一本分ずれる。

 

男の首があった場所を、それは掠めて通り過ぎた。

 

「——ッ」

 

男が振り向いた。目が合った。驚きが一瞬あって、すぐに消えた。感謝の言葉はない。代わりに彼は、短く息を吐いて、位置を変えた。

 

カナエの左前。彼女が刃を出せる線を、塞がない位置。

 

——分かっている。

 

この人は、こちらを「守られるだけの怪我人」として数えていない。動けると言った言葉を、そのまま信じている。

 

「まだ、いけます」

 

「三合って言ったろ」

 

「二合、増やします」

 

男の口の端が、ほんのわずかに動いた気がした。笑ったのかどうかは分からない。彼はもう前を向いていた。

 

そこから先は、奇妙な戦いだった。

 

男が凌ぎ切れなかった線をカナエが逸らし、カナエが踏み込めない一歩を男が埋める。互いの空いた場所を、言葉もなく順番に埋めていく。時間が、少しずつ延びていく。

 

一方的に守られていた最初の数合とは、もう違っていた。

 

「ふう~ん」

 

鬼の声が、変わった。

 

軽さは同じだ。笑みも崩れていない。それでも、その一音には、それまでになかった湿度のようなものが混じっていた。

 

見られている。二人ではなく——男が。

 

「せっかくだから、少し変えてみようか?」

 

扇が、静かに閉じた。

 

 

◇◇◇

 

 

最初は、ただ邪魔だっただけだ。

 

女の子との時間に、知らない男が割り込んできた。そういう夜はときどきある。たいていは三合ほどで終わる。壊れて、静かになって、それから続きをすればいい。

 

だから童磨は、いつも通りに扇を振った。いつも通りの速さで、いつも通りの角度で。

 

なのに、男はまだ立っている。

 

——あれ?

 

さっきは大きく跳んだ。次は半分。その次は、刀を斜めに寝かせて力を逃がした。

 

三回とも、違う。

 

童磨は首をかしげた。

 

一度失敗した形へ戻らない。次に同じものを出すと、ほんの少しだけ上手くなっている。

 

「へえー」

 

すごいなあ、と思った。

 

ただ、それで何かが湧くわけでもない。面白いものを見つけた。だから、もう少し見たい。それだけだった。

 

——でも、そうか。

 

覚えるなら、覚える前に変えてあげればいい。

 

童磨は扇を閉じ、開き直した。

 

今度は速さを落とす。かわりに、振り出す間を半拍だけずらす。冷気は足元ではなく、胸の高さへ薄く撒く。斬るための刃と、息を奪うための冷気を、別々の拍で重ねる。

 

「じゃあ、これはどうかな?」

 

歌うように言って、童磨は一歩、深く踏み込んだ。

 

 

◇◇◇

 

 

通じない。

 

三合前まで確かに機能していた受け方が、悠誠の刀の上をすり抜けた。

 

角度は同じにした。足も同じ位置へ置いた。なのに扇が来るのが半拍遅く、刃を寝かせたときにはまだそこに敵の刃がなく、次の瞬間、待っていた場所より内側から入ってきた。

 

胸が浅く裂ける。羽織の下で、熱い線が走った。

 

——変えられた。

 

背中が冷える。恐怖とは違う種類の冷たさだった。

 

こちらが一方的に見ているつもりだった。相手も、見ていた。数合ごとに変わる悠誠の対応を数えて、答え合わせが終わる前に問題を差し替えてきている。

 

それも、明らかに余裕を残したまま。

 

「息、吸えてる?」

 

甘い声。同時に、胸の高さの空気が変わった。

 

吸った瞬間、肺の奥に針を刺されたようになった。咳が出そうになるのを喉で殺す。呼吸が浅くなれば身体は動かない。動かなければ、次の一撃で終わる。

 

悠誠は口を閉じ、鼻から短く吸った。冷気の層の下、膝の高さの空気を選んで吸う。それしか思いつかなかった。

 

扇が右上から。

 

跳ばない。半歩だけ内へ入る。振り抜く前の敵の腕に自分を寄せて、刃の走る線から胴を外す。刀は受けない。触れさせて、方向だけ変える。

 

抜けた。

 

抜けた直後、二枚目が下から来た。

 

——読めた。

 

読めていた。左肩がわずかに落ちた、あの動き。次は下だと分かった。分かったのに、右の足首が沈み込みに応じなかった。冷えた腱が、命令より一拍遅れて動く。

 

腿の外側が裂けた。

 

体重が抜け、悠誠は片膝をつく。

 

「——危ないっ」

 

名を知らない相手へ、彼女は呼びかける言葉を持たなかった。代わりに、彼女は前へ出た。

 

低い。深くは入れていない。それでも柱の刃は正確に、童磨の追撃する腕の内側へ差し込まれ、その一撃だけを止めた。

 

止めた反動で、彼女の膝が折れる。

 

悠誠は膝をついたまま身体をひねり、彼女の袖を掴んで、真横へ引き倒した。二人の頭上を冷気の刃が薙いでいく。土に埋もれた石が、白く凍って割れた。

 

「——すみません」

 

「こっちの台詞だ」

 

短く言って、悠誠は立った。立つ、という動作そのものが重かった。

 

指の感覚が薄い。柄を握っているという実感が、握力ではなく形で残っているだけだ。肩が上がっている。力むな。余計な力を抜け。何度も叩き込まれた基本が、疲労で崩れている。呼吸のたびに肺が軋む。

 

視線も、癖も、直すべきところも拾えている。

 

だが、消耗した身体がその通りに動けるかは、別の話だった。

 

——それでも。

 

目的は変わらない。倒す必要はない。この人を、朝まで。

 

そのとき、頬に当たる空気の質が変わった。

 

夜の匂いが薄くなっている。木立の奥で、鳥が一羽、短く鳴いた。まだ暗い。だが、暗さの底が僅かに浮き上がりはじめている。

 

——近い。

 

悠誠が気づいたのと、ほとんど同時だった。

 

鬼が、東の空へ視線を投げた。

 

そして、その笑顔が、初めてこちらではなく——地に膝をついた女性へ、まっすぐ向いた。

 

「うん。じゃあ、そろそろお別れにしようか」

 

 

◇◇◇

 

 

来る。

 

分かった瞬間、悠誠の身体はもう動いていた。

 

鬼の狙いは、地に膝をついた彼女だ。扇は二枚。上と下、時間差。斬るためではなく、逃げ場を消すための組み立てだった。

 

——今なら、あいつの胴が空く。

 

その思考は、浮かんだ端から捨てた。斬ったところで再生する。当てられる保証もない。何より、自分がここに入った理由はそれではない。

 

倒すことじゃない。この人を、朝まで。

 

悠誠は彼女の前へ滑り込んだ。

 

正面には立たない。半身。攻撃線の内側、扇が最も速度を持つ点より手前へ入る。上の一枚へ刀を合わせた。止めない。刃を寝かせ、足裏から腰、背中、肩、刀身まで一本に繋いで、力を自分の外側へ通す。

 

肩が焼けた。それでも軌道は上へ逸れた。

 

下から二枚目。

 

間に合わない——足首がまた遅れる。悠誠は踏み替えを諦め、上体だけを落として、代わりに膝から下を捨てるように投げ出した。

 

腿の外を、冷たいものが削っていく。

 

「——右へ!」

 

背後から声。悠誠は考えずに従った。身体を右へ倒した空間を、彼女の刃が下から抜けていく。膝立ちのまま放たれたそれは、扇の要を横から弾いた。

 

浅い。だが十分だった。

 

鬼の追撃が、半拍だけ遅れる。

 

その半拍のあいだに、悠誠は彼女の襟を掴んで後ろへ引き、二人まとめて地面を転がった。頭上で空気が凍る音がした。

 

そして——木立の向こうが、白んだ。

 

東の空の底から色が上がってくる。枝先が、少しずつ輪郭を持ちはじめる。夜の黒が、灰へ、藍へ、薄い橙へと剥がれていく。

 

最初の光が、地面へ差した。

 

鬼は、そちらを見た。

 

「ああ。時間だね」

 

残念そうな声ではなかった。予定通りの日程を確認する人間の声だった。扇が閉じ、白い喉が朝の色に晒される前に、その身体はもう後ろへ流れている。

 

去りぎわ、視線だけがこちらへ戻った。

 

「君、面白かったよ。名前、今度教えて」

 

答えなかった。答える息がなかった。

 

影が木立へ溶けて、消えた。

 

悠誠は追わなかった。追える脚もなかったし、追う理由も最初からなかった。

 

刀を杖にして、振り返る。

 

彼女は倒れていた。土に片肘をつき、髪が乱れ、袴が血で黒い。

 

悠誠は膝をついて、顔を寄せた。

 

——息。

 

浅い。速い。それでも、確かに動いている。

 

「……生きてる」

 

口から出たのは、それだけだった。

 

そこで、張っていたものが切れた。腕から力が抜け、悠誠は刀の柄へ体重を預けたまま、片膝を地面へ落とす。指が震えて止まらない。肺が焼けている。朝の空気は、さっきまでの冷気より、ずっと痛かった。

 

 

◇◇◇

 

 

音が、なくなっていた。

 

胡蝶カナエは、しばらくそのまま動かなかった。

 

耳の奥でまだ何かが鳴っている。扇の風。凍った石の割れる音。自分の呼吸。それらが少しずつ遠のいて、代わりに、朝の鳥の声が入ってきた。

 

光が、頬に当たっている。

 

上を向くと、梅の枝の隙間から、細い光の筋が落ちていた。夜のあいだ、あれほど遠かったものが、当たり前の顔でそこにある。

 

——朝だ。

 

思ってから、実感が追いつくまでに、少し時間がかかった。

 

横で、荒い呼吸がしている。

 

男は刀を支えに膝をついていた。羽織の裾は何本も裂け、土と血で汚れている。腿から流れたものが土を濡らしていた。それでも、顔だけはこちらへ向いていた。

 

助けられた、と言うのは正確ではない気がした。

 

自分が彼を拾った瞬間が、確かに何度かあった。彼が自分を引き倒した瞬間も、同じだけあった。互いに一度ずつでは足りないほど、順番に命を拾い合って、二人でこの朝まで繋いできた。

 

そういう夜だった。

 

「あの……」

 

声を出そうとして、掠れた。何と呼べばいいのかも分からなかった。

 

そのとき、遠くから足音が聞こえた。複数。土を蹴る、走る音。隊服の擦れる音。

 

その中に、ひとつ。

 

聞き間違えるはずのない声があった。

 

「——姉さん!」

 

カナエの喉が、詰まった。

 

しのぶ。

 

朝の光の中を、まっすぐこちらへ駆けてくる小さな影。ほどけた髪。血の気の引いた顔。ここへ来るまでのあいだ、あの子が何を覚悟していたのか、想像するだけで胸が裂けそうになる。

 

——ああ。

 

会えた。

 

死ぬはずだった夜が終わって、妹が、こちらへ走ってくる。

 

初めて、目の奥が熱くなった。

 

しのぶが名を呼びながら地面へ膝をつき、姉の腕を掴む。その力の強さに、カナエはようやく、自分が生きているのだと知った。

 

視線を、一度だけ横へ向ける。

 

名前も知らない男は、そこにいた。呼吸を整えるのに精一杯で、朝日の中、疲れ切った顔で、それでも刀を離さずに座り込んでいた。

 




第1話、ここまで読んでいただきありがとうございました。

ここから悠誠が何を選んで、誰と出会って、どうこの世界で生きていくのか。

かなり長い旅になると思いますが、自分自身も楽しみながら書いていければと思っています。

もし「続きも読んでみようかな」と思っていただけたなら、それだけでも嬉しいです。

そして、最初の投稿について少しだけ。

投稿開始から3日間、

9月7日(月)
9月8日(火)
9月9日(水)

は、20時頃を目安に1日1話ずつ投稿する予定です。

まずは最初の数話まで、続けて読んでもらえたら嬉しいです。

その後は通常更新へ移り、

毎週 火曜・木曜・日曜
20時頃

を基本の投稿スケジュールとして進めていく予定です。

無理に投稿数を増やすより、一話ずつ自分でも読み返しながら、できるだけ納得できる形で続けていきたいと思っています。

それでは、また次のお話で。

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