第1話から読んでくださった方、ありがとうございます。
まだまだ始まったばかりですが
ここから少しずつ悠誠の二度目の人生が動いていきます。
土を蹴る音が、自分のものだと分からなくなっていた。
胡蝶しのぶが木立を抜け、戦いの跡へ飛び込んだとき、最初に目に入ったのは白い痕だった。凍りついた石。折れた枝。土に散った黒い染みが、朝日を受けて赤に変わっていく。
そのただ中に、姉が倒れていた。
「姉さんっ」
膝から滑り込むように地面へ落ちる。袴の膝が土を抉ったが、痛みは感じなかった。
伸ばした手が、震えているのが分かった。震えたまま、しのぶは姉の首筋へ指を当てる。
——脈。ある。速い。細い。
次に鼻先へ耳を寄せる。
呼吸は浅い。だが、途切れてはいない。
脇腹の傷。手のひらで押さえた布は、もう染み切っていて、どこまでが服でどこからが傷なのか触っただけでは分からない。指先が冷たい。体温が落ちている。
「姉さん、聞こえますか。姉さん」
まぶたが動いた。
薄く開いた目が、焦点を探すように空をさまよって、それからゆっくりと、しのぶの顔で止まった。
「……しのぶ」
しのぶの手が、止まった。
呼吸が、喉の途中で引っかかる。目の奥が熱くなって、視界の輪郭がにじんだ。声が出ない。出そうとしたものが、全部胸のあたりで詰まっている。
一秒。ほんの一秒だけ、しのぶは動けなかった。
それから、深く息を吸った。
「——止血、こちらへ! 担架を、急いで!」
背後で《隠》の足音が散る。しのぶは指示を出しながら、姉の傷口へ布を重ねて圧をかける。手はもう震えていなかった。震えているものは、別の場所へ押し込んだ。
「姉さん、動かないで。喋らないでください」
「……しのぶ」
「聞きません。今は」
「……あの人も」
姉の視線が、しのぶではないほうへ動いた。
「彼も、怪我をしています。お願い」
しのぶは、初めてそちらを見た。
戦いの跡の端。少し離れた場所に、男が座り込んでいた。
隊服ではない。裂けた墨色の羽織。土と血で汚れた着物。抜き身の刀を杖のようにして、片膝を地面へつけたまま、肩を大きく上下させている。腿から流れたものが、足元の土を黒く濡らしていた。
顔を上げた男と、一瞬だけ目が合った。
若くはない。落ち着いた顔立ちの成人男性。呼吸が明らかにおかしい。吸うたびに眉のあたりが歪む。それでも、こちらを見る目に濁りはなかった。
——誰。
姉と一緒に戦っていたのは、たぶんこの人だ。羽織も着物も裂け、血と土に汚れている。
ありがとうございます、と言うべきだと分かっていた。分かっていて、言葉は出てこなかった。
隊士ではない。名も、素性も、なぜここにいたのかも知らない。これほどの戦いがあった場所に、鬼殺隊でない人間がひとり、姉の隣に立っていた。
しのぶは姉の傷から手を離さないまま、《隠》のひとりへ短く告げた。
「あちらの方も。運んでください」
◇◇◇
担架が来た。
黒い装束の連中が手際よく彼女の身体を持ち上げていく。無駄がない。声も低い。こういう場面を何度も踏んできた人間の動きだった。
そのうちの一人が俺の横へしゃがみ込んだので、俺は首を振った。
「俺は歩けます。そちらを先に」
強がりではない。膝は笑っているが、立てるし、足も出る。優先順位の問題だ。腹を裂かれて意識の混濁している人間と、意識のある人間なら、後者が待つ。それだけのことだった。
担架が動き出す寸前、彼女がこちらへ顔を向けた。
「……あの」
声が細い。喋らせるべきではないと分かっていたが、遮る余裕も俺にはなかった。
「胡蝶カナエ、です」
一拍、間があった。
「名前を、聞いていませんでした」
——ああ、そうか。
そういえば、一晩中一緒に死にかけていて、俺たちは互いを何と呼ぶかすら決めていなかった。
「高瀬です」
喉が引きつって、咳が出た。冷えた肺が、息を吐くたびに内側から擦れる。
「……高瀬悠誠」
「たかせ、ゆうせい、さん」
彼女が確かめるように繰り返した。それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。笑ったのだと理解するのに、数秒かかった。
その名前が、俺の中で何かとぶつかった。
胡蝶カナエ。
知っている。映像の向こうで見たことがある。穏やかな声で話す人。そして——
思考が伸びかけたのを、そこで切った。
今は違う。今考えるべきなのは、あの傷がどこまで持つかであって、俺が知っている先の話ではない。
「姉さん、もう喋らないで」
担架の横についた少女が、鋭く言った。
さっき駆け込んできた子だ。髪が乱れたままで、袖口には姉の血がついている。それでも指示の出し方は落ち着いていた。
その子が、こちらを一度だけ見た。
「胡蝶しのぶです」
短い。感謝の言葉はない。名乗っただけだ。
俺は頷いた。それで十分だった。この状況で名前を名乗るというのは、たぶん、彼女なりに筋を通したということなんだろう。
胡蝶しのぶ。
その名前も、俺の記憶のどこかを引っ掻いた。引っ掻いたまま、放っておいた。
担架が動き出す。俺は刀を鞘へ納め——納めるのに手間取り、二度失敗してから、なんとか収めた——立ち上がって、その後ろについた。
歩ける。
そう思ったのは、十歩くらいまでだった。
門を出て、道へ降りたあたりで、視界の下半分が急に遠のいた。腿の傷が熱を持って脈を打ち、その拍に合わせて足の力が抜ける。肺が空気を求めているのに、吸い込んだ端から胸の中で刺さる。
——ああ、切れたな。
張っていたものが。夜の間ずっと持ち上げていた何かが、身体の中から下りていく感覚があった。
膝が折れる前に、横から肩が入った。
「無理をしないでください」
隠の一人だった。俺より頭ひとつ低い男が、こちらの腕を自分の首へ回させて、しっかりと体重を受け止めている。
「あなたも十分な重傷です。歩けることと、無事なことは違います」
正論だった。
ここで意地を張れば、手を増やすだけだ。そういうのは前の仕事でも嫌というほど見てきた。
「……すみません。借ります」
「はい」
「助かります」
男は返事をしなかった。代わりに、俺の歩幅に合わせて足を短く刻んでくれた。
前を行く担架の上で、白い手が揺れている。
俺はその背中から目を離さないまま、他人の肩に半分預けた身体を、夜明けの道の上で運んでもらっていた。
屋敷の一室へ通されて、俺は壁を背に座らされた。
腿を洗われ、胸の傷を見られ、布を巻き直された。俺はその間、天井の木目を数えていた。数えないと声が出そうだった。羽織は畳の隅に置かれている。裂けてはいるが、まだ着られる。
呼吸だけは何度か確認された。深く吸おうとすると咳が出て、咳をすれば胸にも腿にも響く。身体の芯はまだ冷えたままだった。
廊下の向こうが、時々慌ただしくなる。その音が聞こえるたび、俺は呼吸を止めていた。あの人の部屋の方角だ。
どれくらい経ったか、襖が静かに開いた。
胡蝶しのぶだった。
袖はもう替えている。髪も整えていた。それでも顔の色は戻っていない。
「失礼します」
彼女は俺の前に座り、膝の上で手を重ねた。
「処置は済みましたか」
「おかげさまで」
「そうですか」
しのぶはすぐには続けなかった。
「高瀬さん。鬼殺隊の方では、ありませんよね」
来た、と思った。俺が彼女の立場でも、まずそこを確かめる。
「違います」
「分かりました。では、その刀は」
彼女の視線が、俺の横に置かれた鞘へ落ちた。
「鬼を斬れる刀です」
「どちらで手に入れたものですか」
「……人から譲り受けました」
正確ではあった。それ以上を言葉にできなかっただけだ。
しのぶの目が、わずかに細くなった。
「それから、もう一つ。姉と一緒に戦っていた時、あなたも呼吸を使っていたんですか」
「はい」
「何という呼吸ですか」
「——雨の呼吸、と呼んでいます」
「聞いたことがありません」
「でしょうね。俺が勝手にそう呼んでいるだけなので」
彼女は少しの間、俺の顔を見ていた。何かを測っている目だった。
「どうして、あの場にいたんですか」
俺は少しだけ言葉を選んだ。
「……そこは、今ここで短く答えると、かえって嘘になります」
しのぶの目が、わずかに細くなる。
「では、なぜ姉と鬼の間に割って入ったんですか。あなたは隊士ではない。逃げてもよかったはずです」
そちらの答えなら、もう決まっていた。
「目の前で人が殺されかけていたからです」
「それだけですか」
「それだけです。手が届くなら、見なかったことにはできない。それ以上は、俺にもありません」
しのぶは、目を伏せた。
膝の上の手が、一度だけ強く握られたのが見えた。何を思ったのかは分からない。ただ、その手が緩むまで、少し時間がかかった。
「……では、もう一つ」
顔を上げた彼女の声は、また元の平坦さに戻っていた。
「その剣は、どこで学ばれたものですか。誰に教わったんですか」
俺は、答えなかった。
答えられなかったわけではない。答える言葉なら、いくらでも用意できた。嘘も、はぐらかしも。
だが、ここで断片だけ話すべきことではなかった。
途中から切り出された情報ほど、伝わるうちに形を変える。前の仕事でも、何度も見た。
話す相手と、話す場所は選ぶべきだ。
「……すみません」
俺は頭を下げた。
「細かい説明は、今ここではできません」
しのぶの表情が、硬くなった。
「隠すつもりはありません」
先に続けた。このまま黙れば、余計に怪しくなる。
「ただ、責任を負える立場の方に、最初から順を追って話すべき内容です。ここで途中だけ話すのは、たぶん一番良くない。俺はそう判断しました」
「——それは、私には話せないという意味ですか」
「そういう意味ではありません。ここで途中から渡す話ではないと思っています」
しのぶは、しばらく黙っていた。
俺の顔を見て、それから畳の一点を見て、また俺を見た。
「そうですか」
納得したようには聞こえなかった。それでいい。
「その言葉は、覚えておきます」
「どうぞ」
彼女は立ち上がり、襖へ手をかけたところで、動きを止めた。
「姉の処置は、まだ続いています」
背中で言った。
「終わったら、お伝えします」
襖が閉まって、足音が遠ざかっていった。
俺は壁へ頭を預けて、目を閉じた。廊下の音を数えながら、ただ、待った。
しばらくして、しのぶが戻ってきた。
何かを伝えに来たわけではないらしい。彼女は襖を閉め、俺から少し離れた場所に座って、それきり何も言わなかった。
俺も言わなかった。
朝の光が障子越しに入ってきて、畳の目を白く浮かせている。屋敷の外で、鳥が同じ節を繰り返していた。ずいぶん呑気な声だと思った。
身体が重い。
戦っている間は感じなかったものが、全部まとめて返ってきている。腕が上がらない。腿の傷が脈に合わせて熱を持つ。息を深く吸おうとすると、肺の途中でつかえて、そこから先に入っていかない。座っているだけなのに、額に汗が滲んだ。
横目で見ると、しのぶは背筋を伸ばして座っていた。
きちんとした座り方だった。手は膝の上で重ねられている。表情も落ち着いている。
ただ、その重ねた指が、時々動いていた。人差し指の先が、自分の手の甲を小さく押している。視線も、廊下のほうへ向いては戻り、向いては戻りを繰り返していた。
——待つのが、いちばん長い。
俺にも覚えがある。結果が出るまでの時間だけは、どうやっても短くできない。
「……助かるといいですね」
言ってから、我ながら薄い言葉だと思った。
だが、それ以上のことは言えなかった。大丈夫ですとは言えない。俺はあの傷の深さを見ている。医者でもない人間が、根拠なく保証していい話ではない。
しのぶは、廊下のほうを見たまま答えた。
「……ええ」
それだけだった。
また静かになる。
どれくらいそうしていたか、彼女がこちらへ向き直った。
「高瀬さん」
「はい」
「姉を助けてくださったことには、感謝しています」
言葉を選んで置いた、という感じの言い方だった。感謝しています、の前後に、まだ整理のついていないものがいくつも残っているのが分かる声だった。
「それは、本当です」
「……ありがとうございます」
礼を言われて礼を返すのも妙だったが、他に返し方がなかった。
そして、そのまま流してはいけない気がした。
「ただ」
俺は言った。
「俺一人だったら、朝までは持ちませんでした」
しのぶの目が、こちらを向く。
「途中から狙いが俺に変わりました。あの鬼が俺を潰しにきた時、間に入って刃を逸らしたのはカナエさんです。一度じゃない。俺も、あの人に何度も命を拾われています」
あの夜、深く踏み込めない身体で、それでも届く距離だけを選んで刃を出していた。
「あの人は最後まで戦っていました。守られていたわけじゃない。二人で繋いだだけです」
しのぶが、何も言わなくなった。
視線が下がる。畳の一点を見つめたまま、その目が少しずつ、赤くなっていくのが分かった。
彼女は、顔を上げなかった。
「……姉らしい」
小さな声だった。
「あの人は、いつもそうです。自分が動けないときほど、他人のために動こうとする」
言葉の最後のほうが、わずかに崩れた。
崩れたのは一瞬で、彼女はすぐに息を整えた。整えて、背筋を伸ばし直した。まだ十代の子が、そういうやり方をもう身につけている。それをどう思えばいいのか、俺には分からなかった。
「高瀬さん」
顔を上げた彼女の目は、もう乾いていた。
「先ほどの話、まだ納得したわけではありません」
「でしょうね」
「あなたが何者なのか、私は知らないままです。姉を助けてくださった方だからといって、それを確かめないわけにはいきません」
「そうしてください」
俺は頷いた。
「知らない男が、あれだけの戦いの跡に立っていた。それを確認しない鬼殺隊のほうが、俺は怖い」
しのぶは、少しだけ目を見開いた。
それから、初めて、ほんの短く息を吐いた。笑ったわけではない。呆れたのかもしれない。ただ、こちらを見る目の硬さが、わずかに緩んだ気はした。
「……変な方ですね」
「よく言われます」
そこで、廊下の奥から足音がした。
しのぶが立ち上がるより早く、襖の向こうで声がかかる。
俺は壁に手をついて、身体を起こした。
襖を開けたのは、処置に当たっていた年配の男だった。
しのぶが一歩前へ出る。
「峠は、ひとまず越えました」
男はそう言って、慎重に言葉を継いだ。
「出血は止まっています。呼吸も落ち着いてきました。ただ、まだ予断は許しません。しばらくは絶対安静です。動かすことも、長く話させることも避けてください」
しのぶは何も言わなかった。
言わないまま、彼女の肩が下がった。息を吸って、吐いて、それが少し長かった。それだけの動きだったが、それまで彼女がどれだけの力で自分を立たせていたかが、その一呼吸でわかった。
「……ありがとうございます」
声はしっかりしていた。
俺のほうも、気づけば壁へ体重を預け直していた。
息を吐いた。思っていたより、ずっと長くなった。
「少しだけなら、お会いになれます。お二人とも」
奥の部屋は薄暗くしてあった。
布団に横たわった彼女は、戦いの跡で見たときよりずっと小さく見えた。顔の色はほとんどない。それでも、胸が上下している。夜の間ずっと聞いていた、あの乱れた呼吸ではなかった。
「姉さん」
しのぶが枕元へ膝をつく。カナエの目が薄く開いて、妹の顔で止まり、それからゆっくりと動いた。
俺のところで、止まった。
「……高瀬さん」
名前を、呼ばれた。
たったそれだけのことに、うまく返事ができなかった。夜が明けるまで、この人は俺を何と呼ぶこともできなかった。俺もそうだった。互いに名前を持たないまま、刃の間に順番に入っていた。
「はい」
やっとそれだけ言った。
「ちゃんと、休んでくださいね」
掠れた声で、彼女は言った。
「あなたも、朝まで走り続けたんですから」
「……そちらこそ」
「お互い、生きて朝を迎えられましたね」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。それから目を閉じた。喋らせすぎだ、と後ろで誰かが小さく咎める気配があって、俺は下がった。
廊下へ出ると、《隠》のひとりが待っていた。
俺を支えてくれたあの男ではない。もっと若い声だった。
「高瀬悠誠殿」
正式な呼び方だった。姿勢も、さっきまでとは違う。
「お館様が、お会いになりたいと仰っています。お身体の具合が落ち着き次第で構わない、とのことです」
——お館様。
聞き覚えのある呼称が、耳の奥で一度だけ跳ねた。俺はそれを表に出さないよう、短く息を整えた。
「その方は、鬼殺隊を率いておられる方ですか」
「はい」
答えたのは、後ろから出てきたしのぶだった。
「鬼殺隊の当主です。私たちが仕える方です」
彼女はそこで一度言葉を切って、俺を見た。
その目には、まだ確かめきれていないものが残っていた。当たり前だ。俺は何ひとつ説明していない。
「……分かりました」
俺は答えた。
「その方に、順を追って、きちんとお話しします」
しのぶの眉が、わずかに動いた。
何か言いかけて、やめた。代わりに彼女は、小さく頭を下げた。
「では、そのようにお伝えします」
若い《隠》が去っていく。廊下の障子から、朝の光が真っ直ぐに差し込んでいた。
俺は廊下の柱へ背を預け、ゆっくり息を吐いた。
鬼殺隊を率いる人間に、どこから話すか。
それを考え始めたところで、胸の奥がまた鈍く痛んだ。
【今後の後書きについて】
今回から、後書きではその話に関するちょっとした解説や、作者側で「ここはこういうことを考えながら書いていました」という制作意図などを、時々書いていこうと思っています。
例えば、
・技や能力を考えた時のモチーフ
・キャラクターや場面を書く時に意識したこと
・イメージしている音楽や演出
・「実はここ、こういうところを大事にしていました」といった制作裏話
などです。
ただし、まだ本文で明かしていない設定や、今後の展開が分かってしまうような内容については、基本的に書かないようにします。
あくまで、
「今回読んだところを、もう少しだけ楽しんでもらうための裏話」
くらいの感覚で見てもらえればと思っています。
もちろん毎話必ず入れるわけではなく、何か話したいことがある回だけ書く予定です。
本編と一緒に、こういった部分も楽しんでいただけたら嬉しいです。