投稿時の確認ミスにより、第3話と第4話の内容が入れ違った状態になっていました。
現在は正しい順番・内容へ修正しています。
すでに読んでくださった方には、混乱させてしまい申し訳ありません。
今後は投稿前の確認をもう一段しっかり行っていきます。
引き続き『異世界廻 ―星環のアステリオン―』をよろしくお願いいたします。
自分の身体を見誤ることが、こんなにあるとは思わなかった。
廊下で伝言を受けた時、俺は確かに立っていた。立って、返事をして、頭も回っていた。あとは適当に横になって寝れば戻るだろう、くらいに考えていた。
その考えは、部屋へ戻ろうとして三歩目で崩れた。
膝が抜けた。壁へ手をついたつもりが、手のほうも力が入らず、肩から障子の桟へぶつかった。派手な音がした。
「——ですから」
背後から声がした。呆れているとも怒っているとも取れる声だった。
そこから先は、あまり主導権がなかった。
呼ばれた人手に半ば運ばれる形で部屋へ戻され、布団の上へ座らされ、それから横にされた。抵抗はしなかった。抵抗できる材料が、俺の側に何も残っていなかった。
「羽織を。着物も、上だけ緩めます」
しのぶが枕元へ座り、手際よく襟をずらしていく。処置に必要な分だけ、胸元が開いた。
胸の傷が空気に触れて、一度しみた。
「浅いですが、まだ塞がっていません。ここは縫うほどではないと聞いています」
「そう聞きました」
「腿を見ます。少し痛みます」
言われた通り、痛んだ。
巻いてあった布を外していく間、俺は天井を見ていた。声は抑えたつもりだったが、途中で息が詰まり、短く呻いた。
しのぶの手が一瞬止まって、また動いた。
「痛いなら痛いと言ってください」
「痛いです」
「はい」
それきり彼女は何も言わず、傷を洗い直し、薬を当て、布を替えていった。指の動きに迷いがない。何度もやってきた手つきだった。
途中で俺が肩の位置を変えようとしたら、すぐに声が飛んだ。
「動かないでください」
「動いてません」
「今、動きました」
「……上を向いてるのが疲れて」
「疲れてください。それが仕事です、今のあなたの」
反論の余地がなかったので、俺は黙って天井へ戻った。
一通り終わると、彼女は俺の胸のあたりへ手を当てて、しばらく黙った。息を吸えと言われ、吐けと言われ、途中で咳が出た。咳が出ると胸と腿の両方に響いて、しばらく喋れなくなった。
しのぶは咳が収まるまで待ってから、手を離した。
「息が浅いです。奥まで入っていません」
「そんな感じがします」
「無理に深く吸わないでください。今は、痛くない範囲でゆっくり。焦って広げようとすると、かえって長引きます」
俺は頷いた。
専門の人間には任せる。
第一人生から、そこは変わらない。
……自分の怪我を勝手に軽く見た直後に考えることではなかったが。
「一つだけ」
「なんですか」
「カナエさんの処置は、俺より優先してもらえてますか」
しのぶの手が、布を畳む途中で止まった。
「当然です」
短かった。
「姉には常時人がついています。あなたのこれは、後回しにされていたわけではなく、あなたが後回しにしたんです」
「……何も言えませんね」
「歩けるからといって、動いていいわけではありません」
彼女は片付けを続けながら言った。
「あの夜、あなたの身体が動いたのは異常事態だったからです。今はもう違います。今のあなたは、ただの怪我人です」
ただの怪我人。
言われてみると、そちらのほうが正確な気がした。
「安静にしてください。起き上がるのは、人を呼んでからです。それから」
彼女は立ち上がりかけて、付け足した。
「食べられるなら、食べてください。薬より先にそちらです」
「……はい」
襖が閉まる。
俺は天井を見上げたまま、痛くない範囲で、ゆっくり息を吸った。
どれくらい経ったか、襖の向こうから声がして、膳が運ばれてきた。
運んできたのは屋敷の若い衆だった。丁寧に置いて、「お加減が良くなければ、無理をなさらず」とだけ言って下がっていく。
膳の上は簡素だった。粥。汁物。漬物が少し。
食えるだろうか、と思った。
腹が減っているという感覚が、朝からずっとなかった。空腹も満腹も、どこかへ置き忘れてきたようだった。身体が食事どころではなかったのだろう。
上体を起こすのに手間取った。人を呼べと言われていたが、これくらいはと思って肘で押した。腿が抗議したが、なんとか座れた。
膳を引き寄せて、椀の蓋を取る。
湯気が上がった。
その瞬間だった。
胃のあたりが、ぐ、と鳴った。自分でも驚くほどはっきりした音だった。匂いが鼻へ届いて、それから遅れて、身体が「腹が減っている」と思い出したらしい。
順番が逆だ、と思った。ふつうは腹が減ってから匂いに反応するはずなのに、匂いのほうが先に来た。
匙を取る。指がまだうまく力を伝えてくれず、二度ほど持ち直した。
一口。
熱い。
米が柔らかく崩れて、塩の味が薄く広がった。それだけの粥だ。凝ったものは何もない。
その熱が、喉を通って、胸の下のあたりへ落ちていった。
——ああ。
冷えていた場所に、温度が入っていく感覚があった。あの夜からずっと、身体の芯だけが戻ってこなかった。指先も、肺も、どこか他人のもののように冷たかった。それが、粥ひとさじ分だけ、こちら側へ戻ってくる。
……うまい。
素直にそう思った。
もう一口、匙を入れた。
二口目。三口目。
食べ始めると止まらなくなった。汁物へ手を伸ばす。具は根菜が少しだけ。噛むと出汁が滲んで、また身体の内側が温まる。
漬物を噛んだところで、咳が出そうになって、慌てて水を含んだ。
「——喉に詰まらせないでください」
襖が開いていた。
しのぶが立っていた。膳を運びに来たわけではないらしい。手には何も持っていない。
「様子を見に来ただけです。食べられそうですか」
「思っていたより、腹が減っていたみたいです」
「そのようですね」
彼女の視線が、膳の上を一往復した。残りを見ているらしい。
「粥は半分でも構わないと言われていましたが」
「たぶん、全部いきます」
「……それはよかったです」
言い方は淡々としていた。喜んだのかどうかは分からない。ただ、彼女はそこで一度だけ、小さく頷いた。
「起き上がるときは人を呼んでください、と申し上げました」
「あ」
「今、ご自分で起きましたね」
「……次からそうします」
「次から、ですか」
「次から必ず」
しのぶは何も言わず、襖を半分閉めかけて、止まった。
「食べ終わったら、しばらく横にならず、そのまま座っていてください。すぐ寝ると戻します」
「分かりました」
襖が閉まる。
俺は残りの粥をゆっくり食べた。急いで食べる理由が、今日はもう何もなかった。
食べ終わる少し前に、しのぶがもう一度顔を出した。
今度は膳を下げに来たわけでもなさそうだった。廊下を通りかかったついでのようにも見えたが、そのわりに、彼女はきちんと部屋へ入って座った。
「胡蝶さん」
「はい」
「カナエさんは、今どうですか」
匙を置いてから聞いた。
しのぶは少し考えるような間を置いてから、答えた。
「熱が出ています。傷のせいです。想定の範囲ではありますが、下がるまでは油断できません」
「そうですか」
「意識ははっきりしています。こちらの言うことも分かっています。ただ、まだ起き上がれる状態ではありません。寝返りも人がついています」
「……はい」
俺は膳の上を見ていた。粥が三分の一ほど残っている。
さっきまで確かに空いていた腹が、少し遠のいた気がした。
「食べてください」
「え」
「止まっています」
しのぶが俺の手元を指した。
「姉の心配をしていただくのは結構ですが、あなたが食べないことで姉の熱が下がるわけではありません」
正論だった。
今日はこの子に、正論しか言われていない。
「……そうですね」
匙を取り直した。冷めかけた粥は、それでもまだ温かかった。
しのぶはその間、特に話しかけてこなかった。急かしもしなかった。ただ、部屋の隅のほうを見ながら座っていた。
膝の上の手が、また少しだけ動いていた。
「熱は」
半分ほど食べたところで、俺は言った。
「下がるとしたら、どれくらいですか」
「分かりません」
即答だった。
「今晩を越えて、明日の朝どうなっているか。そこを見ます。それより早く言えることはありません」
「分かりました」
「軽々しく大丈夫だとは言えないので」
「ええ。そのほうがいいです」
しのぶがこちらを見た。
「……そういう答え方をされる方は、あまりいません。たいてい、もっとはっきりしたことを言えと仰います」
「はっきりしたことを言えない状況で言われた言葉は、後で使えないので」
言ってから、少し仕事の話みたいだったかと思った。
彼女は何も言わなかった。責める顔でもなかった。ただ、俺の顔を一度見て、視線を戻しただけだった。
「高瀬さん」
「はい」
「あなた、お幾つですか」
急に話が飛んだ。
「二十九です」
「そうですか」
「若く見えますか」
「いいえ、まったく」
即答だった。俺は思わず笑い、笑ったせいで咳が出て、胸が痛んだ。
「……ですから、動かないでくださいと」
「今のは胡蝶さんのせいでは」
「私のせいではありません」
漬物を一切れ残して、俺は箸を置いた。
しのぶは膳の減り具合をもう一度確かめてから、立ち上がった。
「姉が、あなたに会いたいと言っています」
襖へ手をかけたところで、彼女は言った。
「今日でなくても構いません。ただ、短い時間なら、と話をしています。私はまだ早いと思っていますが」
「反対ですか」
「反対ではありません。心配なだけです」
彼女は少しだけ振り返った。
「姉は、話し始めると止まらない人なので」
◇◇◇
翌日の昼過ぎ、隠に肩を借りて、俺は奥の部屋へ通してもらった。
自分で歩くと言ったら、しのぶの目が細くなったので諦めた。廊下を渡る間だけでも、他人の肩があるとないとでは全然違った。
部屋は薄暗いままだった。
カナエは昨日と同じように横になっていたが、顔の色は少しだけ戻っていた。目もはっきり開いている。
「高瀬さん」
「起きなくていいですから」
言うより早く、彼女は身じろぎしかけていた。
「起きません。起きたら怒られます」
「怒られますね」
俺は少し離れたところへ座った。近づきすぎない距離で、声だけ届くくらい。
「熱が出ていると聞きました」
「昨日ほどではないみたいです」
そう言ってから、カナエは少し首を傾けてこちらを見た。
「高瀬さんこそ、どうですか。ちゃんと食べました?」
「……食べました」
「本当に?」
「粥と、汁と、漬物を。全部です。一切れ残しましたけど」
「じゃあ全部じゃないですね」
指摘されて、返す言葉がなかった。
「休んでいますか」
「休んでます」
「歩き回っていませんか」
「……昨日、少しだけ」
「だめですよ」
叱っている声ではなかった。困ったような、笑っているような声だった。
「それ、俺が言う側だと思ってました」
「私のほうが先に言いました」
「早い者勝ちですか」
「そうです」
カナエが小さく笑った。笑ったせいで痛んだらしく、すぐに息を止めて、それから慎重に吐いた。
俺は思わず腰を浮かせかけたが、彼女が手のひらを少し上げて、大丈夫だと示した。
「……お互い様ですね」
しばらくして、俺は言った。
「そうですね」
彼女はそれだけ言って、天井を見た。
夜のことは話さなかった。
どちらからも出さなかった。
あの庭で何があったかは、二人とも身体に残っている。
今は、それで十分だった。
「高瀬さん」
「はい」
「ここの朝ごはん、卵が出る日があるんです」
「……そうですか」
「私はまだ食べられないので、代わりに食べてください」
「代わりに、ですか」
「そのうち、私も食べます」
そう言って、彼女はまた少し笑った。
襖が開いた。
「姉さん」
しのぶだった。腕を組むわけでもなく、ただ立っているだけなのに、部屋の空気が引き締まった。
「もう休んでください」
「まだ少しだけ」
「休んでください」
「……はい」
カナエがおとなしく目を閉じる。
しのぶの視線が、そのまま横へ動いた。
「高瀬さんもです」
「俺もですか」
「あなたが一番、自分の状態を軽く見ています」
やはり、反論できなかった。
俺は肩を借りて立ち上がり、部屋を出た。襖が閉まる直前、布団の中から小さな声がした。
「また来てくださいね」
返事をする前に、襖は閉まっていた。
部屋へ戻って横になると、身体が一気に重くなった。
たかが廊下を往復しただけだ。それだけで腿が脈を打ち、息が浅くなっている。座っているのと横になっているのとで、こんなに違うものかと思った。
膳を下げる音が、どこか遠くでしていた。障子から入る光が、畳の上をゆっくり移動している。布団は日に当てたばかりらしく、まだ温かかった。
しばらくして、しのぶが薬を持って来た。
飲み終えるのを見届けてから、彼女は言った。
「お館様には、まずお休みいただくようお伝えしています。お身体が落ち着いたら、こちらからご案内します」
「分かりました」
それだけで済んだ。
話はもう決まっている。あとは、俺の身体が追いつくのを待つだけだった。
——何から話すか。
天井を見ながら、少しだけ考えた。
順番は大事だ。
どこから話すかで、受け取られ方は変わる。
まず、自分が何者か。
それから、何ができるのか。
いや、先にこの先どうするつもりかを示すべきか。
剣のことを聞かれるのは間違いない。あの人には、たぶん誤魔化しが効かない。
——じゃあ、そこはどう——
そこまでで、思考が途切れた。
続きを組み立てようとしたのに、言葉が形になる前にほどけていく。
まぶたが勝手に落ちてきた。押し上げようとしても、上がらない。
まだ考えることがある。そう思った端から、身体のほうが先に決めていた。
「今は寝てください」
しのぶの声が、少し遠くで聞こえた。
「話は、その後です」
「……はい」
答えたつもりだったが、声になっていたかどうかは分からない。
障子の向こうで、誰かが庭を掃いている音がしていた。規則正しい、静かな音だった。それを聞きながら、俺は眠った。
今回は、戦いが終わった後の「身体」を少し意識して書いていました。
気持ちではまだ動けるつもりでも、身体のほうはそう簡単についてきてくれない。
怪我をして、食べて、休んで、人に手を借りる。
派手な場面ではありませんが、戦った後にもこういう時間がちゃんと続いていることは、大事にしたいと思っています。
タイトルの「身体が先に」も、そんなところから付けました。
しのぶやカナエとのやり取りも含めて、少し息を抜く回として楽しんでもらえたら嬉しいです。