投稿時の確認ミスにより、第3話と第4話の内容が入れ違った状態になっていました。
現在は正しい順番・内容へ修正しています。
すでに読んでくださった方には、混乱させてしまい申し訳ありません。
今後は投稿前の確認をもう一段しっかり行っていきます。
引き続き『異世界廻 ―星環のアステリオン―』をよろしくお願いいたします。
「息を、深く吸ってください」
言われた通りにする。途中で肋が軋んだが、止まるほどではなかった。しのぶは手首から指を離し、薬箱の蓋を閉じた。
「熱は引いています。傷も開いていません」
「行っても、いいですか」
「行っていいとは言っていません」
言葉は柔らかいのに、目のほうが動かない。
「途中でつらくなったら、途中でやめてください。話は次の日でもできます。あなたが倒れると、私の仕事が増えます」
「……分かりました」
一度、息を吐いた。
「肩、借ります」
しのぶが一瞬だけ目を上げた。それから何も言わずに横へ来て、俺の腕を自分の肩へ回させた。
◇◇◇
道中、ほとんど喋らなかった。息を配るだけで手一杯だったし、頭のほうも別のことをしていた。
何から話すか。
全部を一度に並べるつもりはなかった。聞かれたことへ、答えられる範囲で順番に答える。
答えられないことは、そう言う。それだけ決めた。
門をくぐると、音が変わった。
庭は手入れが行き届いていて、風の通り道まで整えてあるように感じた。人の気配は少なくないのに、誰も足音を立てない。
しのぶさんに肩を借りたまま、案内に従って廊下を進む。
廊下の角で、衣擦れが一度だけした。庭木の向こうにも人影がある。建物の外側にも、何人か控えているらしい。
護衛だろう。
俺は鬼殺隊の人間ではない。身元の保証もない剣士を、当主と完全な二人きりにする方が不自然だ。
やがて、庭に面した和室の前で足が止まった。
庭側は開かれていて、縁側の向こうに手入れされた木々が見える。反対の廊下側は障子で区切られ、その外にも人の気配があった。
「ここからは大丈夫です」
肩から腕を外そうとすると、しのぶさんが横目でこちらを見る。
「本当に?」
「数歩ですから」
「……では、私は近くにいます。帰りまで一人で歩こうとしないでくださいね」
「はい」
俺が返事をすると、ようやく肩が離れた。
しのぶさんは廊下側へ下がった。足音は遠ざからなかった。
案内の者が和室の入口で膝をついた。
「お刀は、こちらへ」
短く促され、俺は腰の刀を外した。拒む理由はない。鞘に収めたまま、入口側の畳の端へ置く。座る位置からなら、すぐには手が届かない。
当然の手順だと思った。
線香とも花ともつかない、淡い香りがした。
部屋の奥に、一人の男が座っている。
第一人生で見た姿より、ずっと若かった。
額から左の目元へかけて、痣のような変色はすでに現れている。左目は細い。けれど、右の瞳ははっきりと俺を見ていた。
——まだ、見えている。
俺の記憶にある頃より、顔の変化は浅い。分かっていた時代の差が、そこで急に現実味を持った。
部屋の中にいるのは、その人と俺だけだった。
ただし、廊下側にも庭側にも護衛の気配は残っている。
「よく来てくれたね」
声を聞いた瞬間、第一人生で見た映像と、今ここにいる本人が重なった。
——やっぱり、この人か。
喉まで出かかった名前を飲み込む。知っているからといって、こちらから先回りして呼ぶのは違う。
「産屋敷耀哉といいます。鬼殺隊の当主を務めている」
穏やかな名乗りだった。声を張らないのに、部屋の空気がその一点へ寄っていく。
「高瀬悠誠です」
腰を下ろす途中で、腿が小さく震えた。隠せなかったが、隠そうともしなかった。
「無理をさせたね。座り方は、楽にしてくれて構わない」
「……お気遣い、ありがとうございます」
産屋敷様は俺の顔を見たまま、ほんの少し首を傾けた。
「私の顔を見ても、あまり驚かないんだね」
「いえ。驚いてはいます」
「そうなのかい?」
「はい。ただ、それで態度を変える理由もないので」
本当は、驚いた場所が少し違う。
顔の痕そのものではない。俺が知っている姿より侵食が浅く、右目がまだこちらを見ていることに驚いていた。
産屋敷様の口元が、わずかに緩んだ。
それ以上、顔のことを聞かれることはなかった。
俺も尋ねなかった。今の症状がどこまで進んでいるのかは、俺の記憶だけでは分からない。必要なら、後でこの時代のこととして聞けばいい。
産屋敷様は少しだけ間を置いた。それから、言葉を選ぶというより、確かめるように言った。
「胡蝶カナエを、生かしてくれてありがとう」
短い礼だった。飾りがない分、重かった。
「あの子の妹から、夜が明けるまでのことは聞いている。君がいなければ、私はあの朝、娘を一人失っていた」
娘、と言った。比喩ではない響きだった。
「……間に合っただけです」
「間に合わなかった夜を、私はいくつも知っている」
そう言って、産屋敷様はわずかに顔を上げた。
「その上で、いくつか。君自身のことを、聞かせてもらってもいいだろうか」
「あの夜のことは、胡蝶しのぶと、駆けつけた者たちから聞いている。だから、なぜカナエを助けたのかを最初から聞き直すつもりはないよ」
助かった、と思った。あの晩のことを頭から説明し直すには、身体も言葉も足りていない。
「聞きたいのは、報告では分からなかったところだ」
穏やかな声のまま、質問の角度が変わった。
「君は、鬼殺隊の者ではないね」
「違います」
「報告を聞く限り、あの夜が初めて鬼と刃を交えた夜ではないのだね」
否定する理由はなかった。
「はい。何度か、戦ったことがあります」
「どこで、とは今は聞かない」
先回りされた。答えづらいところを、あえて開けたまま置かれた感覚がある。ここで踏み込まれていたら、俺はたぶん言葉を濁した。濁したことのほうが、この人の中に残る。
「代わりに、別のことを聞かせてほしい」
産屋敷様の姿勢は最初から変わらない。それなのに、部屋の重心が一度、こちらへ移った気がした。
「高瀬悠誠。君は、何を目的としているのだろう。そして、鬼というものを、どう考えている」
畳の目を一度見てから、顔を上げた。
「順番に、確実なことだけ言います」
「うん」
「鬼が人を襲って、食う存在だということは知っています。人を襲う鬼とは、敵対します」
「うん」
「ただ、鬼殺隊の中で自分が何をどこまで背負うのかは、まだ決めていません。決めていないのに『任せてください』とは言えません」
言い終えてから、少し長かったかと思った。
産屋敷様は、すぐには何も言わなかった。
やがて小さく頷き、視線を入口側の刀へ移した。
「そうか。では、今決めていることから聞こう。その刀のことを」
声の調子は変わらないのに、話が一段、実務へ寄った。
「しのぶから、君が《雨の呼吸》と呼んでいると聞いた。鬼殺隊にはない名だね」
来た、と思った。
「はい」
俺は膝の上で手を組み直した。
「俺が、そう呼んでいる剣です。完成した流派を継いだわけではありません」
「どういう剣なのか、聞かせてもらえるかい」
「全身を繋いで刀を振ること。動きを一度ずつ止めず、次へ渡すこと。力を真正面から受けず、流して次の動きへ繋げること。今は、それを自分の身体に合わせて組み直しています」
産屋敷様は一度だけ、「次へ」と小さく繰り返した。
「水に近いところがあるね」
「はい。そこから教わったものもあります」
そこで一度、言葉を切った。
「ただ、最初の基礎は、別の人から教わりました」
産屋敷様は、少し間を置いた。
「高瀬」
「はい」
「その基礎を教えた方の名を、聞いてもいいだろうか?」
畳の目が、やけにはっきり見えた。
言えば、ここから先は簡単には終わらない。
それでも、順を追って話すと決めたのは俺だ。
俺は膝の上の手を、一度だけ握り直した。
息を、一つ入れた。
長く溜めても、言うことは変わらない。
「継国縁壱さんです」
自分の声が、思ったより低く出た。
庭で、風が一度だけ強くなった。木の葉が擦れ、廊下側の障子がわずかに鳴る。
俺は、それ以上足さなかった。
耀哉も、すぐには何も言わなかった。
ただ、それまでまっすぐ俺を見ていた右の瞳が、ほんの僅かに見開かれた。
「……つぎくに、よりいち」
その名を、ゆっくり確かめるように繰り返す。
声の高さが、ほんの少しだけ変わっていた。
「高瀬」
「はい」
「同じ名の、別の方ではないのだね」
言葉の選び方が、慎重になっていた。
「違います」
「本当に?」
「同姓同名の別人ではありません」
産屋敷様は、また少し黙った。
「その名は、」
言いかけて、一度切った。
「鬼殺隊に残る古い記録にある名だよ」
長くは語らなかった。それ以上のことは、言わない選択をしたのだと思った。
「私が知っている継国縁壱は」
そこでもう一度、間が空いた。
「今を生きている者が、直に教えを受けられる時代の人ではない」
静かな言い方だった。
責めてもいないし、嘘つき呼ばわりもされていない。ただ、事実を一つ、俺と自分の間の畳の上に置かれた。置かれてしまえば、もう見なかったことにはできない。
分かっている。
この人の言う通りだ。俺が今言ったことは、この世界の常識では成立しない。
「はい」
「はい、と」
「その通りだと思います」
俺は目を逸らさなかった。逸らしたらそこで終わる気がした。
「その上で、事実だけ先に言います。俺は、あの人に会いました。直接、会って、剣の基礎を教わりました。しばらく行動を共にして、その間、身体の使い方を教わっています」
言いながら、あの頃の感触が一瞬だけ戻ってきた。今の剣の土台が、そこにあることだけは確かだった。
「ただ、あの人の剣を再現できるわけではありません」
「見せてもらいました。何度も。でも、俺には同じようにはできませんでした。理解できても、身体がついてこない。だから、自分の身体で扱える形に組み直しました。それが今の俺の剣です」
言い終えて、口の中が乾いていることに気づいた。
産屋敷様は、しばらく動かなかった。
否定の言葉は来なかった。信じたとも言われなかった。
やがて、産屋敷様が少しだけ顔をこちらへ向けた。
「高瀬悠誠」
「はい」
「では」
声は、変わらず静かだった。
さっきよりも静かだったかもしれない。
「……いつ、会ったのだろうか」
質問は、それだけだった。
短くて、逃げ場がなかった。
言えることを順番に並べる、と決めたのは俺だ。名前だけ出して、あとは黙りますというのは、この人に対していちばんやってはいけない。
俺は、その問いを受け止めた。
一度だけ息を整えた。
「今から、数百年前です」
自分の耳にも、馬鹿げた響きだった。
「正確に何年前かは、俺にも分かりません。数えていませんでした。ただ、少なくとも、あなた方が記録に残しているのと同じ時代です」
言い切って、そのまま黙った。
耀哉も、黙った。
庭の音だけが続いていた。風に葉が擦れ、どこかで水の落ちる音がする。
長い間だった。
さっきよりも長い。
それでも、この人は「そんなはずはない」とは言わなかった。信じたとも言わなかった。目の前に置かれたものを、まず動かさずに眺めている。
「……高瀬」
「はい」
「それは、どういう意味なのだろう」
分からないから、聞く。その声はまだ穏やかだった。
「では、君はなぜ、その時代にいたのだろうか」
腿が痛んだ。
さっきから同じ姿勢で座りすぎている。汗が背中に張りついていて、息を深く入れると胸のあたりが軋んだ。まだ治っていない身体で、こんな話をしている。
それでも、ここで切り上げる気にはならなかった。
「……そこから先は、少し長くなります」
「構わないよ」
「本当に長いです」
思わず、そう返していた。
産屋敷様が、わずかに息の混じった声を出した。笑ったのかもしれない。この場で初めて、空気の硬さが少しだけ緩んだ。
「なら、順番に聞かせてほしい」
「はい」
俺は、どこから話すべきかを頭の中で組み直した。
仕組みの話から入るのは違う。
先に話すなら、実際に何があったかだ。誰と会って、何をしたのか。
「順番に話します。ただ、最初に一つだけ」
「うん」
「俺は、あの人のことを、うまく説明できません」
言葉にした途端、耳の奥に、刀が空気を通る静かな音が蘇りかけた。
声まで追うのは、まだやめた。
「会った時のことから話します」
自分の声で、耳の奥の雨が引いた。
「俺が、あの人に——継国縁壱に会った、最初の日から」
今回は、悠誠と産屋敷耀哉の会話について少しだけ。
この場面を書く時に意識していたのは、「すぐに信じる」「すぐに疑う」のどちらにも寄せすぎないことでした。
悠誠が話している内容は、この世界の人からすればかなり突拍子もないものです。
だからこそ耀哉には、頭から否定するのではなく、分からないことを一つずつ聞いていく人として描いています。
一方の悠誠も、全部を一気に説明するのではなく、自分が確実に言えることから順番に話す。
今回はそんな、二人が少しずつ相手を見ながら会話していく空気を大事にしていました。
本編と合わせて、そのあたりも楽しんでもらえたら嬉しいです。
次の更新は、9月13日20時