<Infinite Trigger>   作:N.O.

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第01話 ザ・ブルー・サンデー

 ■歯車暦243年

 

 がたん、と歯車が鳴った。

 ギアーズシティの中央、大時計塔(タイムズ・タワー)の頂点だった。何ムールもある針を回すのに、巨大な機械ががたがたと組み合わさって震えている。

 

「――私を殺しに来たのか?」

 歯車の前で、ひとりの男が言った。

 長身に黒いコートを羽織り、帽子の下で丸眼鏡をぎらぎらと輝かせていた。薄暗い時計塔内部だから、いっそ巷の怪談噺にある、塔に住み着く亡霊のようにすら見えた。

「しかし君が追手とはな。教会も心憎い人選をする」

 

 対峙するのは、純白の青年だった。

 ふたりの見かけは何もかもがコントラストを作っていて、まぶしい。髪は短く刈り込まれ、首筋には植物のタトゥーがある。

「なぜですか? 先生」

 青年は言った。

「なぜこんなことを? 逃げ切れるはずがないのはわかっていたはずです。今ごろギアーズセントラル駅にも、ハイアー・エアの空中停泊場にも我々の手が回っている。こんなところにいる場合じゃないでしょう」

「どうも追手の台詞ではないな」

 コートの男、“先生”はそう言って、肩をすくめた。

「私を殺しに来たんだろう? さっさとやればよかろう。それだけのことをしたのだ。覚悟くらいはできている」

 青年はため息をついた。くだらないジョークに呆れ果てたんだ、そんな顔で。

「まさか、殺しませんよ。あれの場所を聞き出すまでそんな許可は下りません。教会はあなたを尋問するつもりです。それは、きっと死んだほうがマシだと思うくらいかも――繰り返します、なぜ、こんなことを?」

 青年は信じられないという面持ちで言った。

「あなたを尊敬していたんだ」 

 時計が動いた。

「あれは教会の最重要機密でした。それを持ち出したりして、その意味が分からないあなたではないはずでしょう」

「私はね、教会の思想には賛同できなくなったんだ」

 男は言った。

「別に君に理解してほしいとは思わん。異端者の言い分に耳など傾けるなと教えたはずだ、カミツレ」

 青年、カミツレは残念そうに顔をしかめた。

「あなたを捕まえたくなどない。“あれ”の場所が分かれば教会もあなたを追い立てるまではしないでしょう。教えてください。“あれ”はどこに隠したのです?」

「教えたら、こんなことの意味もなくなる」

 先生の言い分に、青年カミツレは激昂した。

「あなたはいつだってそうだ! 俺を置き去りにして、自分だけで何もかも進めてしまって! こんな無茶なことをする前に少しは相談でもしてくれればよかったではないですか! そんなに俺は頼りないですか? 上の連中が気に入らないのは分かっています、でも、だからといって異端者に身を落とすなんて、そんな」

 先生はコートの襟の奥で笑った。

「私は君を信頼している。だが、じゃあ、ついてきてくれたのか? 一緒に異端を犯してくれと言ったら、ついてきてくれたのか?」

 カミツレは黙った。先生は頷いた。

「そうだろう? だから、だめだ。前途ある君を巻き込むわけには行かない。結婚が決まったばかりじゃないか。式にはいけないが、祝福させてもらうよ」

 

「あなたを拘束する」

 途轍もなく苦しそうな顔で、カミツレは言った。

「俺の歯車のことはよく知っているでしょう。使い方を教えてくれたのは他ならぬ貴方なんだから。せめて、抵抗しないでください」

 時計塔が、また、がたりと音を立てた。

 コートの“先生”は、微笑みを浮かべ、歓迎するように、抗うこともなく、諸手を広げて若き追っ手を迎えた。

 

 時計が唸り、歯車が動き出した。正午の鐘が鳴ろうとしている。

 ふたりのうちどちらかが、小さく呟いた。

「――まったく。憂鬱な日曜日だ」

 

 ◆◆◆

 

 

 □■第01話『ザ・ブルー・サンデー』

 

 

 ◆◆◆

 

 ■ギアーズシティ 中央区 

 

「まったく、なんてお客さんかしら!」

 ローズマリーは呟いた。

 正午の鐘が鳴り響いた。昼時だというのに、食堂は空いていた。

 客は目の前のテーブルに座っている一人だけだった。だが、その客が普通ではないのだ。

「ねえ、きみ、ちょっと!」

 ローズマリーは耐えきれなくなってそう言った。客は顔を上げた。その唇の端を、トマト・パスタがするすると登っていって、消えた。

「言いたくはないんだけど、すごい量なのよ。ちゃんと食べ切れるの? うちは食事を残した客は許さないんだからね」

 どん、とテーブルに最後の注文分、巨大なフラーフを乗せながら、ローズマリーは言った。

 

 座っている唯一の客は、小柄で、どう見たってまだ子供だった。14歳くらいだろうか、手足は伸び始めているが、まだ身体がそれについて行っていないような。この年頃の男の子がどれほど腹ぺこであるか、ローズマリーだって知っていたが、それにしたって度が過ぎている。テーブルの上に並べられている料理は、橋職人(ブリジストナー)四人がゆうに腹一杯になるくらいはあったのだから。

「ああ疲れた。腰が壊れるわ。作るのだって大変だったんだからね」

 ローズマリーはこぼしながら、客の向かいに腰掛けてため息をついた。

「もし友達を呼んで食べさせるなら、見ての通り流行ってないから席はあるわ。冷めないうちにね」

 少年は気分を害した様子で眉をひそめた。何か言おうとしたが、その口はチーズで一杯に埋まっていた。それをぐいっと飲み込み、鶏の香草焼きに手を付けながら、少年は言った。

 

「――だってさ、すごくお腹が空いてるんだ!」

 ローズマリーは少年を眺めた。

 身体つきは細っこいが、これからだ。きっと背は高くなるだろう。あと一年もすれば。柔らかな髪は藁のような淡い色で、眼は炭のように黒い。

「ねえ、君、何処から来たの?」

 ローズマリーは尋ねた。

「シティの子じゃないでしょう。喋り方でなんとなく分かるわ。新住人(ニュー・シビリアン)?」

 少年は香草焼きをあっという間に平らげ、マスの包み焼きの白い身をほぐし取りながら頷いた。ローズマリーは言った。

「やっぱりね、あたしもそうなの。去年、北のオールド・スウィープから来たんだけどね、人生うまくいかないわ。せっかく中央区(セントラル)に店を出せたのに全然流行らなくって。ためた開店資金はなくなっちゃったし、毎月の家賃を払うだけで精一杯! 食材だっていつまでもは保たないし」

 少年は、ばかでかいカブの煮物に取りかかりながら、ローズマリーを見た。ローズマリーは眉をひそめた。

「何よ。腐ったものは出してないわよ」

 少年は疑わしげに巨大なカブを見つめると、柔らかなそれを一息に飲み込んだ。それでようやく一段落したらしい。水をがぶがぶとまるで水車のように流し込む。

 

「――じいちゃんに言われたんだ」

 少年はそこでようやく、食べるため以外に口を開いた。

「俺が死んだらシティにいけ。あそこには知り合いがいる。だから来たんだよ」

 それが意味するところを悟って、ローズマリーはちょっと黙り込んだ。少年はにやっと笑った。

「おばさん、いい人だね」

「失礼ね。あたしはまだ24よ」

 ローズマリーはそう言うと、水をついでやった。

「そう。お爺さんが亡くなったの。それは辛いわね。ご家族は?」

「じいちゃんだけ。二人で住んでたのさ」

 少年は硬い黒パンを齧った。

「でも寂しくはなかったよ。僕はじいちゃんが大好きだったからね」

 ローズマリーはなんて言っていいか分からなかったので曖昧に笑った。少なくとも、間違いではないだろう。

 

「君の持ってる歯車(ギア)、変わってるのね」

 終わった皿を取りまとめながら、ローズマリーは言った。

 少年は首に提げた歯車を持ち上げた。

「そうかい?」

 あかがね色のそれは、歯車らしく、六つの歯を突き出させていて、緩やかにカーブしたなめらかな円形を描いていた。真ん中の穴に革ひもを通してペンダントにしてある。素朴だったが、よく見ると読めない文字がびっしりと精緻な細工で彫り込んであるのが分かった。

「別に変だって言ってるわけじゃないわ。あたしのは、ほら」

 ローズマリーは首元から自分の歯車をもちあげてみせた。

「もっとシンプルでしょう? そんなに凝った造形の歯車は初めて見たから。まるで教会の人が持ってるやつみたい」

「じいちゃんの形見なんだ」

 少年は言った。

「肌見放さず付けてろって。お風呂でも外さないよ」

「そう。よかったわね」

 ローズマリーは無理やり作った笑顔でそう言った。わざとらしすぎただろうか。それにしても、ずっと彼の祖父の話をしている。

 

「それ」

 少年はおもむろに、ローズマリーの首を指さした。

 歯車に隠れるようにして、ちいさな時計が鎖で提げられていた。

「ああ。これ?」

 話題を変えられることに安堵しているような、そんな顔で、ローズマリーは時計を開いた。

「君と同じ。祖父のものなの。もう壊れてるから動かないんだけどね。水仕事だから手につけるわけにはいかないでしょう? 首から提げてるのはそういうわけよ」

 ローズマリーはなにかお返しのつもりで、時計の文字盤を広げてみせた。

「綺麗でしょう。捨てるのは嫌だったの。あたしも、祖父が好きだったから。もう動かなくなってずいぶん経つんだけどね」

「直さないの?」

 少年は言った。ローズマリーは首を振った。

「無理よ、無理。時計職人に伝手なんてないし、お金もないし、あそこのイエローズ通りの時計店、メンテナンスは一年待ちよ? その前にこの街から出ていくことになりそうね」

 ローズマリーは肩をすくめた。少年は真面目な顔で、目を光らせて、言った。

「それ、直してあげようか?」

 ローズマリーは聞き違いかと思って目をぱちくりさせた。少年は繰り返した。

「直してあげようか?」

「できるの?」

 ローズマリーの思わず侮るようなそれに、少年は真剣な目で頷いた。

「じいちゃんに教えてもらったから」

 少年は傍らに置いていた鞄をテーブルの上においた。皿をぐいっと寄せ、パンくずと埃を払う。ローズマリーは瞬きをした。

「君、いつの間に全部食べたの?」

 少年は鞄を開けた。

 無骨な金属製のそれは、内側に革と布を張った柔らかな作りになっていた。いろいろな道具がきらきらと光っている。

 

「貸してくれるかい?」

 少年が差し出した手に、思わずローズマリーは時計を置いた。

 少年は職人よろしく、ルーペを右眼にしっかり嵌めると、時計の裏を細い道具でこじ開け、中身を顕にした。

「すごい、こんなふうなのね」

 覗き込もうとしたローズマリーを、少年の手が制した。

「埃を落とさないで」

 少年は時計をひとつひとつ、緻密に分解していった。吹けば飛びそうなパーツばかりが、革張りの上に並べられていく。

「思った通り、大した故障じゃない。98番のネジ頭が持ち上がってゼンマイを邪魔してたんだ。締め上げてやれば直るよ」

 ローズマリーは感嘆して言った。

「すごく複雑。あたしにはなにがなんだか分からないわ」

「複雑だけど、一つ一つは単純な組み合わせだもの。小さなものがいっぱい集まって、噛み合って、大きなひとつの動きになるんだ。そう思うと、きれいじゃないかい?」

 少年はそう言うと、時計の裏蓋を閉めた。

「できた。一日一回、リューズを巻いてね。30回くらい回してあげればいいから。できれば水もやめてほしいけど、錆はなかったし、今のままなら大丈夫だと思うよ」

 ローズマリーは時計を受け取ると、その文字盤を眺めた。針がちょっと動いて、午後1時を知らせていた。時を同じくして、鐘がひとつ、鳴った。

「ありがとう」

 ローズマリーは心を込めていった。

「本当にありがとう。大したお礼はできないけど、絶対に払うわ。これをただでもらっちゃ、腕前に失礼だもの」

 少年は困ったように笑った。

「そんなふうに言われたの、初めてだよ。お礼なんて、別にいいのに」

「いいえ、よくないわ。なにか欲しいものはない? あ、そうだ、まだお腹がすいてるんじゃない? なにか作ってあげようか」

 ローズマリーの言葉に、少年はあいまいに頷いた。

「そうだね、なら、ひとつお願いがあるんだけど」

 少年は言った。

 

「今の修理で、料理のお代を払わせてくれないかな?」

 

 ◆

 

 ローズマリーは呆れ顔で、洗い場に立っていた。

「自分で食べたものは自分で洗いなさいよ」

 彼女はため息をついた。

「財布を落としたですって? 君ねぇ、それは盗まれたのよ。セントラル駅前なんて歩いてる連中の半分はスリなんだから。これだから新住民(ニュー・シビリアン)ときたら」

 少年の手際は素晴らしかった。あっという間に洗い物を終わらせ、コップを拭いている。手先が器用なのだろう。

「これからどうするの?」

 ローズマリーは思わず尋ねていた。

「お金もないし行くとこもないんでしょう? 宿代だって、ここじゃ一泊100レーヌはくだらないわ。当てはあるの?」

 少年は磨き上げたコップを満足げに眺め、そっと流しのそばに置いた。

「“タイム”を訪ねろって」

 少年は言った。

「タイムを訪ねれば助けてくれるってじいちゃんは言ってたんだ。知らない?」

「それって、人の名前?」

 ローズマリーは困った顔をした。

「この街の人口がどれくらいいるか知ってる?」

「さあ、どれくらい?」

「あたしも知らない。つまりそれくらい人間が多いってこと。名前だけで人捜しをするのは無理だわ、探偵に頼むならまだしもね。職業とか、住所があれば案内してあげられるけど」

「名前しか聞いてないんだ」

 少年はそう言うと、首元の歯車(ギア)を撫でた。まるで亡き祖父に縋るように。

 

 そして、その歯車が突然、光り始めた。

 ローズマリーは目を見開いた。彼が燐寸(マッチ)をすったのか、手品かと思って。だが、その淡い光は確かに、歯車の金属そのものの中から染み出し、羅針盤のようにどこかを指し示している。

「なあに、それ?」

 ローズマリーは尋ねた。

「電気でも仕込んであるの?」

 

 だが、少年は答えなかった。

 彼はひかりの尖った先端をじっと見つめていた。そこからなにか読み取ろうとでもしているように。

「じいちゃん」

 少年はそう呟くと、おもてへ飛び出していった。

 ローズマリーは慌ててその後を追った。

 

 少年は歯車の光をのぞき込みながら、脇目も振らず走っていた。食堂の扉を頭で開き、石畳を飛び越えて、往来を突き飛ばしながら表通りへと飛び出した。

 その目の前には、今、まさに真っ白な機械馬車(メックコーチ)が現れたところだったのだ。

 御者は慌てて歯車馬の向きを変えたが、間に合わなかった。ローズマリーは悲鳴を上げ、そして少年は馬車に正面衝突して軽々と吹っ飛ばされた。おもてに積んであった木箱をぐちゃぐちゃに壊し、酸っぱい林檎の汁にまみれて。

「何たることだ!」

 止まった馬車から慌てて降りてきた青年は、頭を抱えながら唸った。

「君、おい、しっかりしたまえ。何を考えているんだ、機械馬車(メックコーチ)の前に飛び出してくるだなんて! まさか自殺志願者なのか? だったら、教会の紋章が見えないのか? おい、立てるかね?」

「すみません、この子、田舎から出てきたばかりで」

 ローズマリーはおろおろしながらそう庇った。教会の青年は、少年を助け起こしながらしかめっ面をした。

「御婦人、この少年のお母様ですか?」

「違います」

 ローズマリーは言った。

「そこで店をやっているものです」

「なんでもいいが」青年は言った。「次はこんなことさせないでくださいよ。ほら、散った散った。見せ物じゃないぞ!」

 そう言って、彼は野次馬を慣れた手つきで追い払った。教会の馬車からはぞろぞろと助祭たちがあふれてきていた。青年はそれを宥めながら首を振っていた。

「いや、なんでもないんです。子供が飛び出してきただけで。困ったものですよ。先を急ぎましょう。早く教会に行かなくては――」

 少年は首を振りながらなんとか立ち上がった。ローズマリーは血相を変えて怒鳴った。

「君ねえ、いくら田舎から出てきたばかりだからって、往来に飛び出しちゃいけないことくらいわかるでしょう? あんな大きなもの、ぶつかったらどうなるかは火を見るより明らかじゃないの」

「違う」

 少年は言った。鼻血が出ていた。

「あの中だ。あの中にある」

 少年は血を舐めながらぶつぶつ言った。

「あのなかに、あの中に――」

「いいから、来なさいったら」

 ローズマリーは少年をぐいっと引っ張った。

「薬をつけなきゃ黴菌が入るわよ。ほら!」

 機械馬車にどうにか助祭たちを押し込んだ青年が、そのとき、すまなさそうな顔で戻ってきた。

「失礼しました。私は歯車教会司祭(プレズビュター)、カミツレと申します。今回の事故は決して我々の責任ではないが」カミツレは少年を睨んだ。「万民救済の精神から、その少年の手当くらいはもちろん請け負います。なにかあれば教会までご連絡を。これが私の代名詞(カード)です、渡しておきますから」

 カミツレはそう言うと、少年を覗き込んだ。

「いいか、説教は割愛するが、君のしたことは危険行為というだけではなく、違法行為でもある。二度と往来で競走競技なんか始めてもらっては困る。頭を打った傷はあとから出血することもあるんだ。自分と他人の両方を危険にさらして、なんの得があると――」

 カミツレは言葉を切った。

 

「君、その首のものは?」

 少年は黙っていた。ローズマリーがかわりに答えた。

「いえ、もちろん司祭様、あたしもこの子も敬虔な歯車教の信徒ですから――」

「失礼」

 カミツレはそう言うと、まだふらふらしている少年の首元から、歯車(ギア)をつかみ上げた。しげしげと眺めている。その瞳が驚きのあまり膨らんだ。

「<神器(ギア)>か。それもマスターピース。なぜこんなものを君が――」

 

「返してよ」

 少年は言った。

「僕の歯車、返してよ」

「君の?」

 カミツレは唇を持ち上げた。 

「君はこれがなにか知っているのか?」

 少年は躊躇いなく答えた。

「それは、じいちゃんの歯車だ!」

 カミツレはため息をついた。

「噛み合わないな。まあいい。一緒に来てもらおう。いくつか聞きたいこともできた。悪いが君をこのまま見逃すわけにはいかない」

「待ってください。この子は――」

 ローズマリーは少年の肩を掴んだが、カミツレは冷たく言った。

「御婦人。申し訳ありませんが事情が変わりました。彼はかなりの重体のようです。教会施設で治療します」

「怪しいわ。この子に何をする気?」

 ローズマリーの言葉に、カミツレは目を細めた。

「教会に向ける態度ではないな。言葉には気をつけることですよ。ことによっては侮辱と捉えられかねないのだから」

 そう言うと、カミツレは自らの胸元より、自身の歯車を掴み出した。

 それは純白で、滑らかで、いくつかの歯を備えていた。ローズマリーは確かに見た。そのおもてに、あの細かくて読み取れない文字がびっしりと円を描いて並んでいるのを。

「“束縛せよ(ligā hunc)”」

 カミツレは呟いた。

「“歯車教典が第21章を以て命ず(Per capitulum vīcēsimum prīmum ex CanonĪ tibi imperō)”」

 少年の胸ぐらをつかむカミツレの掌から、ロタ文字が帯のようになって溢れ出した。それが少年の身体を巻き取っていき、ローズマリーの手をはじき飛ばした。教会で読み上げてもらう教典の文言そのままだ。だが、教会のそれは本から浮き上がってひとりでに宙に書きつけられたりしない。

「ちょっと、ねえ、君!」

 ローズマリーは叫んだが、少年はぐったりしていた。

 死んでいるわけではない。目は開いている。息遣いはしかし、眠っている時のように遅い。

「貴女はこの少年の何なのです?」

 カミツレは言った。

「この少年のお母様ですか?」

 ローズマリーは口をつぐんだ。カミツレは言った。

「であれば、もう、貴女には関係ない。無関係でいられるというのは幸いでもある」

 そこで、カミツレは顔をしかめた。

「そうですか。先生……しかし、受け容れがたいですね」

 カミツレは顔を上げ、ローズマリーに向かって手を翳した。

「私に術なんか使わせないでくれ。民間人に向かって」

 

 ローズマリーは怖気づいたように黙った。機械馬車に乗り込みながら、カミツレは首を振った。

「運命の歯車は常に廻り続けている。巡り合わせが良ければまた会えますよ」

 

 ◆◆

 

 ■機械馬車の中

 

 少年を取り巻いていた文字は、散り散りになって消えた。

「乗合馬車ではなかったはずだが――」

 コートの男はそう言って、少年を起き上がらせた。

「無事かね? 命令術とはずいぶんと荒っぽいことをするな、カミツレ君の仕業か。ほら、息をしたまえ、だんだんらくになる」

 “先生”は少年の背中をさすり、ゆっくりと座らせた。

「君はなぜ捕まったのかね? 私と相乗りさせるということは歯車絡みなのだろうが、よほどのことだぞ」

 少年は正体を取り戻すと、深く息をついた。

「ここにあるはずなんだ。もう一つの歯車(ギア)が」

 “先生”は眼鏡の奥で眉を持ち上げた。

「なぜ、そう思う?」

「じいちゃんの歯車が教えてくれたんだ」

 少年はそう言うと、機械馬車の前を見やった。分厚い鋼鉄の向こう側には、カミツレと助祭達がいるはずだ。

 

「違いますね」

 助祭の一人が、分厚い書をめくりながら言った。

 馬車の御者台の後ろ、備え付けの書台に、少年の持っていた歯車が置かれている。あかがね色のひかりはやんでいた。つまらない金属の欠片として、それは力なく横たわっていた。

聖番号(ナンバー)が異なります。これもマスターピースには変わりないでしょうが――かの司教(エピスコープス)の持ち出した神器ではないようです。たちの悪い偶然と言う他ないですが」

「別件ということですか」

 カミツレはため息をついた。

「まあ、捨て置くわけにいかなかったのは事実です。問題ないでしょう。教会への移送は予定通り行います。話はそれからです」

 カミツレはそう言うと、鋼鉄の壁を見た。

「あの少年は何者なのでしょう? 祖父の歯車、外から来たよそ者。マスターピースを所持していながらまったく噛み合っていないあたり、よほどの辺境に住んでいたのか――敬虔ともいえるかもしれませんが。他にも歯車を有しているのか」

「異端審問官に連絡をとりますか?」

 助祭の一人が言った。カミツレは首を振った。

「取り急ぎは私が一人でやります。【侵略機(インワード)】の手を借りるのはその後でいい。最優先事項は“あれ”の発見です」

 

「私は盗人だ」

 少年に向かって“先生”は言った。

「大事なものを盗み出したのでここに囚われている。教会に連れて行かれるところだ。だが、私のあれこれに君は関係ないはずだ。お爺さまの歯車というのは何のことかね?」

 “先生”は少年に向かって、なにか吐くような真似をした。

 いや、実際になにか吐き出してみせたのだ。掌で汚れているそれは、金色をしている、小さな歯車だった。びっしりと円を描く文字に覆われているのは同じだが、ひときわ細かく、意匠も精緻なものだ。

「汚くて失敬」

 “先生”は断ってから、少年に尋ねた。

「彼らも私の胃の中まで調べようとはしなかったからな。教会に着いたらそれも時間の問題だろうが――君の祖父が持っていた歯車とはこれに似たものではないか?」

「そうだよ」

 少年は言った。

「僕はそれを捜しているんだ。じいちゃんが言ってたんだ――歯車を探せって。タイムっていう人がそれを知っているって」

 “先生”は目を丸くした。

「そうか。私がタイム司教だ。奇遇なものだな……君はもしや、パシフローラの孫息子か?」

 今度は少年が目を丸くする番だった。

「なんで知っているの?」

「君の祖父と私は古い知り合いでね。長らく会っていないが。そうか、死んだのか。殺されたのか?」

 少年は首を振った。

「ううん。違うって。そう言ってた」

「そうか。幸せに生きられたのなら何よりだ」

 タイム司教はそう言うと、少年に吐き出したばかりでベトベトする歯車を手渡した。少年はすごく嫌そうな顔をした。

「君はこれから、歯車教会本部へと移送される」

 タイム司教は言った。

「マスターピース……特別な歯車を持っていたからな。今はまだそれだけだが、パーシーの孫だと知れれば上層部がその意味に勘づくだろう。まず間違いなく消される。異端審問に掛けられて。だが今ならこの馬車には、私が盗んだこれと、君が持っていた歯車の二つが揃っている」

 言うなり、タイム司教は馬車を隔てる鋼鉄の壁に向かって、親指を噛み切った血でなにか書き付け始めた。

「いいかね、歯車というものは常にひとつでは意味をなさない。パーシーの孫ならわかるだろう? 二つが噛み合って初めて、歯車は回りだす。そしてそこにはリューズを巻く“人間”が必要だ」

 書いているのは文字だった。ロタ文字だ。

 円環を描くようにぐるぐると重ねられたそれは、教典の一節だった。

「つまり、引き金(トリガー)理論だよ。あらゆる道具には使い手が要る。歯車も例外ではない」

 そう言うと、タイム司教はがらりと口調を変えて呟いた。

「“破壊せよ(Excinde hunc)”」

 血の文字が紅く光った。

「“|歯車教典が第41章を以て命ず《Per capitulum quadrāgēsimum prīmum ex CanonĪ tibi imperō》”」

 文字の円環に囲まれた部分の、鋼鉄が真っ赤に融け落ちた。

 その穴の向こうで、助祭達が悲鳴を上げた。

「なんてことだ!」

 壁の内側には、鋼鉄に挟まれて、古びた羊皮紙が敷き詰めてあった。黒い文字でびっしりと聖なる文句が書き込まれている。

「信じられん。鉄に命令術をかけるなんて! 何重にも祓いをしてあるはずの――」

 そう言った助祭の一人に、タイム司教は体当たりをした。少年を片手に掴みながら。

「さあ、取り戻せ、少年! 君の歯車を!」

 子供を投げ飛ばす。悲鳴を上げたカミツレを突き飛ばして、少年は自分の歯車を掴んだ。途端にあかがね色のひかりが溢れ出し、もう片方の手に持っている歯車を指し示した。

 突き飛ばされたカミツレが、ドミノ倒しに御者をも吹っ飛ばした。

 馬車が横転した。

 

 ◆

 

 壊れた馬車は、教会のすぐそこの通りまで来ていたのだった。

 白く築き上げられた、美しい尖塔を見上げながら、少年は歯車を握りしめ、馬車から這い出して、泥を拭った。

 

 そして、その前には傷だらけになったカミツレが立っていた。

「行かせはしない」

 彼はそう言うと、胸元からあの、純白の歯車を掴みだした。革紐で吊り下げられているそれは、誰だって持っているような何の変哲もないペンダントに過ぎないのだった。ただ、その異質な造形を除けば。

「君の手のなかにはマスターピースが二つ、うち一つは“あれ”だ。噛み合っていないとはいえ、逃がしていいものではない。それを置いて速やかに両手を挙げろ」

「これは僕の、じいちゃんの歯車だ」

 少年は言った。カミツレは嫌そうな顔をした。

「分からないやつだな。それが君の祖父のものであったとして、関係ない。それは危険なんだ。ただの普通の、そのへんで売ってるような歯車(ギア)とは違う。剣や爆弾と同じ、いやもっと危険なものだ。危ないものに鍵をかけてしまっておくのが大人の仕事というものだろう。子供は黙っておとなに従っておけばいい」

「僕は子供じゃない」

 少年は言った。カミツレは唸った。

「子供だ」

「これは僕のものだ」

 少年は手のなかのあかがね色の歯車を掲げた。

 そして、もう一方の手には、黄金色のそれがあった。

「あなたがこれをどう思っているのかは知らない。だけど、じいちゃんは僕に言ったんだ。歯車を探せ、回せって。それが幸せに生きる道だからって。約束なんだよ。それを引き渡すつもりはない」

「何を考えてるのか分からない子供だな」

 カミツレは自身の歯車(ギア)の紐を引き千切った。

「だったらいいさ。この私が、力ずくで奪うまでだ。怪我はさせないようにするから安心して委ねていればいい。君が持っているのは、本当は、こういうものなんだぞ!」

 周りで転がっている助祭達が口々に言った。

「おやめください、司祭!」

「ここは人の目がありすぎる。機密保持の原則に触れます!」

「問題ない」

 カミツレは言った。

「すぐ済ませます。それに、必要な状況だと判断しました」

 カミツレは手のなかのそれを持ち上げると、高らかに叫んだ。

 

「――《神器実行(アギト・エルゴ・スム)》」

 歯車が動いた。 

 白い歯車がぐるぐると回転を始めた。手のひらに軸でもあるかのように。その輪郭が次第に大きくなっていって、やがて、美しい槍になった。

「【凍結機(グラキアー)】――“私は凍結する(Glaciō hĪc)”」

 その石突を大地に突き降ろして、カミツレがそう宣言した。

 途端に真っ白な氷があたりを覆った。助祭達が慌てて下がりながら、野次馬をなかば殴り倒すようにして引っ張っていく。

 少年の足が凍りついた。

「動くなよ。靴底が剥がれるぞ。足の裏まで凍らされたくはないだろう?」

 カミツレはゆっくりと少年に近づいていった。

「さあ、歯車を渡せ。それは我々、歯車教会の管理すべきものだ」

 

 少年は嫌そうな顔をした。

 タイム司教が馬車の扉を蹴り破った。

「若人たちよ!」

 彼は馬車に登って叫んだ。

「この老いぼれが人生を浪費して得た教訓を授業してやろう」

「先生。頼むからそこで大人しくしていてくださいね」

 カミツレはそう言ったが、タイム司教は無視して喋り続けた。

「運命の歯車は常に廻り続けている。何もかも変化の渦中にあるのだ。それを押し留めることは容易ではない――変化を恐れる老人たちの妄執を、若人の愚かしくも輝かしき未来が押し流していく」

 彼は両の手を広げて演説をぶった。

「生きることは変わっていくことだ。その形は人にさまざまだろう。だが、大事なことは――いいか、諸君――真に大事なことは、我々は世界と繋がっているということだ。巷の一人間であれ、あるいは高名な司祭、または辺境からの流れ者、誰でも構わん。我々はこの世界の万物のなかに全身全霊で存在している! 忘れるなよ、その意味を。若き歯車の諸君、世界と噛み合うのだ! それこそが、よく生きるすべなのだから!」

 少年は手のなかの歯車に目を落とした。

 ――歯車というものは常にひとつでは意味をなさない。

 少年はふたつの歯車を構えると、目の前でそれを噛み合わせた。別々のそれらは、まるで同じ一つのものであったかのように、ぴったりと合わさると、かっちりと噛み合った。

 カミツレはタイム司教から眼差しを引き戻すと、目を剥いた。

「やめろ」

 少年は無視した。

「そうか、じいちゃん。こういうことなんだね」

 少年は言った。

「“世界と噛み合うとき、世界の震動が聴こえる”――こういうことなんだよね、じいちゃん!」

 少年は高らかに歯車を掲げると、心臓へと伝わってくる世界の震動に従って宣言した。

 

「――《神器実行(アギト・エルゴ・スム)》」 

 

 ふたつの歯車が回り出した。

 それらは合わさって一つになった。

 

 ⚙⚙ To be continued!

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