<Infinite Trigger>   作:N.O.

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第02話 トリガー・オブ・ワールド

 ■ギアーズシティ 中央区

 

 歯車がぐるぐると回りながら輪郭を変えていく。あかがね色の渦が右手のなかで伸びやかに膨らみ、瞬き一つの間に、形を変化させた。

 

 それは一振りの剣だった。

 

 あかがね色の剣身、十字架を象った無骨な鍔、なめらかな表面には読めない文字が刻まれている。

 少年はそれをじっと見つめた。そのかたちはなぜかひどく心に馴染んだ。無意識のうちに自らのセンスと整合した、心地よい感覚があった。

「“噛み合った”!」

 カミツレは頭を抱えて言った。

「ああ、偉大なる運命の歯車よ、まさかこんなことに……この土壇場で<トリガー>が噛み合うなんて」

 耳慣れぬ言葉だ。少年は訊いた。

「トリガーってなんだい?」

接続者(トリガー)。物理神学では、その<神器(ギア)>と“噛み合った”人間のことをそう呼ぶ」

 タイム司教が言った。カミツレは唸った。

「黙っていてください、先生」

「それは君の力だ」

 構わずにタイム司教は続けた。

 その手が指を大きく広げ、そして互いに噛み合わせて見せる。

「君が回したのだ。歯車は繋ぐもの、本質的には接続の象徴。その二つは繋がって回り、君と世界を繋いでいる――君は今、世界と噛み合ったのだ!」

 その時、時計塔が午後二時の鐘を打ち鳴らした。

 

 助祭達は逃げ出していた。何人かは教会へ知らせに向かったものか。いずれにせよ、この場にいてもらってもあまり意味はない。

 少年はじっと立っていた。脚を氷漬けにされたままで。

「演出過多にもほどがある」

 カミツレは吐き捨てた。

「いくら同じ<トリガー>といえど、目の前で噛み合わせたばかりでしょう。所詮は第二階梯(フェーズ)でしかありません。私は第四階梯(フェーズ)四重接続者(クアッド・トリガー)です。勝ち目なんかないですよ」

「でも、マスターピースだよ」

 少年はそう言ってみた。カミツレは苛立った顔をした。

「それは今の話に関係ない。適当に喋るな」

「じゃあ、マスターピースって何?」

 少年は言った。

 

 氷が荒ぶった。

 霜がまるで秋の草原みたいに伸びていく。少年の足も、腰も、真っ白な氷結に飲み込まれた。氷河期を呼び出したのだ。

「荒っぽい手を使うが、許してくれよ。氷漬けにして教会まで引きずっていくからな――先生、あなたもですよ」

 どさくさに紛れて逃げようとしていたタイム司教は、行き道を阻む氷の壁に鼻先をぶつけた。

「いや、寒いから用足しに行こうとしたんだ」

「この期に及んでふざけて頂かなくても結構」

 カミツレは叫びながら少年につかつかと歩み寄った。

「形状が(つるぎ)――第一変化神器(ファースト・コンジュゲーション)か。私と同じだ。だが能力の使い方もわからないようでは話にならないぞ」

 というよりは、それが当たり前なのだ。カミツレは心のなかで言った。今さっき噛み合わせたばかりで力が使えたら、そのほうがむしろおかしいのだから。

「ねえ!」 

 氷に捕まった少年が叫んだ。

「これはどうすればいいんだい?」

 

「いかんな。だめだ、これでは」

 タイム司教が立ち上がった。

「逆転の一手になると思ったんだが、やはり無理だったか」

「当たり前だ。悪足掻きにも程がありますよ」

 カミツレが呆れたように言った。

 タイム司教はにやっと笑った。眼鏡がぎらりと光った。

「では、もう少し悪足掻きをしてみるとしようか。足元をご覧?」

 氷の下に、黒い文字がうぞうぞと流れ出して蠢いていた。それが列を作って並び、鎖のように繋がって回り出すのを、カミツレは口を開けて見つめた。いつの間に、こんな――

 

「“破壊せよ(Excinde hĪc)”」

 タイム司教が地を指さしながら言った。

「“歯車教典が第41章を以て命ず(Per capitulum quadrāgēsimum prīmum ex CanonĪ imperō)”」

 

 石畳が割れた。

 十字の傷が辻を引き裂き、氷も、馬車も、タイム司教も、少年をもぱっくりと呑み込む。カミツレは驚き顔で立ち尽くしていたが、すぐにわれに返ってそこへ駆け寄った。

「待て! 逃げる気か!」

 カミツレは市内の地図を思い返していた。

「待て!」

 だが、ふたりの姿は崩落に呑まれて消えた。

 

 カミツレは顔をしかめてぼうっと立ちつくしていた。

 氷が消える。白い槍も歯車へと戻った。

 青年は静かにため息をつくと、あたりを見渡し、ぶつぶつつぶやいた。

「腕利きの命令術師だってことは嫌というほど分かっていたはずなのに!」

 急がなくては。交通管理局に捕まったら山程の書類を書かされる。そんなことに付き合っていられるほど暇ではないのだ。

「“追跡せよ(sequere hĪ)”」

 彼の唇から黒い文字があふれた。

「“歯車教典が第70章を以て命ず(Per capitulum septuāgēsimum ex CanonĪ imperō)”」

 黒い文字はしばらく迷うようにぐるぐる回っていたが、やがて方角を示すようにゆっくりと漂い始めた。カミツレは歯車を握りしめながら、その後を追っていった。  

 

 ◆◆◆

 

 

 □■第02話『トリガー・オブ・ワールド』

 

 

 ◆◆◆

 

 ■アンダー・ワールド地下大構造

 

 崩落の瓦礫を、タイム司教の黒いブーツが蹴り飛ばした。

「石畳の味など二度と知りたくはないな」

 埃を吐き出しながら彼は立ち上がった。

 少年は石の欠片を払い除けながら、あたりを見回した。そこは薄暗かった。地下なのに、弱々しい明かりがあったのだ。

「来るのは初めてかね?」

 タイム司教は言った。

「この街、ギアーズシティはパイルアップ・ケーキのクリーム生地さながら、幾重にも重なった層になっているのだ。古代の街の上に建て増し、建て増し、上の街を積み上げてきたのだから」

 

 がたん、と歯車が鳴った。

 そこらじゅうが機械だらけだった。大きい歯車、小さい歯車、金白色の機械部品が噛み合っては離れ、動き続けている。まるで生い茂る植物のようなそれらの下には、古代の街(パリオポリス)がじっと横たわっている。

 まるで時計だ。そう、少年は思った。時計の中を歩いているみたいだ。

 だが、二人が落ちてきたところだけは、崩れた瓦礫の山に押しつぶされて壊れていた。精緻に組み上げられたハーモニーが不協和音へと変わっていた。がたがたと震える歯車が回りきれずに止まり、歪んだ軸受けがガタンと落ちた。

 

「行くぞ」

 タイム司教はそう言って歩き出した。だが、少年は動かなかった。

「何をしているのかね?」

「教えておくれよ。これが一体何なのか」

 少年はあかがね色の剣を差し上げながら尋ねた。

「おじさんは知ってるんだろう? これが何なのか」

「私はもうおじさんって歳じゃない」

 タイム司教は言った。

「この老いぼれに分かることならいくらでも教えてやろう。<神器(ギア)>のことなど、私にも知っていることは少いが」

 タイム司教はそれに触ろうとして、慌てて手を引っ込めた。少年が嫌がる顔を見せたからだ。彼はいかにも大事そうに剣を抱えた。

「さっきまでは、ただの歯車(ギア)だったじゃないか」

 少年は剣を慎重にひっくり返し、その刃の上に指をすべらせた。まやかしや気の所為などではない、しっかりとした感触が指先に伝わってくる。

「都会には、こんな不思議な歯車が沢山あるものなのかい?」

「このギアーズシティは教会施設の総本山だからな」

 タイム司教は言った。

「彼らが狩り集めているんだよ。一理なくはない。それは強い力を持っている。心悪しき者の手に渡れば、大勢の不幸を生み出す力が――逆もまた然りだが。道具は、機械というものは、その使われ方にこそ善悪があるものだ」

 少年は訝しむように、剣を眺めていた。

「それじゃあ、僕は――」

「<トリガー>。力の歯車と噛み合った人間だ。本来、<神器(ギア)>はそれぞれ一種の特異な能力を秘めている。世界の事象と噛み合い、現象を回転させる力を。君は使えなかったようだが、今に分かる。それには時間が必要だ。カミツレ君は強いぞ、私が鍛えた<トリガー>だからな。とにかく逃げることが先決だ」

 だが、少年は逃げなかった。

 

 彼は剣を石造りの床にそっと置くと、壊れた歯車の破片や、石畳のかけらを押しのけて、崩落を片付け始めた。

「何をしているのかね?」

 タイム司教は、彼にしては珍しく、余裕を失った口調で尋ねた。

「聞こえなかったのか? このままでは逃げ切れん。教会に捕まったら待っているのは拷問と死だぞ。私たちはもう異端者なのだ」

「放っておくわけにはいかないよ」

 少年は巨大な歯車の軸に手を突っ込み、少しの恐れもなくがたがたと揺すぶった。

「やっぱり、ここで引っかかってたんだ。最低限の応急処置はできるね。あとはどうにか軸受けを直せば――」

「それが今、私たちに必要なことなのか?」

 タイム司教は言った。

「追われているんだぞ。確かにあの崩落のせいでシティの機能はいくつか麻痺したかもしれん。だが、そんなもの、いつか誰かが直すさ。道路管理局や、職人組合が」

「――僕はね」

 少年はいった。

時計職人(クロックメイカー)なんだ。自分で壊した歯車を放っていくなんていうのは、だめなんだ。そう決まってるんだよ。職人のプライドにかけて」

「それは祖父の教えか?」

 タイム司教はつぶやいた。少年は頷いた。

「そう。じいちゃんが言ってたんだ。壊したら直せって」

「パーシーはそんなつもりではなかったと思うがね。追われているときにプライドを優先させるような男ではなかった」

 少年は首を振った。

「いいよ。タイムさんは行けばいい。僕は引き留めない。追われてるんでしょ?」

 少年はそう言うと、顔をしかめた。

「だめだ、ここはねじ回しがいる――ああっ、しまった!」

 

 少年は振り向くと、泣きそうな顔で言った。

「道具鞄を置いてきちゃった。ローズマリーのお店に!」

 

 ◆◆◆

  

 ■ローズマリーの店

 

 ローズマリーはよそ行きの帽子をかぶり、鏡の前で咳払いをした。なかなか悪くない。これなら教会のお偉方とて、彼女を見くびったりはするまい。

 少年の道具鞄を見る。大事に違いないそれを放り出していくほど取り乱していたのだ。高価そうな道具鞄を盗まれたりしないよう、彼女はそこに刺繍のある覆い布をかけて隠した。

「いきなり連れて行くなんて、教会の司祭様だからってそんなのないわ」

 ローズマリーは鏡のなかのおのれに向かって言った。

「抗議してやるんだから。横暴よ、横暴!」

 

 そのとき、店の戸口に影が差した。

 ローズマリーは慌てて鞄を取るとそちらへ向かった。看板をしまい忘れていたかもしれない。

「あら、ごめんなさい。今日はもう店じまいなの」

 戸口に立っていたのは、まるで人形のように愛らしい、小柄な女の子だった。真っ黒なスカート、真っ黒なブラウス、真っ黒な髪。貴族か、それとも機械画家のモデルかしら、とローズマリーは思った。それほどに彼女の服装はきらびやかで、生活の匂いがしなかったのだ。

「来てくれてありがとう。でも出かけなくちゃあならないから。是非、また今度いらしてね。お嬢ちゃん(フロイライン)

 

「お嬢ちゃん、ですって?」

 少女は笑った。

 顔を動かしてみると、さっきまでの可憐な印象が揺らいだ。やや毒々しい、恐ろしげな迫力が、その紅い唇から覗いている。

「失礼しちゃう。私はもう14歳なのよ。立派な淑女(レディー)だわ。男だって簡単に転がせるくらい、色気もあるんだから。あんたなんかにお嬢ちゃん呼ばわりされる筋合い無いのよ、おばさん!」

 ローズマリーはまゆ毛をつり上げた。

「なんですって――」

「ここにいたんでしょう? あいつ。あの野良の<トリガー>が。どこに隠してるの? カミツレの堅物にいっぱい食わせた子供よ。どこに、隠してるの?」

 あの少年を探している。

 ローズマリーは即座に惚けることにした。

「さあ、何のことかしら」

 だが、少女は引き下がらなかった。その泥のように黒い瞳がローズマリーの顔をしげしげと覗き込んだ。

「嘘ついてもムダよ。あのぼんくらの助祭どもだって報告くらいできるわ。私知ってるんだから、護送馬車の事故も、マスターピース二つの二重接続者(デュアル・トリガー)のことも――ふうん、シラを切る気なんだ?」

 少女は凶暴に笑った。

「私はジギタリス。歯車教会の武装司祭。この私に嘘をつくだなんて、そんなの、教会に楯突くのと一緒なんだから!」

 ローズマリーは思わず後退りした。ジギタリスは毒々しく笑った。

「ああっ、ほら、動揺した! 動揺したってことはやっぱり知り合いなんじゃない! いいわ、そんなに仲良しなのね。だったらちょうどいいわ。あんたも<トリガー>を釣る餌にしてアゲる。カミツレの馬鹿にばっかりいい仕事させないわよ」

 ジギタリスはそう言うと、懐から歯車を引っ張り出して、長い舌でちろりとなめた。その真っ赤な舌に、どす黒い蜘蛛のタトゥーがあるのをローズマリーは見た。

 真っ黒な歯車が、そこに刻まれている血のように紅い文字をわずかに光らせる。ジギタリス司祭は宣言した。

 

「ほおら、つかまえた――《神器実行(アギト・エルゴ・スム)》!」

 

 ◆◆◆

 

 ■アイアンズ通り

 

 地下道の扉が文字とともに弾けた。

 タイム司教はしかし、油断なく辺りを見回した。

「追手がいないな」

 老人は呟いた。

「しかし、命令術を使えば追跡は容易いはずだ――私の術祓い(フェンズ)くらい、カミツレ君ならいくらでもすり抜けられるだろう。油断はするな」

 地下道から、少年が這い出してきた。

「僕、戻るよ」

 少年は言った。

「道具鞄を取ってこなくちゃ」

「まだそんなことを言っているのか」

 タイム司教はとうとう叱責の様相で言った。

「助祭達が我々を探していよう。術は名前を知らなくてはかけられんから、カミツレ君の命令術に追われているとすれば私だろうが、それでも君が一人で彷徨いていればあっという間に知れ渡るぞ。能力(ちから)が使えるならそれでも良かったのだが――」彼は少年のつるぎを見た。「――名前すら呼べぬようではだめだ。一人にしてはおけない」

「タイムさんは一人で逃げればいいよ」

 少年は言った。

「僕は戻る。貴方は不思議な力だって使えるじゃないか。ひとりで逃げようと思えばそっちのほうが簡単なはずだ。僕なんか置いていったほうが絶対にいい」

「私に旧友の孫を見捨てろとそういうのか?」

 タイム司教は唸るようにいうと、あえてすたすたと十歩ほど歩いてみせた。

「行くぞ。西のアヘン町に向かえば教会も軽々しく手は出せん――」

 

「――“私は凍結する”」

 白い光がとどろいた。

 タイム司教にはかわす暇もなかった。その身体が凍りつき、大きな大きな透明結晶のなかに閉じ込められる。身動きも取れぬ、口もきけぬ、まるで琥珀の中の小虫だった。

「思ったより時間がかかりましたね」

 どこからか、カミツレの声がした。

「西のアヘン町とは! 確かにあそこなら私たちも入れない。しかし、あんな不健康なところに聖職者が立ち入るべきではないでしょうに」

 景色がほどけた。

 何もない場所から、椅子に座ったカミツレが現れた。手にはあの槍を持っている。

「どうです? 私の第27章(vīcēsimus septimus)は? ずいぶん隠れるのがうまくなったでしょう。練習したんですよ」

 カミツレは言った。

「その氷からは逃れられんでしょう。あなたといえどね。ここにあなたの<神器>はないのだから。命令術だけでは神器に勝つことはできない」

 少年は血相を変えて、つるぎを氷にたたきつけた。だが、透き通った結晶体はびくともしなかった。

 タイム司教の瞳だけが動いた。放っておけ。さっさと逃げろ。そう言っているのが聞こえるようだ。

「無駄なことだと思う。私の凍結は多少殴りつけたくらいでは壊せない」

 カミツレは哀れむように言った。

 その足元から白い霜が伸び始めた。少年はたじろいだが、その足が凍てついても、剣を叩きつけるのをやめなかった。

「さあ、渡せ」

 カミツレは言った。

「それは我々が回収する。君には過ぎた力だ。渡せ」

「イヤだ」

 少年は叫んだ。

「これの半分はじいちゃんがくれた歯車だ。それに、じいちゃんは言ったんだ。僕に言ったんだ。他の歯車を探せって。それが僕の使命だって!」

「何だと」

 カミツレは頓狂な声を上げた。無理もない。その意味するところを思えば。

「自分が何を言ってるかわかってるのか。それは教会への宣戦布告だ。紛うことなき異端思想だぞ。<神器(ギア)>は人の手に余る。我々が秩序と平和のために使ってこそなんだ。それがなぜ分からない!」

 カミツレは言った。

「だいたい、君自身はどうなんだ。その力で何をするつもりなんだ? 祖父に言われたというだけのことが、そんなに大事なのか」

「あなたにはわからないさ」

 少年は涙を浮かべながら言った。

「僕とじいちゃんとの約束なんだ。それが無きゃ、僕に意味なんてない。歯車は機械に嵌ってこそじゃないか。これはそのもの約束だ。だから渡さない。絶対に渡さない!」

 

 少年は剣を抱えながら叫んだ。その鋭い刃が、握りしめた手を傷つけるのも気にせず。

「渡したまえ」

 カミツレはつれなく言った。

「すでにそれは実行されてしまった。君の手で渡してもらわなくては困るんだ。今はまだ形だけだが、いずれ現象回転を起こし始めればなにが起きるかわからない。一リーカー四方を吹き飛ばすことになっても何ら不思議ではない。危険だ」

「イヤだ」

 少年は首を振った。

「強情だな!」

 そう、カミツレは天を仰いだ。

 そして振り向いた。

 

「御婦人。なぜここに?」

 そこに現れたのはローズマリーだったのだ。

 彼女は外出用の服装で、地下道に降りていく階段の上にじっと立ちつくしていた。何も言わない。身じろぎもしない。だが、その顔は恐怖と嫌悪に震えている。

「どうかされたのですか。まさか……」カミツレは言った。「……身体が動かない、とか?」

 彼女の表情が肯定していた。カミツレは舌打ちすると、あたりを見渡して怒鳴った。

「ジギタリス司祭! どこだ、ジギタリス司祭! これは悪戯が過ぎるぞ!」

 

「あら、何よそれ。そういう口の利き方、嫌いなんだけど」

 どこからか声がした。少年はあっと通りの上を見上げた。

 家並みの端に、黒い少女がふんわりと腰掛けていたからだ。その手にはきらきらと光るなにかが握られていた。少女ジギタリスは嗜虐的に笑った。

「“私は支配する(hanc obtineō)”」

 それは糸だった。

 少女の両手から、無数の糸がローズマリーに伸びていて、あたりの建物や街灯を経由して、ぴんと張られている。彼女が指先を動かすと、ローズマリーは何も言えぬままくるくると吊られて踊った。

「彼女は一般人のはずだ」

 カミツレは怒った。

「なんてことをするのか。これは問題だぞ。君は教会規則の第三条を忘れたのか? “無辜の民衆を害するなかれ”。理由もないのにこんな真似をしていいと思ってるのか!」

「理由ならあるわ」

 ジギタリスはそういうと、屋上から飛び降りた。

 その背中から太ましい糸が飛び出して、彼女を支えた。まるで蜘蛛のようにゆっくりと、地上へと降下してくるのだった。

「第一条じゃないの。“神器を妄りに使わせておくべからず”。<神器>の回収は私たちの最優先事項よ。そのためにこの女を餌にしてやったんだから。ほら、そこの冴えないおまえ!」

 ジギタリスは少年に向かってさけんだ。

「そのマスターピース、こっちに寄越しなさいよ。あんたの手でやるのよ。さもないとこの女が絞首刑になるわ――自分の手でね」

 ローズマリーの手が動いた。自分の首にその指があてがわれる。

「私の【支配機(オプティネ)】なら、自分を縊らせるくらい、簡単なことなんだから」

「ジギタリス!」

 カミツレは怒鳴った。だが、ジギタリスはどこ吹く風だった。

「何よ。うるさいじゃない。第二条まで破るつもり? “教会に属せしもの、同胞を害するなかれ”。あたしに手を出すっていうのは教会規則への叛逆よ。教皇様に逆らえる気なの?」

 ジギタリスはカミツレへ侮蔑の眼差しを向けると、少年に歩み寄った。

「ほら、あんたの足で歩いて、あんたの手で持ってくるのよ。いいこと? 実行された神器はね、あんたと噛み合ってるの。あんた自身が所有権を放棄しなきゃいけないんだから。ここに来て、私に跪きながら差し出しなさい」

 少年は剣を強く握った。ジギタリスは嬉しそうに笑った。

「何してるのかしら。女が処刑されるわよ。私の靴にキスするのよ。さあ!」

 

 そして、少年は剣を差し出した。

 ジギタリスはあっけにとられた顔でそれを見つめた。

 少年は<神器>を差し出しながら、操られるローズマリーと、そのそばで呆けているジギタリスに向かって、悠々と歩いていった。

 靴底がはがれた。

 その霜の上を歩くたび、足の裏が傷ついて、紅い足跡を残している。それでも、少年は怯まなかった。

「はい。どうぞ」

 ジギタリスは不愉快そうに顔を歪めた。

「何よ。平気そうな顔しちゃってさ。あんた、これが大事じゃないの?」

「大事だよ」

 少年は言った。ジギタリスは尚も言い募った。

「怖くないの? この私が!」

「怖いよ」

 そういう少年の手は、がたがたと小刻みに震えていた。

 

「でも、これを差し出せば、ローズマリーさんを助けてくれるんだろう?」

 少年は穏やかに言った。足の痛みを堪えているのだろう。突っ張るように裸足の骨が浮き上がる。

「僕のせいで巻き込んでしまったんだから。だから、たとえじいちゃんの形見でも差し出さなきゃいけないと思うんだ。それに、これは君たちが欲しがっているものみたいだから」

「何よ。そんなものいらないってわけ? 噛み合いたくても噛み合えない人間が世の中どれだけいると思ってんのよ!」

「いらないわけないだろう!」

 少年は叫んだ。その目が泣きそうに震えていた。

「これはじいちゃんとの約束なんだ。いらないわけないじゃないか。でも、それで人が助けられるなら僕は喜んで差し出すさ。だからこれを持っていけ。それで、二度と、ローズマリーさんにも」少年はぐるっと氷のほうを指した。「タイムさんにも、僕にも手を出すな。約束しろ」

 その目に気圧されたように、ジギタリス司祭は仰け反った。

 少年は剣を差し出したまま、膝をついた。腕を持ち上げたままひざまずき、ジギタリスの靴に向かって顔を近づける。

 だが、ジギタリスのその泥のような瞳に、怒りが灯った。

「何よそれ。そういうのムカつくんだけど」

 ジギタリスはそう言うと、少年の顔を鼻血が出るくらい蹴り飛ばした。

「いい人気取りなの? そんなふうに何でもない感じで従っちゃってさ。つまんないのよ。決めた、もういいわ。私を楽しませない男なんてどうでもいい。ここで死んじゃえ!」

「ジギタリス!」 

 カミツレが糸に阻まれながらも叫んだ。

「異端審問もなしにトリガーの処刑などいいわけがないだろう! やめるんだ!」

「私に命令しないで。命令術もよ。何かしたとたんこの女の首を掻っ切ってやる。簡単よ、ちょっときゅっと引っ張るだけなんだから」

 糸が動く。鋼鉄の街灯がすっぱりと切れて、黒い切り口をさらしながら倒れた。

「殺してから回収してあげるわ。あんたの神器も。あんたの死体も!」

 

 少年は信じられない、という顔になってジギタリスを睨みつけた。

「嘘つき」

 少年は言った。

「これを差し出せば見逃すって、そういったくせに――」

 りいん、と何かが鳴った。

 ローズマリーが突然、何かに押されたようにつんのめった。彼女はよろよろとへたり込み、そして自分の身体を不思議そうに見下ろした。

 ジギタリスはぽかんと口を開けていた。

 糸が残らず断ち切れていた。まるで裁ち鋏を勢いよく閉じたみたいに、すっぱりと。

「嘘つきだ」

 少年は怒りの形相を浮かべながらジギタリスに歩み寄った。

 

「“私は――私は、支配――”」

 ジギタリスは繰り返したが、ことばが出てこなかった。つっかえてしまって言い切れないのだ。糸は動いてくれなかった。

 力が使えない。<神器(ギア)>が壊れてしまって、機能不全に陥っている。

「調子に乗るんじゃないわよ」

 ジギタリスはしかし、使い物にならぬ糸を投げ棄てると、腰から銀色のナイフを抜いた。カミツレは天を仰いだ。

「なんてことだ。刃のあるものを使うなんて。君はそれでも司祭か!」

「黙りなさいよ。このトリガーは異端者なんだから、異端者をとっちめるのには何をしたっていいのよ!」

 ジギタリスは喚き、ローズマリーの襟を引っ張って引き寄せた。その喉元にナイフをあてがう。

「さあ、今度こそ絶望しなさいったら! この女の血が見たくなかったら、おまえの神器を――」

 

 少年は剣を振り抜いた。

 それはローズマリーも、ジギタリスも斬り裂いて、上段から石畳すれすれまで振り下ろされた。あかがね色の刃が鈍くきらめく。

 ローズマリーは自分の胸元を見た。そこには傷一つなかった。

 ジギタリスは自分の手足を確かめた。そこにはやはり、傷一つなかった。彼女はせせら笑いを浮かべて少年にナイフを向けた。

 

 そして、ジギタリスは膝から崩れ落ちた。

 カミツレはなにが起きたのか分からなかった。少年が二人を斬ったように見えたのに、誰も血を流していない。だが、あのジギタリスが昏倒しているというのはそれだけでただ事ではない。

 少年が剣を持ち上げ、カミツレの方を見た。

 彼は躊躇わなかった。

「《神器交替(ウェルト・エルゴ・スム)》――“私は疾走する(hĪc trepidō)”」

 カミツレの姿が掻き消えたかと思うと、ジギタリスもいなくなっていた。少年が振り下ろした剣はなにひとつ捕らえられずに空を切っていた。

 カミツレは少し先の大路で息を切らしていた。腕のなかにはぐったりとしているジギタリスがいる。あの槍はなくなっていた。そのかわりであるかのように、カミツレの足元には、似合わない、いかめしげなブーツが黒光りしていた。

「何をした」

 カミツレは叫んだ。

「何をしたと聞いてる。これが君の神器の“能”なのか」  

 少年は黙っていた。その手がみたび剣を振り上げたのを見て、カミツレは息を呑んだ。

 

 次の瞬間、カミツレはいなくなっていた。

 

 氷がしゅうしゅうと音を立てて消え、白い煙に変わって薄れていく。いかにしてか神器で撤退したのだろう。

 少年は剣を下ろすと、ローズマリーを振り返った。

「無事かい? お姉さん」

「なんなのよ、これ」

 ローズマリーはやや取り乱した様子で言った。

「いったい何なのよ、これは!」

「大変すまないと思っている、一般人の御婦人(レディ)

 氷から解放されたタイム司教が、咳き込みながらそういった。

「ジギタリス司祭は苛烈に過ぎる手段で以前から問題視されていた。だが、彼女に今後はなかろう。君のおかげ、その神器のおかげで」

「僕が?」

 少年は肩をすくめた。

「そうかもしれないね」

「君は本当は、分かっていたんじゃないのか?」

 タイム司教は眼鏡の奥で目を細めた。

「神器の使い方も、その“能”も。接続者(トリガー)になったばかりのものに、あんなふうに力が使えるわけはない」

「僕はじいちゃんが教えてくれたことしか知らない」

 少年は言った。

「“歯車を集めろ。集めれば答えが分かる。歯車には力がある”――<トリガー>とか<神器(ギア)>っていうのは初めて聞いたよ。でも、この剣は見たことがあるんだ。じいちゃんが使っていたのを」

「パーシーが?」

 タイム司教は顎を撫でた。

「私の記憶とは違うな。あいつは<トリガー>になれなかったんだ。だから――」そこで司教は言葉を切った。「――いや、孫息子に聞かせる話じゃない。とにかく、その剣をあいつが使えたはずはない」

 そう言って、タイム司教は首を振った。

「すみませんね、御婦人。貴女の前ですべき話ではなかった」

「本当だわ」

 ローズマリーは街灯の残骸に腰掛けると、ため息をついた。お気に入りのスカーフが破れてしまっている。

「で、君はこれからどうするの?」

 ローズマリーは尋ねた。

「教会は怖いわよ。彼らと揉めてこの街にいられなくなった人間は沢山いるわ。もし異端認定されれば磔刑にされる」

「僕は出ていかないよ」

 少年は言った。

「僕にはやることがあるんだ。じいちゃんと約束したからね。歯車を集めるって」

「集めてどうする?」

 タイム司教は言った。

「歯車集めというのは間違いなく歯車教会と敵対する道だ。そんな危険を冒してまで、君は何がしたいのかね?」

 少年は歯車を愛おしげに撫でた。

 

「じいちゃんを生き返らせるんだ」

 少年はそう、頬を上気させて言った。

「じいちゃんと約束したんだよ。歯車を全部集めれば生き返るって。だから、僕が生き返らせてあげるってさ」

 タイム司教は無表情で唇をなめた。

「死者復活か」

 小さく言ったその声には、諌めるような響きが含まれていた。

「それは禁忌だ。どれほどの力を集めてもできるかどうか――」彼はそこで首を振った。少年が苛立つような顔を見せたからだ。「――いや、違う。そういう意味ではない。死者復活を信じていないというのではないんだ。むしろ信じているからこそ言っている。命令術による死者復活はパーシーが人生をかけて研究していた命題だった」

「死んだ人を蘇らせるだなんて!」

 ローズマリーは言った。

「いったいどうすればできるのよ? そんなことが」

「私は知らん。だが、パーシーは成功したと聞いている」

 タイム司教は言った。

「成功したから、だからやつは教会を追われたんだ。そんな術は異端だと見なされたからな」

 老人は遠い目をして、眼鏡を直した。

「あいつほどの生体研究の第一人者は他にいなかった。できても不思議はない。あいつが歯車を集めろと言ったのならおそらく正しいのだろう。だが、だからこそ勧めない。結果として、あいつは追放されてしまったのだから」

「僕は出ていかないよ」

 少年は繰り返した。タイム司教はコートの襟に肩をすくめた。

「止めはしない。好きにすればいいさ」

「あたしは教会の司祭様たちの術のことはよく知らないけど」

 ローズマリーが口を挟んだ。

「でも、人間が生活をしていかなくちゃいけないってことは知ってるわ。君、これからこの街でどうやって生活していくつもり?」

「時計職人だからね」

 少年は胸を張った。

「時計を作って、直すよ。この街には機械がたくさんあることだし」

「おばかさん!」

 ローズマリーは首を振った。

「店をやろうっていうなら、まずは大家を探さなくっちゃならないわ。だけどね、ろくな頭金もなしに店を出させてくれる大家なんていないのよ。住むところがなくちゃ“連”にも入れないわ。職人連に入らずに商売をしたら、君の店、闇市になっちゃうわよ。それに部品や職人道具はどうするの? 身元が不確かな人間には仕入れも取引してくれないんだから」

 少年は困った顔で頭を掻いた。ローズマリーはため息をついた。

「仕方ないんだから。あたしのところに来なさい」

 ローズマリーはそう言って、少年を見つめた。

 彼は喜びでも驚きでもなく、戸惑いの表情を浮かべていた。意味がわからないという顔だった。

「夫の部屋だったところが丁度空いてるの。あそこは建屋ごと借りてるから、家賃はどっちにしろ変わらないわ。時計職人の仕事だって店の隅を貸してあげる。住処が決まれば、地区の時計師連にも顔を出せるでしょう。飲食店の連ならあたしも伝手があるから、そこから紹介してあげられるし」

「どうして?」

 少年は尋ねた。ローズマリーは笑った。

「これも何かの縁よ。最近は人が人に親切にするってことがなおざりにされてる時代だけどね。この冷たい機械の街じゃ人情ってものがなおさら大事なの。それに、丁度給仕役がひとり欲しかったのよ。店が流行らないのは、あたしが料理に集中していないせいもあると思うから」

「危険だ」

 タイム司教が口を挟んだ。

「彼は教会に睨まれている。トリガーは一人や二人ではない。今日のように巻き込まれたらどうする?」

「あら。そのときは助けてくれるでしょう? さっきみたいにね」

 ローズマリーはウインクした。少年は喜び方を忘れてしまったみたいにぎこちない顔で突っ立っていた。

「笑いなさいよ」

 ローズマリーは脅すみたいに言った。

 少年はやや不自然に笑った。その笑顔が、次第に力みを失って柔らかなものになっていった。

 

「人と人との出会いは機械と同じだ」

 タイム司教は言った。

「運命の歯車は常に廻り続けている。それが噛み合ってしまったのなら、止めることはすまい。だが、これを渡しておこう」

 タイム司教はそう言うと、懐から銀色の笛を取り出し、ローズマリーに手渡した。

「何かあればそれを吹いて私の名を呼べ。できる限り駆けつけよう。どこにいても、その笛なら我が耳に届く。私は命令術で目標をつけられているから、君たちの近くにいることはできないが――」

 その笛にびっしりと小さな文字がこびりついているのをみて、ローズマリーは頷いた。

「吹かずに済むことを祈るわ」

「祈る。歯車(ギア)にか? まったく、敬虔なことだな」

 タイム司教は肩をすくめると、手を振って、路地を歩いていった。

「では、いつかまた会おう。パーシーの孫息子、そして勇敢な一般人の御婦人(レディ)よ。歯車の導きがあらんことを」

 その後ろ姿は不思議と、一歩一歩の大きさにそぐわぬ速さで、あっという間に小さくなっていった。とうとう見えなくなってしまったそれから目を離して、ローズマリーは立ち上がった。

 

「そういえば、まだ聞いてなかったわね」

 ローズマリーは言った。

「君の名前は?」

 少年は、あっ、という顔をして、慌てて頭を下げた。

 

「僕は――ヘイズル。よろしくね、お姉さん」

 

 Episode End⚙⚙

 

 ◆   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆

 

 ■歯車教会

 

 大聖堂はひどく明るかった。

 いくつもの電灯がステンド・グラスを照らしている。機械讃美歌(チャーチ・ロック)が切れのいいビートを奏でる中、カミツレは一人の男の前にいた。

「やあ、カミツレ司祭。調子はどう?」

 眼鏡の男は軽薄に笑った。その首には歯車が吊り下がっている。細面で、ややうねった髪は灰の混じった黒色だった。

 カミツレは跪きながら言った。

「教皇猊下におかれましては、ますますの――」

「ああ、ああ、いい。いいよ、そういうのは。君は本当に真面目だねえ。でも僕は人に跪かれると気まずいからね。ほら、立って立って」

 教皇はカミツレの肩を叩くと、広すぎる大聖堂には不釣り合いな小机に置かれたポットへ向かってぶつぶつ言った。

「“燃焼せよ。歯車教典第7章を以て――”。沸いたかな」

 とたんに湯気を立て始めるティーポットを持ち上げ、教皇はカップにその中の液体を注いだ。

「ケントリストン土産だよ。いや、ひどい田舎だったけどお茶だけはイケるね。君もよかったらほら、呑んで」

 カミツレは頭を下げ、カップを取った。

「いただきます」

「ああ。うん、楽にしてね」

 教皇は自分も茶をすすりながら紙箱を開けた。

「教会支部視察なんて退屈だったよ。でもこれも仕事だからね。せめてお土産がなきゃやってられないよね。茶菓子も買ったんだ。甘いものは?」

「いえ、私は――」

「そう。残念だな。僕は貰うよ。やはりバター・クッキーだね、紅茶には」

 

 教皇は聖堂の椅子に腰掛けると、カミツレを振り向いて言った。

「で、マスターピースは回収できたの?」

 カミツレは息を呑んだ。

「いえ、それは――」 

「マスターピースの重要性は理解してるよね。あれは普通の<神器>とは違う。能力的な話じゃないよ。僕らの組織としての目的に必要なピースなんだからね」

 教皇は眼鏡の奥で鋭い眼差しを光らせていた。

「本来ならトリガーなんかと接続させることすら望ましくない。だから命令術で鈴もつけていた。タイムくんが下手人だということはすぐに分かった。君は一度、彼を逮捕したと聞いている。で、なぜ、そこから取り逃したのかな? 理由があるはずだよね」

「すみません」

 カミツレは引きつった顔で頭を下げた。教皇は首を振っていた。

「ああ、違う違う。僕はね、君を責めてるんじゃない。理由を聞いてるんだ。状況と経緯を教えて。そう固くならずにさ」

 教皇は肩をすくめた。

「どうした? お茶を飲みなよ。カミツレくん」

「マスターピースが――」  

 カミツレは言った。

「マスターピースがもう一個現れまして――」

「それは理由にならないな。マスターピースが他にも現れたのならそれも回収するだけだ。未接続だったと聞いてるよ。二重接続者(デュアル・トリガー)の一人くらい簡単に制圧できるだろう。君なら」

「ジギタリス司祭の暴走がありまして――」

「彼女の越権行為について責任は追及する。が、あれはあれで優秀な三重接続者(トリオ・トリガー)だ。“支配”の力は相当強力だし、戦力になりこそすれ、足を引っ張る要因にはならないと思うけどね」

 教皇は言った。 

「昏睡状態だそうだね、彼女」

 カミツレは頷いた。ジギタリスはあれからずっと眠っていた。神器も修復されていない。魂と繋がっている限り、接続者の精神力を使ってもとに戻るはずなのに。

「命令術が使える医師に調べさせました。魂を切られています」

 カミツレは言った。

「魂が二つに裂かれている。目覚めるかどうか、目覚めても精神と人格への影響は未知数です。再び神器と噛み合うことができるかどうかも――」

「例の、野良のトリガーの仕業かい?」

 教皇は訊いた。

「相当強い“能”があるようだね。魂を切り裂く力――というより、報告書を読んだけど、“形のないものを切る力”というべきか。支配の糸、神器の具象体まで切っているということはね。実行された神器の形はあくまでもまやかし、具現化された器にすぎない」

 教皇は笑った。

「ほら、君もさあ、わかってるじゃないか。原因は敵トリガーの能力特性だ。ジギタリスの無力化を受けて、未知の力を警戒したので一時撤退。間違ってはいない判断だよ。ね、分かってるんだから。最初からちゃんと言わなきゃ。君はできる人なんだから」

 教皇はそう言うと、首をひねった。

「どうしようかね。トリガーが未熟なうちに取り上げるべきだろうね。とりあえず君に任せるから、司祭の中から適当に何人か選んで逮捕して。コルツフット大司教には話を通しておくから」

 教皇は続けて言った。

「ああ、もちろんタイム元司教は確実に始末してね。彼、知りすぎてるから」

「知りすぎてる、とは」

 カミツレは勇気を出して言った。

 だが教皇は何も言わなかった。かわりに、彼は旅行鞄の中からまっすぐな長方形の板を取り出した。複雑な幾何学模様の切れ込みが縦横無尽に入っている。

「お土産」

 それは一枚のパズルだった。

「列車のなかで頑張ってみたんだけど完成しなかったんだ。君にあげるよ。絵柄が分かったら教えてくれる? ストーリーになってるっていう話なんだけど、僕はね、パズルがどうも苦手でね」

 教皇はそう言うと、胸元の歯車をもてあそんだ。

 

「パズルってね、一枚のピースだけ見ていても意味がわからないだろう? ピースを噛み合わせて、つなげて、揃えないとどうにも見えてこないものがある。でもね、ピースひとつで満足できるならそれは幸せだと思うんだよ」

 

 教皇はそう言うと、またカミツレの肩をばんばん叩いた。

「いや、ごめんね、呼び出して! 疲れたよね、今日は。ゆっくり休むといいよ、僕も旅疲れを癒すから。明日からまた頑張ってね」

 カミツレはうなずき、失礼します、と口早に言って、大聖堂をあとにした。

 いつお目にかかってもぞっとしてしまう。あのフランクさの中に、強い力があるのを感じてしまうからだろう。

 カミツレは手を振っている教皇をちらっと振り向いて、その胸元のものを盗み見た。金色の歯車を。

 

 教皇の<神器>は7つの歯車が“噛み合った”ものだ。

 カミツレなど遥かに超える七重接続者(セプト・トリガー)。限界とされる六重を突破した数少ない例なのだ。

 神学ではことに<超級(スペリオル)>と呼ばれている。人界を超えた力の持ち主なのだから。

 

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