或る英雄の終焉   作:ポポの枝毛

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或る英雄の終焉

 拓けた空間だった。

 

 転移の光が薄れゆくなか、突入した吸血鬼たちは警戒を解かぬままあたりを見回した。

 予測されていたバケモノの襲撃どころか、その影すらも見当たらない。ただ白い棘のような構造物が幾重にも絡み合った平坦な広場と、空を覆う灼けた天蓋が広がっている。

 

 静寂の中、後方にいたリーズが呟く。

 

「これが融和の月の内部……」

「封印の塔だった頃と違って静かなものだな。リーズ、私から離れるなよ」

 

 妹を背中に庇うジョゼを後目に、ノアは注意深く周囲を見渡す。

 

 のし掛かる、息苦しさを覚えるほどの重圧。その発生源を辿って彷徨う目が、ある一点に止まって見開かれた。

 

「……おい。あれは……」

 

 ノアの声につられ、全員の視線が封印殻へと集まった。

 

 広場の最奥、艶やかな虹色に輝く巨大な封印殻の前。幾筋もの棘が絡み合い、玉座のような形を成している。そこに一人の男が座っていた。

 目深に被った襤褸(ぼろ)布(きれ)のようなフードによって風貌はほとんど伺えない。だが、見間違えるはずなどなかった。あれは――

 

「――ルゥは目覚めを望んでいない」

 

 その声が放たれた瞬間、はっきりと動揺が広がった。

 冷え切り掠れた声だ。だがそれは、自分たちにとって大切な人の声とひどく似通っていた。百年経(た)とうとも、忘れることなどありはしない。

 

「帰れ。封印を解かねばならないほど、情勢は逼迫していないはずだ」

 

 男の頭が僅かに動き、フードの下から覗いた冷たい眼光がこちらを射抜く。男の瞳と全く同じ色を、ここにいる誰もが知っていた。

 ヴァレンティンが一歩前に出て、ほかの者の動揺を片手を上げて制す。

 

「……君は、なかったものとされた未来における彼かい?」

「そうだ。この月の管理者に招かれて、封印殻の錠としてここにある」

 

 男の返答にヴァレンティンは俯(うつむ)いてグラスを直し、ラヴィニアは目を伏せ、ゼノンは首を横に振った。

 困惑を隠せないほかの面々に、ラヴィニアが補足する。

 

「肉体ごと過去の世界へ移動するルゥの術式と異なり、ゼノンの術式は心停止した際にその時点までの記憶を複製し、過去の時代の対象に上書きするものです。複製元の肉体は元の時代に残置され、そして大事変の著しい改変によってその未来へ向かう道筋は閉ざされてしまった。……あなたは、時空の狭間に消えた未来から現出した残滓なのでしょう」

「ああ。当人や本物と呼べるのは、ルゥのために心臓を捧げたあいつだけだ。俺は単なる亡霊だよ」

 

 男はつまらなそうに付け足した。

 

「墓守としてもう一度言う。帰れ。手(た)向(む)ける花があるなら預かろう」

「生憎だが、帰る訳にはいかない。封印殻の中にいる二人を救うために来たんだ」

「……二人だと? 何を言って……」

 

 男の声に拒絶以外の感情が乗った。困惑した様子の男に、ヴァレンティンは畳みかける。

 

「新しいリンネ封印の理論が確立して、ルゥを目覚めさせる目(め)処(ど)がついたんだ。そして同時にリンネのエネルギーを利用して君を……封印の際に命を落とした彼を蘇生させるための技術をこの百年で打ち立てた。その処置のために、我々は今日ここに来た」

 

 男は呆気にとられたように開いていた口を、ゆっくりと引き結んだ。

 

「……蘇生は必要ない。あいつは納得して逝った」

「あの日、あの場に居合わせた中に、彼の犠牲とルゥの献身に納得できた者などいない。絶対に取り返すと決意して、皆ここまで来たんだ」

「ふざけたことを。もうこれ以上、あいつに罪を償わせる必要はないだろう」

「罪なんて、君こそ何を言って……」

 

 反論を遮るように、男は手を前方へかざした。手のひらに金の光が集い、杼(シャトル)に似た形へと変わってゆく。

 

「あいつに手を出すつもりなら、なおさら通すわけにはいかない。……お前たちも知るといいさ。あいつの進んできた道を」

 

 言葉と共に光が弾ける。閃光は意識ごと視界を白く塗(ぬ)り潰(つぶ)した。

 

 

◆

 

 

 彼(・)を彼たらしめているものは小さな約束だった。

 

 

『私を、信じてください』

 

 

 そう手を差し出す少女の瞳は、言葉とは裏腹に不安に揺れていた。

 

 何がどうなっているのか、何一つ把握できていない状態での申し出だった。一度死に、少女によって救われた。そんな説明を受けたところでにわかには信じがたいとしか言いようがなかった。

 

 それでも、目の前で必死に不安を押し殺している少女を放っておくことはできなかった。

 

 この世界で己に守れるものなど一握りにさえ満たない。だからこそ、せめて目の前にあるものを守りきるために全力を尽くす。その覚悟で以(もっ)て彼は戦い続けてきた。記憶が欠けようとその決意は魂に深く刻まれている。

 ゆえに彼は少女の手を取った。使命も、世界の命運も知らぬまま、この子を守りたいと願ったのだ。

 

 それがすべてのはじまりだった。

 

 

『貴方(あなた)には……人の世を救って頂きます』

 

 

 少女の細い肩にのし掛かる使命はあまりに重く、だが共に背負う者が現れた安堵は確かに彼女にかかる重圧を減らしていたようだった。同時に、世界が滅ぶ光景を少女の隣で目の当たりにしたからこそ、彼の決意はより深いものになった。

 少女が吸血鬼であることは彼の決意に大した影響をもたらさなかった。吸血鬼が絶対強者であったのは遠い過去のことだ。今の世界において、彼らは強靭な肉体とバケモノと戦う超常の力を持ち合わせた戦士であると同時に、渇望の月のせいで野外で活動することもままならない脆弱な存在でもある。吸血鬼の力を借りることも、逆に吸血鬼に力を貸すことも、彼にとっては当たり前の行為だった。

 

 

『マグメルの護衛を頼む。私の友人を、支えてあげてくれ』

 

 

 辿り着いた過去で、生まれてはじめて遮るもののない青空を見た。陽の光の温かさを知った。

 その下で伸びやかに暮らす人々に、生きてほしいと願った。

 きっかけはそんなささやかなものだ。彼らの夢を、決意を、願いを、このまま途絶えさせたくない。目の前にある以上、そして自分に救うための手段がある以上、彼らを守りたかった。

 

 

『自分の責任だ』

 

 

 過去を否定し、変える選択を実際に行ったのは彼だ。自身の願いを口にしながらも彼の判断に従うと委ねてくれた少女に責はない。ただでさえ重責に苦しむ少女に、更に負担をかけるわけにはいかない。

 

 

 だから、すべては彼の自業自得とも言えた。

 

 

『ここに辿り着くまでに必要だったもの。そのすべてを繋いでくれたのは、お前だ』

 過去への干渉は現代の環境に大きな影響を及ぼした。だが彼を愛してくれた人を孤独から救うことはできなかった。

 

 

『俺はここで、仲間たちの未来を守り続ける。お前が安心して帰ってこれるように』

 素性の知れぬ彼を受け入れてくれた大切な仲間たちの末路を変えることはできず、残された最後の一人を手に掛けたのは彼だった。

 

 

『貴方すごく強いのね。戦うのは好きじゃないけれど、貴方の背中は好きよ』

 親身になってくれた恩人は長い時の中で重すぎる罪の意識に壊れ、死によって解放するよりなかった。

 

 

 英雄を――友人を討つ度、彼の心に消えない傷が刻まれてゆく。

 使命だから。世界を救うためにはそうするほかにない。彼らとて、解放を望んでいた。そう心を騙し続けようと、隠した傷はふとした瞬間に彼を鋭く苛(さいな)む。彼らと過ごした日々はかけがえのない温かなものだったがゆえに、その傷はなおさら痛んだ。

 

 

『貴方、その手でもう一度、英雄を殺すことになるかもしれないのよ?』

『せいぜい命を繋ぐことだ……』

 

 

 共に戦う仲間たちは頼もしく、彼を心から案じてくれた。

 だが彼らに寄りかかることはできなかった。過去改変の内容を知ることを禁じられている彼らに、胸の内を明かすわけにはいかない。

 

 すべては自分の責任だ。

 

 そう自身に言い聞かせて、選択をし続けた。

 

 

 ――ライルは家族と、団の皆と共にあることを願っていたのに。結局彼を長い孤独から解放できなかった。

 

 ――ホリーが目指していた夢は、こんな形での救いじゃなかったはずだ。彼女自身の手でもっとたくさんの命を救えたはずなんだ。

 

 ――ここを俺の帰る場所だと残してくれたのに。あなたはこんな俺を望んでくれたのに。

 

 

 過去へ遡(さかのぼ)り、友人たちの生涯がせめて満たされたものであるように手を尽くした。たとえもう一度彼らを討つことになったとしても、それでも手を伸ばさずにはいられなかった。

 

 何もかもがエゴだ。今の世界の有り様は自分のエゴに歪んでいる。ゆえに諦めることは決して許されない。諦めればその瞬間に、世界のためと嘯(うそぶ)きながら支払った代償の重圧が何もかもを押し潰すだろう。

 

 身を抉るようなこの痛苦の先に、それでも友人たちが望んでいた未来があると信じた。

 

 

『あいつのこと、頼むな』

 

 

 何の根拠もないまま、盲目に信じていたのだ。

 

 

 

 結局、守った気になっていただけだった。

 救われていたのは、守られていたのは彼の方だった。

 それに気づいたのは、渇望の月にただ独り取り残された時だった。

 

 

 吸血鬼たちがいなくなった世界で、彼はひたすらに戦い続けた。

 後悔しても時は戻らない。戻るための術は少女の命と共に永久に喪(うしな)われた。

 人の世を切り開いた英雄などと呼ばれたところで、彼にできたのは戦うことだけだ。そしてどれほど戦い続けてもバケモノの脅威は減らない。

 彼には滅びを遅らせることしかできなかった。

 何もかもが手遅れだった。

 

 すべて、彼の責任だった。

 

 そうして彼は死を迎えた。

 後悔と自身への失望に溺れるように、彼の意識は暗闇に溶けて消えた。

 

 

 

 だからこそ。

 贖罪の機会があることが、どれほど彼の心を救っただろう。

 

 

『私はこの結末に納得していないのでね』

 

 

 過去の自分を塗り潰してでも。現代で結んだ縁すべてを捨てることになったとしても。吸血鬼のいなくなった後の世界で共に戦った者たちの存在を、生きた時代ごと否定することになっても。

 この決断の何もかもがエゴに過ぎないとしても。

 

 少女に生きていてほしかった。

 真に報われるべきは重責を背負いながら自分を守り続けてくれた少女だ。自らのエゴのために大切な人々を何度も手に掛けた自分ではない。

 少女が生きる未来のために、何もかもを擲(なげう)とう。あの日、少女が自らの全てと引き換えに彼を守り抜いたように。

 

 

『せめて、あなただけでも――!』

 

 

 一人にしないと約束した。

 彼女を今度こそ守ると決意した。

 逡巡は一瞬だった。

 

 

『ルゥ』

『あの日、貰った命を……返すよ』

 

 

 心配はいらない。仲間たちがきっと、いつの日か少女を封印から解き放ってくれる。皆が少女を未来へ連れて行ってくれる。そこに自分がいなくとも、少女はもう、一人にはならない。約束の真意から目を逸らして、そう自分を誤魔化した。

 

 

 ――ああ。ようやく、これで。君を。

 ――先に逝くことを許してくれ。

 

 

 そうして視界は再び暗闇に閉ざされ、やがて灰色に消える。

 全身に満ちた安堵も、約束を破った罪悪感も、灰の中で曖昧に溶けて消えていった。

 

 

◆

 

 

「――ッ!」

 

 意識が引き戻される。互いの顔を見合わせる中、静かな声が場に響いた。

 

「頼む。あいつを休ませてやってくれ」

 

 ほどけてゆく光を握り締め、男は乾いた唇を開く。

 

「あいつは命で贖(あがな)って、ようやく安らかに眠れたんだ。もうこれ以上、罰を与えないでくれ」

 

 誰もが言葉を失っていた。

 記憶の残滓の中で見た彼の足跡の過酷さに飲まれていた。

 この場に集う吸血鬼たちにとって、彼は頼りになる戦友であり、信頼の置ける友であり、誰よりも救いたかった存在だ。彼のためならばどれほどの対価も払ってみせる。その覚悟を抱いてここまで来た。

 

 だが。その彼が、生きることを望んでいないのなら。

 

「……ふざけるなよ」

 

 怒りに満ちた声が沈黙を切り裂いた。

 ノアは拳を握りしめ、男の顔を鋭い目で見つめる。

 

「お前の負った罪なんかねえし、生きることは罰でもねえ。お前自身の選択を侮辱するな」

 

 言葉は激情に震えていた。ノアは深く息を吐いて肺と感情の熱を冷ます。

 

「お前、さっきの記憶の中で言ってたよな。あの時俺を助けた理由は死なせたくなかったからだって。俺たちだって同じなんだよ。お前を死なせたくなかった。だからこうして、ここに来た」

 

 彼の介入がなければ、ノアはフランツと相討ちになる定めだった。友の心を救うことも、その遺志を知ることもなく終わっていたのだ。

 彼に救われて、その後大事変により親友を失った。垣間見た記憶ではあの時代の自身が経験した百年の孤独を真に理解することは難しい。だがそれでも、あの時代のノアは再会した彼に感謝していた。そして何よりも、親友のことを託せるほどに信頼していたのだ。

 その想いは、決して否定させない。

 

「今度は俺たちの番だ。果たせなかった俺たちの分まで、お前を、お前らを未来に連れて行く!」

 

 力強い声は果たして彼に届いただろうか。

 男の首が傾ぐ。

 

「ボロボロになった心で生き続けることに、何の救いがあると言うんだ」

 

 その言葉にジョゼが前に出た。男の視線を真正面から受け止めて、ジョゼは顎を軽く引き、口を開く。

 

「私たちが救いになる。傲慢でも、思い上がりだとしてもだ。寄り添い、手を繋ぎ続ける。お前が私たちに何度もそうしてくれたように。お前に送り出されていった私たちが、お前の手の温かさに救われていたように」

 

 守るべき者たちの命を自らの力で奪ってしまった果ての己も、彼の助力によって守りきった果ての己も、彼の未来の幸いを祈っていた。自分の選択が彼をどれほど傷つけるか、理解していただろう。それでも平和になった世界で、いつかはその傷も癒えてくれる。そう信じて、彼の手を受け入れた。

 その想いは叶わなかったのだろう。垣間見えた彼の記憶だけでも、未来に幸せと救いがあったなんて信じることはできない。なかったことになった時代におけるジョゼの選択は、彼を傷つけるだけに終わってしまったのかも知れない。

 それでも。彼の幸いを、彼の未来を、諦めることなどできるものか。その想いは、いついかなる時代のジョゼであろうと等しく抱いたものだろうから。

 

 ジョゼの傍らにそっとリーズが並んだ。笑いかけてくれる妹に頷き返し、再び彼へと目を向けた。

 

「側にいるだけで強くなれる。一人ではできなかったことも果たせる。きっと、うまくいく。……その気持ちを私たちに教えてくれたのは、ほかでもないお前だ。そうだろう?」

 

 願わくば、あなたと共に生きる未来を。

 

 唇を引き結び、そして笑みへと変えてみせる。視線の先、彼の左手には金の指輪があった。たとえ彼が拒絶を口にしていても、それは何よりも雄弁にジョゼへ想いを語りかけてくれる。

 

 男は首を横に振り、浅く息を吐いた。

 

「……あいつが再びの死を願っても、お前たちは無理に生かし続けるのか?」

「そんなことをもう思わせないために、俺たちはいるんだ。消えても構わないなんて思わなくていいように、今度は俺たちがお前を守る。ここで生きていてもいいと思えるように、言葉と行動を尽くす。それが俺たちにできる恩返しなんだ」

 

 ライルは声を張り上げた。隣にいたクレイグが、押し出すようにライルの背を叩く。その手に込められた想いと、ここにいない旅団の仲間たちの想いも背負って、男をしかと見据える。

 

 自分一人では旅団を守りきることはできなかった。家族同然の仲間を奪われた自身の果ての姿は、ライルに衝撃と同じだけの納得を与えていた。過去に囚われ、失った者の似姿に縋(すが)る。現実から目を背けた哀れで醜いバケモノは、確かにかつての時代のライルが望んだ形なのだろう。そう分かっているからこそ、今のライルにはあの姿の自分が心底情けなく腹立たしい。外形の有り様がではない。僅かに正気を取り戻した後も過去と失った仲間ばかりを見つめて、目の前にいる最後の仲間が今にも泣きそうな顔をしていたことに気付かなかったことがだ。

 使命のためならばそれで終わりにしてしまえばよかっただろうに、彼は過去を変えてまでライルとクレイグに力を貸してくれた。二度、仲間を手に掛けることになったとしても、団の皆を守り、旅路が満ち足りたものであるように手を尽くしてくれた。その彼の決意はここにいるライルにも繋がっている。彼が繋いだ仲間たちと己の意志を、今ここで届かせてみせる。

 

「『我ら、一振りの刃にて困難を切り拓き、遥かな旅路を共に往く者なり』。どんな困難であっても、お前と俺たちなら乗り越えていける。……その誓いの証は、お前の手元にもあるはずだ」

 

 男は目を伏せ、服の上から懐を押さえた。ライルにはそれだけで充分な答えだった。

 

「……、……ルゥの目覚めも絡む以上、あいつはお前たちの提案を拒まないだろう。だが、それだけだ。あいつは世界を救った代償に、自分の人生におけるあらゆる希望を捨てた。あいつはもう、自身の幸福を願うことができない。それでもなお、お前たちはあいつを目覚めさせようと言うのか」

「あなたが自分自身の幸福を願えないなら、私たちが代わりに願い続けるわ。希望を捨ててしまったというなら、私たちが拾い上げて何度だってあなたに渡す。自分が傷つくことも厭(いと)わず、私たちを何度も救い上げてくれたあなたのために」

 

 金細工を繊細に鳴らしながら、ホリーはまっすぐに男を見つめた。

 

 もし、彼がいなかったら。自分が捨ててしまった父の想いが捨て置かれたままだったら。彼の記憶の中で目の当たりにした自分のなれの果てはあまりにも不(ふ)甲(が)斐(い)ないものだ。同時にあの姿は紙一重の差で有り得た未来なのだと、自分で選んだ末の結果なのだとホリーに突きつけてもいた。

 すべてが終わってしまうその前に、母の祈りを、父の願いを、彼はホリーに届けてくれた。彼の行動が変えたのはホリーの意識と境遇だけではない。父が復帰して、診療所も閉鎖されることなく、この百年ずっと人々を癒やしてきた。怪我や病を癒やした人々はそれぞれの生活に戻り、それぞれの形で人々の営みを支え、互いに助け合って年月を重ねている。それはきっと、世界をよい方へ進めてくれた。

 

 みんなを救いたい。子供の頃に抱いた果てしない夢が今もまだ続いているのは、彼が繋いでくれたから。だからこそホリーは目を逸らさない。傷だらけの心を抱えた彼から、絶対に。

 

「言ったでしょう? あなたが繋いでくれた現在を守っていくから、って。もちろんその中にはあなただっているのよ。絶対に、諦めたりしない」

 

 診療所で帰りを待つ父(カミロ)も、彼と共に戦った母(モニカ)も、家族を救ってくれた恩人を助けたいと望んでいるはずだから。

 

「……、…………」

 

 男の口が開き、しかし言葉が発されることのないまま曖昧に閉ざされる。

 黙り込んだ男の前へ、ラヴィニアが一歩、踏み出す。

 

「貴方も知っての通り、私は過去の改変を認知することができます。かつての私はルゥや過去干渉実行者の行動を観測し、制御するために。今の私は貴方たちのことを知るために、その術式を開発しました。かつての私の絶望と選択の意味も、貴方がルゥと歩んだ旅路の軌跡も、すべてを知っている。そして貴方が今、貴方の視点での実態を教えてくれた」

 

 人間でありながら吸血鬼にすら比類する者なき英雄だと、かつての己も今の己もそう思っていた。

 だが実際はどうだ。己が気付けなかっただけで、彼の心は傷つき打ちのめされ続けていた。己は友人たちを手に掛ける彼の心情を少しも慮(おもんぱか)らず、むしろ使命を果たしたことを賞賛した。

 

 何が贖罪だ。息子に強いたことを、彼にも繰り返しただけではないか。――ラヴィニアが今それに気づけたのも、彼が未来を繋いでくれたからだ。

 

「……私を許せないならば、それは仕方のないことです。私は、あなたに取り返しがつかないほどの傷を負わせてしまった。その責を負う覚悟はできています」

 

 本当は、恐ろしい。かつての時代で慕うように見上げていた彼の優しい眼差しを知っているからこそ、男の冷えた目に見られる度に己の過ちを突きつけられているようで足が竦む。

 

「ですが、この者たちは、すべてを乗り越えて貴方たちを救おうとしています。かつて貴方たちが、あらゆる悲劇を乗り越えて皆を救ったように。この意志は必ず貴方とルゥに届けて見せる。私はその決意で以てこの場にいるのです。それだけは、たとえ貴方の更なる怒りを買うとしても譲りません……!」

 

 恐怖を飲み下し、ラヴィニアは男を見つめた。

 男はフードの下で思案するように視線を落とした。背もたれに体を預け、俯いたまま深く嘆息する。

 

「……怒ってなんかない。ここにいるラヴィニアがやったことじゃないし、あの時のラヴィニアのことも恨んでない。苦しみ続けていたあの人の力になれなかったと、悔しく思うことはあるけれど」

 

 その声は淡々として、相変わらず熱はない。だが口調はよく知る彼のものに戻っていた。

 

「向いてないな、やっぱり。言葉で退いてくれるとは考えてなかったけど、全然効果がないとは思わなかった」

 

 男は後ろ頭を掻いた。視線を彷徨わせ、諦めたように再びため息をついて相対者を見つめた。

 

「……どうすれば帰ってくれる?」

「退かぬよ。退くものか。我々はここに、前へ進むために来たのだから」

 

 ゼノンの声が朗々と響いた。腕を広げ、大仰な身振りで男へと近づいてゆく。

 

「ここにいる皆が君たちとの未来を望んでいる。そのためにこの百年、万(ばん)難(なん)を排し、人々の意志と意志とを結んできた。今の世界の在り方を君とルゥ君に見せたい。共に歩き、眺め、味わい、笑い合いたいのだよ。我が愛娘ヤドヴィガもマグメルで君たちの帰りを待っている。ジャンクヌードルを毎日献上する義務はどうした、とね」

 

 語りながら、ゼノンの頭脳は目まぐるしく思考を回転させる。

 彼をただ生かすだけならわけない。如何様にもできるだけの理論と技術は揃えてある。だがそれでは遠からず保(・)た(・)な(・)く(・)な(・)る(・)。どれほど周囲が手を差し出しても、救われるつもりのない者を救うことはできないのだ。

 だから今は言葉を重ねて伝えるしかない。彼が相棒の少女と共に繋いできたものがどのように花開いたかを。そして彼も救いたいのだという想いを。

 

「水没都市は今や辺境域の水上都市と謳われる風光明媚な名所になった。ジョゼ君の統率力、リーズ君の術式工学の知識、そしてマグメル島の技術者たちの素晴らしい発想によって新たな街に生まれ変わったのだ。水没した一帯に築かれた新たな街並みはまさに一幅の絵画の如く。元祖水上都市にも決して劣らないだろう」

「お前と探求したあのカレーが、すっかり街の名物になっていてな。ライスカレー以外にも本場の味やエスニックなものを出す店もあって、都市の飲食店組合で定期的に開くフェスも毎回大盛況なんだ。吸血鬼も人間も関係なく、大勢の人が美味いものを一緒に楽しめる場を作ることができた。……私がかつて描いていた夢が、ずっとずっと大きな規模になって実現してるんだ。全部お前がきっかけを作ってくれたお陰だよ、許婚どの」

 

 何の確執もなく吸血鬼と共に食事をとれる彼には当たり前にすぎて、それがかつては文字通りの夢物語だったとは信じてもらえないだろう。

 

 ジョゼはこの百年、統制局局長としてリーズと共に人と吸血鬼の間にわだかまっていた禍根を一つずつ解きほぐしてきた。それは決して容易なことではなかった。

 いくつもの困難を乗り越えてたどり着いた今の都市の在り方を、彼や彼の相棒である少女に紹介したい。その礎を築いたのは何者たちなのか、街の皆に伝えたい。

 

「酸の谷は穏やかなものだ。凝石炭は採れなくなって久しいが、次なる産業としてクレイグ君たちが移住者と共に取り組んだ農業が軌道に乗り、一大農耕地として名を馳せている。豊かな水源と肥沃な土が育てる農作物は辺境域に住む人々の腹を満たし、ライル君が主導して栽培するハーブ類は多くの人々の健康を支えてきた。採掘で荒れ地となっていた西側もすっかり緑を取り戻して、港湾での漁業も盛んだ。ここの食材を使って、是非とも君に渾身の一品を作ってもらいたいものだな」

「お前に手伝ってもらった血の保存に関する研究があっただろう。あの研究はこの百年で実用化されて、辺境域のみならず世界各地で普及している。それにジョゼから教えてもらった血の渇きを抑制するスパイスを、ホリーやカミロさんと一緒に研究したんだ。お陰で今では一度の摂取に必要な血液量も減って、ヴォーダ家の協力もあって血奴の根絶宣言を出せた。あとはそれを維持していくだけだ」

 

 意志と言葉で人々を繋ぐ。その難しきを思い知らされた百年だった。種族のプライドが、技術が産む利権を狙う欲望が、そして何よりも積み重ねられ続けてきた憎悪が幾度となくライルたちの前に立ち塞がった。

 それでもこうして打ち立てられたのは、彼が繋いでくれた人々との縁のお陰に他ならない。

 

「屍人の森も今は避暑地兼観光地として辺境域内外で有名だ。人間吸血鬼問わず腕の立つ医師が集まった診療所は辺境域の命を守り、拡張し独立した保養所は心と体を癒す。高台の遊園地も復興して、休日は親子連れで賑わっている。観覧車から一望する辺境域の美しさ、まったく筆舌に尽くしがたいものだよ」

「残念なことだけど、リンネの脅威は去ったとはいえバケモノの被害はいまだ収まってないわ。でもジェイルの性能向上と、辺境域の外から招いたブースター研究者たちのお陰で、吸血鬼ハンターの損耗率は格段に下がったの。診療所の技術向上も合わさって、ここ数年の辺境域におけるバケモノ被害での死者はゼロに抑えられているわ。百年前よりずっとずっと安全になったのよ。家族や友達と、何の憂いもなく遊びに出掛けられるくらいにね」

 

 男がふと、顔を上げた。

 

「……研究者たち……イリスと、ジュディ?」

「あら、どうして知って……いいえ。イリスさんは、あなたの見せてくれた記憶の中にいたわね」

 

 ホリーはそっと胸元を押さえた。かつての時代では彼らとイリスは共に戦う仲間だったようだが、端緒である大事変が覆されたことによりその縁はなかったものへと改変された。彼が世界のために切り捨てざるを得なかったものの重さを、改めて思い知る。

 

「そうそう、マグメルの港近くにあるパン屋は君と同じ名前の店主が切り盛りしていてね、そこのパンが絶品なのだよ。マグメルの食堂に卸しているプレーンなパンも小麦の香り高く味わい深いが、君には是非店頭で売っている惣菜パンを食べてみてほしい。店主はノア君に勝るとも劣らないほどの、素晴らしい料理の腕前なのだ。パンと具の完璧な調和、きっと君も気に入るに違いない」

「それは……」

 

 男は目を見開いた。やがてその目を伏せ、静かにつぶやく。

 

「……そう、か。パン屋なんて昔話の存在だから、想像もつかないけど」

「彼は忙しくも充実した日々を送っている。ルゥ君の妹(・)御(・)ということになっている彼女は今はヴォーダ家に身を寄せているのだが、よくそこに入り浸っては、甘い菓子パンの食べ過ぎでラヴィニア君によく怒られているな」

「な……ゼノン!」

 

 ラヴィニアは少々気分を害した様子でゼノンを睨みつけた。ノアは肩を竦め、ジョゼたちも笑っている。和やかな雰囲気に、男の口元が僅かに綻んだ。

 

「君たちが命を懸けて守り、我々が繋いだ平和だ。非常に素晴らしい世界だが、しかし完璧と呼ぶにはいささか欠けたものがある。分かるだろう?」

 

 ゼノンは更に一歩踏み込んだ。手を伸ばせば男に触れられる、その直前まで。

 

「ルゥ君のことなら心配はいらない。二人が稼いでくれた時間と、偉大な私の頭脳、そしてラヴィニア君をはじめとしたこの場にいる仲間たちの尽力により、より完璧な形での封印術式を構築することができた。今はルゥ君が一人で担っている封印を、すべての吸血鬼に分散する。この理論の素晴らしいところは将来生まれてくる吸血鬼から生じるリンネのエネルギーにも対応できる点だ。断言しよう。分散封印が成されれば、もう二度とこの世界がリンネに脅かされることはないのだと」

 

 分散封印は、ゼノン単独では成し得なかったことは明白だった。しがらみをなくしたことで才能を大きく開花させたラヴィニアの助力は無論のこと、この百年で多大な功績を打ち立てた辺境域統制局、黎明の旅団、アストゥリアス家の診療所が賛同の意を表明した上で、ヴァレンティンが言葉を尽くして説得し続けたからこその実現だ。この場にいる誰か一人が欠けても達成することはできなかっただろう。

 

「同時に、時間留保の術式によって心停止直後の状態を保っている彼の心臓を再生し、蘇生する。彼の肉体は純粋な人間であり、吸血鬼と異なり心臓は重要ではあるものの単なる臓器の一つだ。血液を送るポンプを欠損しているがゆえに生命活動を阻害された状態である以上、ポンプさえ補えれば蘇生はまったく容易いと言えよう。とはいえその前に体に残ったリンネの変質症状を治療する必要はあるが、その第一人者もここにいるのだ。何ら心配はいらないとも」

 

 ちらりと視線を向けた先でホリーが頷いてみせた。

 

 封印殻の中にいる二人を救うピースは揃っている。あらゆる不測の事態を想定し、そのすべてに対処してみせる。その気概で以てゼノンはここまで来た。――しかし、どこかでそ(・)う(・)あ(・)っ(・)て(・)く(・)れ(・)る(・)な(・)と、希望的観測を抱いていたことも確かなのだろう。彼を目の前にして、そう強く思う。

 

「そして今、我々は君と出会えた。本来であれば取りこぼさざるを得なかった、かつての時代の君と」

 

 口調とは裏腹に、内心には焦りが燻っていた。

 足りない。今のままでは届かない。

 彼が罪と呼ぶものはいくつもある。過去を己の欲のままに書き換えたこと。友人を手に掛けたこと。あるいは彼を救うために命を擲った少女のこと。そのどれもが彼にのし掛かり、罪の意識で雁字搦めにしている。それを解(と)き解(ほぐ)すためには、彼を限界まで追い詰めて本人も自覚していないであろう本心を吐露させる必要がある。それは、決して言葉のみでは成し得ないだろうことも、理解している。

 分かっていてなお、ゼノンは手を伸ばした。望む世界を掴み取るために彼に苦痛を強いた者の一人として。

 

「どうか……君のことも、救わせてはくれないだろうか?」

 

 差し出されたゼノンの手を、男は凪いだ目で眺めていた。

 

「……どうしても、手を取ってはくれないのかね」

「当たり前だろう。この時代へ繋いだのは心臓を捧げたあいつであって、選ばれなかった未来の亡霊である俺ではない。……俺はまだ、報いを受けていない」

 

 瞬間、衝撃が場を貫いた。

 

「ぐ、ぬぅっ!?」

「ゼノン!」

 

 ゼノンの巨体が弾き飛ばされ、他の者がいる場所まで後退する。全員の視線が集う先で、男は呟いた。

 

「時空の狭間は閉じなければならない。そうだろう、ヴァレンティン」

 

 ヴァレンティンは顔を上げられなかった。

 皆が前に出たが故に誰よりも男から離れた場所に立ち竦み、脳裏では先ほど見た彼の記憶がリフレインし続ける。

 

 空に浮かぶ歪な月と、その光に白く焼けた大地。彷徨する巨大な異形は人間も吸血鬼もバケモノも関係なく殺戮し、吸血鬼の心臓をまるで勲章のように大鐘に飾りたてる。

 

 地獄というものがあるなら、あのような光景に違いない。

 そしてそれを作り出したのは、他ならぬヴァレンティンの意志なのだ。

 

「……私は……君に、どうすれば、償える……?」

「ここにいる君は、あいつやノアに殴られて止まったんだ。渇望の月のことであれ、封印のことであれ、君が気に病む必要はない」

 

 今まで熱を持たなかった男の声に、明確に気遣うような色が混じる。思いやるような声色がかえって償いがたい罪を浮き彫りにするようで、ヴァレンティンは顔を上げられないまま首を振った。

 

「そもそもの選択肢に辿り着いていない母上とは違う。皆が止めてくれただけで、私はあの時決断したんだ。たとえあの場で君を殺すことになっても、リンネの根本さえ絶てば君の背負う使命も過去に遡った事実も消え去って、何も知らないまま未来で幸せに暮らせるはずだと。その結果があの世界なんだろう? 君が使命を背負わねばならない原因を作ったのはほかでもない、私だろう……!」

 

 それがほかの者とヴァレンティンの決定的な違いだった。

 

 彼が異なる時代から来たことは把握していた。何の痕跡もなく孤島マグメルに出現した、公的な活動記録が一切存在しない吸血鬼ハンター。彼に刻まれた術式は巧妙に隠されていたが、その隠し方と効果から誰が何のために彼を遣わしたのかを読み取るくらい、息子であるヴァレンティンには簡単なことだ。水没都市での再会、そして再びマグメルに現れた彼と共に過ごすことでその大本の使命が何であるのかも理解した。その上で、ヴァレンティンは己の決意をより深いものにした。

 身体的な能力は高く、こと戦闘においては天賦の才に恵まれている。だが性根があまりにも優しすぎるために戦いには向いていない。そんな彼に苦行を強いる未来の有り様に、尚更己が使命を成し遂げねばならない。そう、決意したのだ。

 

 その決意の結実が目の前にある。苦しみの果てに己が命すらも擲って世界を救った英雄にして、ヴァレンティンの決意に苦しめられ命を奪われたかけがえのない友人として。

 

「あのさ。本当に、気にする必要なんてないんだ。さっきのだって皆に帰ってほしかったから、恣意的に苦しかった時の記憶を選んだし……」

 

 言葉尻はどんどんしぼんでゆく。やがて男は背もたれに背中を深く預けた。

 

「……確かに、あの世界で幸せに生きるのは、俺には少し……難しいことだった」

 

 呟くような小さな声が、気遣うような言い回しが、ヴァレンティンの胸を鋭く穿った。

 少しなどというものではないはずだ。先ほど見た記憶の中で彼は何度も傷つき苦しんでいた。だというのに、その元凶であるヴァレンティンを彼は恨んでくれない。誰かを恨むには彼は優しすぎて、故に罪悪感は一層己を苛む。

 

「でも今、皆の話を聞いて思ったんだ。俺の選択は確かに未来に繋がったんだって。皆と出会えてからの日々は何もかもが得難いもので、そしてそれが今を繋げてくれたことを知れて、本当に嬉しかったんだ」

 

 なあ、ヴァレンティン。そう呼び掛ける声は優しい。その声は百年前、共に過ごした短くも満ち足りた日々の中で言葉を交わした時と同じ柔らかなものだった。

 

「かつての時代で月に籠もった君の祈りは歪なものだったかもしれない。君が本来望んでいた未来を齎すことはできなかったのかもしれない。でも君の決意があったから、俺はあの日、ルゥに出会えた。ルゥと出会って、ラヴィニアに与えられた使命の下で、過去の世界で皆に会えた。ジョゼの気高さも悲しみも、ライルの覚悟も叫びも、ホリーの優しさも零れた涙も、知ったからこそ足掻くことを決めたんだ。その足掻きが繋がって過去を結んで、そしてヴァレンティンや皆の手で今に繋がった。人間と吸血鬼が手を取り合える、この今の時代に」

 

 男は深く息を吐いた。そうして静かに笑う。

 

「たとえ消え去ったとしても、間違えてしまったのだとしても、この旅路にあったものすべて、何一つ無駄じゃなかった。喜びも悲しみも、無意味なことなんて一つもなかったんだ。礎になれたことが分かって、安心した。……亡霊に過ぎない俺にもそう思えたんだってことを、たまにでいい、思い返してくれたら嬉しい」

 

 彼の意図をヴァレンティンは悟る。

 

「だから、頼むよ。ヴァレンティン」

 

 これは彼の決意であり、覚悟であり、遺言だ。この場にあって、喪われずに繋ぐことを望まれた想い。

 礎を踏み越え、すべてを飲み込んで先に往け、と。

 

「……約束する。友人として、君の想いはいつまでも忘れない。そして……かつて君に約束した世界を築き、次代へ繋ぎ続ける。あの時思い描いていたものとは違う形で、もう誰も犠牲にならずに済む世界を、皆と共に」

 

 だからこそ、ヴァレンティンは顔を上げようとした。

 

「…………――っ」

 

 君で、最後にしてみせる。伝えようとしたその言葉は胸で詰まり、口から漏れたのは短い息の音だけだった。

 ここにいる彼は生者ではなく、時空の狭間に現れた残滓に過ぎない。彼がいることで現代の因果にどのような影響が及ぶかも分からない以上、討伐するしかない。そして彼も、それを望んでいる。

 分かっている。分かっているのだ。だが納得などできるわけがない。

 

 何故、彼が犠牲にならねばならない。

 吸血鬼(われわれ)が積み上げてきた業の代償を、どうして彼が払わねばならないのだ。

 

「……ヴァレンティン」

 

 呼びかける声は、案じるようにも、失望しているようにも聞こえた。やがて深い嘆息の後、疲れた声で男は呟く。

 

「……問答はおしまいにしよう。俺もそっちも退くつもりがない以上、やるべきことは一つだ」

 

 男はゆっくりと立ち上がった。その気配が瞬く間に変わってゆく。

 

「――武器を取れ。新たな封印を成し、二人の目覚めを望むならば、その意志をここに示せ」

 

 口調に滲んでいた柔らかい雰囲気は薄れ、睥睨する視線は再び冷えたものへと変わる。

 

「お前たちの前にいるのは世界から失われた可能性の一つ。人類の擁護者にして黄金の心臓を持つ英雄。選ばれなかった未来よりルゥを護る心殻に招かれた、大英雄たちの眠りの守り手」

 

 その手に一振りの剣が現れる。傷だらけの痩せた刀身は、確かめるように軽く振られただけで凄まじいプレッシャーを周囲へ放った。

 あれは彼そのものだ。相対する全員がそう直感する。傷つき欠けるごとに幾度も研ぎ直されてきた救世の刃。かつては隣にあった揺るぎない切っ先が、今はこちらへと向けられていた。

 

 緊張が満ちる中、ノアはただ一人、一切の動揺なく男の目を見つめ返した。

 

「お前、勝つつもりなんざないだろ」

 

 ほんの、僅か。だが確かに男の表情が揺らいだ。

 

「何を……」

「最初から、ここで戦って死ぬつもりだった。違うか?」

 

 

 ここを死に場所と定めて、全身全霊で戦い抜き、その果てに討たれることを望んでいる。――かつての時代、封印を担っていた英雄たちがそうしたように。

 

 

 男は一瞬、目を伏せた。隠し事がある時に彼がよく見せた仕草だ。答え合わせにはそれだけで充分だった。

 

「この……大馬鹿野郎が……!」

 

 伝えた言葉は、想いは、目の前の男には何一つ届かなかったのだ。

 言葉に込めた意味を預かるくらいはしたのだろう。だがそれを真に受け取るべきは封印殻の中で眠る心臓を捧げた彼であって、選ばれなかった未来に取り残された己ではないと受け流した。今この場においてノアたちが想いを伝えたかったのは、目の前の男に他ならないというのに。

 

「もう一度言うぞ。俺たちがここに来たのは、お前たちを助けるためだ。決して、お前を殺すためじゃない」

「俺とあいつは違う。亡霊を生かす必要はないだろう。それに俺とあいつを並行に存在させてどうするつもりだ。席は一つしかないというのに」

「席が一つなんて誰が決めた。マグメルのパン屋がガキの頃、ルゥの妹(・)に言ってた言葉を教えてやる。『誰の代わりだとか、どういう役目を果たせなかったとか、生まれのこととか。すごくつらいことだってことしか、俺には分からない。けど、俺を助けてくれたのはここにいるおねえちゃんだし、おねえちゃんと一緒なだけでうれしいんだよ』ってな」

「……それは、あいつに言えばいい。俺は……」

「お前と封印殻の中のあいつは違うんだろ。今、俺は、ここにいるお前に話してるんだ。逃げられると思うな」

 

 逃げ道を断たれ、男は口を引き結んだ。

 

「席なんて新しく作れる。たとえ重なった存在でも、それは決して誰かの代わりでも、居場所を奪い合う相手でもない。それを言葉だけで伝えきったあ(・)い(・)つ(・)は、この場にいる誰よりも強いんだろうさ。あいつらの想いだって俺たちは背負ってるんだ」

 

 

 ――全員怪我なく帰ってきてくださいね。ちょっとしたお祝い、用意しときますよ。

 ――皆さんが揃っているならきっと大丈夫だと思いますけれど……でも、どうかご無事で。

 

 

 あの二人が世界の命運など背負うことなく日々の営みを送れるこの時代が、どれほどの苦渋と努力の積み重ねの上に成り立つものなのか。改めてそれを知った今、なおさら譲るわけにはいかない。

 

「お前がその気なら、こっちも好きにやらせてもらうぜ。ふざけたことをぬかす分からず屋の馬鹿は、ぶん殴ってでも止めてやる……!」

 

 振り返ることなくノアは声を張り上げた。

 

「顔上げろヴァレンティン! ここで諦めたらあいつらに合わせる顔がねえぞ!」

「ノア……」

 

 ヴァレンティンは友の背中を見つめた。そして彼の鼓舞により、再び闘志を漲らせ始めたいくつもの背中を。この百年、時に衝突しながらも共に進んできた仲間たちの背を。

 

 もう自分は独りではない。そう、改めて実感する。そんな当たり前のことすら、頭から消し飛んでいたようだ。

 

「……そうだね。君で最後にするんじゃない。君を、はじまりにするんだ」

 

 言葉にしてしまえば、それは引っかかることなく腑に落ちた。

 ヴァレンティンは顔を上げた。グラスを外し、両の眼で男を見つめる。

 

「母上とリーズ、それからゼノンはサポートを。他のメンバーで彼の鎮圧と保護を行う」

 

 ゼノンがわずかに腹を庇うような姿勢でいることをヴァレンティンは見抜いていた。いくら先ほどまで呆然自失の体たらくだったとはいえ、何が起こったのか、どんなやり取りがなされていたのかはすべて把握している。ゼノンを弾き飛ばした一撃は、明確な拒絶の意志の下全力で叩き込まれたものだった。吸血鬼の不死性を貫通する攻撃は、彼に少なくないダメージを与えているはずだ。

 それに男のいた未来がなかったものとされたのは、ゼノンが仕込んだ術式によるものである。たとえ数万の仮説の内に想定されていようとも、目の前に突き付けられた事実はゼノンに多大なショックを与えただろう。この偉大な科学者はこう見えて情に深く、そして特別な友人である彼との縁を殊更大切にしている。すぐに立ち直りはするだろうが、現状はまだ後方で休ませておくべきだ。

 何より、ゼノンなら打開策を見いだせるかもしれないのだ。彼の心すらも救うための決定的な一打を。

 

 説明せずとも意図は伝わったようだ。ゼノンは悔しさを顔に浮かべて首を振る。

 

「私としたことが確約はできない。すまない、彼を頼む……!」

「任せてくれ。母上、リーズ。ゼノンを」

「ええ」

「わ、分かりました!」

 

 言い残し、ヴァレンティンは身を翻して戦場へ進む。

 

「ジョゼ」

「分かっているとも! 私たちの諦めの悪さ、覚悟して受け取れ、許婚どの!」

 

 ジョゼは叫んだ。分散封印を成すために、何より彼を救うために。誓いの証たる双(そう)眸(ぼう)のルーンブレードを背に浮かべ、大業物を一閃させる。

 

「ライル」

「全力で挑ませてもらう。お前に失望はさせないさ……!」

 

 ライルはふと、彼と出会った時のことを思い出す。あの入団試験ではライルが力量を試す側だった。そして今、力量を試されるのはライルたちの側になる。背筋を伝うのは緊張か、それとも。握り締めた不撓不屈の剣から紫電が散った。

 

「クレイグ」

「手加減はしねえ。……まったく懐かしいな。温泉巡り以来か、お前と戦うのは?」

 

 クレイグが指を鳴らした瞬間、うっすらとした赤い膜が吸血鬼たちを包み込んだ。鉄塊じみた両手剣を担ぎ、深く息を吐いて男を注視する。気を抜けば喰い殺されるのはこちらだと、共に戦った仲だからこそ知っている。

 

「ホリー」

「あなたを救う覚悟。示してみせるわ」

 

 ホリーは顔を上げ、腕の内に銃剣を呼び出す。希望の意味を持つ花の名を冠したそれを抱え、凛と澄ませた目を前に向ける。

 

「ノア」

「ああ、やってやろうぜヴァレンティン……!」

 

 ヴァレンティンは誰よりも前にいたノアの隣に立つ。それぞれの信念を刻んだ二振りの剣を構え、救うべき友の顔を見つめた。

 

 

 そうして、今の時代において英雄と呼ばれる吸血鬼たちは相対する。

 

「英雄を殺して世界を救え。選ばれなかった未来を閉ざし、今ここに選択の正しきを証明してみせろ」

「いいや。君を救い、我々の意志を示そう。君が私たちにしてくれたことを、今ここで報いてみせる」

 

 かつての時代において英雄と呼ばれた吸血鬼のすべてを討ち果たし、人の時代を切り開いた救世の英雄に。

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