或る英雄の終焉 作:ポポの枝毛
軽く見ていたつもりなどない。
相手一人に対し、こちらは戦闘要員だけで六人。その誰もが一線級の実力を持つ吸血鬼たちだ。対する彼の実力も理解しているからこそ、鎮圧は可能だと判断した。――だがここに至って、それはあまりにも甘い見積もりだったと言わざるを得ないだろう。
ヴァレンティンは痺れの残る手を握り締め、内心で嘆息した。
男の一撃の矢面に立ったジョゼは倒れ伏し、彼女が相殺しきれなかった余波を受け止めたクレイグも膝を着いたまま立ち上がることができていない。後方で援護射撃を担っていたホリーは未だ復帰できる状態ではなく、残るヴァレンティンとノア、ライルも万全とは言い難い。
対する男に大きな負傷はない。紅い閃光を撃ち終えた異形の掌を消しながら、凪いだ表情で佇んでいる。
思い知らされる。
救世の英雄。吸血鬼ならぬ人の身でありながらそう呼ばれる、その意味を。
◆
「はあぁあッ!」
裂帛の声を上げジョゼが踏み込んだ。身の丈ほどもある大刀を、一切の躊躇なく振り抜く。
対する男はごく自然な動作で剣を構えた。
刃と刃が触れる。火花散り剣戟鳴る刹那、男は剣を僅かに傾けた。
術式ではない、ただ優れた技量による受け流し。完全に力を流されて姿勢を崩したジョゼのわき腹へ男の蹴りが突き刺さった。
穢血の守りが砕け散る。ジョゼは敢えて地を蹴り、踵を受け止めたルーンブレードごと後ろへと飛ぶ。
「ぐ……!」
防御ごと打ち抜くような一撃を受けてなお、その顔にはまだ余裕があった。彼女の役目は牽制だ。綻びを作るのが仕事である。――だが、とジョゼは記憶との明らかな差異に焦燥をも覚えた。たった一合、打ち合っただけで理解させられる。自分が知る彼よりも、目の前の男は遙かに――
「おおおおおッ!!」
男が体勢を戻しきる前にクレイグが吶喊する。
同時に視界に入るギリギリの位置からノアとヴァレンティンが間合いへ踏み込む。そして男の背目掛けて音もなくライルが疾る。
タイミングを僅かにずらした四方からの同時攻撃。どれかに対処すればほかの攻撃が男に届く。そのはずだった。
ライルの刃が男に触れるその瞬間。ジェイルから顕現した死神の大鎌がすべてを弾き飛ばした。
吹き飛ばされた三人と、大鎌を構える男。その光景が両手剣を弾き飛ばされた先でクレイグの視界に広がる。紅く光る男の目はひたとクレイグを捉えていた。むしろ好都合だ。この場において最も打たれ強いクレイグこそが攻撃を引き付けるべきだろう。
「来い!」
一撃目を受けた穢血の護りが砕ける。そして二撃目が構築され始めた盾をかいくぐってクレイグの喉目掛け迫る。
左腕一本。即座に勘定を済ませて身構えたクレイグの目前で、突如身を翻した男の上衣を零下の閃光が貫いた。
ホリーの援護射撃だ。
二発、三発と続く射撃を回避し、男は後ろへと跳んで距離を取る。四発目の核たる弾丸を剣で切り払い、追撃が止まったことを認めて軽く息を吐いた。同じようにクレイグも構えを解き、再び両手剣を手元に呼び出す。
「……多勢に無勢はやはりキツいな」
「嘘つけ。なんで真後ろのライルにまで反応できてんだ」
「何故って……クレイグの瞳に影が映っていた」
クレイグのぼやきに、男は不思議そうに目を瞬いた。背後から斬りかかってきたジョゼの一撃を流れるようにいなし、そのまま打ち合いへと縺れ込んでいく。
元々、背中にも目がついているのではないかと疑うほどに彼は感覚が鋭かった。それを知っているからこそ大声で音をかき消し、ブラフとしてノアたちが視界ギリギリから踏み込んだのだ。クレイグが知る男なら、気づいたとしても反応は間に合わない。だが目の前の男は四人全員を叩き伏せられるごく微小な瞬間を捉えてみせた。
十数年を経てより鋭く磨き上げられた天賦の才。彼の肉体に染み付いた技術と経験は、永きに渡り戦いをひさいで来たクレイグにすら勝るとも劣らないだろう。
「こいつは一筋縄ではいかないみたいだぜ、ヴァレンティン」
クレイグは横を駆け抜けていく仲間にそう告げた。
疾駆する足を止めることなくヴァレンティンはルーンブレードを構えた。ノアとライルもまたジョゼと男が繰り広げている剣戟に飛び込もうとしているところだった。
優秀な前衛が三人。すぐにクレイグも戦況に加わるだろう。であれば自分は中距離から支援と牽制を担うべきだ。戦場に踏み込もうとしたその時、ジョゼの隻眼がヴァレンティンを一瞥した。それなりに長い付き合いである彼女の言わんとしているところを悟り、入れ替わるように矢面に立って男の剣を受け止める。
「許婚どのほどじゃないがいい男だよお前は!」
ジョゼは跳び退さりながらイコルを獲物に這わせた。血は炎となって立ち上り、噴き出す熱が大気を焦がす。
「そぉ、っらぁ!」
振り抜かれた両手剣の軌跡に沿うように炎の柱が撃ち出された。猛る炎が踊るように走り、ヴァレンティンたちの間を縫って男へ殺到した。
男はヴァレンティンの剣をいなし、ノアの一撃を受けた反動を利用して炎の届かぬ背後へと跳んだ。――ジョゼが狙ったとおりに。
この劫火は痛撃を与えるためのものではない。男の移動を制限するためのものだ。
「はあっ!」
後方でラヴィニアが両腕を構えた。男の着地と同時に、彼を半球形の術式結界が覆う。男は即座にその場から離れようとするも、足はよろめき、そのまま力が抜けたように膝を付く。
「これは……ゼノンを無力化した術式か」
「時間留保の術式です。たとえ貴方であっても、この術式を打ち破ることは不可能――」
「心殻」
声に応え、男の足元に淀んだ鉛色の芽が芽吹いた。発生した力場が内側から結界を食い破り、即座に破砕する。
「な……」
光のかけらを振り払いながら、幽鬼のように男は立ち上がった。
「そんな……!」
「っ、いいえ、まだです! 牽制と足止めをします、その隙に対処を!」
男が飛び退いた場所に時間留保の術式結界が出現する。金の光で彩られた半球を見た男の目が眇められた。
「面倒だな」
すぐに斜め前へと跳ぶ。次々に現れる結界と周囲の追撃の隙間を縫うように走りながら、男は剣先で地面を抉った。抉り取られた棘は礫となり、ラヴィニア目掛け打ち出される。礫は護りに遮られて砕け粉塵と化し、破砕する護りと共にラヴィニアの視界をほんの数秒遮った。
その数秒で男は間合いを詰め切る。
「通しません!」
ラヴィニアを守るようにリーズがルーンブレードを振るった。
刃が届く瞬間、男の姿勢が沈む。防御術式によって高く飛び上がった男は足元を過るルーンブレードの峰に足を掛け、更に跳躍した。
「な……っ!?」
「大人しくしていてもらおうか」
飛び越えざまに男の手がラヴィニアの肩に触れた。殴るでもなくただ首元に添えられた手のひらから青白い光弾が放たれる。
触れられた場所に感じるのは手袋越しの手の感触のみで、痛みも熱もない。何が、と把握しようとするラヴィニアの頭の中で突如さんざめく騒音が弾けた。
「っうぐ、ぁ……!?」
「ラヴィニアさん!」
平衡感覚を失いよろめいてしゃがみ込むラヴィニアを、リーズが慌てて支える。二人に背を向けた男の手のひらに黒い八面体が浮かんだ。
「もう一つ札を切ろう」
握り潰せば彼と相対する全員の傍らに同様の八面体が浮かび上がった。同時にガクンと体に奇妙な重さが掛かる。
「これは……!」
即座にホリーはこれが何であるかを悟る。悪性の状態異常ではない、相応のデメリットの代わりに特定の状況下で非常に有用な補助術式。それを敵対者たちへ付与するなど一体何を――
驚愕と疑問のうちに生まれた一瞬の隙。その一瞬で男はホリーとの距離を詰めていた。
手を伸ばし、軽くノックをするように護りの表面を叩く。敵意を持ったささやかな一撃に穢血の護りが反応し、砕け散った。
眼前に迫った男の姿に、ホリーは覚悟を決めて盾を構えた。――後ろに跳んでも、今の状態では避けきれない。
瞬間、男の手が閃いた。手袋に術式の光が一瞬浮かび、すぐに紫電と化して空気を灼く。
「悪いが気絶していてくれ」
雷閃が炸裂した。
轟音と共にホリーの体がくの字に曲がった。盾を貫通するほどの霹靂の衝撃に声もなく吹き飛ばされ、受け身も取れぬまま大地に転がる。
「ノア、ホリーをゼノンの元に!」
「分かった!」
空気の灼ける無機質な匂いを切り裂き、ヴァレンティンの刃が男へ振るわれる。ルーンブレードを剣で受けた男めがけて回し蹴りを叩き込み、ブラストボルトで追撃する。
彼の立ち回りなら距離を取って体勢を整えるはず――しかしヴァレンティンの読みに反し、男は前へ飛び込んだ。紙一重でブラストボルトをかわしながら、ルーンブレードの間合いのその内側へ踏み込む。
容赦なく突き出される切っ先を、ヴァレンティンは確信を以て交差した両腕で受けた。
ガァン、と肉体から鳴るはずのない金属じみた音が響く。腕と剣との奇妙な鍔迫り合いを挟み、ヴァレンティンは男に声を掛けた。
「ジャガーノートだね。それを敵対者に付与した」
半ば断定のような問いに、男は特段の反応を見せない。タネが見抜かれるのは想定の範囲内であるらしかった。
「補助術式の効果範囲拡張はブースターによるものかい? それに母上を無力化した一撃は初めて見る術式だ」
「ヒステリックパニックという。相手の集中を削ぐ」
「君が開発を?」
「もしそうなら百年前の君の鎮圧の際に用いられていただろうさ、ヴァレンティン」
男の手袋に再び術式の光が走った。
「させるか!」
遮るようにライルが紫電の斬撃を飛ばし、追って斬りかかった。避けた男目掛けてマクリーシュの歯車が紫電を散らしながら迫る。
ホリーをゼノンたちの元へ運ぶよう頼んでいたノアがヴァレンティンの隣に並んだ。
「腕は大丈夫か」
「問題ない」
「……無理すんなよ」
言い残してノアは戦場へと駆け出す。その背を見送り、ヴァレンティンは切れた袖に手を触れた。
男を無傷で鎮圧しうる術式を扱えるラヴィニア。血族に由来する癒やしの力と術式に拠らぬ高度な医療処置を行えるホリー。この二人を真っ先に脱落させられたことは非常に手痛い。こちらの消耗を抑え補う手段が減ったこと以上に、男を鎮圧するには彼を叩き伏せるよりなく、しかし致命傷を負わせてしまった際に治療する手段がないということが。
「本当に、君にはもう……そのつもりがないのか」
息を吐き、ヴァレンティンは顔を上げた。
それでも。まだ、諦めるのは早い。
男とライルの剣戟は十数合にも渡っていた。
ライルは速度と手数で勝り、男は優れた技量で重い一刀を的確に振るう。剣の腕においては、互いの実力は拮抗していた。
だが、ライルの顔には僅かな焦燥が滲んでいた。ジャガーノートによって負荷がかけられた足は重く、普段なら余裕をもって捌けるはずの牽制すら回避にひどく神経を使う。魔法術式を使わせぬよう間断なく攻め立てる現状の均衡は、僅かな綻びで容易く崩れるだろう。
何より、男の技量はライルが知る彼よりも数段上だ。
記憶だけが遡って上書きされた、という言葉の意味を改めて実感する。封印の塔で共闘した彼は、あくまで未来の記憶を引き継いだに過ぎない。
この百年、ライルはクレイグや団の仲間たちと怠ることなく鍛錬を続けてきた。百年前よりも強くなったと自信をもって言える。それと渡り合う眼前の男は、十数年という短い月日でどれだけの地獄を生き延びてきたというのだ。
男はライルの力を利用してその場から飛び退く。直後横槍を入れてきたクレイグの両手剣が大地を砕いた。
「合わせろライル!」
叫ぶクレイグの手の内で、金色の血が身の丈を越える巨大な剣を形作った。
絶対処刑剣。マクリーシュ家相伝の伝承術式が轟音を立てて火花を散らした。そのまま男目掛けて叩きつけられるが、大振りな一撃を男は難なくかわしてみせる。――クレイグの笑みは崩れない。それくらいは予想の内だ。
ライルは距離を取る男を見据えたまま、未だ回転し続ける処刑剣の刃へ跳躍した。
刃へ触れる瞬間、ライルは処刑剣と足の間に小さなマクリーシュの歯車を構築する。処刑剣の回転エネルギーが歯車へと伝わり、凄まじい速度で上に乗ったライルごと撃ち出された。
「!」
さすがに意表を突かれたのか、男の目が軽く見開かれた。驚きながらも冷静に迎撃せんと振られる剣筋へそのまま突っ込む。
男の間合いの内で、ライルはその身を一瞬だけ霞へと変えた。朧な影になった体をすり抜けて行く刃を一瞥もせず、再び体を収束させて大地を強く踏み締め斬り上げる。
ライルの切っ先が男の胸を確かに捉え、切り裂いた。ホリーが動けない以上致命傷を与えるわけにはいかないが、行動不能にするにもやや浅い。それでも一撃は届いたのだ。
「はぁっ!」
ライルはそのまま追撃を仕掛ける。姿勢を戻し切れていない男はその場を踏み締め、剣でもって受ける。
一際強い音を立てて剣が打ち合わされた。
鍔迫り合いの中で、ライルの目がふと先ほど傷つけた男の胸に留まる。
男の服は大きく裂け、布地の下から素肌を晒していた。その胸の中央には暗い穴が空き、露わになった金色の心臓が静かに脈打っている。再封印の形代たる少女のように。――あるいはリンネ変異体と化したバケモノのように。
「……!?」
ほんの一瞬、動揺によって動きが止まる。男はその隙を逃さずライルを蹴り、勢いを生かして後ろに跳んだ。
着地した先で、男は手を振って剣を血へと収納した。
「君たちなら乗り越えられると信じている」
ジェイルから金の血が溢れ、絢爛な意匠の斧槍を形作った。
「力を借せ、心殻」
男は石突で大地を強く叩いた。呼び掛けに応えるように、棘の大地から濁り澱んだ泥が溢れ出した。
泥から生えた鉛色の刃が吸血鬼たちへ襲い掛かる。刃をかわし、阻止せんと男へ迫ろうとし――ひとかたまりに集められてしまった仲間の姿に、巧妙に誘い込まれたのだと各々が悟った。
斧槍が躊躇いなく振り下ろされる。発生した金の力場は、記憶にあるよりも遙かに広かった。
――イドリスの驕り。
衝撃と共に、眼前の光景から色が抜け落ちた。
灰色の世界で男だけが動く。コマ送りのような現実感のない動きを見ていることしかできない中、男の前に異形の掌が現れた。
対称に生えた五指が開き、
灰色の世界で唯一、毒々しいほどに鮮やかな紅。あれは危険だと、誰しもが直感した。
「――っぐ、おおおッ!」
ジョゼは暴食の力で遅滞の力場を食い破った。一人抜け出した彼女は仲間たちの前に立つ。
「全員その場から動くな!!」
ジョゼは両手を突き出した。体の内に秘められた暴食の力を解き放ち、展開した力場で仲間を覆う。
直後、異形の掌から光線が放たれた。
暴食の力と紅い光がぶつかり合う。凄まじい衝撃と圧、そして相殺しきれなかった余波がジョゼを襲った。
「はぁああああああ!」
全身を襲う激痛に耐えながら、ジョゼは閃光の向こうにいる男を見据えた。
誓ったのだ。たとえ何があっても、彼の救いになると。
「あき、らめる……もの、かぁあぁあああッ!!」
撃ち出された紅い光は勢いを増し、影すらも呑み込んだ。
紅い光が消え、男の前から異形の掌が消える。
同時にジョゼの体から力が抜けた。声もなくその場に倒れ伏したジョゼへと、後方からリーズが駆け寄る。
「姉さん!!」
「本当に……戦いとなると、容赦ない、な。許婚どのは……」
彼女の背後ではクレイグが膝をついていた。ジョゼが相殺しきれなかった余波を身を挺して防いだのだ。
「無事か、ライル。ノアとヴァレンティンも、大丈夫そう、だな」
「クレイグ……!」
クレイグは笑うが、先ほどまであった覇気は消え去っている。消耗を隠しきれない顔で、震える手を押さえる。
「体が、うまく動かねえ。なんだこれは……」
「渇望の手」
男の呟く声が場に響いた。
「吸血鬼の心身を灼く渇望の月の光を集束して撃ち出す。精神を灼く機能は再現さ、れ……」
男は咳き込んだ。どす黒い血の塊を足下に吐き捨て、口の端から溢れる血を手の甲で拭う。
「……再現されていない。肉体の不調は治療すれば治るだろう」
何てことのないように再び得物を構えた男を見て、誰もが言葉を失う。
後方でラヴィニアとホリーの容態を見ていたゼノンが、顔を伏せて頭を振った。
「全身全霊を懸けたルゥ君の護りが果たして十数年で切れるだろうかと疑問だったが……君はずっと、そうやって命を削って戦ってきたのか」
男は答えない。
「悔やむ暇などない。分かっているとも。後悔など今この場で何の役にも立ちはしない。……一つ、訊かせてはくれないかね?」
視界の端ではリーズとライルが動けなくなったジョゼとクレイグを後方へと連れてきていた。目立つ外傷はなく、ダメージは男の言うとおり肉体への過負荷のみであるようだが、この戦闘で再び前に立つことは難しいだろう。
「何故、君は封印殻の中にいる君と自分をそこまで分離して考える? 先ほど見せてもらった記憶の通りなら、君たちの間には二日程度の差しかないはずだ」
分かっていて、問う。理由などとうに見当がついている。それでも、男の口から言わせることに意味があった。
「二日じゃない。あいつは俺の記憶を上書きされただけだ。それにあいつはあの子を失うことなく守り通した。報われるべきならあいつだ」
男は再び咳き込んだ。血で汚れた手を隠すように固く握り締める。
「俺はまだ、報いを受けていない」
「報いを受けねばならないことなど、君はしていなかっただろう」
男は首を振る。
「――ルゥを、護れなかった。命に代えても護らなければいけなかったのに」
彼の瞳に昏い陰が過った。
「たとえ誰がなんと言おうが、俺は俺を許さない。あの子の死に背を向けて生きていくなど、絶対に許してはおけない」
その声には焼け付くような憎しみが滲んでいた。
「……君は、誰も恨めなかった代わりに自らを恨んだのか。自分の責任だと、すべての使命と代償を代わりに背負ったまま」
死による償いを選ぶには、彼が負うべき責任は余りに大きすぎた。己を憎みながら人類の守護者として戦い続けるために生き長らえる。
その矛盾が彼を蝕み、やがて死に至らしめた。
男の目が、ふと封印殻へと向けられた。
「……羨ましいよ。あいつはあの子を救った。叶えられないと思っていた願いを叶えたんだから」
艶やかな封印の、その奥に見えるのは茫洋とした人影だけだ。そこにいるはずの少女の顔を見ることは決して叶わない。
「俺を救うと言うのなら。どうか、せめて、この素晴らしい時代の礎になれたと思い込んだ今のまま、死なせてくれ」
そうして男はかつての友へ向き直った。剣を握り締め、胸の穴を晒しながら、呟く。
「ここが俺の旅路の果てだ」
言葉と同時に、男の体から淡い燐光が散った。
未だ頭の中のさざめきが治まらない中で、ラヴィニアはその正体を看破する。術式とは到底呼べぬ、ただ指向性を持つだけの力の奔流が男の皮膚の下で猛っている。あの燐光は体が灼けていることの証左だ。不死ならぬ人の身では数分と保たないだろう。
「っ、今すぐやめなさい! 死んでしまう!」
ラヴィニアの絶叫にも男は動じない。
ヴァレンティンもまた、男の蛮行としか思えない行動に目を細めた。
「ノア」
「なんだ」
「生まれて初めて、友人の過ちを殴って止めることになりそうだ」
「なら経験者として教えてやれ。殴る方も殴られる方もしんどいもんだってな」
渇望の月の余波による痺れは消えておらず、ジャガーノートの効果は未だに切れていない。
それでも、腹の底からふつふつと湧き上がる情動は、戦闘を開始した直後よりも激しく己を鼓舞している。
背後でゼノンが声を張り上げた。
「最後の鍵は見つかった! 後は彼を止めるだけだ! 君たちなら、必ず彼を止められる!」
クレイグを後方へ届けたライルが二人に合流した。
「牽制した後はお前たちに合わせる。好きに動いてくれ」
「なら――」
ヴァレンティンからの提案に一つ頷き、ライルは男の元へ駆け出した。
一合打ち合い、ライルは目を細めた。先ほどよりも明らかに一撃の重みが増している。先ほど発動した術式によるものだろう。
打ち合えば打ち合うほどライルは徐々に押されていく。相応の代償を支払って力を得た男と、ジャガーノートと渇望の手の余波で十全とは言い難い体調のライル。趨勢は既に決していた。
「だが、それでも!」
顔を狙う突きを、ほんの僅かに頭を傾けるだけで避ける。目元に熱が走り、ついで濡れた感触が頬を伝う。そうして男の間合いの内に入り込み、胴目掛けて剣を振るった。その一撃は
「ぐ……!」
ライルに追撃せんとした男の横合いから双眸のルーンブレードが飛来した。
ライルを見据えたまま、男は剣で一対の刃を受け止める。弾き飛ばそうするよりも早く、ルーンブレードの背に零下の閃光が撃ち込まれた。
「!」
予期せぬ衝撃に男が僅かによろめいた。閃光はみるみるルーンブレードを凍り付かせ、巨大な氷塊へと変貌させる。
「私たちだって……!」
「舐めてくれるなよ、許婚どの!」
気絶から復帰し、ラヴィニアの背に隠れて銃剣を構えたホリーと、ラヴィニアに背を支えられて上体を起こしたジョゼが叫ぶ。
「リーズ、今だ!」
氷漬けになったルーンブレード目掛けて火球が撃ち出される。火球によって氷は弾け、大量の靄となって周囲を満たした。
戦闘は得意ではない。修練を積んだとはいえ、一線級の姉たちと並んで戦うには自分は力不足だとリーズは自覚している。だからこそ、リーズは全体を俯瞰する技術を磨いてきたのだ。――最初に四人を弾き飛ばした時、あの人はクレイグさんの目に映った影を見たと言った。そしてヴァレンティンさんたちがやろうとしていることを踏まえれば。
それまでも絶えることなく発動してきた
「お願いします、ノアさん! ヴァレンティンさん!」
「ああ、任せとけ!」
男が靄を払うより早く、ノアが踏み込む。
男は後ろへと跳んだ。双剣が届かないギリギリまで下がり、剣を構え――ノアの腕に追従したルーンブレードが靄ごと男の手袋を切り裂いた。
男の顔に驚愕が浮かぶ。
「武器を……!」
吸血鬼の扱う武器は一人一人に合わせた一点物。ノアはヴァレンティンと同じく技量に優れた剣士だが、術式の才は劣る。並立思考を要求するルーンブレードの制御は、慣れぬ者にはひどく困難な行為であるはずだ。
「あいつの戦い方は誰よりもよく知ってるんでな!」
それでもなおその一刀は鋭い。拳に追従する刃の動きはヴァレンティンに比べ単純で、だからこそ力強い。
同時に靄に紛れてヴァレンティンが斬り掛かる。その手にはノアの双剣があった。
手渡された双剣はヴァレンティンにとっては扱い慣れない武器だ。ノアに渡した己のルーンブレードよりも繊細で気難しい剣である。だが親友の戦いはずっと見てきた。その間合いも、立ち回りも、友が武器に込めた信念もよく知っている。
奇策により術式が刻まれた手袋は破壊した。目はリーズの機転によって封じた。この後のこともライルに伝えてある。今ヴァレンティンがすべきは、彼の余裕をすべて削り切ることだ。
「私は……私たちは君と共に生きたいんだ!!」
あえて声を張り上げる。男は反射的に振り向いた。頬をノアの拳に裂かれながら、足掻くようにジェイルから死神の大鎌を顕現させる。
大鎌の一撃が直撃する刹那、赤い護りがヴァレンティンとノアを覆った。
「せめてこれくらいは、な」
一撃目を護りで防ぎ、二撃目は腰を落としジャガーノートによる堅牢を生かしてそれぞれの剣で受け流す。男の動きに出現した明確な隙に、ヴァレンティンとノアは一歩を踏み入れた。
「――ここから始めてみせる」
ノアのルーンブレードが男の剣を弾き飛ばし、ヴァレンティンの双剣が男の脇腹を貫いた。
男は目を見開き、そして納得したように伏せた。血を吐きながら、微かな息を漏らす。
「……ごめ、ん。だ、けど、もう…………」
抵抗などさせるものか。
万力のような力で剣を抜こうとする男を拘束しながらヴァレンティンは叫んだ。
「ライル!」
「ああ!」
ライルは剣の腹を男の首筋に押し当て、威力を抑えた紫電を男に叩き込んだ。
「がッ――!?」
「ぐ……!」
紫電は刺さった剣を伝い、ヴァレンティンをも灼き尽さんと疾る。
数度の雷撃の後、男の体から力が抜ける。くずおれた体に引きずられて倒れ込みながら、ヴァレンティンはそれでも剣を離さなかった。抜ければ出血がひどくなる。今の容態を考えれば、これ以上体力を消耗させるべきではない。
「ゼノン、ホリー!」
ノアの呼び声に慌ただしい足音が重なる。
「いけるか!?」
「まずは術式の解除を行う! ホリー君は治療の準備を!」
「ええ!……もう手を離して大丈夫。あとは私たちに任せて」
ホリーと場所を代わり、ヴァレンティンはノアの隣に立った。双剣を返し、受け取ったルーンブレードを血へと戻す。
「何とか、ひと段落ついたな」
「ああ」
迅速に進められる手当てを見ながら、ヴァレンティンは噛み締めるように呟いた。
「これで、ようやく、スタートラインだ」
「……どうして」
意識を取り戻した男は、ぼんやりとした目で自身を囲む吸血鬼たちを眺めた。
男が気絶している間に、吸血鬼たちはホリーの治療を受けて調子を取り戻している。疲労は隠せていないものの、戦闘によるダメージは残っていない。
「君に、もう生きる気持ちがないのだとしても……勝ったのは我々だ。私のこれからの行いは君の生き様を否定するようなものだろう。だが、それでも。君はこの事実を知るべきなのだ」
ゼノンが男の隣に立った。そしてそっと、剥き出しの心臓に掌を翳す。
「君の心臓を守るために刻まれた術式はルゥ君の全身全霊と引き換えであるがゆえに、ここにはルゥ君のすべてが残されている。記憶も、意志も、君を護るという強い情念も。……言葉を交わすことはできずとも、いついかなる時も彼女は君と共に在ったのだよ」
術式に呼応するように、心臓が金色の光を放つ。溢れた光は集束し、やがて小柄な人影を形作った。
男の目が大きく見開かれる。
「……ル、ゥ?」
金の人影は茫洋として、容貌どころか表情さえうかがえない。男の隣に降り立った人影の、その口と思しき部分が揺らぐ。
――…………
枝葉のさざめきのような、音ならぬ音が人影から発せられた。言葉として意味は聞き取れないが、男には理解できたのだろう。脇腹を庇いながら上体を起こし、首を横に振った。
「違う、全部俺が弱かったのが悪いんだ。君が助けてくれたと分かっていたのに、君は信じてくれたのに、受け入れられなかった俺の弱さが悪いんだよ」
男はこめかみを前髪ごと握り締めた。
「だって、そうだろう? 皆が必死にできることをやって、命に代えて繋いでくれた世界を、受け入れられなかった。皆の想いを継いで、マグメルの人たちを守っていかなければいけなかったのに。耐えられなかったのは弱いからだ。弱かったからあんな中途半端な死に方しかできなかったんだ……!」
叫ぶ声に皮膚と髪が千切れる音が混じった。みるみるうちに髪の根元が赤く染まり、額から流れ落ちた血が眦を流れ頬を伝う。
「世界の、未来のためと皆を殺したんだ。なら俺だって世界と未来のために死ぬべきだ。……そうじゃなかったら、俺は何のために生き残ったんだ……?」
ボロボロの心で生きることに救いはあるのか。
再びの死を願った時、それでも生かし続けるのか。
自身の幸福を願えない生に意味があるのか。
戦いの前に交わした問答を飲み下し、ノアはそっと男の傍ら、金の人影の隣に膝をついた。
「何かさせるために生かしたんじゃない。ずっと誰かのための戦いを続けてきたお前だから、ただ生きてほしかった。かつての時代の俺たちは、それしか考えてなかったと思うぜ」
強ばった男の手に触れ、ゆっくりと指を傷口から外していく。今度こそ想いが男に伝わるように祈りながら。
「正直なところ、思い上がってたんだと思う。俺たちは吸血鬼で、お前は人間だ。どれほどお前が強くても、人間である以上お前は守られるべき存在だって、そう思ってたんだ」
膝の上に降ろした血塗れの手をジョゼが強く握りしめた。ライルは男の肩を支え、ホリーは手をかざして傷口を癒していく。
「俺たちは守られる側の気持ちを考えたことはなかった。それを思い知らされたのは、再封印が成されたあの日だった。……かつての時代の俺たちは、もしかしたら知ってたのかも知れねえな。それでも犠牲を支払うなら、俺たちが担うべきだと考えたんだろう。お前に、生きてほしかったから」
ノアは隣の人影を見つめた。あの記憶の中で垣間見た、かつての時代の自分が百年近く面倒を見てきたという少女。今ここにいるノアにその記憶はないが、かつての時代の自分が守ろうとした意志を、決して無駄にはしない。
「二人とも、ずっと頑張ってきたんだな。色々な苦しみや重責を背負いながら戦ってきた。苦しくても、つらくても、立ち向かってきた。誰かのために戦ってきたお前らにこそ、救いがあって欲しかった。幸せになって、報われて欲しかったんだ」
その祈りは呪いとなって彼を苛んでしまった。追い詰めて、苦しませた。
でも。それでも、諦めることはできない。彼のことを諦めたら、彼が繋いできたかつての時代の想いも諦めることになる。
「……死んだらそれきりだ。でも生きてれば可能性は繋がる。ここにいる全員、お前らが可能性を繋いでくれたからこうして生きてる」
祈るように、ノアは男の目を見つめた。
「なあ。もう少しだけ、俺たちに付き合ってくれねえか。ルゥだってここにいる。ゼノンなら、お前ら二人をどうにかするくらい訳ないだろうさ」
「勿論だとも。君たち二人を生存させる手段なら数万通りは提案できる!」
「な。……だからよ、もう少しだけでいい。お前と、ルゥに、お前らが繋いだものを見せたいんだよ」
懇願に、男はそれでも顔を上げない。俯いたままの男の前で、ヴァレンティンは手を差しのべた。
「どうか、私たちを信じてほしい。……約束した世界を、君たちと一緒に見たいんだ」
その手に、金の人影が手のひらを重ねた。そうしてもう片方の手を、男へと差し出す。
「あ……」
男の目が揺れた。
金の人影の、茫洋とした口元が動く。彼女の放つ声が音ならぬ音であることに変わりはない。だがそれでも、何と言ったのか、その場にいる全員が理解した。
――私を、信じてください。
男は震える手を人影へ伸ばした。実体のない手は、壊れ物に触れるように傷だらけの手にそっと触れた。
◆
「子猫?」
「ええ。白いちっちゃなふわふわの猫。今マグメルのちょっとしたアイドルなんです」
店主からのオウム返しの問い掛けに、お嬢さまは小さく頷いた。
パン屋の店内に併設してあるカフェスペースにて、お嬢さまはキャラメルラテを飲みながら世間話に花を咲かせていた。その隣では半月前に目覚めたばかりの大英雄たる少女が、カップを抱えて大事に味わうように飲んでいる。マーマレードを溶かした特製ココアを気に入ってくれたようだ。
「大人しくて人なつこくて、でもちょっとだけ人見知りで。ほんとにお姉様を猫にしたらあんな感じみたいな子で可愛いんですよ。もちろんお姉様もとっても可愛らしいですけどね」
「あの……えっと。恥ずかしいので、ちょっと……」
「あら、いいじゃないですか。わたし、すごく嬉しいんですよ。お姉様みたいな可愛らしくて優しい素敵な人が姉になってくれて」
「…………うう」
最近顔を合わせたばかりの双子の姉に、お嬢さまはすっかり懐いた様子である。顔も体格も瓜二つの二人だが、大人しく穏やかな雰囲気の姉のルゥに対して、お嬢さまは比較的快活でコロコロと表情が変わるために判別は容易い。
大英雄の片割れと双子の姉妹であるというお嬢さまは当たり前として、どういう訳か店主ももう一人の片割れと顔立ちや色味がよく似ている。歳が十も離れており、また並ぶと体格や雰囲気がかなり違う――店主は人間種の宿命たる中年太りの危機に直面しており、一方の大英雄の片割れは若いこともあって宿命とは無縁そうな引き締まった体をしている――ため間違う者はいないが、そっくりな兄弟と言い張れる程度には特徴が近いのだ。
そんな店主と似ている方の片割れはつい先日、免許不所持を理由に
「ところでどう、勉強の進捗は?」
「言葉にするのは心苦しいのですが……あまりよくないようです……」
ピクリとも動かない片割れに代わって、ルゥは苦笑を浮かべた。
「あの、車とバイクの違いはありますが、運転免許取得の先輩として、何かこつとかあれば……」
「そうだなぁ……正直なところ、なにはともあれ実際に道を歩いて確認するのが一番じゃないかな。そっちは子供が教わるような交通ルールだってまだよく知らないんだろう? 信号とか標識とか、あとは歩行者としてのルールやマナーとかだね。車の運転って高度な応用知識だから、まずは基礎を固めないと今みたいに途方に暮れたままだと思う」
言いながら、店主は片割れの頭の隣に砂糖を多めに入れたコーヒーを置いた。顔だけでなく味覚の好みもよく似ているので、店主が飲みたいものを渡せばだいたい片割れも喜んでくれる。よろよろと体を起こした片割れの背中を優しく叩いた。
「がんばりなよ。運転技術の方はみんな太鼓判を押してるんだから、あとは人やものを傷つけない、周囲と協調した運転のための知識だけだ。免許が取れたら友達とツーリングに行くんだろ? 屍人の森も酸の谷も、走ってて楽しいって感じる道が多いよ」
大英雄と称えられていても、そう呼ばれるに足る力量を持っていても、彼らはまだ若い。青春に早いも遅いもないし、むしろ今までが大変だったぶん、楽しいことをたくさん経験して人生を謳歌してほしい。単なる知人でしかない店主がそう願うくらいには、二人ともまっすぐで優しい、気持ちのいい若者なのだ。
「じゃあ俺は厨房で明日の仕込みしてるから。帰る時はいつもみたいにカップをレジの方に下げといて」
「はーい」
「はい。いつもありがとうございます」
三人に見送られながら厨房に引っ込もうとした時、入口のドアベルが軽やかに鳴った。
やや身を屈めながら入ってきたのは顔馴染みのヴァレンティンだ。忙しい身の上のはずだが、何だかんだ三日と空けず顔を見せる常連である。
「お邪魔するよ。席は空いてるかな?」
「今はお嬢さまたちがいるだけですよ。何にします?」
「いつものを頼むよ。ほら、君たちも入って」
ヴァレンティンに促され、長身痩躯の後ろから一組の少年少女が顔を覗かせた。
歳の頃は十代前半くらいだろうか。店主の歳の離れた弟と同年代とは思えない、煎じて飲ませるための爪の垢を譲ってほしくなるほどの落ち着きっぷりである。少女の方は体のあちこちにある金細工のような装飾からすると、どうやら吸血鬼であるらしい。
「その子たちは?」
「ふたりとも大切な友人でね。マグメル周辺を案内してるところなんだ」
「それでうちに? 光栄だなあ……ん?」
改めて少年の顔を見て、店主は思わず目を瞬いた。
少年にしろ少女にしろ、その顔立ちはなんだか妙に印象に残りづらい。だが少年の方をよくよく見れば、目鼻の形とバランスは明らかにカフェスペースの大英雄の片割れと瓜二つ、つまるところ店主ともそっくりである。
視線の先で少年はバツが悪そうに目を伏せた。見つめすぎてしまったらしい。
「……その、なにか」
「あ、すみません、不躾に。まあとにかく、ゆっくりしていってください。なに食べます?」
「その、ここの惣菜パンが美味しいって聞いてて。おすすめとかあれば……」
「うちの売れ筋だとやっぱり定番の
「ええと……」
その問いに代わりに答えたのはヴァレンティンだ。
「アレルギーは二人とも大丈夫だ。好き嫌いの方も問題なさそうだね」
「これでいい?……、分かった。その、ボカディージョ? を、二つお願いします」
「飲み物は私と同じものを。二人の分の砂糖とミルクも頼む」
「分かりました。じゃあ会計お願いします」
電子決済を済ませ、目の前の常連謹製のコーヒーマシンをセットし、ショーケースから注文の品とオマケの菓子パンを出してトレイに載せる。その間に少年たちは片割れに声を掛けられてカフェスペースへ移動していた。どうやら三人とも顔見知りであるらしい。
「あの子のこと、気になるかい?」
「そりゃまあ、気にならないって言ったら嘘ですけど……」
水を向けられて、店主は視線をヴァレンティンへ戻した。彼は店主が抱いた疑問を見抜いているのだろう。
「まあでも、うちのパンがおいしいって聞いて食べにきてくれたんですから。自分にできることで、喜んでくれたら嬉しいですよね。思うのはそれくらいです」
パン屋にしろ、ほかの飲食業にしろ、人々の暮らしを支えると同時に日常の小さな幸せを作る仕事だと店主は思っている。誰かが喜んでいる姿を見るとこちらも嬉しくなるし、それが自分の作ったパンによるものなら喜びもひとしおだ。
あの二人も色々と訳ありな身の上なのかもしれないが、美味しいものを親しい人たちと食べることを楽しんでほしい。
そんなことを店主が言えば、ヴァレンティンは穏やかに微笑んだ。
「……本当に、君を尊敬するよ」
「え、どうしたんですか急に」
その時、コーヒーマシンから淹れ終わりの電子音が鳴った。
手渡したトレイを持ってカフェスペースへ移動するヴァレンティンを見送って厨房に入ろうとした店主は、ちょっとだけ、とカフェスペースの様子を伺った。
「……美味しい」
少年は一口食べて、思わずといった様子で呟く。そうして隣で菓子パンを食べている少女と顔を見合わせ、穏やかな顔で笑いあった。