ー∞ー∞ー∞ー
ー笛吹男ー
ヒュヒュヒュ
小芥子を削る木工轆轤の様に鋼帯を振り乱し円筒形の金属の回転が停まると、鑿の役割を果たしていたバイトが工作機械の右奥へ移動し
コンコンコン
ATCがエンドミルへと切削工具を交換して
シャシャシャ
円筒形の金属に溝を掘る
「凄い。カッコイイですよ、此れは・・・」
工員は溜め息を漏らし
「自分でも段取りから遣ってみたいと思いませんか?」
笛吹 率も溜め息を漏らす
「いやぁ・・・俺なんか未だ未だ」
「其処の材料も同じ手順で工作物を交換してパレットに載ってるだけ遣っておいて下さい。ボ~ッと加工を眺めていないで数値制御のプログラムも一緒に見て、命令が何を遣ってるか考えながら」
「了解です!」
威勢の良い返事に
「はぁ」
笛吹が再び深い溜め息を漏らすと
「何かお困り事がございますでしょうか」
黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子が声を掛けてきて
「何方様ですか?」
怪訝の面持ちで
「申し遅れました。私、斯う言う者に・・・」
差し出された名刺を
「禍金機械商会。機械商さんですか。生憎と・・・」
返そうとするが
「いえいえ、禍金機械商会では機材や消耗品の販売だけではございません。萬、工場の御悩み事を承ります」
「清掃のパートの契約なのに教育係を押し付けられて、今日で辞めますので」
「其れでは此方を・・・」
更に差し出された紙の束に目を見張り
「独国·メルヘン街道。グリム童話の世界を巡る魅惑の1ヶ月。グリム兄弟生誕の地ハーナウから、“赤ずきん”のシュヴァルムシュタット、“ホレおばさん”ルートも“茨姫”ルートも捨てがたい。“ほら男爵”のボーデンヴェルダー、“ハーメルンの笛吹き男”のハーメルン、“ブレーメン音楽隊”のブレーメン、“船の精クラバウターマン”のブレーマーハーフェン、“ウサギとハリネズミ”のブクステフーデ。往復の航空券に旅行券も」
顔を上げると禍金の姿は無かった
「何も『払わない』とは言ってないでしょ。社員達は仕事が始まったばかりよ。一人だけ帰るつもり?」
作業着の女が声を荒らげると
「朝6時から始業の8時迄2時間の機械の清掃の仕事です。もう10時です。初日から約束を破りますか。既に破られていますが」
笛吹も声を荒らげ
「シャキーン。シャキーン。って、マシンニングも複合加工機も動かしといて、其の技術をどうするつもり、1人で抱え込んで。此の吝ん坊の柿の種!」
「テーブルを寄せないと掃除の邪魔に成りますので。社長さん。契約です賃金を払って下さい。クレーム入れますよ」
手に持ったスマートフォンのアプリ画面を見せる
「クレーム入れるのは弊社ですからぁ。其れに金じゃァないでしょう。此の仕事は楽しまないと駄目。『面白いです。御金を払いますので私に遣らせて下さい!』って言う位じゃないと一人前に成れないわよ」
「もういいです」
笛吹の顔は青ざめているが
「逃げるのか。聞いたわよ、独国旅行に行きたいんですってね。私も最近になって行って来たけどソーセージとかジャガイモとか酸っぱいキャベツとか黒パンの大味で不味い料理ばかりで本当に後悔だけ。行く意味なんて無いから。御金じゃないの。夢みたいな事ばっかり言ってる駄目人間は機械加工の仕事に命を賭けて遣れ。此れは命令!」
社長に人格否定の追い討ちを掛けられ
(何か食べに欧州に行くなら仏国か伊国でしょうに。目的意識もなく唯唯浪費としか思えない行動をするのは、会社経営のみならず色々と他の才覚にも欠けてる人に見えて仕方がない)
黙りこくる笛吹は
「今日は定時で上がって良いから。明日には此の契約書を書いて持ってくるのよ。保証人になる人にも直ぐに連絡をして」
重ねて暴言を浴びせかけられ
「御支払い頂けない様ですと、社長さんは余り重要視されていない様ですが代わりを頂いて上がります」
静かに言った
「良いんですか?笛吹さん。此の儘メールで皆に送ってしまいますよ。でも本当に面白い。アンデルセンの“裸の王様”が女王様に成るだけで、こんな破廉恥な御話になって」
笛吹が送った電子メールをスマートフォンで見た工員はくすくすと笑いを堪えながら言う
「然うして下さい」
「弊社の社長みたいです。シンクタンクだかコンサルティングファームのペテン師に騙され『女王様は裸だよ!』って指摘されてるのに『あの子供は馬鹿だから此の素晴らしい衣装が見えないのね』って・・・うふふ。工場長しか新しい複合加工機を扱えなくて・・・涙が出てきた。隣国の王様は『国民の中には馬鹿もいる』って、無駄な出費をせず難を逃れるおまけ付き」
「童話と言うのは意外と辛辣な風刺や皮肉になっていますね」
シューン
マシニングセンタが緑色のランプを灯し正常停止する
「どうかな?」
工員は慣れた手つきでマイクロメータを使い、万力に固定された工作物のエンドミルで加工された箇所の寸法を計る
「有り難うございます。納期に間に合いそうです」
「アップカットとダウンカットの違いです。何方が正しく何方が間違っていると言う訳では有りませんが、此の場合ダウンカットが向いています。どうしても万力の掴みが弱いので、切削抵抗の力の方向が外側に向いてしまうアップカットは振動の原因になり向いていない。切り粉が排出され易く面が綺麗に仕上がるのでアップカットにしてしまいがちですが」
「基本的な事ですよね。忙しさに感けて忘れていました。もう辞めたいと思っていたけど笛吹さんみたいな人に居て貰えると頑張れそうです」
「機械の清掃をしていますと定盤が物置になっていたり、工具や計測器が乱雑に置かれているのが目に付き可成り荒んだ印象を受けてしまいました」
「誰かが辞めた。と言う訳では有りませんが。コンサルティング会社が入って社長が無茶を言い出してから工場内がギスギスして慢性サボタージュで」
「サブプログラムごと固定サイクルにして有るので、後は数値制御プログラムが勝手にワーク原点を切替えてモーダルで4回繰り返します。此を9回36個」
笛吹がディスプレイのMDIモードからソフトキーを押しシングルブロックを解除し改めて起動ボタンを押すと
「簡単ですね」
背広の男は素っ気なく言い
「然うですね」
笛吹は無表情
「絵も描けませんか?社内新聞に載せたいので」
「趣味で絵本を描いているので少しなら」
「機械加工の話に寄せて、少年が創意工夫と技術で熟練工も顔負けの金属の加工を遣って退ける。そんな感じで4コマ漫画を描いて貰いたいんです」
「即興で掌編小説を書く事は有りますが、小説でも漫画でも短いと簡単に書けると言う訳ではないですよ。寧ろ短く纏める方がずっと難しい」
「何とかお願い出来ませんか?資料集めやプロット作りは此方で遣りますので」
「『御話を考えるのは好きです』然う言う人がいますよね。魔夜峰央先生が“パタリロ!”の作中でタマネギ部隊の1人に『頭の中にあるうちが最高傑作』と言わせていて、つまり文なり画で表現しようとする時に文才や画才の無さと向き合わざるを得ない。自らの非力と向き合う事こそが創作の苦しみだと思います。音楽でも映像でも同じではないでしょうか。頭の中にある世界が緻密で大きければ大きい程に拙い具現化との隔たりに苦しめられる。資料集めと称し古本屋で立ち読みしながら物語を空想して創作で一番楽しい部分は自分が遣るから、辛い部分は全部遣って下さい。虫がいい話ですね」
「然う言うんじゃないんです。お手伝い出来ればなぁっ・・・と思っただけでして」
「其れに経験の無いことは書けません。面白いSFを書く作家って凄いと思います。想像だけで物語を紡げるなら童話作家を目指したい」
「笛吹さん。機械工の経験が無いんですか?」
「機械工の仕事をして。面白い。楽しい。然う言う経験が有りません」
夕暮れの工場の事務所
「清掃のパートの処を御無理を言いまして。助かりました」
作業着の男が両の手を着き応接テーブルに頭を叩き付けんばかりに下げ
「お役に立てましたら何よりです」
笛吹がスマートフォンの画面を見て腰を上げ様とすると
「笛吹さんは漫画の“ナッちゃん”を御存知でしょうか。弊社の社長も大学生の頃に父親である先代の社長を事故で亡くし、本来は親思いの非常に情に厚い女性でありまして、卒業すると直ぐに後継者として工場の熟練工共を纏め上げ危機からのV字回復ッ。数々の非礼は工場長である私の責任でも有ります。社長も工場をより良くせんと契約致しましたが、社長の生真面目さと純粋さに漬け込む悪しき入れ知恵断じて赦し難き。社員からも不評の嵐のコンサルとは今期の契約で終了したいと存じますればぁ」
工場長は熱く語り出した
「面を御上げ下さい。誤解があった様です。生真面目さ故に工場の為と吹き込まれると、其れこそ真面目に実行してしまう。短期的に数字は良く成るのかも知れませんが、コンサル等と言うのは契約期間だけの刹那的助言に留まり勝ちですね」
「身に沁みました。社長が独国へ行きましたのも協力会社からの要請でして。長期旅行では難しくなりますが、社長に随伴と言う形でなら・・・こんな零細企業ですが世界と対等に渡り合う仕事をしていまして。遣り甲斐なら文句無しです。御不信は御尤も。書面上の待遇で弊社の誠意を現す覚悟です」
「工場長さんは此の工場に勤めて御長いのですか?」
「新卒で入社しまして今日迄」
「工場の危機に新米社長を助けてですか。失礼ですが御結婚は?」
「仕事仕事の人生で独り身の儘で」
「社長さんも?」
(駄目だ まだ笑うな)
笛吹は自分に言い聞かせ
「左様に存じております」
工場長は顔を真っ赤にしている
「本日は有り難うございました!」
工場の正面玄関の前で90度お辞儀をする工場長を背後にして
(計画通り)
笛吹は不気味に嗤った
工場の朝礼
「ごめんなさい。私の判断ミスです」
社長は頭を下げ
「皆が多忙だから『未だ未だ』って我慢していたんです。俺も笛吹さんや工場長みたいに動かしてみたいですよ」
静まりかえり
「全力で連絡を取れる様に手配しています。其れから・・・」
隣の工場長が深刻の表情で
「社長・・・」
と、目配せし
「私と工場長の役員報酬は半減の上で笛吹さんの報酬に充当します」
「昨日の午前6時から何度も好機は有ったはずで、何を言われても『何故、昨日の内に』と成りますよ。“裸の女王様”を騙したペテン師は責任を取るのですか?」
「ごめんなさい」
平謝り
「笛吹さん。絶対に何処かの工場に再就職しますよ。俺は笛吹さんに教えて貰いたいんで、此処は辞めます」
「僕も辞めます」
「皆さん待って下さい!」
工場長が顔面蒼白で止めに入る
「私は1ヶ月だけ待ちます。お世話になった工場ですので、でもコンサルとの契約は終了させて笛吹さんを呼び戻して下さらないと、其の後に続ける自信は有りません。倒産コンサルティングなんて冗談じゃないですよ」
「俺も」
「僕も」
「儂も」
飛行機は巡航高度に達し
「ふぅ・・・」
笛吹は溜め息をつき
「独国へは御旅行で?」
隣席の旅客は笑顔
「準備だけして行けず仕舞いだったのに背中を押してくれる人がいて・・・先ずハーメルンから、それからメルヒェン街道を・・・頂いた航空券の日付が今日なんですよ」
「ハーメルンと言えば“ハーメルンの笛吹き男”」
「1284年の6月に実際に起きた出来事とされています。笛を吹く派手な男が現れ鼠の大群を率いてヴェーザー川で溺死させますが、市長は約束した駆除の成功報酬を支払わず、今度は130人もの子供を率いて丘に消えた・・・」
空港の青い空を仰ぎ見る、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、Gute Reise!(良い旅を!)」
ー∞ー∞ー∞ー
ー電波系ー
「仕事用と私用で分ける。然う言うのネット依存者の言い訳ではないですか。デュアルSIMの端末でもスマートフォン2回線分の料金が掛かる訳ですよね?」
音津 寿碧が、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子の提案に訝しげに言葉を返し
「いえいえ、社長様。今しがたの様に急にスマートフォンが故障して『工場と連絡が取れない』其の様な場合でも予備にもう1台お持ちであれば心丈夫と言うものです。今回は禍金機械商会が御側に居りまして事なきを得ましたが・・・」
禍金が名刺を差し出すのに
「禍金機械商会さんね。助かりました。憶えておきます」
感謝の言葉で
「其れでは此方を・・・」
長方形の箱を手渡され
「此れは・・・有機EL6.9インチの大画面に5G対応SoCは、アンテリナム9バイオ4、16GBRAMと、1TBROM、バッテリーは4900mA/hの大容量。ノンキャリアSIMフリーモデル。最新ハイエンドではないですか」
表記の小難しいスマートフォンのスペック表を読み上げ、感嘆し顔を上げると禍金の姿は無かった
音津が帰社して社長室の椅子に座ると気忙しくスマートフォンの入った箱を開け一緒に渡されたTPU素材のケースを嵌めて画面の防護フィルムを貼り電源を入れ
「ぬるぬる~さくさく~」
不気味な声を上げると
「スマホ壊れていましたか?領収証が有ったらお願いします」
音津の帰社を見て駆け付けた牧野が言うが
「領収証は無い。此れは私物で・・・万が一の予備に。今日みたいな事が有って出先で緊急の連絡が出来ないと困るだろう」
音津はスマートフォンに夢中で
「電話の件ですが、ご指示の通り森さんに打診しておきました。短納期で数が有りますが大丈夫ですか?」
牧野は不安そうだが
「設計変更は有るが随分と以前にやったG13のプレートと大差無い今度も出来るさ」
音津は楽観的
「何度も言うけど無理」
森が定盤に図面を叩きつけるように置き、打切棒に言うと
「森ィッ。技術を隠してるんじゃぁねぇぞ。どんだけ工場に損害を与えれば気が済むんだ!」
音津はスマートフォンを片手に目を真っ赤に充血させ口角に泡を溜め怒鳴り
「工場に損害?」
森は開いた口が塞がらない
「其の技術があれば、もっと仕事を取って工場は稼げるだろうがぁ!スマホ持ってるんだろ、見てみろよ、ネット民が言ってるんだよ!」
「1人で遣った仕事ではない。山崎さんに大隈さんと『三人寄れば文殊の知恵』と言って、意見を出し合って専用の治具と数値制御のプログラムを作って三人で深夜残業してだからな」
「山崎は定年後の再雇用だったのが、血尿の検査で膀胱癌が見つかって、もう、引退だろ」
「大隈さんは?」
「高いんだよッ!」
「ハァッ!?其れで追い出し部屋か?賃金を吝嗇って作れなく成りました。然う言う事だ」
「俺は森が遣ってるの見たんだぞ。ネットでも森が遣ったって言ってるんだ」
「山崎さんと大隈さんの補助役の一人として遣っていた。其のタブレットみたいな巨大なスマホを置いて話をしろよ」
森は宥めるように言うが音津は構わずに指でスマートフォンを操作しだし
「然うだ切削油だ。プログラムで出来るんだろう。全交換すると高く付くからよ。臭い臭い機械工は、キケン、キツイ、キタナイ、の3Kにクサイを足した4Kって・・・プログラムでチャチャッと浄化して綺麗にしろよ、俺は忙しいんだ」
音津はスマートフォンを握り締めフラフラ揺れていて
「プログラムで切削油の全交換は出来ないぞ。何年も交換しない工場はあるが、貯留槽と循環装置を増設して定期的に水素指数管理をしてだからな。大丈夫か。変な薬でも遣ってるのか?」
森は心配そうに言うが
「だから其れを遣れって言ってるんだ!」
話が通じなかった
闇に飲まれた工場の一角で高い天井に吊るされたハロゲンライトに照らされマシニングセンタは治具に固定された金属のプレートを超硬エンドミルで削っている
「間に合わない。G13のプレートの段取りが其の儘で使えて良かったけどな」
森は疲れた表情で呟き
「もっと速く出来るだろ!」
音津は怒鳴り
「速い、安い、美味い。と三拍子揃わないのが機械工の仕事でね」
「大丈夫だ。速くしないと間に合わないぞ!」
オーバーライドのダイヤルを回すが
ガガガガ
異音に慌て元に戻す
「微粒子超硬を使って機械をブン回し精度と速さを取れば高い。高速度鋼を使ってハイススピード落として安くて精度を取れば遅い。高速度鋼をブン回せば精度が出なくて不味い。現在遣っているのは目の玉飛び出る様な高額の微粒子超硬で機械を煽って速くて高精度」
「此処に元請けから預かった見本の証拠が有る!」
森は困った苦笑で作業着の上着を脱ぐ
「30分で出来る」
「其れじゃぁ遅い」
「其の証拠とやらは本当に10分で作れたのか。現実に作れる証拠であっても10分で作れる証拠ではない。1時間位かけて作ったかもな。大切な事なので繰り返すぞ、スマホを置け」
「どうしろって言うんだよ」
「現実的に工場の許容量を考えて時間と単価に余裕を持って仕事を持って来るのが零細経営者の仕事で才覚で実力ではないのか。元請けには平身低頭。経営する工場ではスマホを握りしめて怒鳴り散らす。強きを助け弱きを憎む。内弁慶が音津工作所社長の仕事なのか?」
「社長に向かって言葉遣いが失礼過ぎるぞ。尊敬語で話せ、俺は忙しいんだ、黙って遣っとけ!」
音津は高圧的な態度で迫るが
「なんですかぁ?」
森は右の掌を右の耳朶を拡大する様に当て
「おいッ、巫山戯るなよ。死ぬ気で遣るか辞めるかだぞ!」
「毎月、毎月、契約を更新している委託派遣社員に、ンな事を言うとどうなるか解ってる?」
バンッ!
顔に作業着を叩き付けられた
社長室でスマートフォンを弄る音津を見て
「とりあえず50枚。完全稼働でやって貰っています。残りは納期を後ろ倒しにして貰いました。またスマホでゲームですか。皆は天手古舞いの忙しさですよ」
牧野は言うが
「ああ・・・」
音津はスマートフォンを見詰めたまま生返事
「派遣会社から連絡が有りました。只でさえ人手不足なのに森さんまで辞めてしまって。段取りの出来る人が一人減ると他部所にまで皺寄せが来るんです。もう製造に人を回す為に経理の私が営業みたいな仕事をしているんですよ」
「此からは少数精鋭で行かないとな。色々と遣れて楽しいだろう?」
「他人事みたいに・・・」
牧野は不機嫌
「森が10分で加工出来るプログラムを持ち逃げしたんだ。アレが有れば皆が辛い事も無く数を上げれたんだゾ」
「G13のプレートは30分掛かっていましたし、森さんは『山崎さんと大隈さんとで協力して遣った』って言っていました」
「五月蝿いな。10分で作れる可能性は0じゃない。詰まんねぇ話をしてないで森を連れ戻す算段をしてろよ。森の野郎。俺に楯突きやがって奴隷労働で扱き使ってやる」
音津の視線の先はスマートフォンの画面の儘でぶつぶつ呟く
「其れは悪魔の証明ではないですか。10分で加工が可能を否定出来ないからと言って、10分で加工が可能には成りません。幽霊みたいなもので存在を主張する側が目の前に呼び出すべきなんです。然うでないと『幽霊の存在は否定できない』と言うだけで永遠に水掛け論・・・」
「何が言いたいんだよ」
「社長が直直にプログラムを作って10分で加工して見せて下さい」
「だからプログラムは森が持ち逃げした。取り戻せば、其処に有るのに、どうして俺が作らなきゃならない?」
「皆が困っているからです。森さんは戻りません。そんなプログラムが存在するなら、今すぐにでも必要です。社長が証明しなければ永遠に水掛け論です」
ドーン!
マシニングセンタが轟音を立て赤いランプを灯して停止し工場は騒然となり
「ネットで調べなきゃ解らないって言ってるんだ!」
音津の怒声が工場に響き渡ると
「ハイススピードが過剰だ。いい加減に不可能と認めたらどうだ」
作業着の老人が静かに言った
「だからプログラムは森が持ち逃げした。10分で加工する様を此の目で見たんだ。スマホを返せ、山崎!」
「此の携帯電話は暫く預かっておく。プログラムの話ではない。100年前のパリ万博で高速度鋼が世界に発表されて以来、其れが炭化タングステンの超硬工具になろうが、機械の動力で工具を押し付けて、金属の硬さの差で毟り取っているのに違いはない。何故に工作機械のプログラムで物理的限界を越えられるんだ?」
「ネットの情報だ。年寄りがコンピュータを理解出来るはずないだろうが、馬鹿ばっかりだ、吃驚するぞォ・・・アレを見たらよ」
「先代も草葉の陰で泣いているぞ」
「人手不足だって解消なんだゼ。俺が意見して遣ればよ。知っているか。森の奴ネット小説なんて書いてやがって・・・俺は森の兄貴みたいなものだろう。だからよ俺を主人公にして小説を書かせるんだ『俺はだれの命令も受けぬ!!それが神の命令でもな!!』ってな、其れで有能な若者が俺を目指して工場にやって来る訳ぇ」
「其のネット小説は本当に森が書いたのか?」
「文体が森の日報と同じなんだゼ。間違いない」
音津は山崎に詰め寄り
「経営者たるもの社員を使えれば良いんだよ」
「自分が使えないのに社員は使えるのか?」
二人は顔を突き合わせ睨みあい
「見てろよ、親父の時代より会社を大きくして遣るからよ・・・っとぉ!」
音津は山崎の手からスマートフォンを捥ぎ取り
「目を覚ませ!」
山崎の制止を聞いてか聞かずかスマートフォンを持ち脱兎の如し
「ごめんなさい。山崎さん。誰も社長を止められなくて」
牧野は山崎に頭を下げる
「『おまえの字面が義弟に似ている』か。其れはラオウではないジャギだ」
「社長室には居ません。社用車の鍵が有りません。スマホを持って社長は何処に行ったのでしょうか?」
牧野は途方に暮れ
「2ヶ月ばかりの入院と手術で工場を開けてみれば、此の有り様だ。先代には申し開きの仕様もない」
山崎は給湯室で煎れた茶を牧野に差し出し
「有り難うございます。山崎さん。復帰の方は?」
「早期発見で大事はなさそうだが今までの様には働けんな。未だ未だ若いつもりだったが手術でガクッと体力が落ちた。しかし、どうしてしまったんだ2代目は」
2人は休憩用のベンチに腰を下ろす
「壊れるまでスマホを使い倒していたかと思えば、あの巨大スマホです。其れから急に『ぬるぬる~さくさく~』と譫言のように呟く様に成って、ネット依存症みたいに成って。私、憧れていたのに・・・うぅ」
牧野は大粒の涙を溢し
「凸凹工科大学工学部機械工学科卒業で音津工作所の御曹司。幾つも工業の資格や検定の試験に合格していて、正真正銘の工業界のサラブレッドとは音津寿碧社長の事だったはずがな。大隈と併せて『音津工作所のツートップ』と讃えられ先代も『工場の行く末に一片の不安も無い』と病床で俺に言ったのに・・・泣くな、若菜ちゃん」
「でも、あんなスマホが無ければ良かったのに」
「何処かで買うとかして手に入れたんだろ、うっく・・・歳食って涙脆くなって、俺も泣きたい」
2人は啜り泣く
公園の駐車場に停められた1台のライトバンの側面には【音津工作所】の文字が記されていて
「ぬるぬる~さくさく~」
車内の男はガリガリに痩せこけ延び放題の無精髭に真っ赤に充血した目でスマートフォンの画面を凝視し指を滑らせ不気味な声を発していた
其のライトバンを遠くから見ている、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、其処のあなた。今日はスマホを使い過ぎではございませんか。インターネットはマナーと節度を守ってご利用下さい。でないと大変な事になりますよ。お~ほっほっほっほっ」
ー∞ー∞ー∞ー
ー残響室ー
「禍金機械商会。聞いた事が無いんだけど。飛び込みで来られても長い付き合いの機械商がいるからねぇ」
事務室の片隅のパーティションで仕切られただけの簡易な応接室で、室内 響が差し出された名刺を一瞥し、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子に言うと
「いえいえ、禍金機械商会では、機材や消耗品の販売だけではございません。萬、工場の御悩み事を承ります」
「悩み事ね。マシニングで何か言ってなかったか?」
パーティションの横から首を突きだし事務机の並ぶ一角に呼び掛けるようにしたが茶を出して引っ込んだばかりの加藤の返事は無い
「御困り事がございますでしょうか」
「ああ、弊社さぁ、旋盤屋だって言うのに元請けが五月蝿くて、商工会議所に借金してマシニングセンタを4台導入してしまって。数値制御フライス盤を遣っていた熟練工は『60歳を過ぎたら一旦定年退職で同じ仕事をして給料は3分の1で再雇用。馬鹿にするな!』って言って辞めちゃって。ずっと求人は出し続けているんだけど、若い即戦力が欲しいのに全く応募が無くて上手く行ってない製造工程なんだけど」
「其れでしたら・・・」
禍金がカサカサとファイルを捲り1枚のA4用紙を取り出しローテーブルに置くと
「技術者のお悩み解決。其れにインターネットのURL・・・アドレスか」
室内は興味を引かれ
「はい。日本中の技術者が集い、製造に関する悩みに知恵を出しあい解決しようと言うサイトです」
「良いサイトだったらさ、禍金機械商会。弊社で使ってあげても良いよ」
「有り難うございます。其れでは1つだけ注意点を。何しろ日本中の技術者が集うサイトです。反対意見も必ず有る事と思われますが無下にせず。耳の痛い意見こそ真摯に受け止める度量をお持ち下さい」
「ああ」
俯いて気の無い返事をして顔を上げると禍金の姿は無かった
「4219番。1日に1000個は欲しいそうです」
営業の加藤が情けないような困ったような顔をして進言すると
「う~ん。マシニング1台を4219番専用にして、1回2個取りの専用治具を拵えて、工具は高速度鋼から1本1万5千円の超硬エンドミルにして1日600個。これ以上どうしろって言うんだよ。機械のリース代金もあるし仕事は山の様に欲しいけど許容量超えてるぞ」
「断りを入れましょうか?」
「いや、待て」
室内は難しい顔をして暫し腕を組み唸りながら考え事をしていたが事務机のPC脇に置いていたA4用紙に視線を移し
「溺れる者は藁をも掴む。だよなぁ・・・」
独り言で、PCのマウスを操作し、会計ソフトを閉じ、ブラウザを立ち上げ、ポチポチと一本指打法でURLを打ち込み始め、御世辞にも大きいとは言えない画面に表示された、技術者のお悩み解決サイトに並び立てられる文字と画像の中から
〈悩みを投稿。スレッド作成〉
の、ボタンを探し出すのは、初老に差し掛かった室内にとって、禍金が置いていったA4用紙に記された図説入りの丁寧な操作説明文があっても容易な事とは言い難かったが、其れを成し遂げると本題となり
〈当方、NC旋盤・フライスによる機械加工工場。マシニングセンターにて、材質S45C、冷間鍛造の羽根付きブッシュ端面を、全長18㎜✕R7㎜の深さ0.2㎜トラック形状に島残し。治具にて2個取り。パイ12超硬エンドミル。サイクルタイム約20秒。サイクルタイム短縮のアイデア募集〉
何とかエンターキーで入力を終え
〈悩みを受け付けました〉
テキストに安堵したが
〈ハイスですと60秒以上は掛かりそうな加工ですね。マシニングの機種に依るのかも知れませんが円弧補間はどうしても時間がかかりますしS45Cは曲がりなりにも炭素鋼です。限界ではないでしょうか?〉
暫しの後にスレッドに付いた回答は納得の行くものではなかった
「斯くなる上は・・・」
白塗りの巨大な箱が立ち並ぶ工場は、鉄を切り裂く重い音に埋め尽くされていて、室内が4219番を加工するマシニングセンタに詰め寄り
「荒井。交替ってくれるか」
言うと
「はぁ」
荒井は疲れきった表情を浮かべ
(主軸回転数を毎分3000回転から4000回転に、其れに合わせて切削送り速度も30パーセント増しで高速化)
ガガガガッ!
マシニングセンタは、其れまでより打って変わった轟音を立て始め、スプラッシュガードの透明なポリカーボネートの窓には容赦なく水溶性切削油剤が打ち付けられ、鉄の箱の内は白濁の闇に包まれ、重い鋳鉄のテーブルが手前に移動し、緑のランプが灯る
「ひぃぃ」
荒井は悲鳴を上げるが
「15秒・・・うふふふ」
スプラッシュガードを開けた先には、まるで有刺鉄線の様な刺が並び立ち、右手にあるマシニングセンタのディスプレイを凝視していた室内は不気味に笑い
「此のバリは油砥石で落としといて、元請けが五月蝿いからな。これから1日に1000個。これで遣って」
平然と言った
「戻して下さい。こんなの無理です!」
荒井は抗議するが
「じゃ、頼んだよ」
と、室内は一顧だにせずマシニングセンタを後にする
室内は事務室の自分の椅子に戻り
〈出来たぜ15秒だ。誰だよ『限界』なんて言ったのはよ〉
PCに齧り付き自分の立てたスレッドに書き込みをすると
〈信じられません〉
〈暴走させてると、何時か手痛いしっぺ返しを食らいますよ〉
〈煽り過ぎです〉
〈無理です。戻して下さい〉
PCのディスプレイには室内を疑うレスポンスが立ち並び
「全く『出来る!』って言ってるのに。ミュートだミュート!」
怒りに我を忘れ、見たくない聞きたくない不都合な真実が含まれたレスポンスのユーザーは、片端から見えない様に消音していた
〈凄いですね。ご教示のほどお願いしたいです〉
〈可能なんですね。素晴らし過ぎます〉
PCのディスプレイには室内を賛辞する言葉ばかりが羅列していて
〈企業秘密です。ごめんなさい〉
そんなレスポンスを返しながら
「もう一丁。儲けられそうだな。技術の室内鉄工所。っとォ!」
テンション爆上がり
「社長。済みません」
営業先から帰社した加藤が何故か超御機嫌な室内を見て、済まなそうに言うと
「はうぁ!」
ひっくり返った
「な、何」
「ええと『こういうの寄越せ!』って、言われまして、単価上げてくれるそうです」
事務机に置かれたのは4個ばかり4219番だが加工面はキラキラと金属特有の光沢を放っている
「えっ、此れ何?」
「此処から出荷された4219番だって言うんですよ」
「荒井か。出荷数は足りてるのか?」
「はい。きっかり1000個」
「荒井の野郎、こんな凄い技術を隠してやがったのか」
「荒井さんは昼休みも休まず遣っているみたいなんですけど」
「ミュートだミュート。待ってろ」
室内は加藤を無視して棚に並ぶファイルのラベルを指差し確認し一冊のファイルを見出だすと
「荒井が入社時に提出した履歴書だ。凸凹工科大。荒井の出身校だ!」
叫び
「真面目にですか。何で、そんな人材が、こんな工場に?」
履歴書を見せようとせず、加藤は眉を顰めるが
「其の技術が有れば儲かるだろうに隠しやがって。どうしてくれるか」
顔を真っ赤にして怒りを露にし
「どうでしょうか。荒井さんの給料をドーンと上げて、猛烈に遣る気を出して貰うってのは。其れで給料上がる人。営業成績上がる人。売り上げの上がる工場。皆幸せじゃないですか?」
加藤に提案されるが
「馬鹿か御前は、厚生年金でも健康保険でも給料上げれば何%で上がって会社と折半で払うんだぞ、だから日本人雇う人件費が最大のコストだ。其処を削らないでどうする!」
一言の元に切り捨てた
室内がキラキラと輝く4219番を片手に
「なぁ、仲本。此れ加藤が『荒井が遣った』って言っているんだが、どう思う?」
問うが
「然うですね。元のサイクルタイム20秒のプログラムなら出来るんじゃないですか?」
仲本は困ったような顔をしていて
(其れじゃあ数が上がらねぇんだよ)
内心思い
「其れがな。15秒で此れが出来たって言うんだよ」
話を盛り
「15秒ですか。絶対に無理ですよ其れ」
「仲本が遣るか?」
「僕が4219番をですか。イヤイヤイヤ荒井さんが適任と思いますです」
千切れんばかりに首を横に振る仲本に
「皆が楽に成るよな。俺もさ荒井が入社した時の履歴書を確認したんだが、凸凹工科大卒でさ・・・何で隠すんだろうな。此れ持って他の社員に探りを入れてくれ」
キラキラの4219番を手渡すと
「高木さん。此れ社長が荒井さんが10秒で加工したって。荒井さん隠していますが凸凹工科大学工学部機械工学科を首席で卒業した機械加工の天才だって、4219番は荒井さんが適任ですよね。皆に探りを入れて下さい」
仲本は恐怖に怯え泳ぐような足取りでキラキラの4219番を高木に手渡し
「志村さん。此れ仲本さんが荒井さんが6秒で加工したって、荒井さん凸凹工科大大学院まで卒業した工学博士だって。荒井さんが適任ですよね。志村さん、此れ持って皆に探り入れて下さい」
高木は志村の姿を認めキラキラの4219番を押し付ける
室内が事務室で伝票の整理をしていると
「社長、俺はもう怒りに打ち震えています。此れが、3秒で超高速加工できるのを、あの凸凹工科大の准教授にまでなったって言う荒井の奴。どうして、何も語らないんですか、何故、皆が楽になるのに隠すんですか!」
工員が怒り狂って詰め寄り
(荒井・・・其処迄の逸材であったか)
ほくそ笑む
「落ち着け碇矢。他の社員に伝えろ。皆で荒井を無視するんだ。『無視しないで。教えるから仲良くして』と言い出す迄、挨拶も返すな。いいな!」
「はいッ!」
「荒井さん。もう尾鰭に背鰭までついてウナギイヌみたいになってますよ」
加藤はマシニングセンターで4219番の生産に勤しむ荒井に声を掛ける
「ああ、加藤さんですか、加藤さんだけですよ。無視せずに話をしてくれるのは」
「実際どうなんです。凸凹工科大卒業って噂は・・・」
「大学とか入学っていません。凸凹工科大学付属高等学校電気科卒。履歴書を確認すれば然う書いて有ります。高校卒業して電験の資格で電気工事の仕事をしていたのですが、仕事中に3mの脚立から落ちて腰の骨を折って全治3ヶ月の重症。地に足の着いた仕事をしたいと思い職業安定所に相談して紹介されたのがこの工場で・・・」
「社長が『辞めやがったら他所で機械工の仕事が出来ると思うな』って威張ってましたけど」
「機械工なんか此の工場を最後に2度と遣りたくはありません」
「はぁ・・・」
加藤の溜め息は深い
「高校時代からの友人が『また電気工事の仕事をしないか』って誘ってくれていますから、強電の仕事を学び直して機械の工場はキリの良いとこで辞めたいと思います。無視。此の虐めは思っていた以上に堪えました」
荒井の言葉に加藤は返す言葉もない
「1つだけ教えて貰えますか」
「はい」
「此のキラキラの4219番はどうやって」
「プログラムロックキーが掛かった状態ですから何も出来ません。ただ最初の20秒のプログラムが記憶装置に残っていたんですね。全てのCNC工作機械で出来るかどうか解りませんが。暴走プログラムから元の20秒のプログラムに戻したんです。綺麗ですし何よりバリがでない。遅れた分は昼休み潰してサービス残業をして数を間に合わせた。バリとか言いますがあの鉄の刺を油砥石で擦り落とすのは苦行以外の何物でもない」
荒井は湿布と包帯の巻かれた己が右手をじっと見つめた
室内鉄工所の建物を遠くから見ている黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、学び直し。大切ですね」
ー∞ー∞ー∞ー
ー吉祥果ー
「此れから1ヶ月の出張だから留守を頼むよ。其れから光の事を考えて置いて」
工場の2階にある狭い事務室で背広にネクタイの男が事務机の引き出しから赤いパスポートを取り出しつつ言うと
「光はもう一人前の立派な技術者ですよ。修行だなんて。貴方だって・・・」
母神 鬼子は反発するが
「修行と言っては何だけど工業高校を出て君と婚約するまで8年間。現場でフライス盤加工に携わって、其処の社長の紹介で君と見合いをして婚約して其れから3年。経営で遣らせて貰ってだから。今の儘では光に工場を継がせられないよ」
「貴方が社長に成っていますけど、工場は私が実父から継いだのですよ。後継者は私が決めます」
「君は良くやっている。何時も感謝しているよ。けれど光に対して甘過ぎる嫌いがある」
2人は此の話になると何時までも平行線で
「ああ、飛行機の時間に間に合わなくなる」
社長は壁の時計を一瞥し日程を優先して
「頼むよ」
気忙しく事務室を後にした
「全く、早く行っちゃいなさいよ」
母神が軽い駄洒落を思い付き
「うふふふ」
笑うと、カラカラと事務室の引き戸を開く音がして
「社長、禍金機械商会の禍金 忌離子って人が来てますけど~、ありゃ居ない」
工員が作業帽を脱ぎつつ言い
(あの人ったら、面会の約束が有るのを忘れて・・・)
「たった今の行き違いね。いいわ私が応対するから入って貰って」
母神が言うと
「へへ、此方で・・・」
工員は鼻の下を延ばし、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子を招き入れ
「禍金機械商会さん。特に発注する様な消耗品は無いと思いますが、社長は何と?」
「いえいえ、禍金機械商会では、機材や消耗品の販売だけではございません。萬、工場の御悩み事を承ります」
「生憎と、工場は順風満帆。悩み等は・・・」
「其れでは、此方を」
「此れは、蜜柑ですか?」
母神が顔を上げると禍金の姿は無かった
「ベルノキ。日本じゃ滅多にお目に掛かれない。印国の其れも暑い地方の果物だ」
ジャケットにチノパンの男は
「変な女が『気付きが得られる』って置いて行ったのよ蜜柑じゃないの?」
母神の怪訝な面持ちを見て
「荷葉会って日蓮聖人の教えを学ぶ集まりじゃなかったのかよ。糞カルトが」
嘲笑し
「印度じゃ固い皮は鉈みたいな道具で割って煎じて下痢止めに。緑の果肉は蜜柑で作るとマーマレードになるか。ジャムにして食べる」
解説して
「健康食品なの、貴方、必要る?」
「俺が持っていても仕様がない。其の儘。掌に乗せて肩の高さに」
母神がその通りにすると
「荷葉会のおばさん。然うしていると気付きが得られませんか?」
苦笑した
「其れよりどうするの。遣りたいんでしょう?」
「窯元の社長に集団で何事か吹き込むのを『止めろ!』と言う為に来たんだ。此の工場もう4年も前に社長と話して辞めてるだろ」
「貴方程の人が、陶芸教室の先生の紹介か何か知らないけど、御茶碗や御皿を作る仕事で良いの?」
「そんなのは俺の自由だ。もうね貴女にも光にも関わり合いに成りたくないんだよ」
「凸凹工科大にまで入学って誰のお陰だと思っているの。合格したのを貴方の両親も知らなかったのよ」
「不合格なら高卒で今の窯元に就職すると約束して凸凹工科大に合格したのは親には黙っていたんだ。新聞に合格者の名前がリストになってズラッと載ってやがって、また其れを態態親に密告する奴がいる」
「其の才能をどうするの。何が足りないの」
「遣る気とか意欲とか興味とか関心とか諸諸だな。足りてるのは復讐心だけ。七五三の千歳飴から、鯉のぼりから、父さんに買って貰ったゲーム機も全部、母さんの荷葉会の盟友を名乗る、貴女と光に盗られたんだ。俺から奪っといて現世救済とか言い放つ。この期に及んで労働力まで盗れるか。1度なぁ盗られる側の身にも成れってんだ」
「ギャー!胸を揉まれたぁ~、此処はお触りBARかぁー。何で男の人って『減る訳で無し』って、増える訳でも無いのに・・・」
悲鳴を上げ工員が持ち場のマシニングセンタ迄駆け戻ってきて
「また光君か。どう、北村さん。社長の段取りに戻して良いって?」
呆れ顔で聞く工員に
「いいえ、瀧澤さん。飽く迄も2個取りだそうです」
首を横に振りつつ言うと
(『何か有ったら北村を寄越せ』とか言ったな。あのセクハラ野郎)
瀧澤は憤慨し轟音を立て続けるマシニングセンターに肩を落とし
「増えはしないですけど。大きくなるんですよ~」
気の抜けた台詞に
「ぷっ、そ、其れは触りたいですね。あはは」
北村は壺に嵌まり
「君!大変だったんだぞ。アレから社長と光君で内戦状態になって」
瀧澤は非難しつつも此からの期待をしたが、私服姿に落胆の色を隠せない
「4年も以前の話ですよ。今日は野暮用で。後、引き継ぎが不十分だったみたいですね」
「だが、部外者に話して良いのかな?」
瀧澤は意地悪く言うが
「許可は得てます。『命令です。改善しなさい!』って。しかし4年も同じ加工遣っているんですか。ブラケット」
けんもほろろと雉の声
「此れ、2個取り出来たよな?」
「此の道40云年の安田さんは何と言っていますか。俺は言うなれば、安田さんの弟子です。安田さんに出来ないこと出来ませんよ」
「安田さんは正に此の工程で『出来ない』と『出来る』で光君と大喧嘩になって去年で引退になったよ」
「はぁぁっ・・・真面目にですかぁ。社長は1個取りですよね?」
全身脱力の溜め息は恐ろしく深い
「うん。中国の協力会社へ技術指導に行く事に成って、留守になった途端に光君に2個取りに戻された」
「えぇ、と・・・」
「北村です」
「・・・北村さん。見せて貰っても良いですか?」
「あっ、はい」
やっと壺から抜け出した北村は、緑色のランプを点し停止していたマシニングセンターのスプラッシュガードを開く
「昔のT字の剃刀みたいな形状です。ブラケットと言うからには、何かを連結する部品でしょう。柄と上部のネジ穴は後の行程。この20㎜に14㎜厚さ4㎜の四角い笠の部分に14㎜に10㎜高さ2㎜、各角R2㎜の島を残して切削。問題は冷間鍛造S55C、4㎜の厚さを2㎜まで削り込む。此処です。全く同じ形状に見えますが、滑り挟み尺で計測して見ると、寸法に±0.3㎜程度のバラつきが有る。此は一般公差内で文句は言えません。どうやって万力に固定しましょうか?柄の部分ですか?フライス盤と言うのは自動車を動かせる位の動力で金属を削っています。想像力を働かせて下さい。吹っ飛びます。この2㎜以下の笠の部分を万力で挟み込まなければならない。其処で光の段取りを見てみましょう。おやっ?工作物が1つの万力の横に2つ並んでいる・・・」
大きな声での説明に、間髪容れず
「駄目じゃないですか」
北村は嘆息するが
「え?」
瀧澤は理解していない
「万力って言うのは0.001㎜とか、凄い精度で平行に押さえ付けて固定しています」
「ああ、大きさのバラつきか」
「はい。2つの内で大きい方は固定されますが小さい方は固定されない。此れが1個ずつ作った時には無い振動の原因で、延いてはエンドミルの底刃の欠損や、加工が出来た製品でも傾いていて不良品になったりで、作っても作っても不良品ばかりで良品の数が上がらない。歩留まりが低い。と、言いますけど」
「其れで出来ないか」
「どうしても2個取りしたければ個別に固定出来る専用の治具を作るとかしないと、こんな万力の口金に溝を彫っただけでは出来ません。大体、真面な工員なら万力の口金は交換えたくないですよ」
「光君は3個並べれば『生産性アップだ!』と言っていたが」
「冗談じゃない。そんな事をすれば不良品率2倍ですよ?」
「2個が3個になって2倍ってことは」
「固定出来ていない工作物が1個から2個になるので」
ドーン!
マシニングセンターが爆音と共に停止した
「刃物が、ネジ切れて吹っ飛んだ!」
距離を置いて見ていた北村の額に汗が吹き出す
「瀧澤さん。幾つ出来ました?」
「12個、13個目で・・・」
赤い非常停止ボタンに手を充てた儘の瀧澤は顔面蒼白
「奇跡のプログラムです。『確かに見た』は結構ですが、精精10個か20個の事だったんじゃないですか。以前にも同様の事が有りましたよね」
「光君が」
「どんなに速くて面粗度▽▽▽のピカピカでもです。こんなん繰り返していたら機械を壊します。出来ない。は間違いだったかも知れません。正しくは、絶対に遣ってはいけない。です」
「解った。光君が何と言おうと1個取りの段取りに戻そう」
瀧澤は決意すると
「申し訳ありませんでした。悪因悪果。光に対する復讐心からした事だったのですが、其れが瀧澤さんや北村さんに安田さん。従業員の皆様だけでなく、自分自身が有りもしない技術に執着する人に苦しめられていた」
頭を下げるのに
「自分達も悪かった。本当に良く教えてくれた」
手を取って応じた
「瀧澤さん。此の工程は改善されないのですか?」
様子を伺っていた、他の工員達が集まって来て
「今は良いんです。1ヶ月もすれば、また社長が采配を振るって下さいますから」
「親の七光が後継者に成るんですか?」
「社長の引退後に私達はどうしたら」
「此処が倒産したら家計が・・・」
「親の実力を自分の才能だと勘違いしている」
「未だ光君が後継者に成ると決まった訳では有りませんので、皆さん持ち場に戻って下さい」
瀧澤が宥めると
「遣られましたね」
北村が傍に寄り囁く
「ああ、全くの不可能を可能かの如く錯覚させられ。恐らくは彼の思惑通り社長と光君の親子対立は4年も続き、今に成って『俺が工場をグダグダにしました』と頭を下げられてもな。安田さんが正しかった。揃いも揃って、こんな欺瞞に気付けなかったのは痛恨の極みだ」
「光がセクハラですって。此れから結婚するんだから当たり前でしょう。弁護士事務所から内容証明郵便。何よ此は。瀧澤さん。貴方が確りとしていないから!」
母神の怒声に事務室の壁が震える
(北村さんやったな・・・母子で他人の子を取って食おうとするから)
瀧澤は思いながら
「今回のセクハラ訴訟も、然うですが、従業員の中には、光君の次期社長としての資質を危ぶむ者がいます」
言うが
「光は小学生からフライス盤の前に立って社長を助けて来たんですよ、十分な技術を持っています」
ああ言えば斯う言う
「技術以前の業界の常識や良識が足りていないのでは?と言われていまして。可愛い子には旅をさせろの諺も有りますので社長が現役の内に、修行と言うか行儀見習いと言うか・・・」
「光には必要無し。修行なら、あの子が居たでしょう。見す見す逃してしまって、また動員して狩り立ててやらせるわよ!」
「『おい小僧、レンチ持ってこい、ハンマー持ってこい、ああ、忙しい俺の代わりに小便に行ってこい』って、その場で漏らしますか。光君が行かないと、従業員を心酔させる超常の魅力を持つのは小便に行った人になる。其れに、もう誰もストーカーの片棒を担ぐ様な真似は遣りたく有りません」
薄い事務室の引き戸から漏れ伝わる声に聞き耳を立てる者が居た
「駄目か?」
「なに戻って貰う方法は有るさ、アホボンの首を差し出せば・・・或いは、なァ」
工場に怒声が響き渡り
「邪魔ッ。もう来ないで下さい!」
「機械に触るな!危ねェだろ!」
「目障りだアホボン!」
「売り家と唐様で書く三代目。とは、御前の事だ!」
数日後
「光が出社していない?」
報告を受けた母神は茫然自失となった
母神製作所の建物を見ている、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、有り難い鳥が鳴いています。ホ~ホケキョ。鶯ですか。でも、確かに、法とは法華経の事である。と鳴いています」
ー∞ー∞ー∞ー
ー夫婦酒ー
作業着の熟練工。相佐 和喜は、真剣其の物の面持ちで銀青に輝く立方体の金属をマイクロメーターで挟み込み、左手にアンビルを持ち正眼に構え右手でラチェットをキチキチと回し
「OK。六面体造りから正確に出来ていないと、此の精度は出ないからな。空白期間が長いのに良くやったな。儂の教え方が上手いからだな」
一転、笑顔となり冗談のつもりで言うが
「はい。本当に然う思います」
工員の言葉に感情の起伏は無く
「嬉しく無いか。此の工場で此れが出来るのは、儂か御前位で・・・悪い話じゃ無かっただろ。社長には口を酸っぱくして言って置いたからよ」
怪訝に思い様子を伺い
「『期待外れだ!』とか、悪い事をした訳でもないのに『犯罪行為だ!』とか、試用期間のバイトに対してパワハラ三昧で、奴隷みたいな契約書に判子を押させようとする。直ぐにでも辞めたい気持ちですが一応は契約ですので満了まで、宜しくお願いします」
思っても見ない答えでも
「悪い事をしたな・・・折角、スーパーの惣菜コーナーでバイトしていたのに、こんな工場に無理に引っ張って来てしまって」
疑うこともなく、謝罪する
「社ちょ・・・いや相佐さんには酷い工場に入社してしまい過労で死にかけていたのを救い上げて貰いました御恩がありますので、お誘いに馳せ参じましたが此れだけの仕事をして見せても此処の社長も『お前なんかは此の工場を出たら何処にも雇って貰えないぞ!』でした。此の工場は副業で、スーパーの惣菜コーナーは辞めていませんし『副業は認めない!』って怒鳴られますと副業を辞めるしか・・・」
「然うか・・・」
「でも相佐さんには感謝の気持ちで一杯です。二度と遣る事は有りませんが、縦フライスでは最難度の精度が求められる仕事を黒皮の鋼材からの六面体造りから始めて御指導で遣り切れた。機械加工の技術より『自分は駄目人間じゃ無い』と、改めて教えて貰えました」
「相佐さん。此方来て」
工員が手招きし
「同じパート社員なんだから、儂の仕事を増やさないで」
相佐が愚痴を溢しつつ何台か工作機械の立ち並ぶ工場の一角に足を運ぶと
「『遅いぞ糞爺!』って、吉川君が壊しちゃって直してくれない?」
数値制御旋盤は赤いランプを点灯させ停止していて
「他人の間違った仕事ばかり猿真似して、異常な迄に主軸回転数と送り速度を上げて、ドリルの刃を欠けさせて過負荷で停止めたら逆に遅いぞ」
場に居ない吉川に突っ込みを入れ
「相佐さんの段取りが良かったのだけどねぇ」
「儂は遠山さんでも刃物の交換が出来る様にスローアウェイのGUNドリルの段取りにしましたよね。ツイストドリルに交換えて端面から5㎜で突き抜けてるのに10㎜まで切削送りで突っ込んで空気を削ってやがる」
機械右手のディスプレイを見て制御盤で操作しつつ言った
「『俺のプログラムの方が速い!』って言ってたけど」
「『俺は足し算も出来ないぜ!』って威張ってどうしますか。世代も学歴も違わないだろうに、あの糞餓鬼。ドリルで穴開ける前に小学校の算数ドリルから遣り直さないと」
「吉川君は凸凹工科大卒で社長の大のお気に入りで色々と教えてあげてくれない?」
「何を、どうやって?」
「御困り事がございますでしょうか」
相佐は、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の、出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子に声を掛けられ
「御困り事も何も、何奴も 此奴も儂の言う事は何一つ聞かない癖にパートの爺の仕事を増やす様な真似ばかりで・・・貴女は?」
思わず愚痴ると
「申し遅れました。私、斯う言う者に・・・」
名刺を差し出され
「禍金機械商会さん。昔に取り引きが有ったか。でも若い儘で・・・」
記憶の糸を手繰り寄せ様とするが、確たる記憶が呼び起こされる事もなく
「御祝いが遅れました」
の言葉に
「此れは立派な物を・・・」
頭を下げ受け取り頭を上げると禍金の姿は無かった
「よっこらせっと・・・ばあさん。帰ったぞ」
相佐が自宅の勝手口のたたきからスーパーで買った荷物を運び入れると老妻が台所から顔を出し
「たった今しがた堀田さんが『売り物とは別で庭の畑で採れた野菜です』と置いて行かれて。お引き留めしましたけれど」
言うと
「白菜に水菜か。此れは僥倖」
上機嫌
「あら立派な角樽に提子」
老妻の関心は沢山の食材より酒で
「御目が高い。久し振りに一緒に遣ろう」
「まぁ、宜しいのですか?」
ほくほく
「機械商のお姉ちゃんが『御祝いを奥様と御一緒に』ってさ」
相佐は風呂から上がると台所に立ち、角樽から提子に酒を移し替え銚子や猪口と共に出汁と食材を盛り付けた土鍋を炬燵の天板に置いた卓上コンロに仕掛け、炬燵布団に足を潜り込ませると老妻にも身振りで促し
「You can lead a horse to water, but you can't make him drink. 然う言う事だ」
と、言い
「日本語で何と言う意味ですか。あら杉の香りがふうわりとして美味しいお酒」
二人は話しつつ、猪口を口元に運ぶ
「馬を水辺に連れて行けても、水を飲ます事は出来ない。人を工作機械の前に立たせる事が出来てもだ、人の意思抜きではキリ穴1つ空きはしない」
「でも、貴方の技術が誰にも引き継がれない訳ですよね」
「安いのが技術。速いのが熟練。何てものづくりで失われた技術です。此の杉の角樽にしても最近の物は内側に硝子瓶でさ、現代の技術で作ると漏れてしまうんだろうな。此の杉の香りも酒を味わうのに大切な風味だって言うのに」
「提子も弦の持ち手に蓋と注ぎ口の付いた御鍋ですけれど角樽からお酒を移し易くて銚子にも移し易い。御洒落な細工も施されていて、御酒が進みます」
「ピューター合金かな。錫を主金属に安質母と銅。表面の彫金の技巧も素晴らしい。本当に昔の日本人は凄いよ」
土鍋はふつふつと音を立て
「困る工場も有るのではないですか。嘗ての取り引き先から貴方の技術を求めて現在の工場に仕事が来るのでしょう。此の先『誰にも作れない』何て事になったら・・・」
老妻は不安げで
「儂は手を打ったつもり。技術の伝承は良いけどさ、儂としても教えるのに誰でも良い訳ではないし『給料は惜しみませんので有望な人材を知っていたら連れて来て下さい』って言うから無理を言って引っ張って来たのに・・・」
相佐はスーパーのパックを差し出し
「美味しい。何の変哲も無い唐揚げかと思ったら、冷めているのに衣のカリサク感が失われていない。薄い塩味に忍ぶ・・・此れは。うま味調味料ね。グルタミン酸と鶏もも肉のイノシン酸の相乗効果。揚げたての偽物では無い。冷めてもでも無い。冷めてこそ美味しい、もう1つの本物!」
感嘆に
「其れは此れさ!」
声を高らかにする
「米粉と片栗粉。此の2つの異要素混合が衣の秘密。唐揚げと銘打っても味醂や醤油に生姜や丁子で下味を付けた竜田揚げの如き唐揚げの紛い物が横行する世の中で此れは正にザ唐揚げ」
「弟子が一人前の仕事をしている。こんな幸せはない。人間の好きって凄いんだ。好きこそ物の上手なれと諺にも言うだろ」
「英語では何と言いますか?」
「あ~あぃ、I improve because I like it. かな。上手になる何故なら其れが好きだから」
「あの子がねぇ」
染染と唐揚げを頬張る
「優しくて頭が良かっただろ。最初から斯う成る事は解っていて『相佐が連れて来た工員は箸にも棒にも掛からない』では儂の面目丸潰れだから嫌いな仕事でも儂の為に努力して頑張ってくれたんだ。年齢相応の工場での地位と賃金が約束されたなら教え込んで儂は引退の運びとしたかったのだがな」
「私達の工場が続けられたら良かったのですけどね」
「家族経営の零細工場ではな。買収の話も一寸呑めない条件だったし。借金を残さず社員には退職金も支払えて潮時だったんだ」
「白菜がとろりと溶ける様な甘さで、堀田さんも田舎に帰って上手くやっているわね」
老妻は相佐が取り分けた土鍋の具材と共に今度は提子に入れた酒を湯煎にした人肌燗できゅっと呑む
「図面と鋼材を持って工場に『教えて下さい』と遣って来て。今でも野菜を持って来てくれたりしているが、あの時代は堀田と古賀と・・・皆で鍋を囲んだな」
「本当の家族の様でした。懐かしいですね。貴方御酒が進んでいませんよ」
「ばあさんが進みすぎだろ」
言いつつ猪口になみなみと注がれた酒を飲み干す
「此の銚子に猪口も『陶芸家に俺は成る』って古賀の作品だ。好きな事を出来るってのは良いな。儂も和食の板前に成りたかった」
「勝手に勤めていた工場を辞めて若い妻と幼い子供を日本に残して米国に渡って3年も帰って来なかった人間の御言葉にも思えませんね」
「あの頃はさ、何もかもが米国こそ世界一だったんだ。勿論。機械加工の分野でもだ。日本全体が米国に『追い付け。追い越せ』と、遣っていて日本の工業製品が世界を席巻しようとしていた。世界一流の技術を身に付けるまで、半端で帰って来れないだろ・・・」
「大変でしたよ。全く」
「苦労を掛けたな・・・」
「寂しく成りましたね。貴方の弟子達は皆金属の機械加工とは全く違う仕事に就いてしまって」
「happy worker is good worker. と、言ってな」
「幸せな労働者は良い労働者ですか?」
「うん。では unhappy worker 不幸な労働者は?」
「ば、悪い労働者」
「儂の弟子の誰かが生け贄になって、機械工の仕事に就いてもだ、幸せでないと良い仕事は出来ない」
「然う言うものですか」
「然う言うものだ。でも良いのか若い連中に技術的な事を教えて万が一にも誰かが難しい仕事を熟せる様になったら儂はお払い箱だ。態態苦労して自分の立場を危うくする馬鹿がいるか。年金だけで遣っていけるか?」
相佐は冷や飯と溶き卵で鍋の〆を雑炊に仕立て
「身も心も寒い時は酒と鍋に限るな」
呑水に装い受け取った老妻は
「貴方は人造りが好きな人だと思っていましたよ」
一味を振り掛けふうふうと啜る
「人は造るものでは無い。育てるものだ。子作りは好きだがな」
「貴方は会社の利益より社員の給料でしたからね。給料は最低限に抑えて外国人を入れて東南アジアに進出していれば違ったのでは無いですか?」
「『技術を確立して人件費の安い東南アジアで作りましょう』ってか。技術移転等と言って日本人労働者から雇用を奪って、遠からず『10年前は普通に出来たのに』とか言い出して人手不足と騒ぎだすだろうよ。製造業だけでは無く有りと有らゆる業種でな。年功序列の終身雇用に賃金の後払いの退職金。技術承継の点では良い仕組みだ。職人には『此だけ遣っていれば将来は安泰』って安心が必要でさ。順当に賃金が上がって定年まで勤め上げれば退職金で第2の人生。嫌な仕事でも頑張れるし自然に愛社心も育まれるだろ。其れを海外に生産を移して外国人労働者を大量に流入させ完全に崩壊させてしまい、短期間で転職しても何の不利益も無い。寧ろ『向いてない』と思う仕事を嫌々と続ける不利益の大きさな。ばあさんが言うならボチボチ教えて遣らんでもないがな。あの工場の若い連中では六面体造りからして難しいだろうが」
気炎を揚げる相佐に老妻は銚子を持ち酌をして
「貴方は未だ機械工のお仕事を頑張って下さい。出来るだけ技術は出し惜しみして末永く働ける様に。年金だけでは遣って行けませんし、御正月には御孫ちゃん達が遊びに来ますよ。御年玉を渡せないと大変な事に成りますからね」
言うと
「おう、未だ酒は沢山有る。今夜はとことん呑もう」
相佐は老妻に酌をし、差しつ差されつ夜は更けて行く
夜空の星の小さな家から笑い声が聞こえ、其れを遠くから見ている、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、末永くお幸せに」
ー∞ー∞ー∞ー
ー助太刀ー
「ああぁ、胃がわさわさする」
土曜日の夕闇に、矢指 伊蔵が工場の高い天井のハロゲンライトに照らされ、コンクリートの床に濃い影を映し、マシニングセンタの前で頭を抱える工員を遠目に見て気を揉んでいると
「何かお困り事がございますでしょうか」
背後からの突然の声に振り向き、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子に
「申し遅れました。私、斯う言う者に・・・」
名刺を差し出され
「禍金機械商会さん。機械商さんですか。私は中年男性の中堅社員に見えますが、生憎と最近入社の下っ端のパート社員でして・・・」
済まなそうに言うと
「いえいえ、禍金機械商会では、機材や消耗品の発注だけではございません。萬、工場の御悩み事を承ります」
禍金が言うのに
「出来れば自分の手柄で、失敗すれば松浦さんの責任。此処の専務とやら酷すぎです」
竹箒を操る手を止め、思わず吐き出すと
「其れでは此方を・・・」
矢指は禍金にペーパーナイフを差し出され
「此れは懐かしいですね。日本刀の形状の・・・良く出来ている。刀身を鞘から抜く事が出来て・・・この刃文がまた芸が細かい。もう何十年も前の修学旅行で、土産物屋に並んでるのを乏しい小遣いから本気で買おうかと思って・・・でも此が何か?」
滔々と思い出を語っていると禍金の姿は無く
(仕方がない。此処で助太刀せぬは武士の名折れ。武士では無いけれど)
思い
「松浦さん。手伝わせて貰えますか?」
マシニングセンタに詰めより
「矢指さん。此れ、どうしたら」
顔面蒼白の松浦を見て
「現在は松浦さんの部下ですから矢指にして下さい。普段の実力を出せば良いことですよ」
マシニングセンタの向かいの簡易定盤になっている作業台に置かれた見本と図面に視線を落とし
(納期は月曜日の午前10時。土曜日の昼に持って来て間に合う訳無いぞ)
怒りを露にする
矢指がマシニングセンタの右手にある操作盤のキーをポチポチと押しながら
「無いですね。此の対話式の半自動プログラミングで出来れば良かったのですが」
言うと
「ああぁ」
再び頭を抱える松浦を見て
「大丈夫、出来ますよ。此処迄で加工に2万円位掛かっていると思いますが、旋盤工程は済んでいてボールエンドミルにキー溝用のラフィングと2枚刃。材料と工具も有って、此方の4軸が後付けの外部機器に成っています。此れを使うので外部機器の制御の命令がどうなっているのか調べて、然うして軸の側面にボールエンドミルで半円形の溝を図面の型で掘ります。此の溝に鋼球が嵌まって軸が前後に滑べる事で出力軸が溝の型に割り出され曲げ加工機みたいな仕事をする。専用量産機の部品です。しかし見本を見て下さい。赤黒く焼けて、恐らくは金属疲労で割れた出力軸の部分にネジ穴を切って溶接で継いでサンダーで均して、応急修理して駄目だったのでしょう。急遽の新造になって・・・発注元も困ってる。助けてあげましょう」
励ますと
「よし、何をしたら良いでしょう?」
松浦は前向きで
「私は、今から資料室でマシニングの取扱説明書を調べて、旋盤に行って4軸に旋盤用の爪が使えるか見ます。無ければ生爪から削らないと、芯押し台を載せてっと、何れにしても時間が足りません。松浦さんは日曜日の休日出勤の申請を出してきて下さい。私も出社ます。1日がかりです。覚悟して下さい」
指示を受け
「分かりました!」
駆け出そうとするのを
「あ、待って下さい。松浦さん一人の休日出勤にして下さい」
呼び止め
「でも、其れでは矢指さんの手柄を横取りする様な事に成りませんか?」
怪訝な面持ちを見て
「前にもお話ししましたが嫁の実家が後継者難の農家で自宅も買い手がつきましたし、正社員の話はお断りして地元に帰りますので、手柄に成るなら松浦さんに差し上げます」
宥めた
「我が社は、幾つもの工場で匙を投げられ盥回しにされて来た、非常に難しい曲げ加工機の心臓部たる加工を1日と言う短納期で仕上げ出荷致しました。此の技術を我が社だけに留める訳には参りません。皆さんの御力添えを御願い致します」
工場の食堂には従業員が集められ新品の様に汚れのない綺麗な作業着にネクタイの男が演説していて
「あれ、凄いのかい?」
矢指は隣のパイプ椅子に座っていた油汚れが染み付いた作業着の工員にホワイトボードに磁石で留められたパンフレットに目配せして小声で訊かれ
「複合加工機です。旋盤加工から其のまま工作物を外さずフライス加工が出来る、お値段も凄いですよ」
呆れ果てると
「反対です。完全に活用出来る従業員が居てこその機械です。そんな金が有るなら、まず工員の賃金を上げて下さい」
松浦が立ち上がり発言し
「専務。あんた何様だ。社長の留守に勝手をやって!」
続く者があるが
「何言ってるんだ。工場が発展しねぇと、給料も上げられないだろ!」
反対する者もあり
「賃金を上げろ!」
「会社が大きく成らないと」
分断される事態に
「皆さん。私はこんな人たちに負ける訳には行かない!」
専務は松浦を指差し言い放つ
「専務って確か・・・」
矢指が小声で訊ねると
「社長の妻の姉の息子。つまり義理の甥っ子でね、無職で仕事を探していたのを社長に拾い上げて貰って・・・でもね最近の業績悪化を見かねて偉い大学出て商社勤務だった社長の息子が『親父の会社を立て直す』って意気でね、専務にしたら、今更、従兄弟に自分の上の椅子に座られても、ね。反感を買ってでも今の内に存在感を出しておかないと、社長の家族の経営陣から少しばかり外れている訳でさ、自宅に自動車に二人の息子に、相当な借金もあるみたいで、遠戚の縁故で頭半分抜けたのを良いことに年齢の近くて工場の古株の松浦ちゃんにライバルを蹴落とさんとばかり辛く当たるんだよ、酷い話だよ」
マシンガントークが炸裂した
「いいか、離婚するんだ、其れで嫁と娘は生活保護にして、御前は目出度くも、此の仕事を続けられる。どうせ別居してるんだろ。辞めるなんて馬鹿を言うな」
専務の妄言に
「公正証書原本不実記載。偽装離婚は立派な犯罪です。其れに別居ではなく単身赴任です。勤めて半年のパート従業員がですよ、犯罪までして続けたい仕事ではありません。こんな仕事はさっさと辞めて妻子の元に帰りたいです」
矢指は答えるが
「何を言ってるんだ。御前の事は俺が一番良く分かってる。急ぎの仕事をやっつけたの御前だろ。御前は、あのクラスの複合加工機を使いたいに決まってる。一緒によ、松浦を追い出して・・・」
聞き流され
「専務がね、そうやってパワハラで追い込むから可愛そうに松浦さん萎縮してしまって・・・私は手伝っただけだ。松浦さんが辞めたら社長との約束の期日まで待つ迄もなく、即。辞職します」
態と荒い口調で言うと
「おい、後悔するぞ!」
鬼の様な形相で脅しに掛かかられる
昼休みも終わりに近付き解放された矢指が食堂から業務時間の騒音が嘘の様な静けさ漂う工場に戻ってきて、松浦の姿を認め
「復習ですか?」
声を掛けると
「はい、矢指さん」
松浦はマシニングセンタの取扱説明書の頁を捲る手を止め
「キー溝と側面のパターンの始点の位置関係に公差が入っています。其処だけ気を付ければ松浦さんなら出来ます。良品で上がったとなれば此れからも定期的に注文が有ると思いますので・・・」
言葉に何かを察し
「辞めてしまわれるので?」
寂しそうな顔をして
「はい。お世話になりました。あの専務に『復讐を』何て考えていましたが、あの調子では遠からず自滅しそうです。それに派手に遣ると松浦さんに迄、御迷惑をお掛けしそうで、ははは」
乾いた笑いに
「寂しくなります。奥様と伊代ちゃんに宜しく」
涙ぐみ
「最後に一緒に仕事が出来て光栄でした」
矢指は凛として言った
「義によって助太刀致す。拙者。割烹着に眼鏡の熟女大好き侍!」
矢指は日本刀の形をしたペーパーナイフを掲げる様にして声を高らかに上げ、ビニールハウスの脇でタブレット端末を必死に操作していた中年女性は
「気は済んだの?」
溜め息混じりで
「うん」
素直な返事にタブレット端末を手渡し
「伊蔵さんがやるのよ。此れから」
言うと
「此は・・・晴れだの雨だの気象に気温や湿度から、葉や茎の写メから病気の診断、市場価格の動向まで・・・時代は進歩してるね」
感嘆で
「こんな零細農家にもDXの波が押し寄せているの。得意でしょ。然う言うの」
農道に停められた軽トラックの後のあおりがパタンと下ろされレジャーシートが荷台に広げられると
「はい座って。電話じゃ詳しく分からなかった。松浦さん大丈夫なの?」
矢指は素直に従い夫婦で軽トラックの荷台に腰掛け
「松浦さんにしか作れない製品が有ったら。彼処の専務も簡単には追い出せない。病気や怪我で定年後に再雇用の熟練工が続々と引退で、若手もあの専務の悪辣な行いで辞めて行くから。逆に予定を前倒しで辞めてしまった方が松浦さんが攻撃を受けなく成ると思った。仕事を受注しても『難しい仕事は出来ません』とか言って突っ返したら、益益自分の株を落として業績悪化。馬鹿でなければ松浦さんを攻撃出来ない。機械のパラメータ弄って2~3台、再起不能な迄にぶっ壊してやろうかと思っていたけど松浦さんに迷惑を掛けてもな。今は此の土地で育てた野菜を松浦さんに届けたいと思う」
一気に溜まっていた物を吐き出す様に語り
「本当ね、伊蔵さんの勤め先の工場が倒産になった時も松浦さんは色々と助けて下さった。美味しい野菜で御恩返しをしないとね・・・一寸貸して、はい、お茶」
保温の水筒から蓋にもなっているカップに注がれた熱い茶が取替っこに渡される。
「ありがとう。愚痴っぽくなってしまって」
カァーカァー
黄昏る遠くの空で烏が鳴いていた
「銀行には恨み辛みが有るわよね」
「仕事も有れば技術者も居たのに、支払い危機と流動性危機の区別の付かない銀行屋の信用収縮で資金繰りが悪化して、社長と一緒に金策に駆けずり回って、最終手段に献血と言って、身内に頭さげて借金する事を言うのだけど、其の相手が悪かった。松浦さんには何度も大きな仕事で社外から助太刀に入って貰っていて信頼に信用を重ねてきた協力会社だったのが債務整理で少額の資金提供を笠に着て整理屋と結託して工場をバラバラにしてくれたのがあの専務で・・・もう製造業は精神的に無理だ」
「農家になるの」
「伊代には悪い事したな。親父の仕事の所為で中学生の途中で住み慣れた家を売る事になり転校になってしまって」
「良いんじゃない。不登校気味だったのが此方の学校では友達も出来て楽しそうよ。前の土地では『お前の親父、ドテイヘン!』って男の子にイジメられていたみたいで」
「ドテイヘン・・・機械工か」
「其れに『伊代は自然の中で育てたい』って思っていたの、親の事も心配だったし。戻って来られて万々歳」
「椙代さん。優し過ぎ」
矢指の表情は晴れやか
「伊蔵さん。未だ松浦さんの助太刀をしたいって思ってる?」
「そんな事は」
「やっぱり・・・優しいにも程があるわよ。伊蔵さんの学生時代からの友達の誰か一人でも、幸せに楽しく機械工の仕事をしているの。御通夜みたいな呑み会を家で催したの記憶してる。ええぃ、答えぬか伊蔵!」
其の手には日本刀の形をしたペーパーナイフが握られていて
「何時の間に!」
矢指の目は驚愕に見開かれ
「『幸せにする』と約束しながら、妻に心配ばかり掛ける此の不届き者。成敗致す。其処に直れぇーーー!」
軽トラの荷台から転げ落ち
「平に~平に御許しをぉ~」
逃げ出した
キャッキャと戯れ農道を駆ける二人を微笑ましく見ている、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、ごちそうさま」
ー∞ー∞ー∞ー
ー勉強嫌ー
「いいぜ、何時でも辞表を持ってこい。お前の替わりなんて腐るほどいるからさ」
整髪料の匂いをプンプンさせて工員は聞かれてもいないのに
「俺なんかさ凸凹工科大卒のエリート入社で、会社が離してくれなくてさ。お前が羨ましいよ。はははは」
続け、同じベージュの作業着の男、生頼 勉強は
(後輩さんでしたね)
暗澹たる気持ちに成りながら
「ですがねぇ、工場の指示で、家に持ち帰ってまで勉強して、乙種第4類危険物取扱者の資格を取ったんですよ。資格手当とか何かの加算は無いんですか?」
精一杯の主張をするが
「良いだろ、親と同居の子供部屋おじさんが妻や子供がある訳でなし、そんなに金無くても、イテテ」
と、鼻毛と共に千切り捨てられ
(俺が、結婚も子供も不要って?)
もう涙も出ない
「はい、持ち場に戻って」
パンパンと手を打ちならす様は一一ムカつく
「御免なぁ咲美」
深い溜め息をつきながら、数値制御フライス盤とマシニングセンタの立ち並ぶ、工場の片隅に戻ると、定盤の上には、全く手付かずの、図面と黒皮の儘の鋼材が鎮座していて
「解る範囲で進めておいてって」
量産品専用になっているマシニングセンタに張り付いていた工員は
「僕には未だ難しいかな、って」
引き攣った笑顔
「そんな事を言って、もう1年にならないか。分かった、此の量産品の段取りを覚えようか?」
提案するが
「はははは」
引き攣った笑顔
「此の先も、ずうっと、俺が段取りするのか。俺だって、こんな訳の解らない機械のマニュアルを片手に、勉強に勉強を重ねて使い方を覚えたんだよ」
語気を荒らげるが
(俺、勉強して良かった事なんて有ったっけ?)
心の中では自問自答している
「製造1課長と言ってもな」
名ばかり正社員。名ばかり課長では仕方がない
生頼が工場の傍らにあって、積み上げられたコンクリート壁に囲まれた、危険物の貯蔵の為に設けられた小屋でPCで打ち出した在庫管理表と睨めっこして
「勉強して資格を取っても賃金は上がらず余計な仕事が増えるだけ『資格を取ると貧乏になります』って本当だ」
独り言ると
「何か御困り事がございますでしょうか」
黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子が声を掛けてきて
「むふっ♡貴女は?」
目を輝かせ
「申し遅れました。私、斯う言う者に・・・」
渡された名刺を見て
「禍金機械商会ですか。購買課は工場の本棟に在る事務所の方でして」
(俺なんかはお呼びで無いか)
残念そうに名刺を返そうとするが
「いえいえ、禍金機械商会では、機材や消耗品の販売だけではございません。萬、工場の御悩み事を承ります」
禍金の言葉に生頼は小屋の中に立ち並ぶドラム缶を見据え
「愚痴になりますけど、斯う言う難燃性の工業用油脂の類いも、一定量以上を保管するには、危険物取扱者の免許所持者が工場に一人は必要になるんです。世に言う法令遵守ですね。前の火元責者が引退して工場の為に努力して頑張って勉強して会社に尽くして資格を取っても鐚一文の賃金も上がらないって。使えない部下に無能な上司。上がらない賃金に自分の業務以外の彼方の穴埋め此方の尻拭いで連日のサービス残業。もぅ何もしたくない死にたいですよ」
溜まっていた物を吐き出すと
「其れでしたら・・・此方を・・・はいっ。ヤルキスイッチ!」
禍金は声を高らかにし
♪ピンポーン
手渡されたプラスチックの円盤の上部を押すと音がして
「ヤルキスイッチですか。玩具のアンサーブザーにしか見えませんが?」
顔を上げると禍金の姿は無かった
「下請け風情が、エレベータを使おうとするんじゃねぇ!」
まだ若い20代と思しき水色の作業着の男に突き飛ばされ尻餅をつき
「痛い。俺は呼び出されて、こんな・・・」
生頼は非難の言葉を返そうとするが
「ささ、常務、お乗り下さい」
作業着の若者は腰を低くして、濃緑の背広を着た男を井家が入ろうとして突き飛ばされたエレベーターの内に誘う様にしていて全くの無視
(もう死にたい)
連日の深夜残業で疲労が蓄積していて、身体が動かないし動きたくない。しかし一縷の望みを胸に抱き、生頼が勤める工場の元請けである此の場所に出向いたのだった。再三の要請に従い受注された、小品だが難しい製品の複合加工機での加工方法を、遣る気を振り絞りネットで工業書で取扱説明書で勉強し過酷な残業で完成させたばかりだったからだ
(褒賞金とは言わないが、御誉めの言葉と記念品くらい)
夢想するのは贅沢だろうか?
「4階の役員室か」
事務員に渡されたメモの文字を読みエレベーター脇の階段を見る。4の文字が死の文字に見えた
「何だ此れは!」
生頼が指定されて来た役員室に入ると待ち構えていた先の濃緑の背広の男は怒声を上げ高級そうな木製のテーブルに銀色に輝く円筒形の物体を置く
「不良でしたか?」
生頼の顔に生気は無く
「完璧だ」
の言葉に
(何で完璧な製品作って怒鳴られなきゃならないんだ)
口を利く気力も無い
「君が遣ったんだな。何故、一刻も早く『自分に遣らせて下さい』と言えなかったんだ。最初の発注からどれだけ時間が掛かったと思っている!」
生頼は金槌でブン殴られた様な頭痛に襲われ
(真面目で勉強なんかするんじゃなかった。勉強なんかすると陸な事がない)
黙って退室すると
「生頼さん。先程は申し訳ありませんでした。此の図面をどうか御願いします」
水色の作業着の若者に追い縋られ懇願され
「あんッッ。何だってェッ?」
思わず不良高校生時代の素が顕となり、無理矢理に手渡されたB4の封筒が、中身ごと破り捨てられるとバラバラになった図面が撒き散らされ
「ケッ!」
唾が吐きかけられた
其の部屋は全てが白色で統一されていて
「ふあぁぁ~良く寝た」
生頼は欠伸を噛み殺し
「本当に呑気ねぇ・・・あれっ。この百均の包丁切れないわね」
生頼と同年輩の女は白いパイプベッド脇の椅子に座り林檎と果物ナイフを捏ねくり回していて
「日柚木さん。貸してみて」
生頼は日柚木から林檎と果物ナイフを受け取ると、掌の上で果物ナイフを器用に使い林檎を四つに切り分け、芯の部分をV字に切り取ると、シャッ、シャッ、シャッ、と滑らせる様に皮を剥き4分の1を更に縦に半分の櫛形に切り分けアッと言う間に紙皿に8等分された林檎が並び
「もぅ、ツトムンの方が上手じゃない家庭的な所を見せ様と思ったのに」
「包丁の刃って細かい鋸みたいになってる。押すか引くかしないと切れないよ。こんな所に居て仕事は良いの?ちょいちょいと」
林檎に爪楊枝が刺され
「未だ御父さん遣っているから。でも、どうして。死ぬところだったのよ本当に。死なない迄も薬によっては一生植物人間なんて事だって有るのよ。救急の医者も不思議がっていたわ。一体、何を飲んだの?」
日柚木は、もふもふ林檎を頬張っているが、その目は真剣の光を湛えている
「普通じゃ手に入らない原料も有って『切削油に添加する』とか適当な事を言って、工場に業務用で取り寄せさせた。第4類危険物第3石油類“マロン酸ジエチル”第3類危険物“金属ナトリウム”、後は尿素に無水エタノール。マロン酸のジエチルエステルと尿素を、無水エタノールと金属ナトリウムのエタノール状のナトリウムエトキシドの溶液中で付加離脱反応」
観念した生頼が言うと、日柚木は手帳に鉛筆でNとかHとかCとかOとかアルファベットをヤジロベエみたいな図形と共に書き込み
「芥川龍之介は自身の死に用い、太宰治は代表作“人間失格”で登場させた、原初のバルビツール酸系。呆れたわねぇ、咲美の事はどうするつもりだったのよ。責任取るんじゃ無かったの?」
生頼を責める
「責任は取りたい。咲美に『お父さん』と呼ばれたい。頑張ったんだよ。親に『大学に合格したら授業料は出してやる』と言われ、高校3年まで不良高校生を遣っていたから、受験目前で一念発起して猛勉強。何とか系列の大学の推薦取って大卒で就職して立派な父親になりたいと勉強を頑張ったのに卒業するころの就職活動は超氷河期と呼ばれた就職難で大卒技能系と蔑まれライン工の地獄に堕され」
「私も大変だったわよ。薬学部に入学早々御腹を大きくして半年間も休学して咲美を産んで実家に預けて薬剤師の国家試験勉強」
「俺が不甲斐ないばかりに、申し訳ない」
暫しの沈黙
「『お父さんと呼ばれたい』は良いけど、咲美には20歳になったら全てを話そうと思っているのよ。今の儘ではツトムンは18も歳の離れたお姉ちゃん改め若いお母さんのお友達。貴方が咲美の立場だったら信じるの?そんな話」
「信じないな」
「聞かせて貰って良いかな?金属ナトリウムより、水酸化ナトリウムの方が手に入り易いと思うけど?」
「加水分解に伴う不測の合成が起きるのを避けたかった」
「死んだ様に眠るのに薬物では他の方法を考えた?」
「実際の中毒死の事例を調べてベンゾジアゼピン系+ほにゃらら」
「咲美の名前の由来は?」
「女の子と聞いて。その昔、中華の詩人が花が開く様を、花が咲う。と表現した。咲くの字は笑うの本字で同じくショウと読み同じ意味なんだ。花が咲く様に美しい笑顔。咲くの字だけでエミと読むけれど読み間違えられが少ないかと」
「工場の仕事は続けたい?」
「勉強して良い大学を卒業して正社員で勤めるのが立派な大人だと騙され好きでもないのに就いた仕事で後輩が地位も賃金も上なんてな。もう工業の業界自体に関わりたくない」
「御薬を飲む時は医師と薬剤師の指導を厳守してね」
「はい」
日柚木は何故か質問責めで
「凸凹工科大だったわね?薬学や有機化学に詳しいみたいだけど?」
生頼は心痛の面持ちとなる
「学校では遣らなかった。俺が小学生の頃から常に1匹は猫を飼っていて最後の猫が22歳で死ぬ前から予期不安と言うのか母親のペットロスが有って、気付いた時には近所の胃腸科で藤沢薬品工業のゾルピデム。商品名マイスリーを処方されていた。詳しく聞いたら5㎎は、まだ医者の良心かと思ったら1回2錠。止めさせようと思ったけど端から見て分かる朦朧とする意識で俺に訴えてくる訳。如何に自分にとって睡眠薬が必要であるかと・・・依存だ。姉貴が精神科に連れて行って受けた診断は認知症。肥満の高齢女性に処方されたのはジェネリックのクエチアピンで夕食後に飲んで昏倒して救急車で運ばれて入院。『毒親!』『馬鹿息子!』の親子関係だったけど、然うはなって欲しくなかった。見舞いに行って看護師にも話したけど、本人が『わたしここにいる』って、腕に幾つも痣を作って。暴力を振るうと睡眠薬より強い薬で昏倒していられると覚えてしまった。団塊世代の女性で4年制の商科大学出て定年迄勤め上げ貯金が有ったんだ。着物とか通帳に印鑑も全部が姉貴に持って行かれて。他にも色々あって『薬で死んでやる!』って。また勉強なんかして」
日柚木の目は爛々と輝いていて
「ごめんなさい。辛い事を聞いたわね。レセプト。解る?」
「診療報酬明細書。毎月毎月大変だね。少しの間違いが薬局を訪れる患者さんの健康に直結しかねない。大変な仕事だよ」
「ううん。現在はねPCがやってくれるの。少し覚えなければならない横文字とか多いけどレセプトの部分は資格を持った薬剤師が遣らなくては成らない。と言う訳でも無くて。ほら薬剤師には他にも重要な仕事が沢山有るから。もぅ・・・興奮してきた。責任取って貰わなきゃね♡調剤薬局事務の仕事。解るわね。ツトムンなら少し勉強すれば・・・」
生頼は
「レセコンの事かー!勉強嫌ーーーーーー!!」
絶叫した
白亜の病棟を揺るがす絶叫に、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、御薬は用法用量を守って正しくお使い下さい」
ー∞ー∞ー∞ー
ー皮算用ー
4台のマシニングセンタが同時に稼働する工場の一角。阿卷 望が作業台に広げられた図面と睨めっこしていると
「何かお困り事がございますでしょうか?」
「えっ、な、何?」
驚愕の眼の先の、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子に
「申し遅れました。私、斯う言う者に・・・」
名刺を差し出され
「禍金機械商会さん。機械商さん。丁度良かった。工具のカタログを見せて貰えませんか?」
積もりに積もった疑念を解消しようと言うが
「いえいえ、禍金機械商会では、機材や消耗品の販売だけではございません。萬、工場の御悩み事を承ります」
「其の消耗品のカタログを見せて貰いたいのですが」
噛み合わない話に
「其れでは此方を・・・」
続けて差し出された
「算盤ですか。御破算で願いましては・・・」
算盤の珠を弾き、顔を上げると禍金の姿は無かった
「此方に移動ですか。はっきり言って乗り気がしません。此れまでの配属で御願い出来ませんかね」
工員は打切棒に言うが
(本当に此の人が、お金の匂いに釣られて近付いて行くと、何時の間にか会社が倒産してしまう。化け狸の異名を持つ凄腕の機械工なのかしら?)
阿卷は疑念を抱くが
(もう此の人しか希望は無い・・・)
「田貫さん。毎日毎日同じ作業で、現在の量産品の仕事は楽しいですか。もっと遣り甲斐の有る仕事に取り組みたいとは思われませんか?」
必死に食い下がる
「天職だと思っていますよ。毎日が楽しい。取ったり付けたり取ったり付けたり1日に何百回も外国人の群れに紛れて。何かを考える事も無く。唯唯無心に成って、他人の段取りで取ったり付けたり取ったり付けたり。機械と一心同体の極致が楽しく無いはずがないじゃあ有りませんか。其れで日が暮れて賃金に成って、ご飯が食べられる。控えめに言って至高ですね」
シューン
マシニングセンタが正常停止し
「一寸待っていて下さい」
阿卷がエアブローガンで工作物と万力に付着した切り粉を払い、滑り挟み尺で寸法を見て手際よく万力にレバーを取り付け掌底でレバーを打ち工作物を取り外し、再びエアブローガンで万力を掃除して素手で拭い、左手で未加工の工作物を自作の位置決め治具に突き当て右手でレバーを使い万力を締め、レバーを外しマシニングセンタのボタンを押すと、再びマシニングセンタが動き出す
「大したものだ。皆さんがね『阿卷さんが工場の後継者だったら良かったのに』と、言ってますよ。僕の出る幕は無いな」
「そんな事を言わずに手伝って頂けませんか?」
「現場の人間は謀れませんかね」
「同じ機械で同じ量産品を作っても、遣る人が遣ると艶が違います」
「艶ですか。試作とか単品の治工具とか少数ロットとか止めたらどうです。標準化とか最適化とか言ってるじゃないですか。職人の100点よりも何時何時誰が遣っても80点。然う言う事を言ってるんじゃないですかね。属人化を防ぐとか職人を悪者にして。此処も対面で2台掛けを2人で遣っていたんですよね。阿卷さん。もう辞めた方が良い。何時までも若く無い。2拠点生活なんて無謀です。潰されますよ。過労死なんて事になったら、2人のお子さんと最愛の人と御両親も悲しまれます。命より重い仕事は無い」
「はい・・・御指摘の通りで。買収されても工場の総体としては変わらない。然う思った事も有りましたが、取らぬ狸の皮算用でした。長く一緒に遣っていた社長も会長に祭り上げられ株主総会で退任が決定。有給休暇も取れない。同僚の退職も相次いで3人で遣っていた部署が2人にされ1人にされて・・・実力主義とは名ばかりの減点主義。高い賃金を約束されればこそ、続けて来た仕事なのに・・・」
「今なら早期退職者募集の割り増し退職金とか言ってるじゃないですか。此の工場なら心配は無い。量産品の専門工場として生まれ変わって利益を上げ続けますよ。多分」
「田貫さん。私の父を御存知なのですか?」
「此の近辺でも、昭和機巧と言えば有名ですからね。辞め難い理由でも有りますか?」
阿卷は作業台に置かれていた図面を
「此の図面ですが・・・」
田貫に手渡し
「鋳鉄材の鋼管。直径600㎜に、全長900㎜、厚さ9㎜。基準側端面2ヶ所をカタカナのコの字に切り欠く。巨大な滑り軸受ですね。何です此れ。9㎜にM6のネジ穴を切って」
「加工途中で開いてしまって、円筒研磨に掛ける必要が出来たとかで」
「怖い事をしますね」
「以前は此処で2人掛かりで遣っていたのを、他所の工場に回されて、割れたとか、開いたとか、真面な加工が出来ずに再び此処で遣る羽目になった仕事で」
「此処で遣っていた時は円筒研磨もM6のネジ穴も無しだったんですよね」
「はい・・・」
「其れで『完璧に仕上げたい』と・・・ところがどっこい相撲はドスコイ。鋳物屋から材料が届かない。早くして貰わないと休日出勤。ですか」
「4本を何回目かの作り直しで鋳物の材料調達から手間取っているとの話で」
「因みに其の他所の工場では、どうして割ってしまったか解りますか」
「ラフィング一発だとか・・・」
「論外ですね」
「はい・・・」
「内側の螺旋の溝。油溝ですね。此れは?」
「旋盤加工の後に納入されます」
「じゃあ。お手伝いしましょうか。露払いに片付けられる図面は片付けておきましょう。其れで阿卷さん。土曜日と日曜日は休んで下さい。アパートじゃなくて最愛の人に迎えに来て貰って自宅でゆっくりと」
阿卷は真剣な眼差しの田貫を見て
「は、はい。宜しくお願いします」
(突然どうして?)
少し不思議な思いをした
シュッ、シュッ、シュッ
田貫は工作物に鑢を当てバリを落とし
「確認して下さい」
阿卷は差し出された工作物をマイクロメータで計測して
「OKです」
(思った通り。速い上に正確無比。こんな技術者が野に埋もれて、無気力になって、文句の1つも言わずに量産品の仕事を続けていたなんて・・・)
血の気が引く思いをした
「今回だけにして貰いますよ。阿卷さんは取らぬ狸の皮算用とならない様に。御父さんの信用を借りただけだと肝に命じて下さい」
「はい」
「粗方は終わりました。掃除して帰りましょう。材料が無いでは何も出来ませんしね。時に阿卷さん。最近になって消耗品全般の値段が高くなったと思いませんか?」
突然、話が切り替わりギョッとしたが
「はい。1割程。でも、其れは物価高とか・・・」
阿卷にも思う処が有った
「僕はね、裏金じゃないかと思っているんですよ」
「裏金ですか・・・」
「トンネル会社。つまりですね機械商なり何なりから直接買えば良い物を、態態トンネル会社を通して幾らか上乗せした割高な値段で買います。然うしておいてトンネル会社から工場に割り増し分を割り戻しさせる。帳簿上の整合性は保たれますが、何処かに金が消えてしまう。此れが裏金になるんですよ。しかし真っ当な金ではないので普通には使えない。其処で政治家の資金パーティ券の購入に当てられる。本来、賃金に上乗せされて然るべき金を闇に消して、咎められても社会貢献とか言い出して、頭っから賃上げの財源にしようとか無いですし『頑張りました』と、期待に胸を膨らませても、取らぬ狸の皮算用って落ちです。近近ちまちまと遣ってられなくなって投資なんて言い出して大きな買い物をしようとするでしょう。長く勤め愛した工場が食い物にされるのは腹立たしいとは思いますが、好機です。会長と一緒に是非是非食らい付いて下さい」
「事業承継とか後継者難等と言葉遊びをして、最初から中抜きの舞台装置が必要で買収したのでしょうか?」
「残念ですが、僕は然う思います。じゃ、今日は阿卷さんは先刻の約束の通りに、最愛の人に迎えに来て貰って、土曜日と日曜日は休日にして下さい。世の中には週休2日制の工場だって有るんです。休んだって罰は当たりませんて。僕は明日も出勤ますから、必要なら阿卷さんの代打に打って出ますよ」
矢継ぎ早に言葉を繰り出され大切な事を忘れている気がしたが
(休める・・・)
安堵の気持ちが勝ち
「はい。では御言葉に甘えさせて頂きます」
阿卷は感謝した
生い茂る緑。波形スレートの建物。鎧戸は開け放たれ、其の内部には古い工作機械が静寂に並び、中央に広く分厚い鋳鉄の鋼板が鎮座する
「望。此処で良いか?」
重そうに段ボールを抱えた男が言うと
「其処には置けない。此方の棚に戻すから、お願い」
阿卷が言葉を返す
「本って束に成ると意外にも重いんだな・・・何時も大事にしてるけど、此の金属製の巨大な台は何?」
「其れは定盤。精度の神様が住んで居るのよ」
「・・・セード。其れはシドーとかゾーマの仲間か?」
「大正解。大事にしないと、大魔王頑固親父の雷が落ちるわよ。有り難う。貴方。麦茶と西瓜で休憩にしましょう」
時の止まった工場の一角は鉄の骨組みで仕切られ部屋になっていて
「暑い」
夫は首に掛けたタオルで首筋を拭い、夫婦はコンクリート打ちっ放しの床のパイプ椅子に座り、パイプテーブルに置かれたグラスの麦茶を手に取り啜る
「其処が昭和機巧の社長室で会議室で休憩室で食堂だったのよ。私は未だ小学生で赤いランドセルを背負っていた。社員の皆で山形鋼を切断って溶接してね。本職の建具屋さんに頼んで内装を仕上げて貰った。信じられないでしょ。こんな山奥の小さな工場で世界が羨む最高精度の加工が成されていた。修行して継ぎたいと思っていたんだけどな・・・」
「義父さんは望に継がせたくなかったんだ。一緒に酒を呑んでいてさ弱音みたいなのを聞いた事が有るし」
夫は西瓜に齧り付き
「然うなのかな。私。三人姉妹の御姉ちゃん達と随分と歳の離れた末の妹でしょ。工場の後継者になる男の子が欲しくて頑張ったのかな・・・とか。考えちゃって」
阿卷は手持ち無沙汰に算盤の珠を弾く
「もう工場に戻らなくても良いんだろ。暫く休んで、手持ち無沙汰なら算盤と簿記の資格を活かして店を手伝えよ。此れでも無くてはならない限界集落のコンビニって頼りにされているんだぜ」
「然うさせて貰おうかな・・・」
「あっ。狸だ!」
工場の前の砂利道から狸が夫婦の様子を窺う様にしていて
「有り難う」
阿卷は礼を述べ
「狸に礼を言ってどうするんだよ」
夫は突っ込みを入れるが
「狸と狐の化かし合いは狸が一枚上手だったなと思って」
阿卷は真顔で答え
「然うか。有り難う。狸!」
夫も礼を言うと、狸は音もなく叢に消えて行った
「話して無かったね」
「三日三晩も眠り姫だったし」
「・・・月曜日に出社したら『私は最高の人材を見出だした!』って、何かに取り憑かれたように言い出して突然の退職勧奨。会長と私は敵対的買収の公開買い付けで値段が上がったところで手持ちの株式は全部売却して、私は早期退職の割り増し退職金も受け取れて、万歳三唱だったから良かったけど」
「買収されたのに、また買収されるのか」
「云億円の設備投資を決めて、投資資金の一部を株式の売却益で賄おうとして、其処に付け込まれたのね」
「技術者も設備も丸ごと引っこ抜こうとしたのか」
「肝心の技術者が居ないのに、取らぬ狸の皮算用よね」
「云億円の設備投資にしても敵対的買収にしても事前の下調べとか遣らないのか」
「遣ったからよ。圧倒的な技術者が在籍しているって確証が有ったから、大金を動かしての投資計画も買収計画も発動された」
「望では無い誰かって事だよな」
「ええ、まぁ・・・」
「男か?」
「未だ妬いてくれるの?」
「や、妬いてなんか無いもんッ」
夫は膨れっ面で
「嬉しいなぁ♪」
阿卷は歓喜した
夏の陽射しの小さな工場から笑い声が聞こえて、其れを遠くから見ている。黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、ぽんぽこぽ~ん」
ー∞ー∞ー∞ー
ー大団円ー
「コピー本ですよ」
大団 円が、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子に紙袋を手渡し
「“機械工伝説テッサク”確かに4冊」
禍金が中身を確認して
「予備で作った同じ物が、もう1冊有りますけど、要りませんか。サービスにしときますよ」
「其方は大団様がお持ち下さい」
「大切にして下さいね。久し振りに漫画を描きました。フリーハンドで現場で描く図面をマンガって言ったりしますけど」
自作の漫画本をパラパラと捲り顔を上げると、禍金の姿は無かった
「大団さん。帰っちゃいますか」
工員が青褪めた顔で走り寄る
「精神病の再就職支援の日雇いで、此れから日給を受け取って帰ります」
「其れは知っていますが」
「不具合でも有りましたか」
「順調に加工していますが」
「17時の定時には勝手に終わります。後は時間まで見ていて外すだけですから、御自分の手柄にして下さい。然う言う約束でしたよね」
「でも、凸凹工科大の工学部の教授に再計算を依頼してある、サイクロイドのプログラムが未だ出来てないんですよ。あんな旧式のマシニングで、どうやって遣ったんですか」
「他の機械は別の加工で使っていますよね。此の工場で納期を守って作ろうとしたら、何道、此れ以外に方法は有りません。大丈夫。製造部の部長が言ってましたよね。技術は無料で何処からともなく際限もなく沸いて溢れ出る物だって」
「言ってないと思うんですが」
「似たような事は言っていましたよ。技術的特異点と言います。突然、努力も才能も必要無しに出来る様に成りますから心配は無用です」
「大団さんも然うだったんですか」
「勿論ですとも。ある日、突然、天から覚りの光明が降り注いだのです」
「兎に角。一緒に来て下さい。其の部長がお呼びです」
「やだぁ、もぅ帰るぅ」
「駄駄を捏ねないで下さい。来て貰わないと、今日の御給料を出して貰えませんよ」
「大団さんがやったのね。此の漫画を描いたのも」
「部長。犯人探しですか。犯罪者の扱いですか。『良い仕事してますねぇ』とか言えませんか。その漫画は4万円で個人的に請け負った仕事と同じ物ですからね。欲しかったら1万円で買って下さい」
大団は漫画本を取り返しマシニングセンタの前で2人は睨み合う
「10円の間違いでしょ。工場の教本にして配布するから、同じ物をコピーして100冊持ってきて」
「1冊1万円でぇす。本にする物理だけでコピーが12枚を両面で240円に表紙のカラーコピーが50円。千枚通しで穴開けて糸で縫った中綴じ製本24頁。製本の原価だけで300円で中身の漫画には数字じゃ表せない膨大な労力が掛かっている。先払いで4万円だったから製本迄しましたけどね。労力と天秤に掛けると4万円でも安かったと思っています。其れを無料で持ってこいと?」
「解らない人ね。儲かるでしょ。副業は禁止よ。事務所の複写機を使って良いから、迅速に持って来なさい」
「部長が自分で描いて、自分でコピーして下さい」
「此れ位黙って遣ったらどうなの。現場の機械工が栃狂った給料で贅沢な暮らしをして工場の経営を圧迫してるのよ。下手な漫画の複製ぐらい喜んで遣りなさいよ」
「自分に出来ない事を、他人に頼む時の態度を、御存知ですか?」
「出来るわよ。此れぐらいの事は」
「其れでは、とても鬱陶しく思いますので、お願いします。御自分でどうぞ」
「何ですってぇ」
「御存知ないようなので、お教え致しますね。此方を向いて正座した上で、両の掌と額が此の工場の切削油の染み込んだコンクリートに付くまで伏せ、其の姿勢を保ちつつ『お願い致します』ですよ」
2人が再び睨み合うと
「大団さん。申し訳ありません。此のマシニングの段取りを、もう1度教えて頂きたく。お帰りの処をお引き止め致しました次第でして」
話を逸らそうと工員が慌てて割り込んだ
「4つ爪の旋盤のスクロールチャックを、機械のテーブルの上に載せて、主軸をフリーにしてダイヤルゲージで、くるくる芯出しして内側から固定して、円の外周に歯を刻み込み歯車を製作する。問題は歯車の歯の形状が通常のインボリュート歯形ではなくサイクロイド歯形になっている。つまり恐ろしく精度が求められると言う事です。発注元は凸凹工科大学工学部電気電子システム工学科。第4研究室。もしかしなくても先端半導体の製造に関わる研究に使われる」
マシニングセンタのテーブルは小刻みに動き続け2枚刃のエンドミルが大きな歯車の形を浮かび上がらせようとしていた
「御明察です」
「先に作った3枚はどうしました?」
「受け取りに来て持って帰りました。其れで先方の組み付けが、動作の様が流麗優美と大絶賛で」
「其れは良かった。其れでは、お先に失礼します」
「待って下さい。プログラムが驚きの短さなのに研究室の技術者が舌を巻く高精度」
「優秀なのに、何でこんな仕事をしてるんです」
「教えて下さい」
大団は食い入るように見詰められ、隣の作業台に置かれていた図面を手渡し
「図面から拡大コピーしたサイクロイド歯形1枚の詳細図です。此れが円周に連なって歯車になっている。サイクロイド曲線の媒介変数も出ています。しかし此れを連ねただけでは左から右へ直線の歯車になってしまう。其処でボールペンで書き込んであるのが2次元ユークリッド空間での、反時計回りを正方向とした、原点中心のシータ回転の回転行列。更に三角関数の加法定理を用いて数値制御のプログラムに起します。角度シータを変数R。原点中心にR回転して変数XとYがXAとYAに写るとすると、XA=XコサインR−YサインR。YA=XサインR+YコサインR。古い機械ですが、カスタムマクロが導入されていて関数も使えるから出来た芸当ですね」
解説すると
「ひぃぃ」
部長が三角関数と聞き悲鳴を上げる
「プログラムした形状は1つだけで、他は角度を変えた複製と言う事ですか」
「はい。WHILE文で角度を変えながら同じプログラムを繰り返しています。注意点は角度は全て弧度法で統一する事。機械内部の角度計算が弧度法なのと、分数で表すと誤差が小さくて済むからです。此れを全部0.001㎜単位の数字でプログラムするからTBのUSBメモリが一杯に成って膨大な数字の羅列で正しいか間違っているか確認の仕様が無い。計算中の小さな誤差でも積もりに積もって大きな数に成っているかも知れない。常に原点を基準にして・・・言い方が正しいか分かりませんけど、新鮮な数字で加工する」
大団の言葉を工員は手帳に書き込み
「有り難うございました。工作物を固定する工夫と手技。ダイヤルゲージの使用方法。プログラミングの発想。勉強に成りました」
頭を下げ
「じゃあ、お先に・・・」
大団は帰宅しようとするが
「大団さん。未だ量産品の仕事を続けるつもり?」
部長が立ち開かる
「1日6時間、週休4日。堪えられません」
「仕事で重要なのは、お金じゃあないのよ」
「休みです」
「遣りたい仕事より。出来る仕事よ」
「出来るは此の場合、他より優れている状態。遣りたいは欲求。正しい2分法としては、出来るか出来ないか。遣りたいか遣りたくないか。お聞きしますが、部長は出来ない仕事か、遣りたくない仕事か何方を選びますか。同じ事ですよね」
「そんなのは詭弁でしょ」
「詭弁ですよね」
2人は三度睨み合い
「大団さん、もう1つだけ。これも大好評ですが、今言った量産品の改善はどうやって?」
「電話で面会の約束を取り付けて、菓子折り持って、頭を下げて教えて貰いました」
「何て事をするのよ!」
部長が食ってっかかり
「何処の誰が組んだプログラムか解っているのに使い方が解らずに、生産性が悪化の一途を辿っていました。此れ以上に安く早く確実な方法がありますか?」
四度睨み合う
「コミュニケーション能力ですね」
カシャコーン、カシャコーン
従業員外立入禁止の扉の向こうは、洋墨の匂い
「書店長。お願いします。勤務時間を増やして下さい」
前掛け姿の、大団の操作する包装機械が漫画本を包み込む音が響き
「1000円。工学書の選書に御客様への御提案に勉強になるわ」
書店長がコピー本を閉じつつ言う
「1万円です。最初に4冊4万円で買ってくれた人が気分を悪くしますよ。10円とか言った人より100倍は増しな方ですけど」
「信用第一ね」
「先人の築き上げた信用を目先の少額の為に『儲かるでしょ』とか言って、自分でも気付かない内に二束三文で売り払ってしまっていて火の車。そんな工場を見て信用って大切だと思いました」
「此の漫画の登場人物で原型になった人物はいるの?」
「鉄作の父親に一鉄がいますよね?町工場の職人を親爺と言ったりしますけど、自主廃業に成りました。御世話になった工場の親爺が原型です」
「其の親爺さんは何て言うかな。円ちゃんが工場の仕事を辞めるって言ったら」
「同じです。機械加工の技術に関しては頑固一徹の職人気質ですけど、個人の意志と意欲を何より尊重する人です」
「羨ましいな。然ういう信頼関係みたいなの」
「工学書の選書とか元機械工に遣らせて下さい。其れで今日はPOPを作って来ました」
「助かるけど。工学書って訳が分からないし。工学書協会の特約常備店で、系列で当店だけ置かないも出来ないしね。工場の仕事で儲けてるんじゃないの。以前にも『大団を出せ、小売の販売員なんぞ遣らせとくな!』って、作業着が怒鳴り込んで来たでしょう?」
「其の工場は倒産しました。製造の業界全体でサービス残業が常態化していて、賃金÷実際の労働時間=最低賃金以下です。同じ貧困労働なら、好きな仕事をしたいですよ」
「円ちゃん。出来る人じゃないの?」
「出来ると、大嫌いな仕事を遣らなければ成りませんか?」
「然うじゃないけど」
シャッ、シャッ、シャッ
大団は話しつつも、雑誌に付録を挟み込み、素早い手付きでビニール紐を結わえ掛ける
「努力した結果の出来るなのに、望まない未来の為に何を頑張っていたのかと、後悔ばかりで泣きたくなります」
「努力して出来る様になると、嫌いな仕事から抜け出せなくなるでは、誰も出来る様に努力しないよね」
「工場に勤めたら1社ですけど、適切に工学書の御提案が出来れば、書店を訪れる全ての工員が熟練工の叡智を授かれると考えて下さい」
「書店員って社員割引が何より有り難い、活字中毒者の集まりだから、二足の草鞋を改めて、只のアルバイトから書店員になる覚悟は有る?」
「お話ししませんでしたか?大好きな作品の小説家の先生に憧れて、同じ大学に入りたいと勉強を頑張ったんです。誰も味方が居ませんでした。親も教師も予備校の講師も『凸凹工科大が狙えるぞ!』『文系じゃあ卒業しても仕事が無いぞ!』と言われ捻じ曲げられて高等学校中途退学。其れでも工場の仕事を押し付けられて、頑張りました・・・けど。底無しの底辺で。現在の工場も再就職支援で通わされている精神科医に『勿体ないよぉ、君ぃ。ふぉふぉふぉ』と言われ、病気の原因に連れ戻されただけなんです。精神科に通院して精神状態を悪くしていたら本末転倒ですよ。意味が有ったと思いたい。大嫌いな工学の勉強も書店員になる為には必要な事だったと思えたら、少しは救われた気に成れると思うんです」
「愚問だったか」
「皆が幸せ。大団円です」
「本を陳列して開店の時間。台車を使ってよ、腰を痛めない様に、書店員を長く続けたいなら、ね」
「有り難うございました」
書店員の感謝の言葉に見送られ、書店の自動扉が開く。1冊の本を手に持ち、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、お読み頂きまして有り難うございました」
ー∞ー∞ー∞ー