英雄と呼ばれた僕は。 作:虎春
ミレリアは背後の棚へ手を伸ばしかけ、ふとシルフィの顔と小柄な体格を見直し、悪戯っぽく片眉を上げると、酒瓶ではなく果汁の入った瓶を取った。
ミレリア「まずは何はともあれ酒……は、まだ駄目だろうから、これにしな」
カウンターに置かれたのは、鮮やかな橙色のオレンジジュースだった。
シルフィ「ありがと。オレンジジュースは好物だよ」
シルフィは気取ることなくグラスを受け取り、一口飲む。その様子を見つめていたミレリアが、興味深そうに頬杖をついた。
ミレリア「あんた、白銀の剣聖様だろ? 立派な英雄さんが、なんだってこんな街に?」
シルフィの動きがぴたりと止まり、カウンターにぺたんと頬をつけるように伏す。
しばらくグラスの水面を見つめたあと、彼はそれを静かにカウンターへ戻した。
コトン。
伏せられた白銀の瞳に、微かな翳りが落ちる。
シルフィ「英雄も、、、時には疲れるのさ」
それは愚痴と呼ぶには静かすぎて、助けを求める言葉と呼ぶには諦めすぎていた。
ミレリアは幾度か瞬きをすると、腹の底から豪快に笑った。
ミレリア「はっはははは!!そうかい! 英雄様も人間ってこったね! 少し安心したよ!」
予想もしなかった反応に、シルフィはぽかんと目を見開き、信じられないものを見るような、白銀の剣聖と呼ばれた男が初めて動揺していた。
シルフィ「えっ……?」
ミレリア「剣聖様って呼ばれても、人間だってことさ! それがあたしは嬉しいって、勝手な話!」
その笑顔には、同情も憐れみもなかった。
ましてや、英雄への媚びや恐れなど欠片もない。
あるのはシンプルな大人としての心。ただ目の前の一人の少年が疲れている。その当たり前の事実を、当たり前のように受け止めているだけだった。
シルフィの白銀の瞳が揺れる。
堪える間もなく、一筋の涙が頬を伝った。
シルフィ「……ずるいよ」
唇が幼く歪み、声が震え始める。続いて溢れた涙を隠すように、シルフィは両手で目元を擦り、溢れれ涙を拭う。
シルフィ「優しすぎるのは……ずるい」
その声はもう、世界最強の剣士のものでも、白銀の剣聖と呼ばれた英雄でもなかった。
幾つもの伝説を背負わされ、御伽噺となり、人々を守ることに尽くし続けたことで、泣くことさえ忘れていた、弱り切った十六歳の少年の声だった。
ミレリアは急かさない。慰めの言葉を重ねることもせず、ただ彼が泣き止むまで、カウンターの向こうで静かに母のように慈愛をこめた目で見守った。喧騒が行き交う酒場で、この2人の空間だけは別物のように静かで温かった。