今さら嫌われていることに気がついたので、黙って消えたらなぜかパーティーが壊れた 作:どうも
ハルが街を出ていった朝、私は寝不足で少し重たい瞼をこすりながら、あいつを待たせたらまた軽口を叩かれるだろうな、なんて、今になって思えばずいぶん呑気なことを考えていた。昨夜はほとんど眠れず、隣の部屋で荷物を動かすような音がしていたのも覚えていたけれど、壁越しに声をかけるほどのことではないと思ったし、どうせ朝になれば顔を合わせるのだから、そのときでいいだろうと寝返りを打った気がする。扉を二度叩いて返事がなかったときだって、朝市にでも寄っているのかと、少し困ったくらいだった。
「ハル、入るよ。話す時間、昨日伝えたと思うんだけど」
鍵のかかっていない扉を押すと、窓際の椅子が目に入った。背に引っかかっていた青いマフラーも、床に転がっていた収納袋も、壁の地図もなくなっていて、やけに広く見える部屋へ片足を入れたまま、私は、掃除にしては気合が入りすぎじゃないかと思おうとしていた。
机の上には、紙袋と、一枚の手紙と、通信石。
先に紙袋をのぞいたのは、便箋に三人の名前が並んでいる理由を、まだ確かめたくなかったからかもしれない。私の包みにだけ蜂蜜が染み出しているのを見つけ、いつものやつだ、と指先で触れてみれば、揚げたての温かさはもう残っていないようだった。
「朝ご飯、買ってきてくれたんだ」
誰に聞かせるでもなく口にしてから手紙を持ち上げた私は、最初の数行を読み、途中で頭へ戻り、もう一度、今度は一文字ずつ拾い直すことになった。
昨日の話が聞こえたこと。
パーティーを抜けて、港町セイルへ向かうこと。
そして、その前に書かれた謝罪。
『気を遣わせてたみたいで、気づくのが遅くなってごめん。』
どうして、あいつが謝っているんだろう。
次の遠征から、ハルには外れてもらおうと思う。昨夜の自分の声が、妙にはっきりした調子でよみがえってきたので、私は扉のほうを振り返り、そこから机までの距離を、意味もなく目でたどってしまった。揚げパンを持って来たのなら、あいつは、どんな顔をして引き返したのだろう。
「……ハル?」
名前を呼んでも、廊下から聞こえたのは階下へ降りる誰かの足音だけで、私は手紙を持ったまま、そちらへ一歩出かけて止まった。
***
「リゼ、呼びに行ったきり戻ってこないけど、何やってんの」
顔を出したエマへ便箋を差し出すと、寝不足らしい目が数行を追ったところで細くなり、後ろから来たフィオまで、肩越しにのぞいた姿勢のまま動かなくなった。
「……何これ」
エマは裏面を確かめてから窓へ近づき、今度は光へ透かすみたいに紙を持ち直していたけれど、別の文字が浮かび上がるわけでも、冗談でした、と続くわけでもなさそうだった。
「いつ出たの」
「分からない。私が来たときには、もう」
「止めなかったの?」
私の口が動きかけたところで、エマは自分の言ったことに気づいたらしく、手紙へ視線を落とした。
「……ごめん。今の、違う。あんただって知らなかったんだよね」
うなずくこともできずにいると、フィオが、読ませてもらってもいいですか、と両手を差し出したので、私たちは便箋を間に挟むように机の前へ集まった。
『一年半、一緒に冒険できて、マジで楽しかった。』
その一文の終わりにある、いつもの少し跳ねた字を見つめていたエマが、不意に息を詰まらせた。
「なんで、お礼なんか書くの」
小さい声だったけれど、フィオの指が紙の縁からずれ、私も思わず口元へ手を当ててしまった。
「あたし、一緒にいるのがキツいとか言ったのに。文句くらい言えばいいじゃん、ふざけんなとか……そういうの、普段は言ってたくせに」
怒ってくれたら言い返せたかもしれないし、扉を蹴ってでも入ってきてくれれば、少なくとも、私たちは昨夜のうちに顔を合わせていたはずだった。
そんな都合のいいことを考えかけて、私は口元を押さえる手に力を入れた。
あの言葉を聞いたあとで部屋へ入ってくる勇気まで、ハルのほうに用意してもらうつもりなのだろうか。
「私、聞かれたんです。何かやらかしたかって」
フィオが手紙を机へ戻しながら話し始めたので、私とエマはほとんど同時に顔を上げた。
「三日前の夕食のあとに。何も悪くないとしか答えなくて、そうしたら、よかったって、笑ってくれて……」
そこから先はうまく続かないようで、彼女は何度か唇を開いてから、胸元の布を握り込んだ。
「安心してくれたと、思ったんです。私、あのとき」
その言葉を聞くと、この十日ほどの食卓で、目が合うたびに顔を背けていた自分を思い出し、私は机の木目へ視線を逃がすしかなかった。ハルのほうから確かめようとしてくれたことが、何度あったのだろう。今ならどんな顔でも見せるし、途中で声が変になったって構わないのに、あいつがこちらを見ていたときには、一度だって、ちゃんと目を合わせようとしなかった気がする。
フィオが何かに気づいて屑籠の前へしゃがみ、捨てられた便箋を一枚拾い上げたのは、そのあとだった。
しわを伸ばした紙には、一文だけ書かれていて、その上から線が引かれていた。
『いろいろ迷惑をかけてごめん』
フィオは両手で紙の角を押さえたまま、長いこと動かなかった。
「これ、私が持っていても……」
うん、と返そうとしたのに、喉を通った声はひどく掠れていて、聞こえたか分からなかったので、私は大きくうなずいておいた。
ハルはここで、一人で手紙を書き直していたらしかった。壁の向こうで私が朝を待っていた間に、謝る言葉を選び、荷物を詰めて、あの地図まで外していたのだと思うと、昨夜聞こえた小さな物音が、今さら耳の奥へ戻ってくるようだった。
「通信石、使えば」
エマが腰の袋を探ったので、私は机へ目を向けたけれど、そこに残された石を指さすことはできなかった。
「ハル、聞こえる? ちょっと、返事してほしいんだけど」
淡い光と一緒に、同じ声がすぐ目の前から返ってきた。
エマはその石を見つめ、まだ魔力を流したまま、口を開いては閉じていた。
「……一回でいいから」
遅れて響いた自分の声に肩が揺れ、ようやく手を下ろしたときには、いつもなら真っ先に悪態をつく口元が、子どもみたいに歪んでいるように見えた。
***
ギルドでは夜番から引き継いだ帳面をすぐに出してもらえたので、手続きはまだなのでは、と道中で繰り返していた私は、開かれた頁を前に、次の言葉を探すことになった。
〈朝焼け〉の欄には、三人分の名前。
私はその下の余白を指で押さえ、自分でも驚くほど急いだ声で、取り消せませんか、と尋ねていた。
「本人と、まだ話せていないんです。今朝、話をするはずで」
「でしたら、ご本人と相談して、改めて登録をお願いします」
受付の人が帳面を戻そうとしたとき、私は押さえていた指をすぐに離せず、相手の手が止まってから、すみません、と引っ込めることになった。名前さえ戻してもらえば、と一瞬でも考えていたのかと思うと、顔が熱くなった。あいつは自分でここへ来て、抜けると告げて、そのあと門へ向かったはずなのに、私はそこを全部飛ばして、帳面一冊で昨日へ戻ろうとしていたらしい。南門の門番はハルを覚えていて、野菜を運ぶ荷馬車に便乗し、夜明けごろには出ていったと教えてくれた。
「楽しそうだったよ。海の魚を食うんだって、荷台から手を振ってたからな」
その話に、フィオがほんの少しだけ息を吐いた。
私はうなずくのが遅れた。
今朝のあいつが笑えていたのなら、よかったと思いたいのに、その場に私たちが一人もいなかったことへ、胸の奥が妙な引っかかり方をしてしまった。これから知らない街で、知らない誰かと食事をして、その人たちには、あんなふうに謝る手紙を書かずに済むのかもしれない。そうであってほしい気持ちと、その想像をやめたい気持ちが一緒に浮かんできて、私は門柱の陰で、握りしめた手をゆっくり開くことにした。
「馬、借りよう。追いつけるかもしれないし」
「あたしもフィオも、そんな距離は乗れないって」
エマに袖を引かれて足を止めると、フィオは宿で履く薄い靴のままで、その踵に赤く擦れた跡が見えた。自分が剣一本しか持っていないことにもそこで気づき、私は門の外へ向けた身体を、どうにか二人のほうへ戻した。今すぐ行きたいというだけで連れ出しかけた私へ、フィオは、すみません、と言いそうになって唇を閉じた。
代わりにこちらから謝ると、エマは何も言わず、宿へ引き返す道を指さした。
***
昼の乗合馬車でセイルへ向かい、それより先にギルド経由の伝言を頼むことまでは決まったのだけれど、机に便箋を広げると、今度は書き出しで手が止まってしまった。
『昨日の話について、説明したいことがあります。』
そこまで書いたところで、向かいに座ったエマが、俯いたまま言った。
「それ、読んでくれるかな」
「伝言を受け取ってくれれば」
「受け取ったら、また、気を遣わせてごめんって思わない?」
ペン先が紙に触れ、字にならない点を作った。そう思われない文章にすればいい、という返事は簡単に浮かんだのに、どう書けばそうなるのか、私にはすぐに分からなかった。
「じゃあ、エマが書いて」
「そういう話してないでしょ」
「私だって、分からないんだよ」
思っていたより大きな声が出て、フィオが肩をすくめたので、私はペンを置こうとして、机の端から落としてしまった。
床を転がる音が止まっても、誰もすぐには拾わなかった。
ハルがいれば、なんて考えがよぎりかけて、私は膝の上で手を握った。
昨日まで当たり前に聞いていた声を、こんな場面の仲裁にまで欲しがるのは、いくらなんでも勝手すぎるんじゃないだろうか。
「……ごめん。エマに怒ることじゃなかった」
しゃがんでペンを拾う間も、返事はなかった。
椅子へ戻ると、エマはあの手紙を見つめ、追伸に書かれた自分の名前を指先でなぞっていた。
「あたしの分、砂糖多めなんだよね」
唐突な話だったのに、聞き返す気にはなれなかった。
「あんな話、聞いたあとでもさ。誰のか分かるように書いて、リゼの食うなって、いつもみたいなことまで……」
紙の上へ雫が落ちそうになり、エマが慌てて顔を横へ向けたので、フィオは何も言わずに自分のハンカチを差し出した。
「今、あたしが泣いてどうすんのって感じだけど」
拭いても追いつかないらしく、エマはそれ以上しゃべるのをやめ、フィオも自分の袖で目元を押さえていた。
私は新しい紙を出し、先に謝罪を書いた。何があっても会ってくれるはずだとか、最後まで話せば前みたいに戻れるだとか、そういう期待を文章へ紛れ込ませそうになるたび、ペンを止めて読み返すしかなかった。
「会いたいって、書いてもいいかな」
エマはハンカチに顔を埋めたまま、小さくうなずいた。
フィオは少し迷ってから、会えたら最初に、ハルさんの話を聞きたいです、と言ったので、私はその一文も書き添えておいた。
***
出発前、フィオが揚げパンの包みを開き、食べていきませんか、と声をかけてくれた。蜂蜜は紙へくっつき、一口かじってもなかなか喉を通らなかったけれど、残して出ていくことだけは、どうしてもできそうになかった。
「マフラー、持ってったんだね」
エマは空の椅子を見つめてから、寒くはないかな、と続けた。持っていってくれてよかった、と答えかけた私は、あいつが何を考えてあれを巻いたのかまで、今ここで自分に都合よく決めてしまいたくはなかったので、海沿いは風が強いって聞くね、とだけ返しておいた。
フィオは食べ終えた包みを折り畳む前に、名前の書かれた面をしばらく見ていた。私は机に残っていた通信石を取り上げ、自分のものとは別のポケットへしまったあと、癖で、揃った? と二人へ声をかけてしまった。
エマが顔を上げ、フィオは入口へ目を向けた。
そこでやっと、私は人数を数えるのをやめた。
昨夜、隣の部屋で小さな物音がしたとき、一度でいいから名前を呼んでおけばよかったのかもしれない。それだけで何か変わったのかは、もう確かめようもなかったけれど、扉を閉めるために伸ばした手は、いつまでも取っ手から離れてくれそうになかった。