10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
アクアが難関医大に入学してから、私たちの生活の歯車は、それまでとは比べものにならないスピードで回り始めた。「……う、頭が割れそう……。解剖学の専門用語、覚える量が人間の限界を超えてる……」
リビングのローテーブルに、辞書のように分厚い医学書を広げたアクアが、髪をくしゃくしゃにしながら文字通り死にそうな顔をしていた。
1周目のあいつなら、どれだけ過酷な状況でも冷徹な鉄面皮を崩さなかった。けれど今のあいつは、自分の意志で心臓外科医を目指しているからこそ、普通の現役医大生として、全力で、泥臭く壁にぶち当たっている。
「ほら、お疲れ様。あんたの好きな、ちょっと苦めのブラックコーヒー」
私がマグカップをあいつの目の前に置くと、アクアは砂漠で水を見つけた人間のような顔で私を見上げた。
「……助かる、有馬。お前は今日、仕事終わりか?」
「ええ。新しい主演映画のプロモーションの打ち合わせ。来週から地方ロケも始まるから、スケジュールがパツパツなのよ」
そう、私もただ待っているだけの女じゃない。
B小町を引退し、役者一本に絞ってからの私の快進撃は、芸能界でもちょっとした話題になっていた。
今や「若手実力派女優の筆頭」として、次々に大きな仕事が舞い込んでいる。
現役の超多忙な医大生と、売れっ子のトップ女優。普通なら、すれ違って自然消滅してもおかしくないくらい、お互いに自分の人生の最前線を必死に走っている。
だけど、私たちは、あの「ただの男女」になった日に交わした約束を、一瞬たりとも忘れてはいなかった。
「来週から地方か。……しばらく会えなくなるな」
アクアは医学書を閉じ、マグカップを置くと、私の隣へと静かに座り直した。
そして、当然のような顔をして、私の手を自分の大きな手で包み込んでくる。
付き合って数年が経ち、お互いに少しだけ大人になったけれど、この手の温かさだけはあの河川敷の日のままだ。
「なによ、寂しいわけ?」
「……ああ。悪いか」
「っ――!?」
1周目のあいつなら、絶対に口にしなかった直球の言葉。
あいつは照れ隠しもせず、真っ直ぐに一人の男としての強い視線を私に向けてきた。
「お前が世界一の女優に向かって走ってる姿は、見ていて誇らしい。でも、それと同じくらい、俺はお前が恋しいよ、有馬」
「な、ななな……何言ってるのよバカアクア!!」
少し大人びたあいつの口から飛び出すストレートな好意に、私は案の定、10秒で顔を真っ赤にしてソファのクッションに顔を埋めた。
そんな私の不器用な反応を見て、アクアはフッと、本当に愛おしそうな苦笑いを浮かべ、私の肩を優しく引き寄せた。「待たせてる自覚はある。俺が一人前の医者になるまで、まだ何年もかかるからな。……でも、俺が本当の家族になろうって言った約束、忘れた日は一日もない」
あいつの胸の奥から、トクトクと力強い心臓の鼓動が伝わってくる。誰の命も奪わず、誰の命も諦めず、未来でたくさんの命を救う、世界一格好いい心臓外科医の手。
「私だって忘れるわけないじゃない、バカ……。あんたが最高の医者になるまで、私は何年でも、その一番の特別の席で待っててあげるわよ」
クッションに顔を埋めたまま、私が小さく、けれどハッキリとそう告げると、アクアの手が私の髪を優しく撫でた。
お互いに忙しくて、他愛もない日ばかりじゃないけれど。
部屋で二人きりになれば、私たちはいつだって、あの日の約束に立ち返ることができる。
それぞれの夢の最前線を走りながら、私たちは一歩ずつ、確実に『本当の家族』への階段を上っていた。