10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
32.木漏れ日の陰、穏やかな日常の隙間
ルビーやあかね、MEMちょが持ってきてくれた特大のデコレーションケーキは、星野家の賑やかなリビングで、あっという間にみんなのお腹の中へと消えていった。
「あー、食べた食べた! 陽菜ちゃんの可愛い作文も聞けたし、今日は本当に最高の日だね!」
「ちょっとルビー、ソファの上でゴロゴロしないの。かなちゃん、この人また明日からのライブの衣装が入らなくなっても知らないからね」
「あかねちゃん酷い!? 私をなんだと思ってるの! 体型維持なんてアイドルの基本中の基本なんだからね!」
ひとしきり笑い、お喋りを交わした仲間たちは、夜が更ける前に「それじゃあ、またね」とそれぞれの場所に帰っていった。嵐の去った後のような静けさが、リビングを優しく包み込む。
「……ふぅ。みんな、本当に陽菜のことが大好きなんだから」
かなはダイニングテーブルの上に残ったお皿を片付けながら、嬉しそうに、けれど少しだけ名残惜しそうに息を吐いた。
キッチンでグラスを洗っていたアクアは、蛇口を閉めてタオルで手を拭きながら、リビングのソファの方へと視線を向ける。そこでは、今日の主役である陽菜が、お腹いっぱいで満足したのか、クッションに頭を預けてすやすやと小さな寝息を立てていた。
「子供の成長は早いな。ついこの間まで、風邪をひいてオロオロと泣いていた気がするんだが」
「本当よ。あんな立派な作文が書けるようになるなんてね……。でも、あんたがお医者さんで、私が役者でよかった。あの子に、少しでも誇れる背中を見せられていたなら、それだけで私たちが歩んできた道には意味があったって思えるもの」
かなはアクアの隣に並び、洗い終えたお皿を棚へと仕舞っていく。
かつて嘘にまみれた芸能界で、お互いに傷つき、すれ違い、泥をすすりながらも諦めずに手を繋ぎ続けた二人。復讐という暗い義務を終えたアクアが選んだ医師という道も、かなが今なお第一線で輝き続ける役者という道も、すべては今、目の前で眠る我が子の未来を照らすためのものだった。
「……アクア」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒にいようね。何があっても、三人で」
かなが少しはにかみながら、アクアの部屋着の袖をきゅっと握る。アクアは優しく微笑み、その小さな頭を引き寄せた。
「ああ。約束する。命に代えても、お前と陽菜は俺が守る」
その夜は、いつも通りの、どこまでも温かくて穏やかな星野家の夜だった。
――それから、また少しだけ時計の針が進む。
小学校の卒業式を終え、陽菜の背丈はかなの肩に届くくらいまで大きくなっていた。
父親譲りの整った容姿と、母親譲りの豊かな表情を持つ彼女は、中学校へ進学してすぐ、街を歩けば誰もが振り返るほどの美少女へと成長していた。
「パパ、ママ、いってきます!」
新しい紺色の制服に身を包んだ陽菜が、ローファーの音を響かせて元気よく玄関を飛び出していく。
それを見送るアクアとかなの顔には、親としての溢れんばかりの慈愛の笑みが浮かんでいた。
中学校の生活は、陽菜にとって新鮮で、楽しい日々の連続だった。
勉強に部活に、新しい友達。母親が「有馬かな」であることは学校には隠していたが、それでも彼女が持つ独特の『惹きつける光』は、隠しきれるものではなかった。クラスの劇の発表で少し演技を披露すれば、誰もがその表現力に圧倒され、周囲からは「陽菜ちゃんって、もしかして将来芸能人になるの?」なんて噂されることも、一度や二度ではなかった。
そんな、光に満ちた幸福な日常。
誰もが、この平和な日々がどこまでも続いていくのだと信じて疑わなかった。
ある、よく晴れた日の午後。
部活を終えて帰宅した陽菜は、一階の集合ポストの中に、我が家宛ての郵便物がいくつか届いているのを見つけた。
「あ、お父さん宛てのお仕事の手紙と、お母さん宛てのカタログ……ん?」
その中に一通だけ、宛名が白文字の綺麗なペンで『星野 陽菜 様』と直接書かれた、小さな青い封筒が混ざっていた。
差出人の名前は書かれていない。
ただ、その封筒の裏側には、封をするためのシール代わりに、押し花にされた『紫色のアイリス』が、ひっそりと貼り付けられていた。
「私にお手紙……? 誰からだろう」
陽菜は不思議そうに首を傾げながら、その綺麗な青い封筒をカバンの中に仕舞い、エレベーターへと乗り込んだ。
それが、かつて両親が全てを懸けて葬り去ったはずの、あの暗い過去の深淵から届いた『最初の灯火』だとは、この時の陽菜はまだ、知る由もなかった――。