10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
「ただいまー……」
中学校の制服のまま、陽菜は自分の部屋へと駆け込み、ベッドの上にカバンを放り投げた。
昨日、ポストから回収してこっそりカバンの奥底に隠しておいた、あの差出人不明の『青い封筒』。リビングでお母さんやお父さんと過ごしている間は、なぜだかその存在を口にしてはいけないような、妙な胸騒ぎがしていたのだ。
カバンのポケットから封筒を取り出す。
裏面に貼り付けられた紫色のアイリスの押し花が、部屋の蛍光灯の光を浴びて、どこか不気味に沈んだ色を放っていた。
「……誰からなんだろう。クラスの男の子の悪戯かな?」
トランプのカードほどの小さな封筒。
陽菜は意を決して、爪先でアイリスの押し花をそっと剥がし、中の便箋を引き抜いた。
入っていたのは、上質な厚手の白い紙。
そこには、驚くほど整った、まるで芸術品のように美しい流麗な文字で、数行のメッセージだけが綴られていた。
『はじめまして、星野陽菜様。
君が素晴らしい両親の元で、とても美しく、健やかに育っていることを嬉しく思います。
君の瞳の輝きは、かつて世界を魅了したあの星野アイや、僕の親愛なる友人であったカミキヒカルの面影を、あまりにも色濃く残している。
彼らが遺した、芸能界の本当の美しさを、いつか君にも教えてあげたい。
近いうちに、僕たちの劇団の舞台を観に来てくれませんか?
君という至高の才能に会える日を、心から楽しみにしています』
「……え?」
陽菜は便箋を握りしめたまま、その場に凍りついた。
中学生の陽菜には、手紙に書かれている「カミキヒカル」という名前にも、「星野アイ」という名前にも、ピンとくるものはなかった。お父さんもお母さんも、過去の凄惨な事件や自分たちの出生の秘密を、陽菜には一切、一言も聞かせてこなかったからだ。
けれど、文字から伝わってくる、ねっとりとした、逃げ場のないような異常な執着心。
それが、ただの悪戯の類ではないことだけは、幼い直感が告げていた。
「劇団……? 僕たちの、劇団……?」
陽菜がその言葉を小さく呟いた、その時だった。
「陽菜ー? 起きてる? そろそろご飯だから、リビングに降りてきなさい」
ドアの向こうから、聞き馴染んだお母さんの――かなの明るい声が響いた。
陽菜はハッと我に返ると、弾かれたように手紙と封筒をクローゼットの奥の引き出しへと隠し、呼吸を整えてからドアを開けた。
「あ、うん! 今行く!」
リビングに降りると、食卓には陽菜の大好きなオムライスが湯気を立てて並んでいた。
かなはエプロン姿で「今日のオムライスは卵をふわふわにするの、ちょっと失敗しちゃったわ」と悔しそうに笑い、アクアはそれをいつものように「十分美味そうだ」と静かに慰めている。
どこからどう見ても、温かくて、平和で、自分を世界一愛してくれる大好きな両親。
その光景を見た瞬間、陽菜の胸の奥の不安は少しだけ和らいだ。
(……うん。やっぱり、ただの悪戯だよね。パパやママに変な心配かけちゃダメだし、内緒にしておこう)
陽菜はそう自分に言い聞かせ、笑顔でスプーンを握った。
自分のすぐ後ろまで、かつて父親が命を懸けて葬り去ったはずの『過去の深淵』が、鎌を首元に突きつけて迫っているとも知らずに。
――その数日後の夜。
アクアは日直の勤務を終え、夜遅くに自身のデスクで、とある医療カルテの整理を行っていた。
静まり返った医局。
一息つこうとコーヒーを口にしたアクアのスマートフォンが、ブブブ、と短い振動音を立てた。
画面に表示されたのは、登録されていない見知らぬ番号。
普段なら無視するはずの着信だったが、なぜだかその時だけは、妙な胸騒ぎがしてアクアは通話ボタンを押した。
「……もしもし」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、静かで、どこか芝居がかった、ひどく耳に心地よい大人の男の声だった。
『初めまして、星野アクア様。……いや、今は星野先生、とお呼びするべきでしょうか』
「……誰だ」
アクアの声が一瞬で冷徹なトーンへと変わる。
『おや、冷たいですね。君がヒカルを追い詰めてから、もう随分と退屈な日々が続いていました。僕はね、ずっと彼の近くで、彼が描く歪んだ愛を見ていた男ですよ』
「カミキ」の名前が出た瞬間、アクアの脳裏に、かつて命を懸けて終わらせたはずの、あの復讐劇の血の記憶が鮮烈にフラッシュバックした。医局の冷房が、一気に氷点下になったかのように、アクアの背中に冷たい汗が伝わる。
『安心してください。僕は君たちに復讐をしようなんて、そんな俗っぽいことは考えていない。ただ……ヒカルが最後に残した血筋が、どんな美しい花を咲かせるのか、純粋な観客として興味があるだけです』
「……何を言っている。お前の目的は何だ」
『手紙は、もうお嬢さんの手元に届けました。彼女の瞳の星……実に素晴らしい。僕たちの劇団の次なる舞台のセンターには、彼女こそがふさわしい。……それじゃあ、また』
プチッ、と無機質な音を立てて通話が切れた。
「おい、待て……! もしもし!? クソッ……!」
アクアはデスクを強く叩きつけ、スマートフォンの画面を睨みつけた。
男の言葉が脳内で不気味にリフレインする。
『手紙は、もうお嬢さんの手元に届けました』
終わったはずだった。すべてを清算して、ようやく掴んだ他愛のない日々だったはずだ。
だが、カミキの背後にいた、「もう一人の狂信者」の目が、今、最愛の娘である陽菜へと向けられている。
アクアの瞳の奥で、かつて消え去ったはずの、底知れない『漆黒の星』が、再び静かに灯り始めていた――。