10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
「……ただいま……っ」
ガタガタと震える手で星野家の玄関のドアを開けた瞬間、陽菜の目から、それまで必死に堪えていた涙がポロポロと溢れ落ちた。
放課後の坂道で出会った、トレンチコートの男。あの奥が一切笑っていない瞳と、カミキプロダクションという、聞いたこともない劇団の名前。
「あら、陽菜? おかえり……って、ちょっと陽菜!? どうしたのその顔、何があったの!?」
リビングからエプロン姿のまま走ってきたかなは、娘のただ事ではない様子に、持っていたタオルを床に落とした。真っ青な顔で、制服の袖を強く握りしめて泣いている我が子。
「ママ……っ、ママ、こわかったぁ……っ!」
「陽菜……っ!」
かなは理由を問うよりも先に、陽菜の小さな体をぎゅっと力強く抱きしめた。
かつて芸能界の荒波で何度も傷つき、孤独の痛さを誰よりも知っているかなだからこそ、今の陽菜がどれほど恐ろしい目に遭ったのか、理屈抜きで理解できた。
「大丈夫、大丈夫よ陽菜。私がついてる。お家の中は世界一安全だからね。……アクア! アクア、ちょっと早く来て――って、あ、そっか。まだ病院か……」
かなはハッとして、まだ帰宅していない夫の仕事部屋の方を見つめた。
いつもなら、どんな時でも冷静に自分たちを支えてくれる頼れる旦那がいるはずなのに、今日に限ってその姿はない。かなの胸の中に、昨夜アクアが見せていたあの僅かな冷たい空気への違和感が、確かな不安となって広がり始めていた。
――同時刻。都内の寂れた雑居ビル。
かつて数々の若き才能を呪縛し、そして星野アクアの手によって完全に社会的に抹殺されたはずの場所。看板の文字が半分外れかかった「カミキプロダクション」の旧オフィス。その一室のドアを、アクアはノックもせずに静かに押し開けた。
部屋の奥、薄暗いデスクに座っていたトレンチコートの男が、入ってきたアクアを見て、嬉しそうに口元を歪める。
「おや……予想よりもずいぶんと早い到着だね、星野アクア……いや、星野先生」
「……お前が、陽菜に手紙を送った男だな」
アクアの声には、怒りすら通り越した、絶対的な零度が宿っていた。
ポケットから手を抜き出し、ゆっくりと男のデスクの前まで歩み寄る。その瞳の奥では、かつてカミキヒカルを追い詰めた時と同じ、底知れない『漆黒の星』が禍々しく輝いていた。
「カミキプロダクションは、あの男と共に完全に潰したはずだ。お前は、あいつの何だ」
アクアの鋭い問いかけに、男はクスクスと肩を揺らして笑う。
「僕はね、ヒカルの『一番の理解者』であり、この事務所の裏の出資者さ。彼はね、美しい才能がその最も輝かしい瞬間に散っていくことに、至上の愛を見出していた。僕は彼のその歪んだ美学を、一番近くで特等席で観ていた観客なんだよ」
男は立ち上がり、アクアの真っ黒な瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「ヒカルは捕まった。君という、あまりにも無粋なイレギュラーの手によってね。……でも、彼の遺した美学まで消え去ったわけじゃない。星野陽菜……あの子の瞳には、星野アイとカミキヒカルの血が完璧な比率で混ざり合っている。あの子をこのカミキプロダクションの新生として表舞台に立たせ、そして、最も美しい瞬間に――」
「そこまでにしろ」
アクアは男の言葉を冷酷に遮ると、デスクの上に、あかねから共有された『ある書類の束』を静かに叩きつけた。それは、この男が過去にカミキプロダクションの裏で手を染めていた、違法な資金洗浄と、若手役者への脅迫行為の決定的な証拠の数々だった。
「お前たちがどんな歪んだ芝居を妄想していようが、俺には関係ない。だが、俺の娘に指一本でも触れてみろ」
アクアは男の胸ぐらを片手で静かに、けれど骨が軋むほどの力で掴み上げ、その耳元で地獄の底から響くような声で囁いた。
「医者として、人間の体の壊し方くらい、いくらでも熟知している。お前を、あの男と同じ場所へ送るくらい、今の俺には造作もないことだ」
男の顔から、一瞬にして余裕の笑みが消え失せる。
終わったはずの復讐劇。しかし、星野アクアという男の胸の奥底には、最愛の家族を守るためならいつでも悪魔に魂を売る『本物の怪物』が、今もなお静かに眠っていたのだ。