10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
「……悪いけど…あんたの脅迫なんて、私たちには一ミリも通じないわよ」
夕暮れの並木道。陽菜を背中に庇いながら、かなは黒幕の男に向かって、凛とした、けれど鋭い拒絶の言葉を叩きつけていた。2周目の人生を懸けてアクアを救い出した彼女の背中は、一人の母親として、そしてトップ役者として、これ以上ないほどに大きく、頼もしかった。
男はかなの放つ圧倒的なオーラに、フッと不気味な笑みを漏らす。
「流石だね、有馬かな。……だが、君がどれだけ強くても、あの子の日常を二十四時間監視し続けることはできないよ。またすぐに会おう、陽菜ちゃん」
男はそう言い残し、夕闇の向こうへと静かに姿を消していった。
「陽菜、大丈夫!? 怪我はない!?」
男が去った瞬間、かなはすぐに振り返り、陽菜の肩を強く掴んでその体を調べた。
「うん……大丈夫だよ、ママ。ありがとう……」
陽菜は精一杯の笑顔を作って頷いた。けれど、その胸の奥には、男が去り際に残したあの言葉が、冷たい楔となって深く突き刺さっていた。
『君が僕たちの提案に首を縦に振るまで、星野家の平穏は二度と戻らないよ』
(あの人は、本物の狂信者だ。パパがどんな証拠を掴んでも、ママがどれだけ威嚇しても、私が断り続ける限り……ずっと、パパやママの周りをうろついて、二人の心をすり潰し続けるんだ……)
パパは自分のために、もう二度と宿したくなかったはずの『漆黒の星』を瞳に灯して、裏で危険な橋を渡ろうとしている。ママは自分のために、2周目の人生のすべてを懸けて、また芸能界の闇と真っ向から戦おうとしてくれている。
大好きなパパと、世界一格好いいママ。二人が命懸けで掴み取った、この温かくて他愛のない星野家の平穏を、自分のせいで壊すわけにはいかない。
(……だったら。私が、あの人の言う通りにすればいいんだ)
陽菜の胸の奥で、静かで、けれど決決定的な『歪んだ覚悟』が形作られていった。
パパやママには、絶対に内緒で。自分がカミキプロダクションの舞台に立ち、彼らの望む人形になれば、二人の平穏な日常だけは守られるはずだ。それは、かつて父親であるアクアが、1周目の人生で一人ですべてを背負って心中へと突き進んでいった時の、あの哀しい自己犠牲の血の遺伝子そのものだった。
その夜から、陽菜は完璧に「いつも通りの普通の娘」を演じ始めた。
かなの前では「ママの言う通り、あの人なんか怖くないもん!」と笑ってみせ、学校へ行くときも、何事もなかったかのように元気な声を響かせる。
そして、かなやアクアが目を離した一瞬の隙を突き、陽菜は男から渡されていた連絡先へと、自らメッセージを送った。
『カミキプロダクションの勧誘に乗ります。その代わり、私のパパとママには、二度と近づかないでください』
男からの返信は、すぐに届いた。
『賢い選択だ、陽菜ちゃん。早速君の初出演の台本を送ろう。もちろん、これは僕たちだけの“秘密の契約”だ』
それから数日。
星野家を包んでいたあのピリピリとした不穏な空気は、嘘のようにピタリと止んだ。
学校の周りに男の影が現れることもなくなり、陽菜への不気味な手紙も一切途絶えた。かなは「アクアが裏で突きつけた証拠が効いたのかしら。奴ら、大人しくなったみたいね」と胸を撫でおろし、少しずついつもの明るい笑顔を取り戻していった。
すべては、陽菜の計算通り。自分が犠牲になれば、大好きな家族の平和は保たれる。
だが、その完璧な「静寂」に、たった一人、違和感を抱いている男がいた。
「……おかしい」
深夜、一人で書斎のデスクに向かっていたアクアは、スマートフォンの画面を見つめたまま、低く呟いた。
あかねと連携し、カミキプロの残党の資金ルートを完全に差し押さえるための準備は、あと一歩で完了するところまで来ている。だが、こちらの罠が発動する前に、敵の動きがあまりにも唐突に、完全に途絶えたのだ。
カミキヒカルに狂信し、アクアの警告すら平然と踏み越えて陽菜を脅してきたあの演出家が、何のアクションも起こさずに大人しく引き下がるなど、絶対にあり得ない。
「敵からの接触がなくなったんじゃない。……接触する必要が、なくなったんだ」
アクアの鋭い頭脳が、瞬時に一つの恐ろしい仮説を導き出す。
ターゲットである陽菜が、すでに敵の要求を呑んだのだとしたら。自分たちの平穏を守るために、あの大人びた娘が、すべてを一人で抱え込んでカミキプロダクションに協力しているのだとしたら。
「陽菜……お前、まさか……」
デスクの上のコーヒーが、静かに冷めていく。
アクアの瞳の奥で、娘のあまりにも健気で、そしてあまりにも自分に似てしまった『悲しい自己犠牲』への怒りと焦燥が、かつてないほどの激しい漆黒の光となって揺らめき始めていた――。