10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
激しい怒号が飛び交った最悪の夕食から数時間。星野家のリビングは、重苦しい静寂に支配されていた。
詳細を何も知らされず、ただ激しい困惑と悲しみに暮れていたかなは、アクアに「少し頭を冷やす」と告げられ、促されるまま先に寝室へと入っていた。最愛の妻にまで嘘をつき、孤独な疎外感を与えてしまっている。その罪悪感が、アクアの胸を痛烈に締め付けていた。
時計の針は、午前二時を回ろうとしている。
アクアは静かに立ち上がると、廊下の奥にある陽菜の部屋の前へと歩み寄った。ドアの隙間から、微かに漏れるスマートフォンの明かり。まだ眠っていない。
コン、と小さくノックをして、アクアは静かにドアを開けた。
「……陽菜。入るぞ」
ベッドの上で膝を抱えていた陽菜が、ハッとして顔を上げた。その瞳はまだ赤く腫れており、机の上には、カミキプロダクションから渡されたあのドラマの薄い台本が置かれていた。陽菜はパパの姿を見ると、気まずそうに視線を床へと落とす。
アクアは怒鳴り散らした昼間の態度とは一転して、いつもの穏やかな、けれどどこか哀愁を帯びた父親の足取りでベッドの横へと腰掛けた。
「……昼間は、大声を上げてすまなかった。お前を怖がらせるつもりはなかったんだ」
「……ううん。私の方こそ、勝手なことしちゃってごめんなさい」
陽菜は小さな声で呟き、クッションを強く抱きしめた。
「でも、私の気持ちは本当だよ。パパもママも、私を必死に守ろうとしてくれてる。……なのに、あの人は、私が言う通りにしないとこのお家の平和を全部壊すって笑うの。私、怖かった。パパが暗い顔して、1人でどこかに行っちゃいそうで……ママが泣いちゃうのが、一番嫌だったから」
ぽろぽろと、陽菜の目から大粒の涙が再び溢れ落ちる。
その涙の理由を聞いた瞬間、アクアは胸を深く突かれたような衝撃を覚えた。
(ああ……本当にお前は、俺たちの娘だな)
自分の命を削ってでも、大切な人間の笑顔を守りたい。誰の手も借りず、1人で泥をかぶってすべてを終わらせようとするその歪んだ、けれどあまりにも純粋な自己犠牲の精神。それは、かつてアクアが1周目の人生で、アイのために、そしてかなやルビーのためにすべてを背負って心中へと突き進んでいった時の、あの孤独な背中そのものだった。
陽菜は、かつての自分自身だったのだ。
「陽菜」
アクアはそっと手を伸ばし、涙を流す娘の小さな頭を、優しく自分の胸へと引き寄せた。
「すまなかった。お前をここまで追い詰め、そんな哀しい覚悟をさせてしまったのは……俺の無力さだ」
「パパ……」
「お前の覚悟は分かった。家族を想うその気持ちは、とても嬉しい。……だがな、陽菜。お前が傷ついて手に入れた平穏など、俺やかなにとっては、地獄でしかないんだ。お前が笑っていない世界なんて、俺たちには一ミリの価値もない」
アクアは陽菜の目を真っ直ぐに見つめ、その涙を親指で優しく拭った。
「だから、もう1人で背負うな。……ここからは、俺とお前の二人の『作戦』だ」
「え……? パパと、二人の……?」
陽菜が驚いたように瞬きをする。アクアは机の上のドラマの台本を手に取る。
「カミキプロダクションの男は、お前をドラマに出演させて神格化し、檻の中の男に捧げる愛にしようとしている。ならば、そのドラマの現場に、あえて乗っかってやろう。お前は完璧に奴らの人形を演じきれ。相手を最高に油断させるんだ」
アクアはスマートフォンの画面を陽菜に見せた。そこには、あかねから届いた、黒幕の資金ルートとカミキプロダクションの違法な裏工作のすべての証拠が揃っていた。
「お前が表の現場で敵の目を引きつけている間に、俺が裏から、その男の息の根を、完全に引き潰す。……警察を動かすタイミングは、お前のそのドラマの撮影日だ」
「……ママには、内緒?」
陽菜の問いに、アクアは切なげに、けれど固い決意を込めて頷いた。
「ああ。かなは2周目の人生を懸けて、俺を救ってくれた。あのトラウマを、もう二度とあいつに味わせたくない。あいつには、ただ笑っていてほしいんだ。……だから、ママにバレないように、完璧に演じきるぞ、陽菜」
「うん……! 任せて、パパ」
陽菜の瞳の奥で、恐怖は完全に消え去り、両親から受け継いだ『星』が、アクアの漆黒の星と共鳴するように静かに、力強く輝き始めた。
何も知らないかなを守るため。お医者さんのパパと、その血を引く娘による、カミキプロダクションの残党を奈落の底へ突き落とすための『午前二時の密約』が、今ここに結ばれたのだった――。