10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
最終話.10秒で『笑える』星野家
カーテンの隙間から、オレンジ色の柔らかな夕暮れの光がリビングに差し込んでいる。
窓の外を見渡しても、もう冷たい視線も、あの青い手紙の恐怖も、どこにもない。世界は確かに、穏やかな日常の色を取り戻していた。
部活を終えて帰ってきた陽菜がリビングのドアを開けると、そこには呆れるほど愛おしい、いつもの「星野家」の空気が満ちていた。
キッチンからは、トントンと小気味よい包丁の音と、優しい香りが漂ってくる。
「ちょっとアクア! 陽菜がもうすぐ部活から帰ってくるんだから、手伝うなら手伝うで真面目にお皿並べてよ! なんでそんな等間隔に命かけてるのよ!」
「……俺は外科医だ。ミリ単位のズレが気になるのは職業病のようなものだ。それよりかな、そっちの火加減は大丈夫か。演劇部で疲れて帰ってくる陽菜のために、最高の夕飯にするんだろ」
かな「言われなくたって分かってるわよ! 今日のオムライスは完璧なんだから!」
かつて「10秒で泣ける天才子役」と呼ばれ、芸能界を必死に生き抜き2周目の人生で私とパパを救ったママ。
そして、かつて全てを背負って戦い、今は白衣を脱ぎ捨てて穏やかな眼差しを浮かべているパパ。
二人が目の前で、何気ない、だけど愛おしい夫婦の日常を紡いでいる。
「ただいま。……ふふ、二人とも、またやってる」
「あ、陽菜おかえり! ほら、今日の部活もお疲れ様!」
「おかえり、陽菜。……今日の演劇部の練習はどうだった」
カバンを置いて二人のもとへ歩み寄る陽菜を、オレンジ色の夕光が優しく包み込む。
今の自分には、大人の事情もドロドロした思惑もない、純粋に芝居を楽しめる「演劇部」という場所がある。そして、何より――。
「今日の部活はどうだった? 陽菜、楽しんでやれてる?」
「……いいんじゃないか。お前がそうやって自分の意志で選んだ場所なら、俺は応援する」
「ちょっとアクア、先に良い父親ぶるのずるい! 私だって大賛成よ! 陽菜が舞台に立つなら、私、最前列で応援しちゃうんだから!」
「お前が客席にいたら目立ちすぎて陽菜の邪魔になるだろ。親は静かに見守るべきだ」
「なによそれ! 自分の娘の部活を応援して何が悪いのよ!」
呆れるほど騒がしくて、どこまでも温かい、二人のやり取り。
それを見つめていた陽菜の胸の奥から、じんわりと温かい感情が込み上げてくる。
嘘の涙なんて、もう必要ない。
この二人の前では、そんな計算は何の意味も持たない。
「ふふ……あははははっ! 二人本当に仲いいね」
お腹を抱えて、心の底から笑ってしまう。
10秒もいらない。たったの数秒で、世界で一番幸せな笑顔にされてしまう。
アクアが少しだけ口元を緩め、愛おしそうに陽菜の頭を撫でる。
かなも、照れくさそうに、だけど満面の笑みで陽菜の顔を覗き込む。
過酷な2周目の人生。だけど、この家なら――。
この、愛すべき私のパパとママの前なら、私は10秒で、心から笑うことができる。
オレンジ色の夕暮れが、優しく3人の笑顔を照らし出していた。