10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
「――あ、うん! じゃあ明日、学校の帰りにね。バイバイ!」
陽菜が自室で嬉しそうにスマートフォンを切った、その日の夜。星野家のリビングには、かつてないほどの『冷気』が漂っていた。
ダイニングテーブルの席についた陽菜は、いつも通りエプロン姿で夕食を運んでくるかなの元へ駆け寄る。
「ママ、あのね! 明日の放課後、演劇部の男の子がうちにきて、リビングで台本の読み合わせをすることになったの!」
「えっ? 男の子が、うちに!?」
かなが驚いてお皿を落としそうになった、その瞬間だった。
リビングのソファに座っていたアクアの身体が、ピキリ、と不自然な硬直を見せた。病院の激務を終えて帰宅したばかりの夫だったが、その瞳の奥には、数年前に全ての因縁を終わらせたはずの、あの底知れない『漆黒の星』が、最悪の形で不気味に灯り始めていた。
「……陽菜。今、なんと言った。男の子、だと?」
「うん! 同じクラスで、今度の劇で相手役をやる臨(りん)くん。すごく演技が上手な子なんだ!」
陽菜が純粋な笑顔で答える。アクアは静かに立ち上がると、無言のまま、お医者さんの冷静な仮面を完全に粉砕させた顔で、書斎へと消えていった。
そして、翌日の放課後。
「お、お邪魔します……」
緊張で顔をこわばらせた男子中学生の臨くんが、陽菜に連れられてリビングへと入ってきた。
出迎えたかなが「いらっしゃい、狭いところだけど上がってね」と努めて明るく声をかけるが、臨くんの視線は、リビングの特等席に固定されて動かなくなっていた。
そこには、普段のラフな部屋着ではなく、なぜか仕立ての良い高級な三ピースのスーツを完璧に着込み、脚を組んでアームチェアに腰掛ける星野アクアの姿があった。
手には医療専門書を開いているが、その視線は一文字も追っていない。眼鏡の奥の瞳からは、かつて芸能界を震撼させた復讐者としての、圧倒的な『無言の威圧感』がこれでもかと放たれていた。
「パ、パパ……? なんでそんな格好してリビングにいるの? 今日はお仕事お休みじゃ……」
「……たまたま、シフトの調整がついてな。気にせず練習を始めてくれ。俺はただ、ここで読書をしているだけだ」
(気にするに決まってるでしょ、大馬鹿野郎!!)
かなは心の内で絶叫しながら、アクアの背中を全力で小突いた。だが、アクアは一ミリも動じず、臨くんが台本を開くたびに「フッ」と低く重い鼻息を鳴らす。
「あ、あの……『君のことが、ずっと好きだったんだ』……っ」
臨くんが緊張で声を震わせながらセリフを言うと、アクアが静かに本を閉じ、ギロリと男の子を睨み据えた。その瞬間、臨くんの背筋は完全に凍りついていた。
「ちょっとアクア!! あんた外に出てなさい!!」
ついにかながキレて、アクアの腕を引っ張ってベランダへと強制連行する。
「なによあんた! 中学生相手にガチでメンチ切ってんじゃないわよ!」
「……かな。あいつは陽菜に対して、セリフ以上の個人的な感情を抱いている可能性が、統計医学的に九十八パーセントだ。父親として防衛策を――」
「バカ言んじゃないわよ、親バカも大概に底なしね!」
ベランダで繰り広げられる夫婦のコメディな押し問答を、リビングの窓越しに見つめながら、陽菜と臨くんは顔を見合わせてクスクスと笑い合うのだった。