10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
夜の静寂が、星野家の邸宅を深く包み込んでいた。
時計の針はすでに午前二時を回ろうとしている。リビングや陽菜の部屋の明かりはとっくに消え、家全体が穏やかな寝息を立てている中で、一階の奥にある書斎の隙間からだけ、微かな蛍光灯の光が廊下へと漏れていた。
「……ここの症例の数値、もう一度精査し直す必要があるな」
デスクに向かい、眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、星野アクアは低く呟いた。
彼が鋭い視線を注いでいるのは、日中の病院での勤務中に預かった患者のカルテ、そして来月に控えている医学会で発表するための分厚い論文のデータ資料だった。
復讐に燃えていたかつての人生の幕を引き、人の命を救う『医師』という厳しい道を選んでから、もう随分と経つ。日中の外来や回診、緊急の処置に追われる日々は想像以上に過酷だったが、アクアはその忙しさを一度だって嫌だと思ったことはなかった。むしろ、夜間にこうして一人で専門書を広げ、カルテの文字を追っている時間は、彼にとって自分の存在意義を確かめる大切な時間でもあったのだ。
カチャリ、とペンの頭をノックする。その瞳に宿っているのは、かつて自分の身を滅ぼそうとしていた頃の『漆黒の闇』では決してない。目の前の命を救い、そして何よりも、家に待つ最愛の家族の未来をその手で守り抜くための、理性的でどこまでも穏やかな光だった。
(このセクションを書き終えたら、一度キリをつけるか……)
そう思った、その時だった。
トントン、と書斎の木製のドアから、遠慮がちで小さなノックの音が響いた。
「……アクア? まだ起きてるの?」
静かにドアが開くと、少し大きめのシルクのパジャマを着た有馬かな――『星野かな』が、両手に小さな木製のトレイを持って立っていた。トレイの上からは、湯気を立てるマグカップと、小さなガラス皿に盛られたチョコレートの甘い香りが、夜の冷たい空気の中にふわりと広がっていく。
「かな。……起こしてしまったか」
「ううん、ちょっと目が覚めちゃったら、書斎の電気がついてるのが見えたから。あんた、明日も朝から回診が入ってるって言ってたでしょ? 医師のくせに自分の不摂生を棚に上げてんじゃないわよ」
かなはブツブツと小言を並べながらも、足元が冷えないようにスリッパをパタパタと鳴らして歩み寄り、デスクの上のカルテや参考書の邪魔にならない空きスペースへ、手際よくトレイを置いた。
「ほら、ホットミルクと、糖分補給用のチョコレート。あんたが倒れたら、来週の陽菜の演劇部の発表会、誰が一番前で親バカ全開のビデオカメラを回すのよ。私一人じゃ三脚持つの大変なんだからね」
「分かっている。ありがとう、かな」
アクアは張り詰めていた肩の力を抜き、眼鏡を外してデスクの上に置いた。
温かいマグカップを両手で包み込み、ゆっくりと口に含む。蜂蜜が少しだけ混ぜられたホットミルクの優しい甘さと温もりが、疲れた身体の芯までじんわりと染み渡っていくのが分かった。かなはそんなアクアの様子をジト目で眺めていたが、やがて彼の椅子の後ろへと回り込むと、その少し凝り固まった肩に、自分の小さな両手をそっと置いた。
「ちょっと、ガチガチじゃない。本当にちゃんと休んでるわけ?」
「……これでも、セルフケアはしているつもりなんだがな」
「嘘おっしゃい。ほら、力抜きなさいよ」
かなはそう言うと、少し不器用ながらも、一生懸命にアクアの肩を揉み解し始めた。
トップ女優として今なお第一線で輝き続ける彼女の指先は、決して力強いわけではない。けれど、そこから伝わってくる言葉以上の深い愛情が、アクアの心を何よりも穏やかに満たしていく。
「……本当に、あんたはちゃんとお医者さんになっちゃったのね」
アクアの肩を揉みながら、かながポツリと、どこか感慨深そうに呟いた。
「お前が二回目の人生で、俺をあの暗い闇の底から引っ張り出してくれたからだ。お前が俺の手を握って、未来を変えてくれなければ……俺は今、こうして白衣を着て、誰かのためにカルテを開くことすらしていなかっただろう。お前に救われた命だからこそ、俺は今、誰かの命を救うためにここに立っていられるんだ」
「……ちょっと、もう。あんたってば、本当にそういう恥ずかしい台詞、真面目な顔で言うのやめなさいってば……!」
案の定、かなの顔は、薄暗い書斎の間接照明の中でもハッキリと分かるくらいに、一瞬でリンゴのように真っ赤に染まった。アクアはクスクスと短く笑うと、自分の肩の上に置かれていたかなの小さな手の上に、自分の大きな手のひらをそっと重ねた。
嘘が当たり前の芸能界。嘘を愛という武器に変えて生きてきた彼らの人生。
けれど、この深夜の書斎で交わされる言葉と、お互いの手の温もりだけは、何一つ飾る必要のない、世界で一番確かな『星野家の本当』だった。
「かな。お前が俺の妻で、陽菜の母親で、本当によかった」
「……はいはい、ごちそうさま。そんなに感謝してるなら、そのホットミルクを早く飲み干して、寝室に来なさいよね。……あんたが隣にいないと、ベッドが広すぎて、なんだか少し、寂しいじゃない」
ツンとそっぽを向きながらも、重ねられたアクアの手をぎゅっと握り返してくる、世界一愛おしい最愛の妻。
夜の静寂が満ちるなか、お医者さんのパパと天才女優のママは、固く手を繋ぎ合いながら、これからもずっと続いていく、何の嘘もない幸福な未来のあしあとを、静かに、そして大切に歩み進めていくのだった。