10秒で泣ける天才子役は2周目の人生では泣かない 作:M1tarash1
舞台本番の日。
星野家の朝は、いつもより少しだけ慌ただしかった。
「陽菜、朝ごはん食べられそう?」
「うん!」
元気よく返事をした陽菜だったが、その視線は何度もテーブルの上に置かれた台本へと向かっていた。
今日は、陽菜にとって初めての舞台本番。
これまでアクアとかなに演技を教えてもらい、何度も台詞を読み合わせてきた。
最初は台詞を覚えるだけで精一杯だった。
けれど、今では自分なりに役の気持ちを考え、どうすれば見ている人に伝わるのかを考えられるようになっていた。
「……緊張してる?」
向かいに座っていたアクアが尋ねる。
「してない!」
「そうか」
「……ちょっとだけ」
「正直でよろしい」
アクアは小さく笑い、陽菜の頭に手を置いた。
「緊張するのは悪いことじゃない。真剣に向き合ってきた証拠だからな」
「パパも緊張する?」
「するぞ」
「えっ! パパでも?」
「俺を何だと思ってるんだ」
「なんでもできる人!」
あまりにも迷いのない返答に、アクアは一瞬言葉を失った。
隣で聞いていたかなが、くすくすと笑う。
「よかったね、アクア。娘からの評価が高くて」
「……期待を裏切らないようにしないとな」
「ふふっ」
かなは陽菜の前に温かいスープを置いた。
「今日はね、上手にできるかどうかよりも、陽菜が楽しんで舞台に立てることが一番大事なんだよ」
「楽しむ……?」
「そう。陽菜がその役を好きになって、いっぱい考えて、いっぱい練習したんでしょ?」
「うん!」
「だったら大丈夫。ママもパパも、一番前で見てるからね」
「ほんと?」
「もちろん」
陽菜は嬉しそうに頷いた。
その小さな笑顔を見ながら、かなはアクアと視線を交わす。
今日という日が、陽菜にとって素敵な思い出になりますように。
二人の願いは、それだけだった。
*
劇場に到着すると、陽菜は少しだけ表情を硬くした。
普段とは違う空気。
行き交うスタッフたちの声。
舞台袖から聞こえてくる、ほかの出演者たちの練習する声。
そして、客席に並ぶたくさんの椅子。
「陽菜ちゃん、おはよう!」
「あ、おはようございます!」
共演する子役の女の子が声をかけてくれた。
陽菜は笑顔で挨拶を返す。
しかし、その手は台本をぎゅっと握りしめていた。
「陽菜」
アクアがしゃがみ、目線を合わせる。
「台詞、確認するか?」
「……ううん。もう大丈夫」
「そうか」
「でも……」
「ん?」
「失敗したらどうしようって、ちょっと思っちゃう」
陽菜の声は小さかった。
アクアは少し考えてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「失敗しないことだけが、舞台の成功じゃない」
「どういうこと?」
「もし台詞を間違えたとしても、そこで終わりじゃない。相手の言葉を聞いて、次の言葉を考えればいい」
「……それでもいいの?」
「舞台は一人で作るものじゃないからな。困ったときは、一緒に舞台に立っている人を頼ればいい」
陽菜はアクアの顔をじっと見つめた。
「パパもそうしてた?」
「ああ」
「ママも?」
「ママは……」
「ちょっと! そこで私を見るのやめてくれる?」
かなが横から口を挟んだ。
「ママはどうなの?」
「ママだって失敗したことくらいあるよ。でもね、失敗したからこそ、次はもっといい演技ができることもあるんだよ」
「そっか……」
陽菜は台本を胸に抱いた。
「じゃあ、頑張ってくる!」
「うん。いってらっしゃい」
かなが陽菜を抱きしめる。
その後、アクアも優しく頭を撫でた。
「楽しんでこい」
「うん!」
*
開演時間。
客席には、たくさんの観客が集まっていた。
その中に、アクアとかなの姿もある。
「……始まるね」
「ああ」
かなは膝の上で両手を組んでいた。
舞台に立つ経験なら、かなにはいくらでもある。
けれど、今日ばかりは違った。
自分が舞台に立つわけではない。
大切な娘が、たった一人で大勢の観客の前に立つのだ。
台詞を忘れないだろうか。
途中で怖くならないだろうか。
ちゃんと笑顔でいられるだろうか。
心配は尽きない。
「かな」
「なに?」
「そんなに力を入れていたら疲れるぞ」
「だって……」
「大丈夫だ」
アクアは舞台を見つめたまま言った。
「俺たちが教えたことを、あいつはちゃんと自分のものにしてきた」
「……そうだね」
照明が落ちる。
やがて、舞台に明かりが灯った。
物語が始まる。
そして数分後。
舞台の中央に、小さな女の子が現れた。
陽菜だった。
衣装を身にまとい、緊張した面持ちで立っている。
かなは思わず身を乗り出した。
「陽菜……」
最初の台詞。
練習では何度も聞いた言葉だった。
けれど、劇場に響いたその声は、家で聞くものとは少し違っていた。
陽菜は役の気持ちを考えながら、相手の言葉を受け止め、自分の言葉を返していく。
表情も、声の大きさも、仕草も。
何度も練習した成果が、少しずつ舞台の上に現れていた。
「……すごいな」
アクアが小さく呟いた。
「うん……!」
かなは目を離せなかった。
自分の娘が、こんなにも堂々と舞台に立っている。
その姿が誇らしくて、胸がいっぱいになる。
そして、物語の終盤。
陽菜の役には、少しだけ難しい台詞があった。
大切な人との別れを前に、涙をこらえながら言葉を伝える場面。
稽古のとき、陽菜はどうしてもその気持ちを理解できずにいた。
何度もかなに質問し、アクアと一緒に考えた。
そして今。
陽菜は相手役を見つめ、静かに口を開いた。
「……わたし、忘れないよ」
その声は、少し震えていた。
「一緒にいたことも、笑ったことも。ぜんぶ、ぜんぶ覚えてるから」
陽菜の目には、涙が浮かんでいた。
それは演技として作られた表情だった。
けれど、その言葉には確かな気持ちが込められていた。
最後の台詞を言い終えると、舞台は静かに暗転した。
そして――。
大きな拍手が劇場を包んだ。
*
終演後。
楽屋に戻ってきた陽菜は、少し息を切らしていた。
スタッフから褒められ、共演者たちからも声をかけられた。
それでも、陽菜が一番探していたのは二人の姿だった。
「パパ! ママ!」
「陽菜!」
かなが駆け寄る。
「お疲れさま! すっごくよかったよ!」
「ほんと!?」
「本当! ママ、感動しちゃった!」
「えへへ……」
陽菜は照れくさそうに笑った。
その隣で、アクアも口を開く。
「最後の台詞、よかったぞ」
「ほんと?」
「ああ。相手の目を見て、ちゃんと言葉を届けられていた」
「パパ、見ててくれた?」
「最初から最後までな」
「ママも?」
「もちろん!」
陽菜は二人を交互に見た。
そして、少しだけ不安そうに尋ねる。
「……変なところ、なかった?」
「なかった、とは言わない」
「えっ」
「まだまだ伸びるところはある。でも、それは悪いことじゃない。今日の陽菜は、今日できることを全部出し切った。それが一番大切だ」
アクアの言葉に、陽菜は少し考える。
「じゃあ、もっと練習したら、もっと上手になれる?」
「そうだな」
「また舞台に立ってもいい?」
「もちろん!」
かなが即答した。
「陽菜がやりたいなら、ママは応援するよ」
「パパも?」
「もちろんだ」
その言葉を聞いた瞬間、陽菜の顔がぱっと明るくなった。
「やった!」
小さな両手を上げて喜ぶ娘。
そんな姿を見て、かなはアクアの袖をそっと引いた。
「ねえ、アクア」
「ん?」
「私たち、親になったんだね」
「今さらか?」
「だって……こんなに大きくなったんだよ?」
かなは陽菜を見つめる。
初めて抱き上げた日のこと。
初めて笑ってくれた日のこと。
初めて名前を呼んでくれた日のこと。
思い出せば、いくらでも浮かんでくる。
その小さな命が、今では自分の足で舞台に立ち、大勢の人の前で物語を届けている。
「早いね」
「ああ」
「これからも、いっぱい思い出を作ろうね」
「そうだな」
二人の視線の先では、陽菜が共演者たちと楽しそうに話していた。
やがてこちらに気づくと、笑顔で駆け寄ってくる。
「パパ、ママ! 帰ったら今日のこと、いっぱいお話ししていい?」
「もちろん」
「じゃあね、まずね――」
陽菜の話は止まらない。
舞台のこと。
共演者のこと。
楽屋で食べたお菓子のこと。
次にやってみたい役のこと。
その一つ一つを、アクアとかなは丁寧に聞いていた。
今日という日は、きっと陽菜にとって忘れられない一日になる。
そして、二人にとっても。
娘が歩き始めた、新しい一歩の日。
星野家のアルバムに、また一つ大切な思い出が増えた。
その小さな足あとが、いつかどんな未来へ続いていくのか。
今はまだ、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――。
その道の先には、いつだって帰る場所があるということだった。
大好きなパパとママが待つ、温かな家が。