生き残った男の子
ぼうっと炎が立ち昇っている。
幼子がわんわんと泣き喚いて、大きな黒焦げの塊に縋っている。
ああ、この日は満月だったなとそんなことを思い出した。父に手を引かれて、星空を捕まえようとしてキュノイスが所有する領地の森を歩いていた。
そして一陣の風が吹き、死が放たれたのだ。
一九八〇年の冬の日。
ある北方の森の奥深くで一人の魔法使いが死喰い人たちの強襲を受けて戦死した。
彼は我が子を守り切り、自ら魔法を暴発させることで自分もろとも死喰い人たちを死に追いやったとされる。
雪が降る月夜に青い火の粉が舞っていた。
「ポッター、ハリー!」
呼ばれた名前に誰もがザワついた。
ハリー・ポッター、生き残った男の子。その名声はともすれば本人が自覚しているよりも余程重い意味を持つ。
なにせ暗黒の時代を終わらせた者なのだから。否応なしに尊敬と畏怖を集めてしまうだろう。
「……それを本人が望んでいるかどうかは別だが」
組分け帽子を被せられる痩せ細った男の子の姿にアルヴィス・キュノイスは黄金に縁取られた青い目を細めた。
あまり良い環境で育っていたとは言い辛い体格だ。仮にも英雄などと持て囃されている人間があんな、痩せ細っている上に未知に対して不安を隠しもしない目をしているなんて。
周囲がヒソヒソと囁く。
あの痩せ方はどうなんだ、きっとマグルたちのところで酷い扱いだったに違いない……全てレイブンクローのテーブルから聞こえるものだ。
知性や好奇心に溢れるとはいえその言い方は如何なものかと彼らを睨め付ければそそくさと押し黙った。
「流石キュノイスの次期当主様」
「うるさいぞロジャー」
隣に座る友人…ロジャー・デイビースを睨むが、「怖いなあ」と肩を竦められただけ。
「でも君だってあのハリー・ポッターがあんな恰好なことに思うところがないわけじゃないだろ?」
「だからといってマグルを下に見るのはどうなんだ」
「まあ、それは確かにそうだ」
気に入らないとばかりに鼻を鳴らせばデイビースもその態度に苦笑しつつ同意する。誇り高き知恵者たらんとするなら、相応の態度というものがあるだろうに。
やがて帽子が高らかに彼の寮を告げた。
グリフィンドール、と。
「クィレル教授のマグル学は楽しみにしてたんだが」
レイブンクロー寮は四寮の中で最も高い場所にある。
創始者たるロウェナ・レイブンクローの『高みより全てを学ぶ』という意味によるものだとかなんとか。諸説あるが。
高い天井には星座が描かれ、魔法によって実際の夜空と同じ動きをする。窓からは黒い湖が見下ろせ、月の光が銀の道を作っている。
「でも、教授は防衛術の担当になった」
「吃音が酷いから不安ではあるんだけどな」
対面に座る光を受けて輝く長いプラチナブロンドの髪に深いアメジストの目を持つ魔女の言葉にそう返す。
ヘメラ・エリフィール。純血名家の一つ、エリフィール家の令嬢である。
「あんな状態で授業が出来るのか甚だ疑問だ」
「でもダンブルドア先生がお許しになった以上、授業の体裁は保てると判断したんじゃない?」
「だと良いけどな」
アルヴィスは投げやり気味にそう言ってベルベット製の青いソファに身を沈め、眉間を揉み解す。そして目を覆うようにヘメラの掌が被せられた。
「また嫌な未来を視たの?」
「バッドエンド一直線だ…救いが無くて嫌になる」
アルヴィスは吐き捨てるようにそう言った。
闇の帝王が復活し、ハリー・ポッターが死んで完全な暗黒の世になる未来である。嫌だハッピーエンドを寄越せ。
「例のあの人の復活なんて眉唾だと思いたいところだけどな…予見したものが全部当たるわけでもないんだし」
「でも確率は高いんでしょう?」
「どっかで生存してるのは確定だろうな」
気が重くなる。ダンブルドアくらいではなかろうか、帝王の生存を確信している者など。
予見はアルヴィスが生まれながらに持つ能力だった。キュノイス家には稀に真なる予見者が産まれる。
亡き父も予見者だと母は言っていた…とはいえ父は婿入りの身なのでキュノイスとは関係ない予見者だが。ともかくアルヴィスもその血を継いでいる。
だがそれは祝福ではないとアルヴィスは痛感していた。なにせ現にこうして憂鬱な未来が視えるのだから。
「あまり視過ぎてもいけないわ。少し休んで」
ヘメラがアルヴィスの金髪を指先で梳き、囁くように口にする。
談話室にはまだ数人だけ一年生がおり、先ほどの組み分けについて興奮気味に話し合っていた。アルヴィスとヘメラの周囲に人はいない。
それも仕方ないか、とアルヴィスはどこか自嘲した。
予見者を恐れない者などいない。未来を知る者は、同時に他者の運命をも知り得るのだから。
「ねえ、アヴィ」
ヘメラがどこか躊躇いがちに口を開く。アルヴィスはそれに返すことなく目線だけをエヴァへと向けた。
「もしも本当に例のあの人が戻ってきたら、私たちはどうしたらいい?」
アルヴィスは天井へと視線を動かした。星座が静かに回転し、オリオン座がアルヴィスの視界の端を横切った。
「……分からないって言うのが正直なところだ」
正直に、飾り立てることなく口にした。
「予見は視せてくれる。けどそれだけだ。どう変えれば良い結末に傾くのかまでは教えてくれない」
「じゃあ自分で考えるしか無いわね」
ヘメラはさも当然のようにあっけらかんと言った。彼女らしい考えだとアルヴィスは口元を緩めた。
恐怖に震えるのではなく、自分の足でしっかりと立てているから。
「ハリー・ポッターを見守ることから始めましょう」
ヘメラが人差し指を立ててそんなことを言ったものだからアルヴィスは慌てて聞き返した。
「なんだって?」
「だって、貴方の予見では彼が鍵になるんでしょう? それなら彼を観察していざという時に守れるようにしないといけないでしょう?」
「お前は俺に『ハリー・ポッターのストーキングをしろ』と仰る?」
ヘメラが頰を膨らませた。
「人聞き悪いことを言わないで。見守ると言ったでしょう」
「どっちにしろ同じじゃないか……それにあの子はグリフィンドールで俺はレイブンクロー、寮も違うし学年も違うだろ」
「だったらスクルドに聞いてみれば良いじゃない。あの子もグリフィンドールなんだから」
グリフィンドールに組み分けされた妹の名前を出され、アルヴィスは押し黙った。一理ある物言いではあるのだ。
「はあ…分かった、お前の言うとおりにしよう。けどスクルドを通じて交流するだけだからな」
「それで良いと思うわ」
ヘメラの頷きを見てアルヴィスは目を閉じる。ソファで寝ることになりそうだが仕方ない。
どうせスクルドが母に手紙を出すだろう。
──そうして私は水底に沈む蝶の夢を見る。
ブリテン島某所。
深い谷と豊かな緑、そして降り積もる雪で出来たこの集落はキュノイス一族の者たちが代々管理してきた魔法族の街であり、避難所でもあった。
『時忘れの谷』。それがこの場所に与えられた地名であった。
谷は深く、周囲の山々に囲まれている。外界から隔絶されたこの場所はマグルの地図には載っていない。
だが、ここは確かに存在していた。
石造りの家々が谷の斜面に沿うように立ち並び、煙突からは煙が上って窓には柔らかな光が灯っている。石畳の道が迷路のように走り、広場には噴水があった。
魔法の噴水。水が空中で凍り、雪の結晶が振り注ぐ。子どもたちがその周りで遊び、無邪気な笑い声で満ちていた。
しかしこの谷のシンボルはその最奥地にある。
キュノイス城。
およそ数百年前、時の英国王家で予言官として仕えていたキュノイス家の魔法使いへの返礼として贈られた城を一族が手を加えたこの城は、キュノイスの長い歴史を示すかのように荘厳だった。
そんな白亜の外壁で築かれた建物の天辺には魔法の灯火が燃え盛っていた。黄金にも見える橙の炎。決して消えることのない、永遠不変の不死鳥の炎が。
そんな城の中、暖炉の火が照らす書斎には二人の人物がいた。
一人は見目麗しい女性。銀髪を纏め上げ、氷青色の目は鋭く光っている。白銀色のローブを纏い、胸にはキュノイス家の証である『三日月と砂時計』が銀糸で刺繍されている。
セレスティア・キュノイス。キュノイス第九十九代目当主。
もう一人は老人だった。六十代後半。白髪を撫でつけ、白髭も整えられている。年齢に見合わず背筋はピンと伸ばされ、執事服を着こなし、立ち居振る舞いには長年の経験が滲み出ている。
ベリク・カーマ。キュノイス家の側付きにしてセレスティアが幼い頃から仕えている忠臣。
「スクルドお嬢様からですか?」
「ええ。あの子はグリフィンドールに組み分けされたそうよ」
ホグワーツで飼われているフクロウから手紙を受け取ったセレスティアは表情を変えず、手紙だけを側付きであるベリクに渡す。
羊皮紙の手紙にはスクルドの丸い字でびっしりと書き連ねられている。
お父君もお母君もよく笑う方々だったのだけどな、と口にしかけた言葉を抑え、ベリクは恭しく手紙を頂戴した。
「ほう、お嬢様はもうご友人が出来たのですね」
「マルフォイの子供に絡まれたそうだけどいなしたそうね」
「流石ですな。しかしいやはや、お嬢様の心配は杞憂に終わりましたな。お嬢様は坊ちゃまと違って些か破天荒でしたから」
「それについては否定しないわ。別にアルヴィスほど落ち着きを持てと言うつもりもないのだし、あの子らしく生きたら良いじゃない」
それは今のセレスティアが表現できる最大の母親としての愛の形のようにベリクには思えた。
「ハリー・ポッターが入学したのと時を同じくしてあれが動き出したのも巡り合わせかしら」
セレスティアがマホガニー製の机に『日刊預言者新聞』を置く。二ヶ月ほど前のもので、『グリンゴッツ侵入さる』と一面にデカデカと掲載されていた。
「奥様はこれが例のあの人の仕業だとお考えで?」
「あれの肉体はポッター家の襲撃の時に消し飛んだ……ええ、それはよく分かっているわ。けれど肉体が滅んでも存在を維持できる術があることを、私たちはよく知っているでしょう?」
その言葉にベリクは厳かに頷いた。
肉体を喪えば残るのは魂のみ。そしてその魂を現世に留めることができる魔法の存在をベリクは熟知している。なぜなら、それはキュノイスの始まりと切っても切れない関係にあるのだから。
「……『分霊箱』」
「私とダンブルドア先生の考えが合っていれば、あれは少なくとも二つ以上作っているはず」
「歴史上は二つが最高でしたが……」
「あれは人の域を軽々しく超えるような怪物よ。二つ以上作ろうと思っていても何もおかしな事じゃない。現に一つは──」
その時、バシン!という姿あらわしの音と共に一匹の屋敷しもべ妖精が姿を見せた。上質な絹で編まれた洋服にはキュノイス家の証である『三日月と砂時計』の家紋が挿されている。妖精にとって服を渡されるのは解雇と同義だが、キュノイスにおいては信頼の証である。
「奥様、お客さまがお見えに」
「誰かしら」
「レギュラス様でございます」
告げられた名に書斎が一瞬だけ静まった。しかしそれもすぐに消えた。
レギュラス・ブラック。ブラック家の次男にしてシリウス・ブラックの弟。かつて死喰い人だった男。そして公的には一九七九年に死亡したことになっている男。
「通して」
セレスティアは短く告げた。
屋敷しもべ妖精が深くお辞儀をして、姿くらましで消えた。その数秒後、書斎の扉がノックされた。
「どうぞ」
扉が開く。
入ってきたのは細身の青年だった。二十代前半に見えるが、実際の年齢は三十間近である。黒い髪は短く整えられ、灰色の瞳は落ち着いているが顔色は僅かに青白い。
だがその立ち居振る舞いには純血名家の王と言われたブラック家の者としての品格があった。黒いローブを纏い、杖を腰に差している。
「突然の来訪、申し訳ありませんセレスティア様」
レギュラスが一礼する。その所作には確かに長年の優雅さが染み付いていたが、顔が青白いことも相まって不安を煽る。
「体調はどう?」
「おかげさまで。目覚めたばかりの時よりはマシになりましたよ」
妖精が音もなく紅茶を用意し、椅子に腰掛けたレギュラスとセレスティアの目の前に現れる。ベリクは固辞しセレスティアの斜め後ろに立っていた。
「貴方を見つけたとき、助かるかは五分五分だったわ」
一口飲んだ紅茶のカップを置き、セレスティアは小さく呟いた。
セレスティアの目が遠くを見つめ、当時を思い返していた。
震える妖精、群がる亡者と沈んでいく少年……亡者を焼き払い、レギュラスを引っ掴んでその場を離れたのが記憶に焼き付いている。
「連れ帰ってみたらあなたの身体に毒が回り切っていたから、そこらの魔法薬や治癒は意味を成さなかった。なにせ三ヶ月も意識が戻らなかったのだからね」
「……我ながら無茶をしたと思ってます」
レギュラスが気まずげに目を逸らす。
その日のことは苦い記憶として残っている。泣き叫ぶ妖精、沈んでいく自分の身体、群がる亡者……そして炎。
そしてほんの僅かに暗闇の中で聞こえた声。
「
古代語の呪文。キュノイスが伝承する魔法の一つ。
そして光が見えた。銀色の光。それは暗闇を裂き、レギュラスを包み込んだ。
そうして、レギュラス・アークトゥルス・ブラックは命を繋ぎ、かつて仕えた主君の宝物の一つをダンブルドアへと差し出したのだ。
アルヴィス・キュノイス
ホグワーツ三年生、フレッド&ジョージ・ウィーズリーやセドリック・ディゴリーらと同学年。レイブンクロー。金髪に金で縁取られた青い瞳を持つ端正な顔立ちの少年。予見者
ヘメラ・エリフィール
ホグワーツ三年生。レイブンクロー。長いプラチナブロンドの髪とアメジストの瞳を持つ。優秀な魔女。