コツコツ、と廊下によく響く靴音。
自由な校風を掲げるが故に爆破に罵詈雑言。ありとあらゆるトラブルが後を絶たず常に騒がしいゲヘナの校舎であったが、トップである万魔殿はよほどの問題児を除けばなんとなく偉い人だし手を出すのは不味いだろうという理由で騒音が届き辛くなっている。
羽沼マコト…その身体になってしまった空崎ヒナは、普段は聞き慣れない自身の靴音にすらウトウトと意識を持っていかれそうになっているほど、精神的に疲れ果てていた。マコトの身体も休息を取っていなかったため肉体的な面でも、であったが。
とはいえまだやるべきこともある、今回ばかりは先生に頼るわけにいかないと気を引き締める。
「あまり気を引き締めなくて大丈夫ですよ、ヒ……マコト先輩。どうせ今日は書類仕事しかないですし、その中でもマコト先輩の仕事なんて普段からその書類に目を通して認可するかしないか、なんならどうイチャモン付けたり自分の好きなように解釈するか、しかありませんから。」
「ん、そうなんっ…いや、そうなのか。…まぁなんとなく想像は付いているが。」
隣に並んで歩く棗イロハがそんなマコトの姿を緊張しているのかと思いフォローを入れるものの、マコト本人の普段の勤務態度を思い出してそのあんまりな内容に辟易しているようだった。故にそこまで気にする必要はない、と言われてマコトも少しばかり気を緩める事にした。
同学年であったマコト本人との付き合いは、今のイロハほど深くはないものの長いものになる。自身が見ていないときに本人がどんな事をしているかは容易に想像が付いた。というより普段からその無茶振りなどの後始末や損害を被ってきたのが風紀委員会だった。
「…しかし、慣れないな……」
「何がです?」
「…物真似をしているようで、恥ずかしい。それに身長差も…時折躓きそうになる。」
入れ替わりを信頼出来る人間以外には露呈させない。当事者二人で誓った取り決めであった為、やるならば出来ることを。
歩き方など細か過ぎる動作までは気を配っていられないが、せめて形だけでも…と口調を本人に合わせているが、周りはともかく本人からすれば常に知人の物真似をしているようなものだ。
特に空崎ヒナにとって羽沼マコトとは天と地と言っていい程に性格が乖離している。片や秩序を重んじる空崎ヒナに対して、この世の全ては自分の物であると言って憚らないような羽沼マコトだ。仮にマコト本人の物真似でなく似たようなキャラクターのロールプレイであっても、この口調は恥ずかしい。
更に言うなら身体の面でも全く違う。
四肢の長さは幼さを残した自身のものとは違い、スラリと細く長い。
戦闘用に普段馴染ませている動きが、今の肉体には馴染んでいない。思考に動作が追い付かない違和感。
視力、聴力、嗅覚…五感の感じ方もなんとなく、或いはかなり違うように感じる。
今の自分が、"空崎ヒナ"ではなく"羽沼マコト"である、という現実が重く伸し掛かっている。その事実を嫌でも思い知らされる。
「あぁ…まぁ、口調は部室では普段通りで大丈夫だと思いますよ。肉体的な事に関しては…マコト先輩なら転んでたってどうせ違和感ないですしいいんじゃないですかね。」
「そういうわけにもいかんだろう、仮にもゲヘナのトップだぞ。マコ…私は。」
「…あ、照れましたね?……ふふ、可愛い。」
「ぅ……こ、こんな恥ずかしいこと、よく言えるわね、マコトは……」
「ふふふっ、口調が崩れてますよ、"マコトせんぱい"?」
「わ、分かっている…!…分かっているがぁ…!」
偉ぶった発言をすればするほど、羞恥心でつい顔が熱くなる。
素直に恥ずかしがる仕草をする"羽沼マコト"の姿も、ナルシストな発言をすることに抵抗感がある"空崎ヒナ"の現状も、イロハには少し愛らしく思えた。
平たく言えば、弄りがいがあった。愉しくなってしまっていた。
「騒がしいマコト先輩も嫌いじゃないですけど、今のマコト先輩も悪くないですね…戻るのは明日でもいいかもしれません。」
「…何時戻れる確証が無いが、な。」
「…そういえばそうでしたね、すみません。」
もう少しだけこの姿を眺めていたい、と不意に口から出てしまった発言がマコトからの訂正で失言であった事を悟る。
現状、発生要因の特定どころか仮説の1つも立てられていない以上、入れ替わりを解消出来るどうかの確証すらないのだ。
数分後か、一時間後か、明日か、明後日か、一週間か、或いは……
「…分からないことを考えていても仕方ないな。業務に取り掛かるとしよう。」
「そうですね。…ただ、先ほども言いましたがそこまでの激務でも急務でもありません。何より、セナ部長からの言いつけを守るなら本来はお二人は休むべき立場です。それを忘れてはいけませんからね?」
「…そうだな。」
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イロハとマコトが廊下にて雑談をしていた一時間前。
肉体的…外傷などの異変が無いかを調べる為、マコトとヒナは救急医学部を訪ねていた。
とはいえ今の二人をそのまま二人だけで行かせては入れ替わりの露呈を招きかねない。それ故、お目付け役としてマコトはイロハを、ヒナはチナツを伴っての訪問だった。
この人選に一名が
「あのタヌキに委員長の身体で何されるか分かったものじゃありませんので私が行きます!!私が付いていきます!!」
と抗議してきたが、その意見は却下された。
ただでさえ合流してからはヒナの仕草や言動に怒り狂ってそれらを矯正させようとしていたのである。
自尊心の塊とも言えるような今のヒナがそれをマトモに受け入れるはずもなく、言い争いが頻発した。入れ替わりを知らない生徒からすれば空崎ヒナと天雨アコが喧嘩をするなど異変以外の何物でもない。この二人を二人っきりにしてはいけない、ということになった。
「それで…どうでしたか?セナ先輩。」
「検査の結果ですが、目立った外傷等はありませんね。」
「そう……ぁいや、そうか。」
「当然だ、私の身体に怪我など……んんっ、何でもない。」
「……?まぁ、お二人の頭部に軽いたんこぶのようなものができていましたが…そこまで酷いものでもありません。十分に自然治癒の範囲内でしょう。」
設備がそれほど充実している訳ではないにしろ、氷室セナはこのゲヘナ学園における唯一の医療従事者。それも銃弾と手榴弾の飛び交うこの混沌としたゲヘナにおいて、である。その診断に誤りは無いはずだ。
つまり、肉体的な異変はない。
入れ替わりなどという荒唐無稽な異変以外は。
「…ですが、御二人には少しばかり…いえ、かなり。ハッキリ言えば憤慨しています。」
「…すみません、もしかしてマコト先輩が何か…いえ、先日は確かに色々ありましたが…怒らせるようなことをしてしまいましたか?」
「おいイロハ、私は何も…むぐ。」
「ぁ、そ、その、セナ先輩?委員長にも、ですか?確かにここ数日は混乱を収めるために少し手荒な対応をしてしまった生徒はいますが、決して委員長に悪気があったわけでは…」
結果を伝え終えたセナの雰囲気は冗談で言っているわけではなく至って真剣な様子だった。
さしものヒナもたじろぎ、イロハの発言に何もしていないと余計な抗議を発しようとしたところでチナツがそれを物理的に遮りながら尋ねる。
正しく風紀委員長として今朝まで活動していたヒナ本人は、不良達やゲヘナの混乱に乗じて暴れていた2年生や1年生を取り押さえたりなど普段通りの活動しかしていない。入れ替わって今のヒナになってからもである。
マコトだけならともかく、二人揃ってとなるとその発言の意図が読めなかった。
「最近、しっかりとした睡眠を、何時間ほど取られましたか?」
「…ヒナ…ぁいや、私は…その…」
「マコ…ッ…私も、まぁ…4時間は、寝ていたと…思う。」
「…隈が出来ていますよ。化粧などで誤魔化そうとしても、身体はその異常を周囲に伝えようと懸命に警告を発しています。」
セナの発言に、ゲヘナのトップ二人は黙り込むしかなかった。
キヴォトスの生徒は正しく常人ではない。先生のような銃弾の一発で死の淵に追い込まれるほど弱い存在ではなかった。
ただしそれにしても限度がある。
先日の一件を基に二人共責任感に駆られていたことや、間もなく来るであろう、"嵐"に備えてここ数日ほどマトモに休息を取れていない。
特にヒナの身体にはそれが顕著に出ていた。ハードなトレーニングも訓練もあれから出来ていなかったのにも関わらず、である。
「御二人の事情は把握しています。……速やかに健康診断を受けるように、私は御二人に御連絡しましたね。時間は空きましたが、こうして来て下さった事に、私は少し安心してしまいました。私の連絡は無視されるのだろうと諦めていたからです。」
「…その、済まん。」
「…ごめんなさい。」
「ほら。先ほどから言動がおかしくなっていますよ。…精神の異常は肉体にも影響を及ぼします。不眠は特に、肉体と精神の両方を摩耗させます。御二方がお尋ねになった際、お伝えしたかったのです。キチンと休息を取ってください、と。…これは私だけの意思ではありません。先生からも言伝として預かっていたことです。理解しましたね?」
「「……はい。」」
「…私からは以上です。それでは次の患者が控えていますので。」
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「…あぁも正面から説教されてしまっては、ね。」
「いいですか、必要なことだけ終わったら寝てください。残業も禁止です、いいですね?」
「えぇ。…いや、分かった。」
セナの真摯な忠告、更に先生からも心配されていたとあっては無茶は出来無い。無茶をするにしてもそこそこに。
そんな決意を元に、マコトは、空崎ヒナは万魔殿の扉を開いた。