無職転生 異世界行ったら妄想を本気で再現する! 作:ぐちロイド
痛みが、ない。
全身を焼くような強烈な衝撃と、生温かい血が胸元から溢れ出す絶望感。路地裏の暗闇で、ナイフを握りしめて逃走した男の影。通りすがりで巻き込まれた刺殺事件という、あまりにも理不尽で呆気ない18年の生涯の終わり。
(俺、死んだんだよな……?)
前世の記憶——暁連(あかつき・れん)としての意識が、混濁した暗闇の中でぼんやりと浮上する。
最後に覚えているのは、冷たいコンクリートの感触と、視界が急速に黒く染まっていく恐怖だけだった。オタクで、アニメのカッコいい戦闘シーンに憧れて、形から入ろうと殺陣やアクションの練習をしたり、各種武器の扱いを独学で一通り覚えたりしていただけの、どこにでもいる普通の高校生。そんな俺の人生は、見知らぬ殺人鬼のナイフによって唐突に幕を下ろしたはずだった。
だが、今の自分には「感覚」がある。
五感がゆっくりと呼吸を取り戻していく。
「あぅ……ぁ……」
声を出そうとしたが、口から漏れ出たのは情けない、小さな喃語(なんご)だった。
重い瞼を必死に持ち上げる。視界はひどくぼやけており、焦点がうまく結ばない。だが、徐々に光が形を成していく。
天井が見えた。
コンクリートの天井でも、病院の白い蛍光灯でもない。荒削りだが温かみのある、木造の太い梁と天井板だ。
漂ってくるのは、焦がした薪の煙の匂いと、乾いた草、そして微かに甘い乳の匂い。
(木造建築……? 日本の家じゃない。病院でもない……)
混乱する頭を動かそうとしたが、体にまったく力が入らない。手元に視線を落とすと、そこに広がっていたのは驚くべき光景だった。
赤く、皺の寄った、ちんまりとした小さな手。
まるまるとして短い腕。
自分の体とは思えないほど小さく、脆弱な肉体。
(赤ん坊……? 俺が……?)
頭の理解が追いつかない。輪廻転生だの、異世界転生だの、前世で読んだライトノベルやアニメの設定が脳裏を駆け巡る。だが、実際に自分の身に起きると、恐怖と困惑で脳が麻痺しそうだった。
その時、視界の上空から二つの顔が覗き込んできた。
「あらあら、アレン。目が覚めたの? お利口さんねぇ」
柔らかく、鈴を転がすような優しい声。
そこにいたのは、信じられないほどの美人だった。太陽の光をそのまま糸にしたような美しい金髪を、高い位置でポニーテールに結っている。澄んだ瞳でこちらを見つめ、慈愛に満ちた笑顔を浮かべている女性。
ゼニスだ。
直感的に、なぜかその名前が頭に浮かんだ。あるいは、彼女が自分をそう呼ぶ声を聞いたのか。
「ほら、パウロ。アレンも起きたわよ。ルーデウスと二人揃って、なんてかわいいんでしょ」
ゼニスが優しく俺の体を抱き上げる。ふわりと包み込まれるような温もりと、母性溢れる香りが全身を包み込んだ。首が据わっていないため、視界が揺れる。
「おお、本当だ! アレン、パパだぞ〜! ルーデウスも見てみろ、お前の双子の弟だぞ」
横から顔を覗かせたのは、豪快な笑みを浮かべた茶髪の男だった。無精髭を生やし、粗野な雰囲気を漂わせているが、その整った顔立ちは紛れもない男前(イケメン)だ。
パウロ。
ゼニスが「パウロ」と呼んだその男は、俺の隣に転がっているもう一塊の温もりに視線を向けていた。
俺のすぐ横。同じベビーベッドの上に、もう一人、赤ん坊が寝かされていた。
薄い茶髪の赤ん坊。それが俺の双子の兄、「ルーデウス」らしい。
(ゼニス……パウロ……ルーデウス……)
抱き上げられながら、俺は必死に頭を回転させた。
中世ヨーロッパ風の素朴な木造住宅。
金髪ポニーテールの美人な母親、ゼニス。
茶髪でワイルドな男前の父親、パウロ。
そして、双子の兄であるルーデウス。
(間違いない……ここは、地球じゃない)
直感が確信へと変わる。異世界転生だ。
理由も原理もわからない。だが、地球で刺されて死んだ俺は、どういうわけかこの中世ヨーロッパ風の世界で、この夫婦の子供として生まれ変わったのだ。
ゼニスが俺の背中を優しくトントンと叩きながらあやしてくれる。パウロはもう一人の赤ん坊——ルーデウスを大きな手で抱き上げ、鼻の下を伸ばしてあやしている。ルーデウスはほうけて、どこか遠くを見るような目をしていた。あいつもあいつで何か考えているのだろうか。
ゼニスに抱かれながら、俺の頭の中は急速に興奮で満たされていった。
異世界。
もし、ここが剣や魔法が存在するようなファンタジーの世界だとしたら——。
(あいつが……再現できるかもしれない)
胸の奥が熱くなるのを感じた。
前世の俺は、典型的なオタクだった。放課後や休みのたびに、ノートにオリジナルの設定や術式を書き殴っていた黒歴史がある。アニメの戦闘シーンに憧れて体術や武器の捌き方を練習する一方で、脳内で最強の能力を妄想し、その発動条件や理屈を捏ね繰り回していた。
『星焔の創世宮(せいえんのそうせいきゅう)』。
前世の俺がノートに書き殴り、理想とした最強の術式名。
天上の星々の輝きを「炎」として引き落とし、周囲の物質(岩石や金属)を依り代にして強固な武装や眷属を生成する能力。
【星屑の錬成(スターダスト・フォージ)】。
周囲の岩や金属を核に、瞬時に炎の剣や矛、鎖を生成して自在に形を変えて戦う基本能力。
そして、それらを司る四種の星獣——「狼座(ルプス)の熾火」、「龍座(ドラコ)の劫火」、「虎座(ティグリス)の猛火」、「鷹座(アクラ)の瞬火」。
さらには、正転の「熱」とは対極をなす、絶対零度の冷気と再生を司る反転術式『月魄の静止宮(げっぱくのせいしきゅう)』。
その両者を激突させて空間ごと押し潰す虚式『星系崩壊・寂滅の特異点』。
さらには世界そのものを自らの宇宙へと書き換える領域展開『万象流転・無尽の星淵』——。
地球ではただの「イタい高校生の妄想」でしかなかった。どれだけ熱っぽくノートに書いても、現実の俺はただの生身の人間であり、せいぜい木刀を振るうことくらいしかできなかった。
だが、もしこの世界に「未知のエネルギー」——例えば『魔力』のようなものが存在するならば?
(できる……! もしこの世界に未知の力があるなら、あの術式を、俺の頭の中にある『星焔の創世宮』を、本気で一から再現できるんじゃないか……!?)
前世のアクション練習で身体に叩き込んだ体術や武器術の感覚。
それに加えて、前世で思い描いた完璧な術式理論。
これらを組み合わされば、俺はこの世界でいくらでも強くなれる。
ワクワクするような熱量が、小さな赤ん坊の胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。
(やってやる。今度の人生は、ただ流されるだけのモブじゃない。前世で憧れたカッコいい戦闘シーンを、自分のこの手で、この能力で完璧に体現してみせる……!)
だが、決意を新たにしたのも束の間。
「あらあら、アレンったら。目がとろんとしてきたわね。かわいそうに、もう眠いのかしら」
ゼニスの優しい声が頭上から降ってきた。
彼女の手が、俺の背中を一定のリズムでトントンと心地よく叩く。
(あ……ヤバい……)
赤ん坊の肉体というのは、驚くほど体力がないらしい。
さっきまで胸の中で燃え上がっていた野望と情熱が、急速に生理的な欲求へと塗り替えられていく。脳の思考速度が急速に低下し、瞼が粘着テープで貼り付けられたかのように重くなっていく。
「パウロ、アレンをベッドに戻すわね。ルーデウスももう寝そうよ」
「おう、よしよし。二人ともよく寝て、でっかくなれよー」
パウロのガハハという豪快だが暖かな笑い声が、遠く聞こえる。
木漏れ日のさす部屋の温もりと、ゼニスの抱擁の暖かさ。
前世で感じたことのない、家族というものの温もりが、冷え切っていた俺の魂をゆっくりと解きほぐしていく。
(……くそ、抗えない……赤ん坊の体、弱すぎるだろ……)
前世の妄想術式『星焔の創世宮』。
これをどうやって魔力で形にしていくか。
まずは体を動かせるようになってから、魔力の感覚を確かめて……。
そんな思考も、波のように押し寄せる強烈な眠気の中に溶けて消えていく。
(……まあ、いいか。焦る必要はない。俺の新しい人生は……今、始まったばかりなんだから……)
ゼニスによって静かにベビーベッドへ横たえられた瞬間、俺の意識は深い、温かな闇の中へとゆっくりと落ちていった。